最近のマスメディア批判に、「物語を作る」というものがある。科学報道ひとつとっても、その研究実績ではなく研究者の人物像やその背景にある物語を報道する。実際には研究実績も報道されてて、そちらはあまり大きな話題になりにくいだけなのだけれども。
そういう批判に対して、違和感はあった。もちろん研究実績について語られる記事は重要な情報だし、その実績が人物像に左右されるのはよくない。野口英世がどんだけ大酒飲みの金にだらしない男であろうとも、彼の実績は実績であり偉人なのである。
だが物語性を否定する気にはなれなかった。どんな人にもその人なりの物語がある。その物語を伝えることに価値がないとは思わない。
ちょうど、こんな記事が出ていた。
たいへんおもしろい記事で、WHOの健康の定義に異を唱える医師の新たな健康への取り組みの話である。
でも本当は、そのいい加減さによって人間はいまを生きる力をえてきた。過去を書き変え、現在の自分の状態を書き変えることで、いまを生き、未来を新たに描き直すことができる。医療はこのようなダイナミックな変化を否定しないで、大切にするべきなんです。古典的科学からみることはいい加減にみえるけれど、これは人間の救いなんです。だからこそナラティブに基づいた医療(narrative based medicine)をしなくてはいけない。ナラティブが改善するための研究をしないといけない。私はそう思って研究を続けています。
治らない病気を診ることが医学の神髄だ――人はナラティブによって生きている
そう、病気一つとっても、人間はその意味の捉え方が様々だ。病気によってただ苦しみ自分の境遇を嘆く人もいれば、その病気によって得たものを大事に未来を見つめる人もいる。その違いはナラティブ―物語性による意味の書き換えなのである。
「ナラティブ」というキーワードを俺が知ったのは、実はゲーム報道だった。
ここにある「ナラティブとは?」というスライドを一つ書き起こして見よう。
- ストーリーには始まりと終わりがあり、目的地と経由地が設定されている
- ナラティブは時系列が設定されておらず、自分の経験や出来事を通じて語るものであり、そこには意外性と偶発性がある
- ナラティブは体験を経験にする
強調は俺が行った。体験も経験も辞書的には同じ意味だし英語に翻訳したところでどちらも experience だから混乱するかもしれない。だが日本語のニュアンスがわかる人にはピンとくるだろう。
実際のところ、人間というのは気づかなければ周囲で何が起きてるのかわからないものだ。ただ花がある、石がある。それだけを体験したところで何も残りはしない。だが物語によって花や石に意味が出てくる。体験が経験になり、心に残っていく。おそらくいわゆるUX(ユーザーエクスペリエンス)と呼ばれるジャンルにも、このナラティブという概念は導入されていく事だろう。
こうしたナラティブな文化というのは、とても日本的、アジア的だと思う。昔「OSたん」という擬人化運動があったが、ちょくちょくフリーズして不安定な Windows Me に「ドジっ娘」というキャラクター性を与えたのは非常に秀逸な事例だと思う。これによって Windows の不安定さが「かわいいドジ」に書き換えられてしまう。これぞナラティブと言っていいだろう。
こうした感性を、我々日本人はとても強く持っていると思う。事実を淡々と記録するようなやり方は、データとしては重要だが、エクスペリエンスとしては最悪だ。そこに物語が介在することにより、データはエクスペリエンスになる。ただの障害がかわいいドジにもなる。めんどうな作業が楽しいゲームにもなる。
- 作者: 藤田和日郎
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認識を書き換える力が、物語にはある。
先日完結した藤田和日郎の「月光条例」は、物語が失われていく話だった。物語を否定する存在との戦いがクライマックスだったのだが、そこでこそ物語の意味が語り直される。主人公が自分の無価値さを嘆く中、むしろ敵から自分の価値を教えられる場面は本当に感動的だった。
物語は人を救う。だらこそ我々には物語が必要だ。日本にはこれほど多くの物語があるからこそ、ナラティブな思考をもっとも鍛えられた国民もまた日本人なのではいかと思う。
現実を書き換えていこう。新しい物語を綴っていこう。その先にある、少しでもよい未来のために。