狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

未来を生きるために「戸締まり」をしていく

すずめの戸締まり:公開10日で興収41.5億円突破 299万人動員 という記事。先週にも興行収入40億円を突破した新海誠監督の最新作、順調にヒットしてるようでなによりである。実は公開されてわりとすぐ見に行っていて、たいへん楽しませていただいた。そういえば感想文を書いてなかったなと思って少し書いておく。

公開されて3週間なのでそろそろネタバレも気にしなくていいだろう。

おすすめかどうかと言われたら間違いなくおすすめである。椅子と猫のおいかけっこシーンなどアニメとしてもたいへんコミカルかつテンポよく、くすくす笑いながら見ていた。おもしろおかしいアニメでもある。

本作をもって新海誠の「災害三部作」「ディザスター三部作」の完結であるという向きもあるようだが、俺もほぼ同意である。「君の名は」「天気の子」でも描かれていた「災害」への向き合い、それがこの映画にすべて結実したのだと思った。

「君の名は」では災害は「過去」として描かれた。消えてしまった命を、SFともファンタジーとも取れる舞台装置で取り戻そうとする物語だった。

「天気の子」では災害は「共にあるもの」として描かれた。まさにいま現在、自分たちを蝕む災害を解決するのではなく、その災害の中でも本当に共にありたいと願う恋が描かれた。

天気の子

天気の子

  • 醍醐虎汰朗
Amazon

では「すずめの戸締まり」の「災害」はいかようにして描かれていたか。

本作における災害は、「ミミズ」と呼ばれるある種のモンスターとして描かれる。その普通の人には見えないミミズが「扉」から出てきて、震災をもたらすのだ。主人公らはそのミミズを扉の向こう側である「常世」に押し戻すための旅をする。

「ミミズ」が出てきて震災が起きる場所は、実際の震災とリンクしている。出発地となる大分県のミミズは大分中部地震や熊本震災あたりを象徴しているのであろう。四国のミミズはおそらく近いうちに起こるとされる南海トラフ巨大地震だ。神戸は言わずとしれた阪神淡路大震災、東京は劇中でも語られたように関東大震災、そして最後に立ち向かうミミズは宮城、そう東日本大震災である。

主人公の鈴芽はその東日本大震災の被災者だ。まだ4歳ほどだった鈴芽は震災で母を失い、大分の叔母の家に引き取られている。その鈴芽が「閉じ師」である宗像草太と出会い、恋に落ちるところから2人の旅は始まっていく。

日本各地の廃墟にある扉から出てこようとする「ミミズ」を封じる時には、その廃墟で暮らしてたはずの人々の声が聞こえてくる。かつての幸福な記憶、人々が暮らしていたはずの街の思い出。それらが失われた現在の姿との対比が、見るものの心を締め付ける。

それを見ていてふと思ったのは、このミミズとは「私たちの苦しみや悲しみ」そのものなのではないかということである。

人生はよいことばかりではもちろんない。多くの悲しみや苦しみを抱えながらも、それを心のうちに封じ込めて、人は生きている。

そうした封じ込められた悲しみや苦しみが、ときおり顔を出すことがある。たとえば劇中で叔母が鈴芽につい発してしまった「本音」などだ。劇中ではない現実でも、インターネットの書き込みにそうした「悲しみや苦しみが顔を出した」人々がいるのが見受けられる。その暗喩としてあの「ミミズ」は描かれてるのではないだろうか。

そう考えていくと「扉」の向こう側の「常世」と呼ばれる世界は、我々の内心そのものであることに気付かされる。災害とは喪失だ。多くの苦しみや悲しみが「扉の向こう」では渦巻いている。

「ミミズ」とは我々自身の慟哭であり、「扉」とは個人と社会を隔てる壁なのである。パブリック空間とプライベート空間の境目こそが「扉」なのだ。

その扉を閉じていくこの旅は、あの震災と向き合い直し、自己の悲しみや苦しみをもう一度封じ込め、生きていくための旅なのである。

だから「閉じ師」の仕事は終わらない。悲しみも苦しみも、どれほど抑えていようとも、いつかその扉を開けて吹き出してしまう。そんなの人間ならみんなそうだ。そのたびに祝詞を唱え、封じていく。

だから最後の戸締まりは「行ってきます」なのだ。どんな思いもギュッと内に押し込め、俺たちは外に向けて笑顔を作る。生きていくために。社会と関わるために。

それはこの映画の制作が始まった頃から始まったパンデミックでもそうだ。家族や友人をこの新型ウイルスに殺された人々は少なくない。その悲しみも苦しみも、ときおり耐えきれずに慟哭してしまう。だが、そのたびに「戸締まり」をして、また外へ、社会へとつながっていく。そうやって我々は今も生きているし、過去の戦争や災害でもそうだったのであろう。

今日もどこかでミミズが飛び出している。「閉じ師」にはきっと誰もがなれるし、誰もがなるべきなのであろう。未来を生きるために。

喫茶リコリコとマイクロ共同体主義

今年の夏アニメでは最も話題であったろうリコリス・リコイルが完結を迎えた。「女の子でシティハンターをやろう」というコンセプトだったそうなのだが、シティハンターに夢中だった俺としても大満足の13話だった。

このアニメの魅力は語り尽くせないところがある。「平和で安全な日本」は実は危ない奴らを殺して回ってる無国籍の女の子たちが作っていた、という作品背景はまさにディストピアだ。だが主人公である錦木千束の天真爛漫なキャラクターもあいまって、全体としてはとても明るく楽観的な作風に見える。設定のシリアスさと明るい演出とのギャップにまず惹きつけられる。

「平和で安全な日本」という虚構を作り出す主人公側の組織と、その虚構を破壊しようとするテロリスト、という対立構造が明かされてくると、もう完全に物語の世界にはまりこんでしまう。

この対立構造は「正義vsまた別の正義」として描かれてる。だが主人公の錦木千束はどちらの立場にも与しないところも興味深い。

千束の願いはささやかだ。父親代わりの訓練教官だったミカとともに「喫茶リコリコ」を運営し、自分の周りで困ってる人たちの助けになること。そこには正義なんて微塵もない。ただただ半径数メートルの幸福に、自分が寄与できたらいい。そういう小さな願いだ。

思い起こせば、「シティハンター」も冴羽獠という世界最高峰の銃の名手が、新宿という小さなエリアで日常を過ごしていく話だったようにも思う。

このような千束のあり方に「マイクロ共同体主義」という言葉を連想した。

彼らの多くは「マイクロ共同体主義」とでもいうべき人生観を持つ。すなわち「自分と自分の仲間内だけがうまくいけばそれでよい」という最適化戦略を取っているのだ。自民党が推進する「自己責任」の規範を内面化しつつ、新自由主義的な社会を生き抜いていかねばならないという文脈で、少なくとも社会的・経済的には「現状維持」を提供してくれそうな政党として、彼らは消極的に自民党を選好している。

なぜ若者は、それでも「安倍晋三」を支持するのか(御田寺 圭) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

ひところよく「大きな物語の終焉」などという言葉を並べるよくわからない言論人たちがいたが、こういうことだったのかなと今では思う。大上段に構えた「正義」や「ただしさ」のような大きな話はピンとこない、あるいはシラけた目でしか見ることができない。そんなことより眼の前の生活や周囲の人間の状況をなんとかしていくことのほうがはるかに重要。半径数メートルの幸福が、そのすべてだからだ。

こうして考えてみると「リコリス・リコイル」におけるディストピア的でシリアスな世界設定と、明るく生きる千束たちの対比は、まさに現代を生きる人々を象徴してるように思う。

世界はパンデミックやら戦争やら経済問題やら大きな話で大混乱だ。ネットでは正義の味方ぶった連中が暴れまわり、小市民の小さな喜びすら世界をひっくり返す大犯罪であるかのように叩いて回ってる。

そんなクソみたいな世界に背を向け、半径数メートルの幸福を大事に生きるマイクロ共同体主義の人々の姿には、あの明るく天真爛漫な錦木千束の姿が重なって見える。

だからこそ今の時代に「リコリコ」は強く刺さったのではないだろうか。だとするならば、こんな時代にあるべき正義はいかにして語られるべきだろうか。

2021年、今年買ってよかったものいろいろ

ちょうど友達と「今年買ってよかったもの」の話をしていて、Amazon の注文履歴からこれはよかったなというものを抽出していた。なんと、はてなブログ今週のお題「買ってよかった2021」というのもあるそうなので、せっかくだからブログにも書いてみよかと思う。

メガネ曇り止めクロス

昨今は映画館でもマスク着用を求められがちなのだが、眼鏡がくもってしまってたいへん不快であった。しかし友達から教えてもらった曇り止めクロスを使ってみたらぜんぜん曇らないので、最近は映画館に行く前にこれでメガネを拭いている。実に快適になった。

懸垂用の突っ張り棒

つっぱらせるだけでも耐荷重100kg、ネジ止めの受け器具を使えば150kgに耐えられるというすごい突っ張り棒。昔から引きこもって仕事をしてるもので肩こりが本当にひどいので、生活動線中にこれを設置してときどきぶら下がるようにしている。だいぶマシ。

マウスバンジー

いやいまどき有線マウスなんてありえないだろうと思ってたのだが、マウスバンジーを使うとぜんぜん紐が絡まらないのでめちゃくちゃ快適。どうも有線マウスにこだわる FPS ゲーマー向けの商品らしいのだが、こんなに絡まないなら充電や電池交換の手間がない有線マウスをメインにしてもいいんじゃないかと思い始めてるレベル。

紐をうまくマネジメントしてやるだけでこんなに使い勝手が変わるとはねえ。衝撃だった。

ノンフライヤー

友達がいいよいいよと言ってるので試しに安いやつを買ってみたんだがすばらしい。野菜のおかずは作り置きしているものの、メインのおかずを作ってるヒマがないときはこいつに冷凍からあげを放り込んで180℃で12分ほどかけてやればあっという間に揚げたてのような唐揚げができあがる。

しかも脂を落としてくれるので意外とヘルシー。フライドポテトなんかも200℃で18分ほどで出来上がる。スーパーで売ってる味付け肉なんかもいい感じに焼いてくれる。

しかもほったらかしでかけたらもうやることがないので、その間に10分程度のストレッチやコアトレーニングをしてると運動不足解消にもなる。この10分の隙間がなかなか取れないのでたいへんありがたい。

ホットクック

いやマジでこれは本当に革命的。シチューやスープなどの汁物を普段から煮込んでおけば朝ごはんは温め直すだけでいいし、混ぜ技ユニットをつけて長時間煮込めば冷凍肉もほろほろにほぐしてくれる。うちではシチューの他に冷凍ささみと適当な野菜を入れたスープカレーもよくつくる。コンソメとカレー粉を適当に入れるだけで十分おいしいし脂質もほとんどない

作りおきによく作る切り干し大根の煮物や卯の花なども任せられる。軽く20〜30分煮たら手動調理の「煮詰め」を選択し、40〜50分ほど煮詰めて様子を見るといい感じに汁気がなくなって作り置き向きになる。

ゲーミングヘッドセット

いったいどれを買ったらいいのかよくわからないこのジャンル、音質がーとかつけ心地がーとかいろいろあるのだが、とりあえずロジクールのG533を買っておけば間違いない。そこまで高音質とは言わないが十分迫力はあるし音位もドライバでそういうモードに設定すれば本当にはっきりわかる。

しかも最近の Linux でも刺すだけでちゃんと動作する(Debian GNU/Linux 11 bullseye で確認)。これで Proton を使って Linux 環境でしばらく Rocket League をやってたのだがなかなかよかった。さすがに GeForce MX450 のディスクリートGPUでは100fpsくらいがせいぜいで、下が40fpsくらいなのできつかったが、50fpsや60fps固定にしたらだいぶマシになった。下限が60を切らないくらいの性能になってくれると嬉しいんだがなあ。

あ、難点は充電が MicroUSB であること。そろそろ USB-C に統一したいよねえ。

ヘッドホンフック

上のヘッドセットと一緒に買ったのだが大正解。なんか置き場所がない予感がして念の為に買ったのだが、机の下にぶら下げるというのは想像以上に快適。マジでよいです。

ケーブルホルダー

Anker のこのケーブルホルダー、本当に便利。上のヘッドセットの充電ケーブルなどをこれで机に貼り付けてるが、磁石なのでかんたんに片付けられる。

俺はがさつなものでついついケーブルを垂らしっぱなしにして椅子の脚で踏んでしまって断線などよくしていたのだが、これのおかげでそれもなくなった。

HHK Pro Hybrid Type-S

これが不満なわけがないんだが、昔のモデルから20年以上使ってるのでもうほかのは使えない。とはいえ無線はラク。ゲーミングPCとMacBook を Fn + Ctrl + 数字で切り替えられるのも便利。

難点はわりとすぐスリープに入ってしまって電源ボタンを押さないといけない羽目になることくらいか。ちょっとゲームをしてるとキーボードが効かなくなる。1時間くらいに設定されてるんだろうか。

他のマウスなどは操作すればすぐ反応してくれるので、これもそうなってほしいなあという気分はある

壁美人

いやびっくり。テレビみたいな大きなものまでホッチキスで壁につけられるとは。 ホッチキスでも1本で1kg程度は耐えてくれるらしい。それを大量につければ耐荷重はあがるということらしい。もちろん単純に掛け算したぶんだけ増えるというわけでもないようだが。

カード型AirTagケース

iQOS のケースに AirTag を入れておこうとしたのだが、AirTag はすぐ転がってしまう。困ったなあと思ってたら見つけたのがこれ。 カード型にしてくれるのでいろんなところにするっと入って転がり出てくれることもない。AirTag は小さいのでケースによって使い勝手がどんどん変わるね。こういうところもおもしろいのだが。

Anker PowerPort Atom III 63W Slim

写真を見てもらうとわかるのだがなんと45W充電可能。つまり MacBook Air くらいのものならこれで充電できてしまうわけだなー。小さくて軽く机の下に貼り付けるために買ったのだが、これはモバイル用にも有用すぎるってんでもう1個買おうかどうか悩んでる。

ただ PS5 コントローラの DualSense は充電できない。どうも対応してないようだ。これが充電できるモデルが出てから買い足そうかなあ

フィリップス 5000シリーズ 電気シェーバー

肌が弱いもので髭剃りにはいろいろ苦労があるのだが、これはぜんぜん痛くないのでびっくりした。慣れないときちんと剃れないみたいでまだ剃り残しがちなのだが、まあそれでも十分、髭をそって半日たった状態だと思えば違和感もない。慣れてくればもっときちんとそれるようになるらしい。

ブラックフライデーセールのときに買った型落ちなのだが、在庫がなくなってるようなので新モデルのほうを買うといいかも。

その他にもいろいろ

迷ったので即ポチはしなかったのだが、iPad mini は買って大正解だった。10.5 インチの iPad も見開きで漫画が読めて快適だったのだが、寝転がったりして片手で持てる iPad mini は本当に便利。普段は Smart Folio を取り外して、ハンドストラップをつけて漫画を読んでいる。

これだと少し大きいので斜めがけするハメになるのだが、まあそれでもないよりはマシ。もう少し短いやつがあるといいんだけどなあ。

さてもう1記事ほど書きたいネタがあるのだが、ちょっと今年中には書けないかもしれない。これが今年最後の更新になるかもしれない。このブログ、狐の王国も HNS で2001年に始めてから20年が経つ。21年目もぼちぼちやっていくので、よろしくおねがいします。

また来年、よいお年を。

「本当の意味で批判的な態度」は、まず褒めるところから

「本当の意味で批判的な態度」について考える - メロンダウトという記事。現代の思想的状況でほんとうの意味で批判的な態度はあり得るのかと問いかける記事。

確かに記事の通り、いまは複雑な状況にある。特に日本においては、バラモン左翼とビジネスエリート右翼が結託して資本主義を利用した全体主義を推し進めてるようにしか見えない。こういう状況で「批判的な態度」はどうあるべきか。

それはね、「褒めること」だと思うんですよ。

「批判」というと昨今の若者言葉の文脈では悪いことであるかのように使われているそうだが、批判そのものが悪いわけじゃない。ダメ出しをすることが批判だと思ってる人もいるようだが、「批判」にそんな意味はない。

① 批評して判断すること。物事を判定・評価すること。 (中略) ③ 良し悪し、可否について論ずること。あげつらうこと。現在では、ふつう、否定的な意味で用いられる。 批判とは - コトバンク

ここでも今の時代では否定的な意味で用いられると買いてあるが、本来は良し悪しを見分けることが批判なのである。つまり悪いところを指摘するだけが批判じゃない、よいところをしっかり指摘することも批判なのである。

上記記事のネタ元である思想家東浩紀のツイートを見てみよう。

反アベといえばちやほやされる世界で、それが批判になるわけがない

だからいまは本当の意味で批判的なのはどういう態度なのか、原理から考えねばならない

では安倍前首相を「批判」するときにはどうすればよかったのだろうか。「反アベ」とは単なる全否定でしかない。すべて否定してしまえば済むのだから頭を使う必要もない。良し悪しを分ける必要もない。それは知性的な態度だろうか。

だからまず「褒める」ところからだと言ってるわけだ。

少なくとも安倍前首相の就任直後に金融緩和をやり円安政策に振った点については褒めざるを得ない。リーマンショックからの回復がうまくいかず、いっときは今の日本はタマネギを切る仕事すらないとまで言われた状況から、国内に仕事を戻し、有効求人倍率も1を上回り、就職活動を飛躍的にラクにしてくれたのだから。若者に安倍支持が多いのもうなずける話である。

ではそのおかげで日本経済は順風満帆だったろうか。そんなわけない。安倍政権は消費税を2度もあげてしまい、日本経済に致命的なダメージを与えてしまった。アベノミクス3本の矢と言われた「金融緩和」「大規模財政出動」「構造改革」のうち、実際にやったのは金融緩和だけだ。大規模財政出動はコロナ禍が始まってようやく100兆円程度出したにすぎない。

こうして考えると総合的にとても褒められた政権ではなかった。やると言ったことができず、長期政権だった割に目標だったインフレターゲット2%すら達成できなかったのだから。

しかし批判のポイントは明確になる。いわゆるリフレ派の経済政策をやると言ってるのにさっぱりできてない、それどころか消費税をあげるとはどういうことなのか。言ってることとやってることが違いすぎないか。別の経済理論を採用するならそれでもいいが、じゃあ何を採用してなにをどうするのか、なにも見えてこない。

こういうポイントをしっかり「批判」できなかったから長期政権になってしまったのではないのか。

大蔵省時代から問題視されてきた官僚の権力の強さ、財務省の支配力の問題も合わせて考えれば、安倍前首相と財務省との間になにかがあったことは疑いようもあるまい。そこをつければいわゆる森友問題も違う展開があったのではないのか。

何事も良いだけのことも悪いだけのこともない。花粉症ですらコロナ禍においては「マスク着用」の社会的許容性を高め、他国よりは随分マシな被害に抑え込むことに貢献している。

昨今批判のターゲットにされている現代「リベラル」だってそうだ。エシカルであることをオシャレと結びつけて、特に若者に現代倫理的な行動を促すことに成功しつつある。環境問題になかなか興味を持ってもらえなかったことを考えるとこれはすばらしいことだ。

反面、そうしたエシカルさを「他人を貶める」ことに使う輩を止められていない。エシカルであることは他人には強制できない性質であることを本来の「リベラル」であれば知ってるはずなのに、政治的に利用しようという下心でもあったのではないかと言われたら否定もできまい。ましてやそうした行動がいわゆる「リベラル」そのものへの反発を生み出してることに少しは自覚を持てとしか言いようがない。

繰り返すが、何事もいいだけのことも悪いだけのこともないのである。かならず良い面も悪い面もある。それをこうして切り分けることが「批判」であり、「ほんとうの意味での批判的な態度」ではないのだろうか。

狂った活動家や思想家は、他人の話ばかりする。誰それがどこの立ち位置だとか、ポジショントークがどうだとか。そんなことはどうでもいい。

「本当の意味で批判的な態度」は、良し悪しを見分けようとする姿勢だ。全否定でも全肯定でもないといえばあたりまえが過ぎる話だ。

そんな「あたりまえ」をどうして忘れてしまったのか。そのことを深く深く反省する必要がある。

そして1日1つでいい、誰かを褒める練習から始めていこう。「褒める」という行動をする自分に慣れていこう。本当の批判はそこから始まるのだから。

リモートワークを20年くらいやってきた人間から見ると、マナー講師はなにもわかっちゃいない

日本は“マナー大国”?謎マナー乱立の理由をマナー講師に聞いたという記事。失礼クリエイターことマナー講師が謎マナーを乱立させているという批判はすでに一般的になってきてると思うが、そのいいわけである。だが見過ごせないことが書いてあった。

Mさんは「チームメンバーと話す際は、カメラはオンにすべき」だと考えている。

「私が古いんですかね。声だけでは相手の気持ちがつかみきれないから、せめて顔を見ながら話したいと思ってしまう。コロナ以前なら、ふと世間話をして距離を縮めることができたんですけどね……」

日本は“マナー大国”?謎マナー乱立の理由をマナー講師に聞いた

そんなわけがないのである。

オンラインにオンラインのマナーがある。ネットに棲むように生きて20年超、リモートワークも同じくらいやってきてる俺が本当のリモートワークのマナーを教えてやろう……というと大上段に構えた感じだが、まあさすがに20年くらいやってればそれなりに知見はたまりますって。

そもそも連絡はテキストベースがマナー

通話やビデオ会議では発言した証拠が残らない。一生懸命話したところで、話した内容の認識が食い違ってたら意味がない。せっかく発言の証拠が明確なテキストで連絡が取れるんだから、テキストで連絡を取るべきである。

テキストではどうしても説明しきれないとき、申し訳ないけど、という形で通話をすべきなのである

そもそも通話は完全に相手の時間を奪ってしまう。テキストベースならちょっとした作業の合間の数分、場合によっては数秒の隙間で返信できる。相手の時間を奪わないためにも、テキストで連絡するべきである。

通話のような時間を共に過ごさないといけないものを同期的コミュニケーション、チャットのように相手の時間とずれてても問題ないものを非同期的コミュニケーションと俺は呼んでいる。リモートワークでは非同期的コミュニケーションを中心にすべきだ。なぜなら相手の状況がどうなっているのかわからないのだから。

どうしても通話するときはカメラを強制しないのがマナー

そもそもリモートワークなんてどこで働いてるのかわからないし、仕事仲間が知る必要もない。おおむね私室で作業してることも多く、プライベートな部屋を見られたくない人もたくさんいるはずである。

コワーキングスペースかカフェなどで作業してることも多く、そういうところでの通話はそれこそマナー違反である。

俺などこないだお昼のお弁当を買いに行って待ってる間に連絡がきて、帰りのドライブ中に仕事の通話をしていたことがある。カーオーディオが Bluetooth で携帯電話と繋がって運転しながら通話するのに支障がないようにしてくれてるのは、これはもうガラケー時代からある機能だ。このときビデオはオフにしていたのは、もちろん安全運転のためである。

また zoom 等の最近のビデオ会議システムはそれなりにパソコンのパワーを食うことが多く、回線帯域にも負担がかかる。場合によっては参加者は海外の回線の細い途上国で作業してることもあり得るのだから、ビデオ会議を強制するべきではない。通話だけならさほど帯域もマシンパワーも食わないし、ビデオは画面共有でスライドや状況を見せる程度に留めるべきである。

俺は2020年の MacBook Pro 13インチを i7 で RAM 32GB で使ってるのだが、それでも zoom でみんながカメラをオンにしてると重たいことがある。3〜4人ならまだしも10人以上が参加してるとだいぶつらい。いまはマシになってるかもしれないが。

チャットでは人を呼ぶ前に用事を書く

これは昔から、それこそ20年前から何度言ってもなかなか聞いてもらえないことが多いのだが、先述のようにテキストベースのコミュニケーションは作業中の下手すれば数秒の隙間で返事してることも多い。

なので相手に通知を送ったタイミングですでに「用事」が書かれていなければならない。

呼んだだけというのは非常に最悪である。なにを返事したらいいのかもなんのために呼ばれたのかもわからない。数秒後には作業に戻るのである。その後に用事が書かれてても気づかないことも多い。

せっかく非同期な連絡手段があるのだし、こういう習慣のある人はそれこそタイピングも遅いのだから、まずは呼ぶ前にざーっと用事を書いてしまって、最後に「@koshian どう思う?」みたいにつけたらよいのである。

ちなみに20年近く前、いろいろと忙しかったので朝の発言に夕方返事して、その返事がまた翌朝に来たなんてことが数日続いてたこともあった。

本当に急ぎなら電話なりをかければよい。電話がかかってくるということは程度の差はあれなんらかの緊急事態であるという印である。

雑談用のチャット部屋を作っておく

ひるがえって、上記のマナー講師の言うように、雑談は存外大事である。だから雑談用のチャットルームは仕事用とは別に作っておくべきだ。Slack なら #random がそれにあたる。

そしてそこにネタ振りを適切にできる人がいなければ、雑談部屋は閑散としてしまう。

コミュニケーションを人に教えるマナー講師を名乗るなら、雑談部屋に適切にネタ振りをすることくらいちゃんとできていて欲しい。いまならワクチンの話題でもいいし、ニュースなどでもよい。おもしろかったアニメの話でもいいし、体調の話でも今日食べたご飯の写真を貼るでもいい。みんなが一言いいたくなるネタをふって盛り上げるのである。

そして慣れてくるとテキスト越しにもなんとなく相手の機嫌や状況をうっすら感じることもあるのである。これがニュータイプか。

リモートワークは孤独であるからこそ、そうした雑談で人と人とのつながりを維持するのは大事である。俺も昔からそういう雑談をするチャット部屋に入りながら仕事をしてきた。情報技術系の仕事をしてる人たちに Twitter 愛好者が多いのも似たような理由である。

それでも顔が見たければ……

それこそ zoom 飲み会でも zoom ランチ会でもやったらいい。リモートワークでは相手の状況がわからないのだから、きちんとオンラインで「待ち合わせ」をすべきである。またビデオ通話が主目的ならパソコンや回線の負荷もそこまで問題にならない。仕事で作業してるアプリが遅くなっても休憩中なんだから問題ない。これも20年くらい前だが、試しに CU-SeeMe というアプリでビデオ通話に参加したことがある。ふだん顔の見えない相手と話すのもけっこう楽しいものだ。

ワクチンがでまわろうと治療薬が発明されようと、我々はもう「重症化してときには死ぬ確率がめっちゃ高い風邪」のある世界からは逃れられない。また満員電車通勤などという誰にも人権がない習慣はとっととやめるべきだ。

そのためにも地方にコワーキングスペースをもっと作り、必要なときに都内のオフィスに行くような習慣を作るべきだ。俺も午前中はコワーキングスペースで作業して、午後にオフィスに顔を出すようなことはいままでにも何度もやってきた。午前10時を過ぎると電車も空いていて座れることもある。店が開く時間だからかベビーカーもたくさん見られ、電車から下ろすのにサラリーマン風の中年男性が手伝ってるのも見かけたことがある。余裕は優しさを生むのだ。

そもそもリモートワークなんて特別なことじゃない。オープンソースハッカーのみなさんたちは、30年以上前からオンラインで連絡を取り、ソースコードを共有し、いまの iPhoneAndroid の基盤になったソフトウェアを作り続けてきたのである。

ハッカーたちがどういうふうに考えてるかを知るにはこのへんの書籍がいいだろうし、きっとリモートワークのみならず、これから仕事をしていく上でも役に立つだろう。読み物としてもおもしろいぞ。

さあ、今日も楽しくリモートワークしていこう!

バラモン左翼とビジネスエリート右翼に分断された「ぼくたち」の物語

市民感覚としての白饅頭、知性主義の限界、経験の抹殺 という記事がすばらしかったので読んでもらいたいと思いつつ、これはピケティの言う「バラモン左翼とビジネスエリート右翼」の問題だなとつくづく思ったのでここに少しそのへんの話を書いておこうと思う。

バラモンというのはインドのカースト制度の頂点にいる司祭階級の人々のことだ。バラモン左翼というのはそういう「上位」にいる左翼のこと。古い人には「そんなバカな」と感じられるかもしれない。昔は左翼といったら資本家から労働者を守る人々であり、カーストの頂点にいることなんて考えられなかったからだ。

だが現実には給与や社会的地位の高い新興企業や学術機関に勤め、環境問題やジェンダー不平等など意識の高い問題に取り組むことを是とする「左派」はごまんといる。彼らは努力してそれなりの地位を獲得しただけあって、新自由主義的な感覚を持っている。「努力すれば自分たちのように豊かな生活ができるはず」と本気で信じ込んでいる。だから庶民にコストの高い生活を平気で求める。ヴィーガン食を進めたり、レジ袋を有料化したり、ごみの分別を押し付けたりだ。

一方ビジネスエリート右翼はというと、いわゆる全体主義的な右翼とビジネスエリートたちが手を組んだ状態だ。彼らは人権などバカらしいと考えてる。それより金儲けが大事であり、人身売買同然の低賃金長時間労働を平然と実行してくる。こちらもこちらで新自由主義的、どっちもネオリベなのである。

これは政治思想でもあるので、日本だとビジネスエリート右翼は自民党バラモン左翼は立憲民主党を思い浮かべるとだいたいあってるのではないかと思う。日本の自民党はあれで意外と多様なメンツを揃えててバラモン左翼的なこともやったりするのだけれども、立憲民主党がそれに反対することもないわけだ。

ちょっと前にそれぞれの代表的な人物を図示してみたので参考までに。

バラモン左翼とビジネスエリート右翼
バラモン左翼とビジネスエリート右翼

実のところ、ピケティのバラモン左翼とビジネスエリートに右翼ついて書かれた「資本とイデオロギー」はまだ日本語版がない。山形浩生Twitter などで翻訳作業を進めてることを明かしており、おそらく2021年中には刊行されるであろう。だが難航してるようである。

だがTRPG界隈では昔から有名な井上純一が、自身の経済漫画でバラモン左翼とビジネスエリート右翼をたいへんわかりやすく説明している。書籍のほか、note でも単品で買えるのでぜひ読んでみてもらいたい。

バラモン左翼でもビジネスエリート右翼の説明(「がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか」より)
バラモン左翼でもビジネスエリート右翼の説明(「がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか」より)

がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか (角川書店単行本)

それって全部お金デスヨ!! 最終回:日本はこれからどうするイイデスカ?|井上純一|note

結局のところ、政治思想がバラモン左翼とビジネスエリート右翼のように先鋭化してしまった結果、大多数の市民は完全においていかれてしまっているのである。

雇用が失われてるし公務員は人手不足なのだから、公務員を増やして仕事をラクにすればいい。ごみの分別など公務員がやれば雇用も生まれる。安定した雇用と十分な賃金があれば、結婚して子供を産む人々も増えて少子化問題は解決に向かうだろう。そうすると彼らは家を建てるようになり、そこでもまた雇用が生まれていく。人口減少に歯止めがかかり、税収も上がっていく。

これは別に夢物語でもMMTでもなく、古典的なケインズ政策とかニューディール政策とか呼ばれてるものだ。実際に他国ではそうした経済政策をちゃんとやっている。それでも足りなくてバラモン左翼とビジネスエリート右翼で分断されているのだが……。

日本でアメリカほどにこの分断による問題が起きてないのは、元の経済規模がでかいからだ。人口は倍以上のアメリカにせまる世界第2位の経済超大国であった日本、30年に渡り落ちぶれ続けてきたがそれでもまだ世界第3位の経済大国なのである。30年も落ちぶれ続けてもまだこのへんにいられるということが奇跡であり、驚異なのであるが、まあそれもいつまでもつのか……。

いわゆるアベノミクス3本の矢というのは日本が20〜30年やってこれなかったまっとうな経済政策であり、支持が集まるのはたいへん理解できる話だった。だが金融緩和をやっただけで大規模財政出動はいっさいやってない。それどころか不景気なのに増税というバカなことまでしでかした。構造改革はデジタル庁の動きによってようやくなんとか動き始めたという程度である。だがそれでもプランが示せる程度には正気を保っているはずなのだ。

つまるところ、バラモン左翼でもビジネスエリート右翼でもない右翼や左翼は死んではいない。声の大きな少数の支持者たちが、バラモン左翼とビジネスエリート右翼を支え、力をもたせているのである。

政治家たちは悪人ではない。みな市民の声を国政に反映したいという志をもった人々だ。だからこそ、我々の声をどうやって届けるかが鍵となる。

だから声を上げていこう。世論を作っていこう。今年は衆議院選挙もある。投票に行こう。政治家を志す若い人々を応援しよう。彼らは地方議会にいる。議員として経験を積んでもらうために地方議会で彼らを応援しよう。

世界は変えられる。我々は腐っても民主主義国家の一員だ。国造りの神話はエリートのものではなく、ひとりひとりの市民によってつむがれるのである。

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇──おとなになれないぼくたちと、第1世代オタクの悲哀

3月8日、この日が憂鬱だった。映画館に向かう準備をしなければならないのについついグズグズとネットを見ていた。なんとかでかけても、このまま劇場につかなければいいのにという気分が俺の心を蝕んでいた。そう、今日はシン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇の公開初日である。ネタバレが怖いから早めに見に行こうとは思ってたのだが、まあ初日のチケットが取れてしまうとは思わなかった。入場口であまりに緊張しすぎて1度引き返したくらいに、見るのが怖かった。

あのエヴァが終わる。1995年、夕方に放送していたアニメが、当時の水準からは考えられないほど高品質で、なおかつ話がわけのわからない、謎が謎を呼び、ついには社会現象とまで呼ばれたあのエヴァが、なんと2021年にもなって「完結」するんだという。

テレビ放送時には「は? これが最終回?」という感じだったし、何度劇場版を作っても「は? これが終わり?」としか言いようのなかったあの新世紀エヴァンゲリオンが完結するだと?

そんなわけないだろ、またどうせ庵野秀明監督には裏切られるのだ。

そう、俺たちは庵野に裏切られるんだ。そんな気持ちでいっぱいだった。

そして映画を見終えてこれを書いてるわけだが……

まあどうせなにを語ってもネタバレになるだろうから、何も知りたくない人はここで引き返したらいい。それまで過去作でも見るといい。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

  • 発売日: 2007/09/01
  • メディア: Prime Video

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

  • 発売日: 2009/06/27
  • メディア: Prime Video

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

  • 発売日: 2012/11/17
  • メディア: Prime Video

『これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版』+『シン・エヴァンゲリオン劇場版 冒頭12分10秒10コマ』も3月21日まで見れるそうだ。

第1世代オタクの悲哀

「作り物、まがい物、偽物でしかない俺たち」というのは、おそらく庵野秀明ら第1世代オタクには通底してるものではないかと思う。エヴァンゲリオンという作品自体が、大量のオマージュや引用によって成立してることからしても「自分たちは本物ではない」という認識に囚われ続けているのが見て取れる。

オタクというのはそもそもがコミケコミックマーケットの参加者たちを指して侮蔑のまなざしによって生まれた言葉である。

コミケはアニメファンの女性たちの集まりとして始まり、彼女らはアニメキャラクターたちのアニメでは描かれてなかった側面を独自に描く同人誌を作っていた。いわゆる二次創作やパロディを楽しむ人たちは、いまでもコミケ参加者たちの主流派であろう。

庵野秀明の初期作品として有名な DAICON IV も、そういう二次創作やパロディの賜である。


DAICON IV Opening Animation (HD - Remastered audio & video)

オタクという言葉が生まれてからほんの最近にいたるまで、オタクというのは蔑視の言葉であり、プロになれないクリエイター崩れ、「本物」が作れずパロディや二次創作ばかりしてる素人、そうしたニュアンスが含まれていたのである。

エヴァンゲリオンは「本物」ではない。ウルトラマンを始め多くの先達の作り上げてきた「本物」を庵野秀明が模倣した「二次創作やパロディ」の類だ。よって庵野秀明は本物のクリエイターではない。ただのオタクである。

そうした意識が第1世代オタクにはあるのではないか。そして庵野秀明自身も、そういう意識にとらわれてるのではないか。

かつての90年代の劇場版エヴァンゲリオンでも、「これは本物ではないんだ」というメッセージを込めて作っていた。だから作中に唐突に映画館席を実写で映し出したりしていた。

シン・エヴァでも同じだ。これは本物ではない、作り物だ、まがい物だ。そういうメッセージを作中にどんどん織り込んでいく。いやしかしあれから20年以上たち、庵野秀明も上手になった。以前よりずっとスムーズにセンスよく伝えたいメッセージを映像に乗せていた。その点はたいへんすばらしかった。

そうして「作り物」に耽溺するのをやめ、「本物」に向き合う成長をしろという実写で描かれるシン・エヴァのラストシーンも、90年代に伝えたかったメッセージをいまならこう描くということなのだなと思えた。

だがいまはもはやオタクの暗黒時代だった90年代ではない。

「二次創作やパロディ」の類はオマージュとして進歩した。NHKの朝ドラで数々のオマージュやパロディが描かれて国民的大ヒットになった「あまちゃん」は2013年の作品である。

オタクでいることは若い世代には恥ずかしいことでも孤独でいることでもなくなった。教室では見つけられなかった同好の士も、インターネット時代には半歩で見つかるようになった。オタクがオタクのままで、絆を得られるようになった。

むしろあんまりにもかんたんに繋がれすぎて、かえって弊害を引き起こしている。つながるべきでない人々がつながってしまい、インターネットは毎日炎上事件が起きている。それがまさに現代的な課題でありテーマだ。

そのなかでもまだ「つながること」「現実と向き合うこと」を描くシン・エヴァンゲリオンは、よくも悪くも90年代アニメのままだということであろう。

だがそれだけでもない。

おとなになる方法論

オタクというのは子供のままだとされていた。責任を引き受けず、子供番組を見続け、現実に向き合わない人々だと。だがそれはオタクだけの問題ではなくなった。

p-shirokuma.hatenadiary.com

「思春期モラトリアムの延長」という言葉を聞いたことのある人は多いと思います。昔は20歳ぐらいまでを思春期と読んでいたのが、近年、“30歳までが思春期”とか“35歳まで思春期”とか言われるようになってきた、アレです。 (中略)  ところがどっこい、昨今、思春期の終わりは社会や制度がもたらしてくれるものではなく、自己責任と自己判断で終わらせるものみたいです。「自分の力だけで思春期が終えられそうにない人も、がんばって出口を見つけてくださいね」、みたいな。思春期の延長をレベルアップのチャンスとして喜べるような、パワフルな思春期の人達なら思春期の幕引きも自力でやってのけやすいかもしれませんが、思春期ダンジョンの入り口で途方に暮れている人にまで「思春期のゴールは自己責任」っていうのは、なんだか大変のような気がします。まるで悪酔いするジェットコースターに乗ったまま自力では降りられないみたいな。

「思春期に幽閉される」というしんどさ - シロクマの屑籠

思春期が終わらない、終わらせられないのは、現代社会の問題になっているのである。

シン・エヴァに通底したテーマの一つが「成長」である。成長とはおとなになることだ。大人になるとはどういうことか。以前にもいろいろ考えたのだが、庵野秀明が示す「大人になる方法」とは、「決断すること」と「自分の行動の責任を取ること」だ。

サードインパクトを引き起こして壊滅的な被害をもたらした碇シンジは、その結末を受け止めきれない。なぜなら子供だからだ。大人であればその結末はどうであれ、きちんと受け止め、次の行動に繋げなくてはならない。

アスカは孤独な少女時代を封印し、責任を取る大人になっている。子供のままでいるシンジに、まだいらついている。

あの頃子供だった人々も、大人になってそれぞれの責任を引き受けるようになった。

そうしてそれぞれの「責任を引き受ける」ことで、人は大人になれる。思春期を終わらせられる。庵野秀明という第一世代オタクがようやく見つけた結論がそれなのであろう。そして立派に「エヴァンゲリオン」を終わらせるという責任を引き受けた。

大人になるということは、こういうことなのだと伝えてくるかのように。

「ここにいてもいい」から「ここにいる」へ

「ここにいてもいい」から「ここにいる」へという記事でも書いたのだが、エヴァンゲリオンというのは孤独で居場所のない俺たちオタクに、その作中メッセージに反して「ここにいてもいい」をもたらした作品である。エヴァが社会現象を引き起こしたことで、オタクという存在は少しずつ日陰者から脱することになっていった。

おもえばシンジには最初から居場所がなかった。エヴァだけが居場所をくれる存在だった。それはアスカも同じだった。だがそれは、子供だったからに過ぎない。自ら決断し、責任を引き受ければ、居場所はかならずある。世界中の誰からも疎まれ嫌われてると思いこんでも、必ず好意を持ってくれる人はいる。それに気づくことが成長のきっかけになる。

碇シンジは成長する。エヴァのいらない世界を望む。「さらばすべてのエヴァンゲリオン」という映画のコピーのセリフはそのまま劇中に登場する。あのシーンはまさに「エヴァに囚われた人々」の解放であった。

そしてシンジは自分の居場所を作る。「ここにいる」ことを高らかに宣言したのだと俺は思う。決断し、責任を引き受けること。それが自分の居場所を作ることであり、誰かの居場所になることなのだと。

オタクと呼ばれ蔑視されてきた我々も、それを好きだと言ってくれる人々に出会えるようになった。絵を書き、物語を書き、感想を書き、評論を書き、それを交換し、場合によってはお金にすらなるようになった。社会現象になったエヴァの話なんてしなくても、オタクには社会とつながり居場所を得る方法が見つかるようになった。34万人ものオタクが力をあわせ、オタクの味方をしてくれる国会議員すら生み出した。

世界は変わった。もはや暗黒時代は過ぎ去ろうとしている。庵野秀明がそこまで考えてるかどうかは知らないが、オタクをやめることが大人になることではなくなった。オタクでいながら大人になることができる時代になった。

我々はいま、「ここにいる」と高らかに宣言する準備ができている。決断し、責任を引き受ける大人になる準備が。

俺たちのネオン・ジェネシスは、もう始まっているのだ。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>