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狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

あるべき大人像を模索していく

最近「生きる」とは何か、ということについてよく考える。定義するのは簡単だ。生きるとは、食べるものと着るものと寝るところを用意することだ。それらを用意する力を生活力という。

昔はこれがとても難しいことだった。コンビニもないし外食は金銭的に無理があった。服だって、ユニクロもなければしまむらも無かった。だから人は力を合わせて生きなくてはならなかった。それはジェンダーという社会的な性役割を生む結果にもなった。

その当時の大人像は、ただ黙々と働き、食べるものと、着るものと、寝るところを用意する日々を送ることだった。

だが時代は変わってしまった。資本主義経済、グローバリゼーションが生み出したものは、安くておいしい食事、安くて丈夫な服、安くて粗末だけど充分な寝床だった。少々のお金さえあれば、人は生きていけるようになった。

だからこそ、孤独の2文字が浮き立った。

人々は依存せずに繋がれる場所を求めた。それは今世紀に入って急激に広まったインターネットであり、ソーシャルネットワークだった。孤独は少し、追いやられたように見えた。

だがどうだろうか。人々はまだ孤独だ。インターネットは人々の出会いの場を広げることに成功したが、人肌のぬくもりを提供することは無い。孤独はそのぬくもりをもって初めて解消される。

昔は出会いの場は少なかった。だから狭い世界で出会った人と、多少のことは目をつむって暮らしてきた。昔の大人は我慢強かった。世界が狭いがゆえに、そこで生きて行くしかないことをよく知っていた。狭い世界は、15年や20年も人生を送れば一通りのものが見られた。その世界の外側があることは認識してても、届くものではなかった。好奇心は失われ、黙々と生きる日々を送ることができた。

いま、世界は事実上の無限に広がっている。人々との出会いはいくらでもある。聞いてすらもらえなかった話を聞いてくれる人々にもどんどん出会える。

住みたいところに住み、食べたいものを食べ、寝たいところで寝る。そんなのもそう難しい話ではなくなった。

広がりすぎた世界にいると、好奇心の満足することがない。飽きることがない。だって世界は無限だし。

好奇心を失うことが大人になることだった時代は、そこで終りを告げる。昔の大人から見れば、いつまでたっても子供のままに見えるだろう。落ち着くことがない。だってまだまだ新しいものが見えるし。

どう考えても若者論より「大人論」のほうが必要ですという記事。この内容には大きく共感するものがある。無限の時代に生きる我々は、新しい大人像を模索する必要がある。

古代社会の大人たちは、過去から未来へと続く永続性のなかに生きていた。社会を良い状態に保ち、気が遠くなるほど遠い未来の子孫たちにもそれを残すことを責務としていた。しかし科学により神話がチカラを失い、人々の行動は「永遠」ではなく「人生」へとスケールダウンした。その結果、いまの大人たちは未来に責任を負わなくなった。

なにが大人だ、恥を知れ。

どう考えても若者論より「大人論」のほうが必要です

これはもう一つ、大人像を模索する軸となる。無限の世界と種の永遠。

この無限の世界で、種の永遠を意識しながら、つねに100年後200年後の子孫たちに思いを馳せながら生きて、子を育てていく。それが新しい大人像の一端となるであろう。

世界が無限ということは、可能性も無限ということだ。死ぬまで可能性を模索していくこともできるが、それはたぶん大人ではない。大人はどこかで決断しなくてはならない。

永遠をその手にするために。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>