狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

バラモン左翼とビジネスエリート右翼に分断された「ぼくたち」の物語

市民感覚としての白饅頭、知性主義の限界、経験の抹殺 という記事がすばらしかったので読んでもらいたいと思いつつ、これはピケティの言う「バラモン左翼とビジネスエリート右翼」の問題だなとつくづく思ったのでここに少しそのへんの話を書いておこうと思う。

バラモンというのはインドのカースト制度の頂点にいる司祭階級の人々のことだ。バラモン左翼というのはそういう「上位」にいる左翼のこと。古い人には「そんなバカな」と感じられるかもしれない。昔は左翼といったら資本家から労働者を守る人々であり、カーストの頂点にいることなんて考えられなかったからだ。

だが現実には給与や社会的地位の高い新興企業や学術機関に勤め、環境問題やジェンダー不平等など意識の高い問題に取り組むことを是とする「左派」はごまんといる。彼らは努力してそれなりの地位を獲得しただけあって、新自由主義的な感覚を持っている。「努力すれば自分たちのように豊かな生活ができるはず」と本気で信じ込んでいる。だから庶民にコストの高い生活を平気で求める。ヴィーガン食を進めたり、レジ袋を有料化したり、ごみの分別を押し付けたりだ。

一方ビジネスエリート右翼はというと、いわゆる全体主義的な右翼とビジネスエリートたちが手を組んだ状態だ。彼らは人権などバカらしいと考えてる。それより金儲けが大事であり、人身売買同然の低賃金長時間労働を平然と実行してくる。こちらもこちらで新自由主義的、どっちもネオリベなのである。

これは政治思想でもあるので、日本だとビジネスエリート右翼は自民党バラモン左翼は立憲民主党を思い浮かべるとだいたいあってるのではないかと思う。日本の自民党はあれで意外と多様なメンツを揃えててバラモン左翼的なこともやったりするのだけれども、立憲民主党がそれに反対することもないわけだ。

ちょっと前にそれぞれの代表的な人物を図示してみたので参考までに。

バラモン左翼とビジネスエリート右翼
バラモン左翼とビジネスエリート右翼

実のところ、ピケティのバラモン左翼とビジネスエリートに右翼ついて書かれた「資本とイデオロギー」はまだ日本語版がない。山形浩生Twitter などで翻訳作業を進めてることを明かしており、おそらく2021年中には刊行されるであろう。だが難航してるようである。

だがTRPG界隈では昔から有名な井上純一が、自身の経済漫画でバラモン左翼とビジネスエリート右翼をたいへんわかりやすく説明している。書籍のほか、note でも単品で買えるのでぜひ読んでみてもらいたい。

バラモン左翼でもビジネスエリート右翼の説明(「がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか」より)
バラモン左翼でもビジネスエリート右翼の説明(「がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか」より)

がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか (角川書店単行本)

それって全部お金デスヨ!! 最終回:日本はこれからどうするイイデスカ?|井上純一|note

結局のところ、政治思想がバラモン左翼とビジネスエリート右翼のように先鋭化してしまった結果、大多数の市民は完全においていかれてしまっているのである。

雇用が失われてるし公務員は人手不足なのだから、公務員を増やして仕事をラクにすればいい。ごみの分別など公務員がやれば雇用も生まれる。安定した雇用と十分な賃金があれば、結婚して子供を産む人々も増えて少子化問題は解決に向かうだろう。そうすると彼らは家を建てるようになり、そこでもまた雇用が生まれていく。人口減少に歯止めがかかり、税収も上がっていく。

これは別に夢物語でもMMTでもなく、古典的なケインズ政策とかニューディール政策とか呼ばれてるものだ。実際に他国ではそうした経済政策をちゃんとやっている。それでも足りなくてバラモン左翼とビジネスエリート右翼で分断されているのだが……。

日本でアメリカほどにこの分断による問題が起きてないのは、元の経済規模がでかいからだ。人口は倍以上のアメリカにせまる世界第2位の経済超大国であった日本、30年に渡り落ちぶれ続けてきたがそれでもまだ世界第3位の経済大国なのである。30年も落ちぶれ続けてもまだこのへんにいられるということが奇跡であり、驚異なのであるが、まあそれもいつまでもつのか……。

いわゆるアベノミクス3本の矢というのは日本が20〜30年やってこれなかったまっとうな経済政策であり、支持が集まるのはたいへん理解できる話だった。だが金融緩和をやっただけで大規模財政出動はいっさいやってない。それどころか不景気なのに増税というバカなことまでしでかした。構造改革はデジタル庁の動きによってようやくなんとか動き始めたという程度である。だがそれでもプランが示せる程度には正気を保っているはずなのだ。

つまるところ、バラモン左翼でもビジネスエリート右翼でもない右翼や左翼は死んではいない。声の大きな少数の支持者たちが、バラモン左翼とビジネスエリート右翼を支え、力をもたせているのである。

政治家たちは悪人ではない。みな市民の声を国政に反映したいという志をもった人々だ。だからこそ、我々の声をどうやって届けるかが鍵となる。

だから声を上げていこう。世論を作っていこう。今年は衆議院選挙もある。投票に行こう。政治家を志す若い人々を応援しよう。彼らは地方議会にいる。議員として経験を積んでもらうために地方議会で彼らを応援しよう。

世界は変えられる。我々は腐っても民主主義国家の一員だ。国造りの神話はエリートのものではなく、ひとりひとりの市民によってつむがれるのである。

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇──おとなになれないぼくたちと、第1世代オタクの悲哀

3月8日、この日が憂鬱だった。映画館に向かう準備をしなければならないのについついグズグズとネットを見ていた。なんとかでかけても、このまま劇場につかなければいいのにという気分が俺の心を蝕んでいた。そう、今日はシン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇の公開初日である。ネタバレが怖いから早めに見に行こうとは思ってたのだが、まあ初日のチケットが取れてしまうとは思わなかった。入場口であまりに緊張しすぎて1度引き返したくらいに、見るのが怖かった。

あのエヴァが終わる。1995年、夕方に放送していたアニメが、当時の水準からは考えられないほど高品質で、なおかつ話がわけのわからない、謎が謎を呼び、ついには社会現象とまで呼ばれたあのエヴァが、なんと2021年にもなって「完結」するんだという。

テレビ放送時には「は? これが最終回?」という感じだったし、何度劇場版を作っても「は? これが終わり?」としか言いようのなかったあの新世紀エヴァンゲリオンが完結するだと?

そんなわけないだろ、またどうせ庵野秀明監督には裏切られるのだ。

そう、俺たちは庵野に裏切られるんだ。そんな気持ちでいっぱいだった。

そして映画を見終えてこれを書いてるわけだが……

まあどうせなにを語ってもネタバレになるだろうから、何も知りたくない人はここで引き返したらいい。それまで過去作でも見るといい。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

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  • 発売日: 2007/09/01
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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

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『これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版』+『シン・エヴァンゲリオン劇場版 冒頭12分10秒10コマ』も3月21日まで見れるそうだ。

第1世代オタクの悲哀

「作り物、まがい物、偽物でしかない俺たち」というのは、おそらく庵野秀明ら第1世代オタクには通底してるものではないかと思う。エヴァンゲリオンという作品自体が、大量のオマージュや引用によって成立してることからしても「自分たちは本物ではない」という認識に囚われ続けているのが見て取れる。

オタクというのはそもそもがコミケコミックマーケットの参加者たちを指して侮蔑のまなざしによって生まれた言葉である。

コミケはアニメファンの女性たちの集まりとして始まり、彼女らはアニメキャラクターたちのアニメでは描かれてなかった側面を独自に描く同人誌を作っていた。いわゆる二次創作やパロディを楽しむ人たちは、いまでもコミケ参加者たちの主流派であろう。

庵野秀明の初期作品として有名な DAICON IV も、そういう二次創作やパロディの賜である。


DAICON IV Opening Animation (HD - Remastered audio & video)

オタクという言葉が生まれてからほんの最近にいたるまで、オタクというのは蔑視の言葉であり、プロになれないクリエイター崩れ、「本物」が作れずパロディや二次創作ばかりしてる素人、そうしたニュアンスが含まれていたのである。

エヴァンゲリオンは「本物」ではない。ウルトラマンを始め多くの先達の作り上げてきた「本物」を庵野秀明が模倣した「二次創作やパロディ」の類だ。よって庵野秀明は本物のクリエイターではない。ただのオタクである。

そうした意識が第1世代オタクにはあるのではないか。そして庵野秀明自身も、そういう意識にとらわれてるのではないか。

かつての90年代の劇場版エヴァンゲリオンでも、「これは本物ではないんだ」というメッセージを込めて作っていた。だから作中に唐突に映画館席を実写で映し出したりしていた。

シン・エヴァでも同じだ。これは本物ではない、作り物だ、まがい物だ。そういうメッセージを作中にどんどん織り込んでいく。いやしかしあれから20年以上たち、庵野秀明も上手になった。以前よりずっとスムーズにセンスよく伝えたいメッセージを映像に乗せていた。その点はたいへんすばらしかった。

そうして「作り物」に耽溺するのをやめ、「本物」に向き合う成長をしろという実写で描かれるシン・エヴァのラストシーンも、90年代に伝えたかったメッセージをいまならこう描くということなのだなと思えた。

だがいまはもはやオタクの暗黒時代だった90年代ではない。

「二次創作やパロディ」の類はオマージュとして進歩した。NHKの朝ドラで数々のオマージュやパロディが描かれて国民的大ヒットになった「あまちゃん」は2013年の作品である。

オタクでいることは若い世代には恥ずかしいことでも孤独でいることでもなくなった。教室では見つけられなかった同好の士も、インターネット時代には半歩で見つかるようになった。オタクがオタクのままで、絆を得られるようになった。

むしろあんまりにもかんたんに繋がれすぎて、かえって弊害を引き起こしている。つながるべきでない人々がつながってしまい、インターネットは毎日炎上事件が起きている。それがまさに現代的な課題でありテーマだ。

そのなかでもまだ「つながること」「現実と向き合うこと」を描くシン・エヴァンゲリオンは、よくも悪くも90年代アニメのままだということであろう。

だがそれだけでもない。

おとなになる方法論

オタクというのは子供のままだとされていた。責任を引き受けず、子供番組を見続け、現実に向き合わない人々だと。だがそれはオタクだけの問題ではなくなった。

p-shirokuma.hatenadiary.com

「思春期モラトリアムの延長」という言葉を聞いたことのある人は多いと思います。昔は20歳ぐらいまでを思春期と読んでいたのが、近年、“30歳までが思春期”とか“35歳まで思春期”とか言われるようになってきた、アレです。 (中略)  ところがどっこい、昨今、思春期の終わりは社会や制度がもたらしてくれるものではなく、自己責任と自己判断で終わらせるものみたいです。「自分の力だけで思春期が終えられそうにない人も、がんばって出口を見つけてくださいね」、みたいな。思春期の延長をレベルアップのチャンスとして喜べるような、パワフルな思春期の人達なら思春期の幕引きも自力でやってのけやすいかもしれませんが、思春期ダンジョンの入り口で途方に暮れている人にまで「思春期のゴールは自己責任」っていうのは、なんだか大変のような気がします。まるで悪酔いするジェットコースターに乗ったまま自力では降りられないみたいな。

「思春期に幽閉される」というしんどさ - シロクマの屑籠

思春期が終わらない、終わらせられないのは、現代社会の問題になっているのである。

シン・エヴァに通底したテーマの一つが「成長」である。成長とはおとなになることだ。大人になるとはどういうことか。以前にもいろいろ考えたのだが、庵野秀明が示す「大人になる方法」とは、「決断すること」と「自分の行動の責任を取ること」だ。

サードインパクトを引き起こして壊滅的な被害をもたらした碇シンジは、その結末を受け止めきれない。なぜなら子供だからだ。大人であればその結末はどうであれ、きちんと受け止め、次の行動に繋げなくてはならない。

アスカは孤独な少女時代を封印し、責任を取る大人になっている。子供のままでいるシンジに、まだいらついている。

あの頃子供だった人々も、大人になってそれぞれの責任を引き受けるようになった。

そうしてそれぞれの「責任を引き受ける」ことで、人は大人になれる。思春期を終わらせられる。庵野秀明という第一世代オタクがようやく見つけた結論がそれなのであろう。そして立派に「エヴァンゲリオン」を終わらせるという責任を引き受けた。

大人になるということは、こういうことなのだと伝えてくるかのように。

「ここにいてもいい」から「ここにいる」へ

「ここにいてもいい」から「ここにいる」へという記事でも書いたのだが、エヴァンゲリオンというのは孤独で居場所のない俺たちオタクに、その作中メッセージに反して「ここにいてもいい」をもたらした作品である。エヴァが社会現象を引き起こしたことで、オタクという存在は少しずつ日陰者から脱することになっていった。

おもえばシンジには最初から居場所がなかった。エヴァだけが居場所をくれる存在だった。それはアスカも同じだった。だがそれは、子供だったからに過ぎない。自ら決断し、責任を引き受ければ、居場所はかならずある。世界中の誰からも疎まれ嫌われてると思いこんでも、必ず好意を持ってくれる人はいる。それに気づくことが成長のきっかけになる。

碇シンジは成長する。エヴァのいらない世界を望む。「さらばすべてのエヴァンゲリオン」という映画のコピーのセリフはそのまま劇中に登場する。あのシーンはまさに「エヴァに囚われた人々」の解放であった。

そしてシンジは自分の居場所を作る。「ここにいる」ことを高らかに宣言したのだと俺は思う。決断し、責任を引き受けること。それが自分の居場所を作ることであり、誰かの居場所になることなのだと。

オタクと呼ばれ蔑視されてきた我々も、それを好きだと言ってくれる人々に出会えるようになった。絵を書き、物語を書き、感想を書き、評論を書き、それを交換し、場合によってはお金にすらなるようになった。社会現象になったエヴァの話なんてしなくても、オタクには社会とつながり居場所を得る方法が見つかるようになった。34万人ものオタクが力をあわせ、オタクの味方をしてくれる国会議員すら生み出した。

世界は変わった。もはや暗黒時代は過ぎ去ろうとしている。庵野秀明がそこまで考えてるかどうかは知らないが、オタクをやめることが大人になることではなくなった。オタクでいながら大人になることができる時代になった。

我々はいま、「ここにいる」と高らかに宣言する準備ができている。決断し、責任を引き受ける大人になる準備が。

俺たちのネオン・ジェネシスは、もう始まっているのだ。

人生を変えたいなら「好き」なものを見つけるところから

無職が失業保険使ってチケット台本を80セット(約24万)買った話(理由)|本岡宏一|noteという記事を読んだ。人生を変えたいという希望を、邪悪な存在に取り込まれてしまったようで本当に言葉も出ない。

似たような話に、プログラミングスクールが昨今話題だった。

javablack.hatenablog.com

たかだか数十万円のコストで年に1000万も稼げるような技術者を育成できるなら、そんなノウハウは普通は表に出てこない。それを使ってたくさん仕事を請け負ったほうがずっと稼げるからね。

若い時代には、自分の可能性を信じたいものだ。自分にも大きく成功するルートがどこかにあるはずだと。だからこそいろんなことにチャレンジできる。それ自体はすばらしいことだ。

でもね、だいたいのことって「子供の頃からそれが好きで好きでたまらない」って人たちが、無我夢中で人生をかけてやってたりするんだよ。

news.yahoo.co.jp

ある卓球ストーカーの全日本卓球 弁護士への道も公務員の職も捨てて・・・(伊藤条太) - 個人 - Yahoo!ニュース という記事が話題だった。こういう人は才能のあるなしなんて関係ない。ただそれが好きだから、好きで好きでたまらないからやってるんだよ。

そういう人たちに、たかだか数ヶ月の努力で追いつけると思うか?

好きなことというのはやっていて苦痛にならない。それこそ1日16時間くらい夢中になってやり続けてても疲れなんてさほど感じない。だって楽しいんだもん。もっと見たい、もっとやりたいっていう気持ちのほうがずっと強い。そんな生活を2〜3年も続けると、1〜2万時間ほどの積み上げになる。

1万時間の法則というのがある。様々なジャンルの天才たちがどれほどの積み上げで天才と呼ばれるようになったか調べた人がいたのだ。だいたい平均すると1万時間程度の積み上げが必要だったという。

もちろん個人差はあるし、練習の質が高ければもう少し短い時間で達成できることもあるだろう。でも平均すれば1万時間だということは念頭においておいて欲しい。

さて、嫌いなことを1万時間もやり続けられるだろうか。それもスタートラインに立つまでが1万時間だ。そこから先もずっと続けていくことだ。嫌いなことにそんなに時間を費やしていけるだろうか。

無理に決まってるだろ

だからね、人生を変えたいならまずは自分の「好き」を見つけることからなんだよ。1日16時間を3年間、毎日毎日休みなくやり続けて苦痛どころか楽しくてしょうがない。そんな自分の「大好き」をまずは見つけること。

「好きなことで生きていく」というキャッチコピーが話題だったことがあった。なんかポジティブな感じで、夢を追うかのように語られてたが、その言葉の裏の意味を知っている人はあまりいなかったようだ。なにかを成功させるためには、「好きなこと」でもなければ耐えられないほどの時間をそれに費やさなければいけないということを。

だから自分の心に聞いてみよう。自分はなにが好きなのか、なにに夢中になって生きていたいのか。小学生くらいの頃の自分を思い出してみるといい。なにが好きだった? なにが欲しかった? それのことが気になって四六時中そのことばかり考えてたものはなにかなかった?

俺の場合はコンピュータだった。プログラミングがしたくて、パソコンを買ってもらえなくて紙にプログラムのコードを書いていた。なにを作りたかった。動くものを作りたかった。そんな小学生時代を過ごしていた。そんなことは忘れていた学生時代、体を壊して実家で療養を始めていた。お金もなくて、友達からもらった部品でパソコンを組み立て、無料のOSを入れて遊んでいた。そのとき、思い出した。俺はなにが好きだったのかを。なにをやりたかったのかを。あの頃は本当に1日16時間くらいコンピュータをいじりまわしていた。コミュニティに質問を投げ、図書館に技術書を10冊以上リクエストして読み漁り、2〜3年たつと質問に答える側に回っていた。いつしか、それを見たコミュニティの人たちが少しずつ俺に仕事を回してくれるようになった。そうして俺はいつの間にかプログラマになっていた。「好きなことで生きていく」、そんな人生を手に入れていた。

どう? 自分の心に、それくらい夢中になれるほどの「大好き」は見つけられたかい? 見つけたらこの記事も読んでいってくれ。

koshian.hateblo.jp

見つけられなかったら、これから探せばいいさ。おもしろそうなことにチャレンジしていこう。楽しいことをやっていこう。なに、仕事にならなくたっていい。楽しい趣味はそれだけで人生を豊かにしてくれる。まずは人生を投げ出せるくらいの「大好き」を見つけよう。その対象が「ある個人」だという人もいるかもしれない。それはそれでよい人生だよ。好きなことのために、生きていこう。

反戦と自立と贖罪──ヴァイオレット・エヴァーガーデン完結によせて

京都アニメーション最新作にして復帰作である「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」について語りたい。テレビシリーズのころからあまりに美麗な映像が話題になりがちな作品だが、ただ美しいだけの話ではもちろんない。これは明確に「反戦映画」である。

従来、女性を主人公にした反戦映画は、どうしても戦争に対して他人事であった。「帰ってこない男を待つ女」のように、あるいは「負傷した帰還兵」の狂乱に巻き込まれるような、ただただ犠牲者としての女性が描かれてきた。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の革新的なところは、主人公のヴァイオレット自身が両腕を失った「負傷した帰還兵」でもあり、また「帰ってこない男を待つ女」でもあるところだ。

だからこそ戦争が他人事ではない。そこには圧倒的な当事者性がある。テレビシリーズはただの戦闘人形だったヴァイオレットが、手紙を通して人の心に触れ、自分のしてきたことにさいなまれる話でもあった。

今作の劇場版でも、序盤からヴァイオレットは「自分は讃えられるべき人間ではない」と釈明する。兵士としても「優秀」であったヴァイオレットは、あまりにも多くの命を殺めてきたからだ。

作中に登場する男たちが戦争に皆取られてしまって、老人と女子供だけになった島。その麦人演じる老人の言葉のひとつひとつが、いかにも「戦後」を捉えている。

日本のアニメ作品にはありがちなのだが、こういう重要なテーマをさらりと織り込んでくる。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を反戦映画として捉えてる人などあまりいないのだが、それくらいさらりと自然に物語に織り込まれ、受け手は美しい映像と物語に引き込まれてしまってふと冷静になってみないと気付かない。こういう日本のアニメの描き方はたいへんすばらしいと俺は思う。

もうひとつ、この作品には重要なテーマが織り込まれている。それは「自立」だ。

「自分を育ててくれた男」との恋物語は、少女小説においては珍しいものではない。古くは源氏物語にも見られる類型である。

だが一面的に見れば軍の都合とはいえひとりの少女を「武器」として使ったギルベルトは加害者である。孤児である彼女に読み書きを教え、マナーを叩き込んだのも彼であるとはいえ、その罪は許されるものではないはずだ。

だがそれを決めるのは被害者であるヴァイオレット自身でなければならない。だからこれは、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという少女自身が、ギルベルト少佐からの自立を果たし、自ら判断をくださねばならない。少佐という過去に囚われたままでは、ただ命令を欲しがるだけの子供であった頃となにも変わらない。子供には判断できないことだ。

その補助線として描かれるのが病床のユリス少年との出会いである。自分の命がそう遠くないうちに消えることを予感したユリス少年は、心配とか過干渉はいらないと言う。ただ自分の死後、家族に届けたい言葉があるのだと。自らの死を前にした少年は、精神的に自立しようとしていた。

生意気盛りでもあるユリス少年の存在は、ヴァイオレットに少なくない影響を与えてることが読み取れる。ヴァイオレットには運命的に存在し得なかった思春期を、きっとこのとき追体験したのかもしれない。

実は3度ほど見て気付いたのだが、この作品において主人公ヴァイオレットはおおむね画面の右側に配置されていたり、左側を向いていることが多い。劇作において画面の右側は上座であり、ポジティブさや未来を示唆する。左側の上座はその反対、ネガティブさや過去を示唆する。「帰ってこない男」であるギルベルト・ブーゲンビリア少佐という過去が、ヴァイオレットをいまも締め付けていることを表している。

この物語において、ヴァイオレットがギルベルトを「過去」にできるかどうか、それによって「自立」を得ることができるかどうかが、非常に重要なキーとなっている。そこにユリス少年も関わっていく。

まだ未見の方にもヴァイオレットが上座に向けて走り出す瞬間を、ぜひ劇場で目撃してもらいたい。その時の彼女は、過去から解き放たれ、すべてを自分自身の意志で判断できる、一人の自立した女性なのである。

今作で堂々の完結となる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」であるが、初見の人にもこれまでの流れがわかるように構成が工夫されていた。これまでの物語を知る人も知らない人も、とりあえずこの完結編を見てもらいたい。もちろんいままでのシリーズを見てきた人は、よりいっそう深く心動かされることであろう。

そしてもう一つ織り込まれてるテーマは「贖罪」である。これは各人自らの感性で感じ取ってもらいたい。この織り込まれたテーマを語るとどうしてもあらすじを延々と書くことになってしまうからだ。それぞれの人物たちのそれぞれの贖罪に、注目してもらいたい。

まだまだ語りたいことはある。本作の完成を待たずに亡くなられてしまった美術監督である渡邉美希子の手による背景美術、架空の国でありながら文化や伝統の息遣いすら感じさせ、絵本がそのまま動いてるかのようなかわいらしさをたたえた美しさ。それでいて激しく振る雨はなぜああもリアルで残酷に描かれたのか。新技術の受け止め方のよさみ。Evan Call による音楽の素晴らしさなどなど……

ただあれほどの被害を受けた京都アニメーションが、このような「贖罪」の物語を作り上げたことに、心を震わさずにはいられない。シナリオはその前からあがっていただろうから、偶然なのではあろうけれども。

ともあれまずは見てもらいたい。劇場に足を運ぶのをためらう人には、まず前作の外伝から見るのも手だと思う。また、原作順でテレビシリーズの7話から見てみるのもよいだろう。アニメ版の7話、10話、11話、6話の順番で原作は収録されている。このへんは単体でいきなり見てもぜんぜん問題ない。

「手紙」で人と人との心をつなぐヴァイオレット・エヴァーガーデンの世界に、ぜひ足を踏み入れてもらいたい。

日本の漫画やアニメやゲームはガラパゴスなのか?

なにやら最近、日本のアニメやゲームや漫画をガラパゴスだとか言ったり、ガラパゴスでいいんだとか言ったりしてる人たちを散見する。結論から言おう。日本のアニメもゲームも漫画もまったくガラパゴスではない。

ガラパゴス化批判というのは主に日本の携帯電話に対して行われてきたものだ。

俺がさんざん日本のケータイはガラパゴスだと言い続けてきたのは、日本におけるOSSの幻想――OSS界のガラパゴス諸島、ニッポンという2004年の記事が元である。

OSS振興の流れは出てきたが、こと日本はOSSに関して独自の進化(退化?)を遂げている部分があると同氏は指摘する。その原因としては、英語という大海で遮断された状況からくる甘えの精神構造、貧弱な開発力とコミュニケーション下手であることなどが挙げられるようだ。

(中略)

問題なのは、本流とかい離し、日本独自の動きをしてしまっていることである。

(中略)

「肝心なのは日本で閉じることなく、グローバルに出て行くこと」(佐渡氏)

日本におけるOSSの幻想――OSS界のガラパゴス諸島、ニッポン

www.itmedia.co.jp

この記事がとても印象深かったので、2007年1月に iPhone が発表されたあと、なぜiPhoneは日本で使えないの?という記事を読んだときに「日本のケータイもガラパゴスだよなあ、海外に出てイケてないものな」と思ってあちこちでそんなことを書いたり話したりしていた。

たぶん同じことを思った人たちが何人もいたのか、いつの間にかガラパゴスケータイ、略してガラケーとか呼ばれるようになっててたいへん吹いたものである。

日本のケータイは本当にどうしようもなくガラパゴスだった。日本でしか使いみちのない FeliCa を搭載した6〜8万円もする端末なんて海外で売れるわけがない。i-mode のような最初から中央集権的で煩雑な事務手続きが必要なものを外国から持ち込まれても誰も使うわけがない。

唯一絵文字だけはグローバルに出ていくことができた。しかしそれも GmailiPhone で絵文字を使うために、GoogleApple呉越同舟Unicode コンソーシアムに参加して激しい交渉を続けてくれたおかげである。勝手に絵文字を作り上げた国内キャリアはなんもしていない。

japan.cnet.com

端末開発もキャリアが主導し、メーカー側は仕様を決定する権限もろくになかったようだ。キャリア側からの要請に翻弄され、メーカーは「海外で売れる携帯電話端末」を開発する機会を喪失した。これがスマホ時代に大きく遅れを取った要因のひとつである。

こういう状況をもってして「日本のケータイはガラパゴス」と言われていたのである。

日本のアニメ・漫画・ゲームはグローバルに出ている

そもそも日本のアニメというのは、昔から海外と共同で制作することが多かった。代表的なのが世界名作劇場シリーズである。

世界名作劇場が始まった頃は虫プロの倒産、東映動画の累積赤字などアニメ業界の景気が悪かった。このため各社は制作費回収のため、作品を海外に輸出することを前提として制作していた。名作劇場も同様に海外市場を睨んで制作され[3]、韓国・台湾・中国・フィリピンなどの東・東南アジアやヨーロッパ諸国・中東など世界各地で放送された。特にフィリピン・イタリアでは『名犬ラッシー』を除く全作品が放送されており、香港では『レ・ミゼラブル 少女コゼット』まで放送、ドイツについても『小公子セディ』を除いて『ロミオの青い空』まで放送されている。一方、アメリカ合衆国では『トム・ソーヤーの冒険』『ふしぎな島のフローネ』と『若草物語』の数話分しか紹介されておらず、イギリスでは『ピーターパンの冒険』しか放送されていない。

世界名作劇場 - Wikipedia

また、いまではハリウッド映画になった「トランスフォーマー」も初期の映像化は日本の東映動画によるアニメ作品であった。

そもそもトランスフォーマー自体が日本の玩具メーカーであるタカラトミーの開発した変形ロボットを米国のハズブロ社がトランスフォーマーとして売り出したものである。トランスフォーマーは日本生まれなのだ。

またこうした変形ロボットものは「超時空要塞マクロス」を筆頭に北米では Robotech として再編集されこれも大ヒットした。

またマクロスなどのアニメにおけるロボットデザインは、米国で BattleTech やメックウォーリアーとして展開されたロボットゲームに丸パクリされて大問題になったこともある。

また「美少女戦士セーラームーン」など少女向け作品も世界中で大ヒットした。日本ではリボンの騎士キューティーハニーの昔から戦う女性は描かれてきたし、武士の娘は薙刀くらい修めてるものであったが、海外ではそうした戦う女性のイメージはとても希少であったようだ*1

主体的に、自分の意志で戦う女性像。少しエロティックな演出に短いスカートは当時の保守的な性規範への反抗である。それは世界中で多くの女性たちをエンパワメントしていた。

またセーラームーンを監督した幾原邦彦は、1997年には「少女革命ウテナ」を制作、男性も女性もエロティックに、また同性愛を想起させるようなレイアウト、劇団天井桟敷の影響のもとJ.A.シーザーの音楽で話題をかっさらった。インド系とも東南アジア系とも黒人ともとれる浅黒い風貌のヒロインや敵役もまた多くの人々を魅了した。

また「王子様」という少女の幻想を破壊する見事な作品でもあった。

mess-y.com

90年代の日本ではこれらの他にCLAMPなど性の多様性を描く作家が大流行し、漫画もアニメもゲームもどこかにはLGBTキャラが頻出するという、クイア・ブームとでも呼ぶべき状況があった。その後の欧米におけるLGBTムーブメントにもおそらく影響を与えたものではないかと思う。

その後も日本のアニメはどんどん輸出を続け、いまでは日本の映像コンテンツ輸出の大半を占めるようになっている。日本のアニメは初期から現在までずっとグローバルに出ていってるのである。

日本のゲームは超グローバル

さてゲームについても日本は超絶グローバルである。日本のタイトーが開発した「スペースインベーダー」、ナムコの「パックマン」等々、黎明期から世界中で大ヒットを生み出してきた。

任天堂セガソニーの開発したファミコンメガドライブプレイステーションも世界中で大ヒットしている。パンデミックの発生した2020年では「あつまれ! どうぶつの森」が世界的なヒットとなっている。

www.technologyreview.jp

また、クリエイターとしても影響のすさまじい人物を日本は排出している。例えば小島秀夫である。


【FC】メタルギア(METALGEAR)を普通に攻略 part1/3

小島秀夫が8bitゲーム機の時代に制作した「メタルギア」は、「敵を倒す」ゲームから「敵から隠れる」ゲームへの転換が図られた。このおもしろさを30年以上前に見つけ出したことはたいへんすばらしいことだ。この発明は後に「ステルスゲーム」と呼ばれることになる。

また小島秀夫の偉大さはそれにとどまらない。プレイステーションという高性能ゲーム機を得た小島は、「メタルギア」の続編「メタルギア・ソリッド」を制作する。

METAL GEAR SOLID V: GROUND ZEROES + THE PHANTOM PAIN - PS4

METAL GEAR SOLID V: GROUND ZEROES + THE PHANTOM PAIN - PS4

  • 発売日: 2016/11/10
  • メディア: Video Game

映画好きでも知られる小島秀夫は、映画とゲームの融合にチャレンジした。これによりインタラクティブな映像とステルスゲームのおもしろさが見事にミックス、一大ジャンルへと成長したのである。

世界中でこれほど売れるゲームがあるのかと思うほどのヒットを果たした Assassin's Creed シリーズや The Last of Us などは、まさに小島秀夫の生み出したジャンルのなかで作られたものだ。

【PS4】The Last of Us Part II 【CEROレーティング「Z」】

【PS4】The Last of Us Part II 【CEROレーティング「Z」】

  • 発売日: 2020/06/19
  • メディア: Video Game

また e-sports としていまや世界中で勃興している競技としてのゲームも、元をたどると大阪のゲームメーカーであるカプコンの生み出した「ストリートファイター2」が大元である。世界中で対戦が人気となり、みなが技を競い合う環境が生み出された。

俺も当時は子供ながらそこそこ自信はあったが、ニュージーランドのゲームセンターで対戦した黒人男性にボロボロに負けてしまってたいへん悔しかったのを覚えている。それだけ海外でも対戦技術の研究が進んでいたのであろう。

日本スゴイ? いや、そんなことはない

日本の漫画・アニメ・ゲームは確かにすごく、とてもグローバルなのではあるが、それをもって「日本スゴイ!」とか思い始めるのは早計である。

日本のクリエイターや専門家や技術者は本当にすごい人たちが多いのではあるが、それをマネジメントしたり投資したりする人たちがあんまりにも情けないからだ。

たとえば先述の小島秀夫メタルギア・ソリッドVの制作を最後にコナミを解雇されている。おそらく制作に時間と金を使いすぎたことが原因だろうと思われるが、そこをマネジメントするのが会社側の仕事ではないのか。

メタルギア・ソリッドVはストーリーも半端で終わっており、さらなる分作やDLCなどで早期リリースと開発の継続を両立できたはずではないか。

www.gamespark.jp

またアニメの制作体制も必ずしもよいとは言える状況ではない。キーフレームとなる原画は1カット4000〜6000円、その間をつなぐ動画は1枚200〜300円と言われている。普通のアニメーターなら月産60カット、動画は月産400枚程度と言われることを考えると、これは単価があまりにも安すぎる。少なくとも3倍にするか、社員として雇用し基本給を支給する状況を作るべきであろう。またそれを実現するために著作者となる製作委員会にスタジオを入れておくべきだ。

たとえば有名な京都アニメーションは元請けを始めた頃から製作委員会に入り、分配を受け取ってるはずである。作品がヒットすればスタジオの収入になる。だからこそ京都アニメーションの作品はあれほど名アニメーターたちを雇用していてもやっていけたのであろう。あまりにも悲しいことに彼らの多くはもういなくなってしまったが、スタジオとしての復活は心待ちにしている。

また漫画についても悲惨の一言である。Amazon Kindle という大型黒船に立ち向かうのになぜか各出版社がバラバラに手こぎボートを出してる状況だ。

日本の市場は大きくはないのだから、電子書籍やWeb配信サービスへの投資がばらつけばグローバル企業と勝負になるわけがない。

ハイエンドのゲームを作るための唯一の方法はグローバル市場を目標にすることだ

──小島秀夫

小島監督が海外インタビューで想い語る―「目先の利益を追求すれば時代に取り残される」 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

ガラパゴス批判は、こういうところに向けてするものなのである。

pen_ashによるPixabayからの画像

*1:ワンダーウーマンなどの例はあるはずなのだが

「夏への扉」を、僕らはまだ探し続けている

人気SF小説『夏への扉』、山崎賢人主演で初の実写映画化 舞台を日本に再構築 | ORICON NEWSというニュースが飛び込んできた。ハインライン夏への扉は確かに名作で、hired girl という名のメイドロボのようなものを文化女中器と訳したセンスも含めて日本では評価が高い。山下達郎のこの小説を下地にした1980年の曲で知っている高齢者の方々も少なくなかろう。

『夏への扉』はとんでもない愚作なので褒めないでくださいという記事もある。ネタバレもあるので見たくない人はリンクを踏まないように。ただここに書かれてる批判は確かにそのとおりだ。「夏への扉」は人物造形があんまりちゃんとしておらず、ただただ技術者が技術と復讐に燃える話だ。猫のピートがただ一つの癒しであり、ヒロインに至っては記憶がないレベル。いま映像化するなら、このヒロインをどこまで掘り下げられるかがポイントになるであろう。

まあ日本の実写化に期待などはしないが。

さて、これだけでもなんなので、2006年4月11日のWeb日記に書いた俺の夏への扉の感想をここに再録しておこう。

夏への扉

夏への扉

夏への扉

かのハインラインSF小説。 友人らが揃いも揃って 名作 だの じわっと来た だの言うので注文してあったのだが、ようやく読めた。

確かにおもしろい。思わず時間を忘れて一気に読んでしまった。話の筋は中盤で読めてしまうのだが、それでも興ざめすることなく、なおもおもしろいのは名作の名作たる所以か。

しかし、一番心をひかれたのは、主人公の技術者としての立ち方だ。あくまで物作りに徹しようとし、経営は極力人に任せようとする。それが彼の人生を狂わせもし、助けもする。そして開発に注力するその姿に、共感と羨望と憧憬を感じざるを得ない。

翻訳も読みやすく、SFと言っても小難しい理論に彩られた難解な作でもない。むしろ人間の情景に導かれた、美しい人間の──あるいは恋の物語と言ってもいい。まあ、恋の対象が微妙ではあるが。

題名の「夏への扉」は、暗く冷たい冬の逆を言っている。その扉は誰もが探そうとしてる青い鳥のようなもので、実際主人公の見つけた夏への扉は、ずっと昔からそこにあったものだった。だがしかし、それを手に入れるのは未来においてなのである。

そして未来は、いずれにしろ過去にまさる。誰がなんといおうと、世界は日に日に良くなりまさりつつあるのだ。人間精神が、その環境に順応して徐々に環境に働きかけ、両手で、機械で、かんで、科学と技術で、新しい、よりよい世界を築いてゆくのだ。

終盤、主人公はそう語る。これはなんとも、開く扉がことごとく「冬への扉」である我々21世紀初頭の日本人には、激励とも取れる言葉ではないか。

本作品において重要な位置をしめるピートという猫は、真冬に扉という扉を開こうとする。そのうちのひとつは夏への扉なのだと信じて疑わない。そう、どこかにまだ開いてない夏に通じる扉が、あるはずなのだと。

夏への扉[新訳版]

夏への扉[新訳版]

テレワークからノマドワークへ、Third place という「新しい日常」にシフトしよう

コワーキングスペースの写真
コワーキングスペースの写真

インターリンクはオフィスを閉鎖して、単なる在宅ワークではない、ノマドワーク(在宅+WeWork)へ完全移行します という記事。テレワークとかリモートワークとかじゃなく、ノマドワークというところがすばらしい。

ノマドというと一時期詐欺師のような連中が暴れまわったせいでおかしなイメージを持ってる人も少なからずいるだろうが、俺や id:elm200 さんが10年以上前にこれからはノマドノマドだと騒いでいたのは、物理的な場所にとらわれる必要はもうなくなったということをずっと言ってたのである。

逆に言えば10年以上前にはそういう下地がとっくにできてたわけだ。現代の仕事はほとんどがパソコンひとつで完結するのであり、真面目にペーパーレス社会に取り組んでいれば接触8割減なんてそう難しい話ではなかったはずなのである。

さて、上記記事ではコワーキングスペースを活用し、働く場所を在宅でもコワーキングスペースでも好きなところで働いたらいいという形にしている。コストの問題は別としてカフェでも問題はないだろう。特に東京はルノアールという古からのノマドワーカーたちの聖地があり、Wi-Fi も電源もあって快適な作業場だ。ノマドというワードが流行ってた頃、なぜか彼らをくさす言葉として「スタバでドヤ顔」というのが言われてたが、当時の日本のスターバックスは電源もWi-Fiもなく、本物のノマドはスタバにはいなかった。本物のノマドルノアールにいた。

パンデミックなんか発生したせいというのが悲しいところだが、ようやくオフィスに集まることの意味の無さに気づいた人が増えたのはたいへん喜ばしいことだ。

しかし数年前からコワーキングスペースが流行したとはいえ、なぜかコワーキングスペースは都心に作られることが多かった。もちろんそれはそれで重要なのではあろうが、ノマドワークには東京一極集中を解消する力があるはずなのに、それではまったく意味がない。

コワーキングスペースはむしろ住宅街にあるべきなのだ。

コワーキングスペースの機能は働く場所というだけではない。Third place という思想がある。

サード・プレイスとは、コミュニティにおいて、自宅や職場とは隔離された、心地のよい第3の居場所を指す。サード・プレイスの例としては、カフェ、クラブ、公園などである。アメリカの社会学者、レイ・オルデンバーグはその著書『ザ・グレート・グッド・プレイス』(The Great Good Place)で、市民社会、民主主義、市民参加、ある場所への特別な思いを確立するのに重要だと論じている。

サード・プレイス - Wikipedia

コワーキングスペースはまさに Third place だ。知らない人もいるようだが、スターバックスなどもこうしたサードプレイス思想の影響のもとに作られている。

私たちは、誰もが歓迎される温もりと帰属意識のある文化の創造に努めています。この方針は、私たちのミッションである "人間の精神を鼓舞し、育む──ひとりのお客様、一杯のコーヒー、そしてひとつのコミュニティから" に沿って、サードプレイスの環境を維持することを目的としています。 (機械翻訳+筆者による修正)

Use of the Third Place Policy

書籍もいろいろ出てるので興味のある人は手にとってもらいたい。

サードプレイスは仕事をするだけの場ではない。家庭でも勤め先でもないコミュニティであり、どちらでも難しい自己実現の場でもある。コワーキングスペースは例えば家においておけない趣味がおかれててもぜんぜん不思議ではない。

そういう場は住宅街にあるべきだ。できれば住宅地の駅前にあるとよい。地元の駅前のカフェ、そこで議論したり仕事をしたり趣味に興じたりする人々、そういう風景こそがサードプレイスであり、コワーキングスペースのあるべき姿だ。

そう、ちょっと思い出してみるといい。そうした風景は日本に元々ある。そう、公民館だ。公民館では各部屋に別れて、様々な活動をしてる人々がいる。音楽をしてる人もゲームをしてる人もいる。そこに「仕事をする人」が加わるのだ。

だからこれは東京一極集中解消という名目で、公民館の一種として国が作っていくべきであろう。私的なコワーキングスペースにも補助金を出していくべきだ。なんなら鉄道会社が通勤減の売上の補填として経営してもいい。人々が通勤をしない、ノマドワークがあたりまえになり、東京一極集中が解消され、満員電車も過去のものとなる。そんな「新しい日常」を我々は作っていくべきだ。

コワーキングスペースは、図書館とカフェが併設されたような場でもいい。人々がゆったりと自分の興味に興じられればそれでいいのである。ただそこには、電源とWi-Fiが必要になる。椅子も座り心地の悪いものではなく、長く座っていられるものがいい。イメージとしては図書館の自習室を思い浮かべてもいい。

我々は公民館の一種としてのコワーキングスペースで仕事をし、ときどき人に会ったり現物を確認するために都心へ行く。

そんな「新しい日常」を作るためにも、国や行政には意識を変えてもらいたい。サードプレイス思想を持った、新しい公民館を官民協力して作っていくのだと。

ノマドワークの時代が始まるのではない、始めていくのだ。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>