狐の王国

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シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇──おとなになれないぼくたちと、第1世代オタクの悲哀

3月8日、この日が憂鬱だった。映画館に向かう準備をしなければならないのについついグズグズとネットを見ていた。なんとかでかけても、このまま劇場につかなければいいのにという気分が俺の心を蝕んでいた。そう、今日はシン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇の公開初日である。ネタバレが怖いから早めに見に行こうとは思ってたのだが、まあ初日のチケットが取れてしまうとは思わなかった。入場口であまりに緊張しすぎて1度引き返したくらいに、見るのが怖かった。

あのエヴァが終わる。1995年、夕方に放送していたアニメが、当時の水準からは考えられないほど高品質で、なおかつ話がわけのわからない、謎が謎を呼び、ついには社会現象とまで呼ばれたあのエヴァが、なんと2021年にもなって「完結」するんだという。

テレビ放送時には「は? これが最終回?」という感じだったし、何度劇場版を作っても「は? これが終わり?」としか言いようのなかったあの新世紀エヴァンゲリオンが完結するだと?

そんなわけないだろ、またどうせ庵野秀明監督には裏切られるのだ。

そう、俺たちは庵野に裏切られるんだ。そんな気持ちでいっぱいだった。

そして映画を見終えてこれを書いてるわけだが……

まあどうせなにを語ってもネタバレになるだろうから、何も知りたくない人はここで引き返したらいい。それまで過去作でも見るといい。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

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  • 発売日: 2007/09/01
  • メディア: Prime Video

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

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  • 発売日: 2009/06/27
  • メディア: Prime Video

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

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  • 発売日: 2012/11/17
  • メディア: Prime Video

『これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版』+『シン・エヴァンゲリオン劇場版 冒頭12分10秒10コマ』も3月21日まで見れるそうだ。

第1世代オタクの悲哀

「作り物、まがい物、偽物でしかない俺たち」というのは、おそらく庵野秀明ら第1世代オタクには通底してるものではないかと思う。エヴァンゲリオンという作品自体が、大量のオマージュや引用によって成立してることからしても「自分たちは本物ではない」という認識に囚われ続けているのが見て取れる。

オタクというのはそもそもがコミケコミックマーケットの参加者たちを指して侮蔑のまなざしによって生まれた言葉である。

コミケはアニメファンの女性たちの集まりとして始まり、彼女らはアニメキャラクターたちのアニメでは描かれてなかった側面を独自に描く同人誌を作っていた。いわゆる二次創作やパロディを楽しむ人たちは、いまでもコミケ参加者たちの主流派であろう。

庵野秀明の初期作品として有名な DAICON IV も、そういう二次創作やパロディの賜である。


DAICON IV Opening Animation (HD - Remastered audio & video)

オタクという言葉が生まれてからほんの最近にいたるまで、オタクというのは蔑視の言葉であり、プロになれないクリエイター崩れ、「本物」が作れずパロディや二次創作ばかりしてる素人、そうしたニュアンスが含まれていたのである。

エヴァンゲリオンは「本物」ではない。ウルトラマンを始め多くの先達の作り上げてきた「本物」を庵野秀明が模倣した「二次創作やパロディ」の類だ。よって庵野秀明は本物のクリエイターではない。ただのオタクである。

そうした意識が第1世代オタクにはあるのではないか。そして庵野秀明自身も、そういう意識にとらわれてるのではないか。

かつての90年代の劇場版エヴァンゲリオンでも、「これは本物ではないんだ」というメッセージを込めて作っていた。だから作中に唐突に映画館席を実写で映し出したりしていた。

シン・エヴァでも同じだ。これは本物ではない、作り物だ、まがい物だ。そういうメッセージを作中にどんどん織り込んでいく。いやしかしあれから20年以上たち、庵野秀明も上手になった。以前よりずっとスムーズにセンスよく伝えたいメッセージを映像に乗せていた。その点はたいへんすばらしかった。

そうして「作り物」に耽溺するのをやめ、「本物」に向き合う成長をしろという実写で描かれるシン・エヴァのラストシーンも、90年代に伝えたかったメッセージをいまならこう描くということなのだなと思えた。

だがいまはもはやオタクの暗黒時代だった90年代ではない。

「二次創作やパロディ」の類はオマージュとして進歩した。NHKの朝ドラで数々のオマージュやパロディが描かれて国民的大ヒットになった「あまちゃん」は2013年の作品である。

オタクでいることは若い世代には恥ずかしいことでも孤独でいることでもなくなった。教室では見つけられなかった同好の士も、インターネット時代には半歩で見つかるようになった。オタクがオタクのままで、絆を得られるようになった。

むしろあんまりにもかんたんに繋がれすぎて、かえって弊害を引き起こしている。つながるべきでない人々がつながってしまい、インターネットは毎日炎上事件が起きている。それがまさに現代的な課題でありテーマだ。

そのなかでもまだ「つながること」「現実と向き合うこと」を描くシン・エヴァンゲリオンは、よくも悪くも90年代アニメのままだということであろう。

だがそれだけでもない。

おとなになる方法論

オタクというのは子供のままだとされていた。責任を引き受けず、子供番組を見続け、現実に向き合わない人々だと。だがそれはオタクだけの問題ではなくなった。

p-shirokuma.hatenadiary.com

「思春期モラトリアムの延長」という言葉を聞いたことのある人は多いと思います。昔は20歳ぐらいまでを思春期と読んでいたのが、近年、“30歳までが思春期”とか“35歳まで思春期”とか言われるようになってきた、アレです。 (中略)  ところがどっこい、昨今、思春期の終わりは社会や制度がもたらしてくれるものではなく、自己責任と自己判断で終わらせるものみたいです。「自分の力だけで思春期が終えられそうにない人も、がんばって出口を見つけてくださいね」、みたいな。思春期の延長をレベルアップのチャンスとして喜べるような、パワフルな思春期の人達なら思春期の幕引きも自力でやってのけやすいかもしれませんが、思春期ダンジョンの入り口で途方に暮れている人にまで「思春期のゴールは自己責任」っていうのは、なんだか大変のような気がします。まるで悪酔いするジェットコースターに乗ったまま自力では降りられないみたいな。

「思春期に幽閉される」というしんどさ - シロクマの屑籠

思春期が終わらない、終わらせられないのは、現代社会の問題になっているのである。

シン・エヴァに通底したテーマの一つが「成長」である。成長とはおとなになることだ。大人になるとはどういうことか。以前にもいろいろ考えたのだが、庵野秀明が示す「大人になる方法」とは、「決断すること」と「自分の行動の責任を取ること」だ。

サードインパクトを引き起こして壊滅的な被害をもたらした碇シンジは、その結末を受け止めきれない。なぜなら子供だからだ。大人であればその結末はどうであれ、きちんと受け止め、次の行動に繋げなくてはならない。

アスカは孤独な少女時代を封印し、責任を取る大人になっている。子供のままでいるシンジに、まだいらついている。

あの頃子供だった人々も、大人になってそれぞれの責任を引き受けるようになった。

そうしてそれぞれの「責任を引き受ける」ことで、人は大人になれる。思春期を終わらせられる。庵野秀明という第一世代オタクがようやく見つけた結論がそれなのであろう。そして立派に「エヴァンゲリオン」を終わらせるという責任を引き受けた。

大人になるということは、こういうことなのだと伝えてくるかのように。

「ここにいてもいい」から「ここにいる」へ

「ここにいてもいい」から「ここにいる」へという記事でも書いたのだが、エヴァンゲリオンというのは孤独で居場所のない俺たちオタクに、その作中メッセージに反して「ここにいてもいい」をもたらした作品である。エヴァが社会現象を引き起こしたことで、オタクという存在は少しずつ日陰者から脱することになっていった。

おもえばシンジには最初から居場所がなかった。エヴァだけが居場所をくれる存在だった。それはアスカも同じだった。だがそれは、子供だったからに過ぎない。自ら決断し、責任を引き受ければ、居場所はかならずある。世界中の誰からも疎まれ嫌われてると思いこんでも、必ず好意を持ってくれる人はいる。それに気づくことが成長のきっかけになる。

碇シンジは成長する。エヴァのいらない世界を望む。「さらばすべてのエヴァンゲリオン」という映画のコピーのセリフはそのまま劇中に登場する。あのシーンはまさに「エヴァに囚われた人々」の解放であった。

そしてシンジは自分の居場所を作る。「ここにいる」ことを高らかに宣言したのだと俺は思う。決断し、責任を引き受けること。それが自分の居場所を作ることであり、誰かの居場所になることなのだと。

オタクと呼ばれ蔑視されてきた我々も、それを好きだと言ってくれる人々に出会えるようになった。絵を書き、物語を書き、感想を書き、評論を書き、それを交換し、場合によってはお金にすらなるようになった。社会現象になったエヴァの話なんてしなくても、オタクには社会とつながり居場所を得る方法が見つかるようになった。34万人ものオタクが力をあわせ、オタクの味方をしてくれる国会議員すら生み出した。

世界は変わった。もはや暗黒時代は過ぎ去ろうとしている。庵野秀明がそこまで考えてるかどうかは知らないが、オタクをやめることが大人になることではなくなった。オタクでいながら大人になることができる時代になった。

我々はいま、「ここにいる」と高らかに宣言する準備ができている。決断し、責任を引き受ける大人になる準備が。

俺たちのネオン・ジェネシスは、もう始まっているのだ。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>