狐の王国

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京アニを知る人も知らない人も「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」を今すぐ見てきてください

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 - を見てきた。テレビシリーズ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の外伝であり、期間限定上映、なおかつ新人監督の作品ということもあって、来年に予定されていた新作劇場版を待ちきれないファンのための映画だと思っていた。

間違っていた。ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝は一つの映画としてきちんと完成していた。これはテレビシリーズ未見の方にも見ていただきたい作品だった。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンを知らない人にも見ていただきたい。そういう気持ちを込めて、多少のネタバレも含めてここに書く。知らない人にも興味を持ってもらいたいからだ。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンは自動手記人形(ドール)として働く少女だ。いわゆる代筆屋であり、タイプライターを抱えてどこにでも赴き、依頼主の「伝えたい言葉」を手紙にするのが仕事だ。

序盤に描かれるのは「新時代」だ。戦争が終わり、新しい時代が始まる。自動手記人形は女性の仕事であり、依頼主に気に入られて結婚し引退するのがゴールの形だったらしい。しかしヴァイオレットの同僚たちは、新しい時代の女性の生き方を語る。生涯の仕事として自動手記人形をやるもよし、鍛え上げた文章力で作家になるもよし。自由に生きられる時代の到来、その予感に心躍らせていく。

そんな自動手記人形のヴァイオレットだが、今回は貴族の娘イザベラ・ヨークという少女の教育係として女学校に向かう。ヴァイオレットの身につけた礼儀作法を仕込んで欲しいということらしい。数カ月後に控えるデビュタント(社交界へのデビュー)までに、イザベラを立派な貴族として教育しなければならない。

映画では、時間経過を表現するのに早回しの映像が使われることがある。この作品でも時間経過に植物の芽吹きの早回しの映像が差し挟まれた。その美しさに、息を呑んだ。ただ美しいだけじゃない。芽がなんとも言えずかわいらしいのである。

アニメの本質はメタモルフォーゼだ。なにかが別のなにかに変貌するアニメーション映像は、アニメの初期から多く描かれ、人がボールになったり弾丸になったり、ぐにぐにと気持ちよくメタモルフォーゼしていく白黒アニメが多く描かれてきた。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンにおける芽吹きの早回しは、そんなアニメ独特のメタモルフォーゼのように描かれ、ともすると少しシリアスな物語をまるで童話のように和らげてくれていた。動く絵本のようであった。

こうした演出を仕掛けた新人監督藤田春香は、テレビシリーズ「響け! ユーフォニアム」8話の演出で話題をかっさらった人物だ。主人公級の2人の少女がうやく心を通わせていく重要な回であり、脱ぎ散らかした靴ひとつで心の壁が取り払われることを示すなど、その映像手腕にアニメファンたちの絶賛を浴びていた。

藤田春香の映像センスや演出センスは今回のヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝でも白眉であり、1つ1つのシーンがまるでイラストレーションのように美しかった。終盤、ぬいぐるみをぶら下げて窓から外を見る少女の図など、大きく印刷して飾っておきたいとすら思えた。

なかでも驚いたのが、イザベラのデビュタントで男役をすることになったヴァイオレット・エヴァーガーデンの衣装である。ダンスの男役なのでパンツスタイルなのだが、ドレスといって過言ではない女性的な美をたたえており、衝撃的なデザインだった。このデザインは京アニの方のオリジナルなのだろうか。

こうした思い切ったデザインを取り入れていく様は、まさに「新時代」を予感させるのにふさわしいだろう。

教育係ヴァイオレットと貴族の娘イザベラは少しずつ「友人」になっていく。イザベラはどこにでも行けるヴァイオレットを羨望する。イザベラも自由に羽ばたく未来を夢見ていた。だがそれはかなわない。貴族の娘として生きることを決意したイザベラに、自由はない。

普通の物語なら、イザベラの不幸を嘆き自由を求めるお話になるかもしれない。だがこの映画は違った。イザベラは肺病を患っており、寛解の希望はない。自由を手に入れたイザベラは、おそらく長くは生きられないだろう。貴族に「売り渡した」彼女の人生で得たものは、映画の後半に描かれていく。

イザベラにはともに暮らした言葉もまだ怪しい幼い少女がいた。血縁もないその幼児を妹と呼び、テイラーと名付けて孤児が孤児を育てる険しい暮らしをしていた。貴族の娘となったイザベラと別れたテイラーは、一通の手紙に生涯を決意する希望を見出す。

テイラー・バートレットという名の少女が得たものは永遠と憧憬。「幸せを運ぶ」郵便配達人に強烈に憧れた少女が、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの元を訪れることで後半の物語が始まる。

諦めたイザベラと、希望に向かってまっすぐ走り続けるテイラー。対象的な二人だが、どちらかが幸せでどちらかが不幸なんてことはない。二人とも正しくも間違ってもいない。ただただ、自分と愛するものにとって、きっとベストだと信じた道を歩み続けている。

「愛してる」とはなにか。それはヴァイオレット・エヴァーガーデンの本編を通してヴァイオレット自身が探求していくテーマだ。

イザベラとテイラーは間違いなく愛し合う家族だ。その二人の愛をつなぐのは手紙、届けるのは郵便配達人だ。

仕事に飽きてきていた郵便配達人ベネディクトは、テイラーの思いを受け止めてこう言う。

「届かなくていい手紙なんてないからな」

テイラーの憧憬を一身に浴びるベネディクトは、郵便配達人としての誇りを少しずつ取り戻していくようだった。

どれだけ大好きな仕事でも、辛くなるときやむなしくなるときはある。自分で選んだ道を、後悔せずとも苦しく思う日だってある。どれだけ愛していてもだ。

あの女学校でひねていたイザベラもそうだった。おんぼろのバイクで飽き飽きした仕事を繰り返すベネディクトもそうだった。

だが「愛してる」ということは、何度でも恋に落ちることができるということだ。恋い焦がれた仕事、恋い焦がれた人生、愛してるからこそ裏切られてもまた恋することができる。もう一度踏み出すことができる。

この映画は7月16日に完成したそうだ。その後に起きた事件の話は、いまはしたくない。ただ言えるのは、これは俺たちの知る京都アニメーションの最後の作品になったということだ。京アニの復活は信じているしいつまででも待つ。だとしても消えた人々が蘇るわけではない。同じ「京アニ」には、おそらくならないだろうし、きっとなるべきでもない。

上記は中国のアニメ雑誌編集者が書いた文章の翻訳だ。日本のアニメシーンにおける京アニの存在の大きさを知れば知るほど、絶望しかないことがわかる。

京アニ」はきっと、新しく始めるしかないのだろう。それがゼロからというわけではないことに、希望はある。もう一度踏み出し始めてる人々が、そこにはいる。

この映画の封切りと前後して、ヴァイオレット・エヴァーガーデン劇場版本編の公開延期が発表された。新時代を生きるヴァイオレットたちに会える日はきっと来る。その時の京アニは、俺たちの愛した京アニとは少し違ってるかもしれない。でも何度でも恋に落ちるだろう。そうなることはとっくにわかっている。

いつか届くはずの手紙を待ち続けるイザベラのように、俺たちもずっと待ち続ける。ヴァイオレット・エヴァーガーデンと、唱えながら。

自由主義の結末は、結婚も労働もせず生きる社会

「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」 という記事。未婚の理由「めぐり合わない」 一方で「探していない」も という記事の感想文なのだが、まあ実にそのとおりだよねえと思うしかない話だった。

p-shirokuma.hatenadiary.com www3.nhk.or.jp

自由主義社会は個人の自由意志こそが至上だ。誰にも強制されない代わりに誰も責任をとってくれない。自由とはそういうものだ。

自由主義を強く描いたゲームに、Assassin's Creed シリーズがある。

Nothing is true; Everythig is permited. 真実はなく、許されぬ事などない

Assassin's Creedより

これがシリーズを通して提示されるアサシンたちの信条であり、主人公たちアサシン教団は人々の自由を守るため、全体主義を是とするテンプル騎士団と世界の裏側で戦っていくのである。

だが、こうした自由を描いてきたアサシンクリード・シリーズも、その自由に疑問を呈していく。

I understand now. Not a grant of permission. The Creed is a warning. Ideals too easily give way to dogma. Dogma becomes fanaticism. No higher power sits in judgement of us. No supreme being watches to punish us for our sins. In the end, only we ourselves can guard against our obsessions. Only we can decide whether the road we walk carries too high a toll.

だが今ならわかる。信条が与えるのは許可ではなく……警告

理想は容易く独断と化し……独断は……狂信と化す

我々を裁く存在も……我々の罪を監視する最高存在もいない

己を……護る事が出来るのは己自身

進む道、払う犠牲を選ぶのは己自身

Assassin's Creed: Unity より

「その自由は、本当におまえを幸福にするのか?」

そう問われているようだ。

自分自身だけじゃない。自由を重じんれば重んじるほど、我々は他人の選択肢を少しずつうばっていることがある。自由主義社会において、企業は人を雇用するもしないも自由である。どうせなら気に入った人物を雇用したい。企業がそうして選り好みすればするほど、就活に行く若者たちはそれの要求に応えるべくいわゆる「量産型」と呼ばれるような同じような見た目になっていく。選考する自由が、選考を受けるものの自由を奪っていく。

こんなことはあちこちにあるのだ。上記記事のような恋愛や結婚にだってある。まずはその現実を認められなければ話は始まらない。

矛盾社会序説──その「自由」が世界を縛る という本には、そうした事例がいくつか紹介されている。

「Big, BlackDogSyndrome(大きく黒い犬の問題)」ということばがある。ア メリカの捨て犬の保護施設で用いられる語句で「引き取り手がなく殺処分さ れるのは、黒い大型犬ばかり」である状況を指したものだ。毛並みの明るい、 あるいは小柄な捨て犬は、比較的容易に引き取り手が現れる。一方、大きく 黒い犬は、万人受けするような外見ではなく、攻撃的で凶暴なイメージを持 たれがちで、引き取り手がなかなか現れないのだという。

矛盾社会序説──その「自由」が世界を縛る

矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る

矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る

このような「大きく黒い犬の問題」は、キモくて金のないおっさん問題などとしてネットでもいくたびか話題になってきた。こうした魅力は実のところ生まれ持ったものだけでほとんどが決まってしまう。

確かによい姿形をしていることだけが有利に働くわけではないのだが、人々が好感を持つポイントというのはおおむね習慣によって形成される。曰く、箸の持ち方がきれいだとか、歯がきれいだとか、気遣いができるだとか、清潔感があるだとか、動作音が小さいだとか。こうしたものは生まれた家の習慣が反映されていくのである。

これは正直言うと実体験でもある。俺の生まれた家は職人の家系であり、粗野な言動や早食いが美徳であった。職人というのは思いのほか忙しいものであり、ちゃっちゃと仕事を片付けるためには儀礼的なことなどまどろっこしいことはしてられなかったのである。またたくさん食べてたくさん働くことを良しとされていたので、食べ物はおおいに与えられた。そうした食べ物はあとで栄養バランスを調査して気づいたのだが、脂質過多で食物繊維のほとんどない食事だった。おそらく職人が短い食事時間のなかたくさん体を動かすためのエネルギーを補給する食事だったのであろう。

そんな食事を現代社会のデスクワーカーがしていれば太るし体を壊す。こうした食習慣の見直しをいまでも少しずつ進めている最中だ。

そんな中で気づいたのだが、食事によって集中力も生産性もまるで違ってくる。脳を効率的に動かす習慣を身につけるには、脳を効率的に動かす習慣をもった家に生まれるのが至上である。それがなされなかったときに改善をするのは、習慣という無意識に埋め込まれたものだけに、まず気づくことが難しい。

こうした文化的な財産を「文化資本」と呼ぶそうだ。

ja.wikipedia.org

文化資本を持たない者たちにとっての福音は、インターネットが普及したことである。情報爆発が起き、自分たちの習慣が悪い習慣であることに気づくことが増えた。よい習慣もぐぐれば見つかることが多い。

だがそれでも足りない。習慣の違いは他人と一緒に暮らすことで気づくことが多い。同じ家の中で少しでも生活をしてみると、歯磨きの仕方や片付けの仕方、食事を用意して片付けるまでの手順、様々なところで違いを発見する。それも相手に敬意を持ちながら見てないと絶対に気づかないだろう。

最初に紹介され記事で見つけたのだが、フランスではひきこもりでもデートする という。これも習慣の差として見てみると実はそんなに不思議でもない。ひきこもるほど社会で傷つき、家族の理解が得られなかったとしても、食事はするし散歩くらいはしたほうがいい。公園でも高くもない店のランチでも、異性と会って話す機会をみんなが作ろうとしてればそりゃ作れる。

先進諸国では子供の養育コストの増加からどこも少子化ではあるのだが、フランスが様々な出産子育てと就労の両立支援で出生率を回復させたのはこうしたデート文化の強さもあるのであろう。

日本も含め、アジアでは結婚するまで子供を産まない傾向が強いという。フランスのような対策は効果が薄いかもしれない。お見合い文化は廃れ、恋愛もしないというのでは、そもそも子供を生む前提を2枚も3枚も壊してしまってる状況だ。

日本の知識階層は新渡戸稲造の昔から、欧米の習慣をコピーしてくることを是としてきた。脱亜入欧路線を推し進め、先進諸国を急いでキャッチアップしなくてはならない後進国としてはそれもしかたなかったのであろう。だが日本も先進国入りし、独自の問題を発生させてるさなかに、欧米をコピーしてくる対策が果たして有効だろうか。そのコピーは、日本の状況を正しく認識できているだろうか。

日本では男女の賃金格差が高いと言われるが、実際のところ結婚すると男性の収入を使うのは配偶者である女性の役割になる。ファイナンシャルプランナーなどの話を聞けば、手取り月給の1割程度が適正な男性の小遣いだそうだ。残りの9割は家のことに使われ、たいていその権限は専業主婦である女性に持たされる。昭和の頃は自分の妻を「大蔵省」と呼ぶサラリーマンたちも数多くいた。こうした習慣は欧米にはあまり見られないものだ。そして権力とはお金の権限を持つものこそが強い。世界一、男より女が幸せな日本 などと言われるのもそうした習慣が要因であろう。

同時に、男性の不幸度が妙に高いのもやはり日本である。これはいわゆるセクハラ・パワハラ、そして長時間労働が労働環境に蔓延してるせいであろう。日本は「働かない」というだけで幸福になれるくらい、働くことこそが不幸の要因となっているのである。女性の社会進出により、そうした労働環境の問題がようやく注目されてきたとも言える。アファーマティブ・アクションの効果ここに見たりという気分だ。

昨今ようやく「男のつらさ」が注目されるようになってきたのはとてもいいことだ。それは労働問題に楔を打つことになるであろうし、労働組合が雇用維持にだけこだわるのも意味がないことに人々は徐々に気づいてきてる。

男性が男性であるがゆえにまず逃れることのできない「労働」という問題。そこが幸福なものになれば、子供を持つような余裕も生まれてくるだろう。人を愛する余裕も生まれてくるだろう。そうした余裕が生まれたとき、本当に異性を、人間を愛するかどうかなんて、わからないけれども。

あるいはそもそも「労働」というものから解放される可能性もある。優秀でなければ仕事が無い時代の幕開け はもうずっと前から始まっている。儲かっている企業ほどその自由を行使し、優秀でない人間を排除しているからだ。彼らからたくさんの税金を取り再分配をすれば、充実した生活保護ベーシックインカム負の所得税で、働かずとも生きていける社会になるかもしれない。少なくとも金持ちからもっと税金を取れというのは、欧米では先進的な金持ちの意見としてスタンダードになりつつあるようだ。

www.afpbb.com

むしろ目指すべきは、そういう働かない社会なのかもしれないね。

金持ち課税

金持ち課税

敗北するオスと余るメス、そして野生に抗えぬサピエンス

ようやく昨今「男の生きづらさ」が話題になるようになってきた。

note.mu

上記記事はデータを元に男性の生きづらさを明確に語る試みである。そのデータの読み方に批判はあれど、大筋では同意できる話だ。

男性という性は、基本的には勝利者と敗北者とで構成される。人間に近い生態を持つゴリラなどは、おおむね半数のオスたちが1〜3頭程度のメスからなるハーレムを形成し、半数程度のオスたちは男社会を築き上げるそうだ。四足の哺乳類などでも、やはりハーレムを形成しメスを巡って争い、勝利者のみが子孫を残せるような行動を取る動物は少なくない。

ホミニンと呼ばれる動物も、やはりハーレムを形成する。ホミニンは昔はいくつかの種がいたが、みな絶滅していまは一種しか残っていない。ホミニンの社会は表向きは一夫一婦制を取ることが多いが、その実いわゆるアルファオスたちは愛人を作り、正妻に隠して、あるいは公認を得て、事実上のハーレムを構築している個体は少なくない。

孔雀が羽を広げて性的魅力をアピールするように、ホミニンのオスたちも性的魅力をアピールすることには余念がない。この動物における最大の性的魅力は、その社会で流通する紙や金属でできた貨幣である。貨幣を多く持つことをアピールするために、ホミニンのオスたちはメスに食物や貴金属を贈与することが多い。ただの食物や貴金属では価値が限られるので、それらを洗練させる行為にもたいへん労力が割かれ、それらは個々の群れにおけるカルチャーとして発展している。食物や貴金属はたいへん美しく形作られ、付加価値を増し、それらをメスに贈与することによってホミニンのオスたちは持ってる貨幣の量の多さをメスたちにアピールするのである。

また、より多くの貨幣を持つオスの寵愛を受けるべく、メスたちの性的アピールも激しい競争が行われている。粉末やゲル状の物質を顔などに塗って血色をよく見せたり、カラフルな糸状のものを編み合わせた布と呼ばれるものに代表されるような装飾品を身につけるなどして、その性的魅力をアピールする。オスから贈与される食物や貴金属は、こうした性的魅力の構築に役立てられる。食物を得ることで脂肪の多い魅力的な肉体を作ったり、貴金属で飾り付けることによってより魅力的に見せたりする。

おもしろいことに、ホミニンはそうして作られた性的魅力を利用し、直接貨幣を贈与させる行為がしばしば見られる。大きく発展した群れではよく見られる行動で、オスよりメスのほうがこうした行動に出る事が多い。生殖を伴うこともあるが、不思議なことに生殖を伴わないことのほうがずっと多く見られる。ミツバチの求愛ダンスのような動作と独特の鳴き声を伴ったパフォーマンスを行い、異性から貨幣を贈与させることもある。ここには同性愛も少なからず見られ、動物の奥深さを知ることができる。また多くの個体の興味を引きすぎてしまい、怪我を負うこともある。

こうしたホミニンの性行動は、過当競争に陥りがちだ。力をつけて大きく発展した群れほど、そうした競争のあまりの激しさに疲弊し、子供が産まれづらくなる。より多くの貨幣を得るためにオスたちは生まれたての頃から、あるいは生まれる前からより多くの貨幣を持てるように親たちの指導を受ける。ホミニンはゴリラよりは乱婚だが、チンパンジーほど乱婚ではない。オスたちはメスを獲得できるほどの貨幣を得ることができなければ、子孫を残せないのである。もちろんゴリラよりは乱婚なので、チンパンジーにも見られるようにハーレムに忍び込んでメスに取り入り、子孫を残すオスもいる。だがそれは例外的だ。

メスにおける過当競争はたいへん目に付きやすい。競争をやめて自分で餌をとる個体も少なからず観測することができる。メスはメス同士で社会を構成し、チンパンジーにおける毛づくろいのような行動を取る。色のついた水や糖質の多い食物を分け合い、鳴き声を発し合うことで毛づくろいのような効果をもたらすようだ。

一方、オスの過当競争は目に付きにくい。競争に敗北したオスたちは巣にこもってしまったり、群れから離れて行動することが多いからだ。まったく群れと行動をともにしないわけではないのだが、敗北したオスたちは群れとの関わりを避けることが多い。諦めの悪い敗北オスが群れのハーレムやアルファオスたちに近付こうとすると、アルファオスやメスたちは苛烈な示威行動を取って敗北オスを群れから追い出そうとする。メス同様にオスたちも布や貴金属で身を飾り、その所持する貨幣の多さをアピールする。敗北オスたちはあまり貨幣がないので、そうした布や貴金属を入手することが難しく、一瞥して敗北オスであることがわかりやすいのである。

このように、ホミニンの敗北オスは群れだけを見ていると非常に少数に見える。群れにいるオスたちはメスたちを支配、あるいは食物や貴金属を贈与し、自分のハーレムに取り入れることに熱心だ。巣ごもりしたり群れから離れた敗北オスたちの行動についてはいまいちよくわかっていないが、メスの形状をしたものを作成する個体もいるようだ。こうしたものはメスたちに見つかると激しい暴力にさらされる。群れにいるオスたちもそうした攻撃行動に参加し、群れから追い出そうとする。

大きく発展した群れになると、こうした敗北オスたちの数はぐっと増える。貨幣をより多く得るための工夫が発達し、一部のアルファオスとその子孫たちが貨幣を専有し始めるからである。そうなると群れに残るオスたちもメスを抱えきれなくなる。ホミニンの生殖能力はそこまで高くないので、メスが余り始めるのである。

メスたちもごく一部のアルファオスにしか興味を示さないわけではない。貨幣をある程度持っていることがわかれば生殖に応じることも少なくない。みずから貨幣を所持し、オスに贈与する個体もいるがやはり例外的だし、やはり基本的にメスたちは敗北オスとともに群れを離れるような行動を取ることはめったにない。敗北する前につがいになった場合でも、オスの敗北が決定的になるとメスは敗北オスを群れから追い出す行動がよく見られる。

こうして大きく発展した群れは急速に子供を作らなくなる。競争はより過当になり、敗北オスも余りメスも増えていく。そう、ホミニンにおけるオスは敗北し、メスは余るのである。

こうして多くの敗北オスと余りメスを生み出した群れがどうなるかはまだわかっていない。他の群れから多くの個体を迎え入れてる群れもあれば、そうしない群れもある。いずれ群れの統廃合が起きたり、他のホミニンたちのように絶滅したりするのかもしれないが、それはまだ誰にもわからない未来のこととである。

さて、ホミニンの例にも見られるように、男性というのは勝利者と敗北者しかいない。敗北者は群れから疎外され、勝利者は群れを支配する。傲慢な人間は自分が動物であることを忘れるものだが、しょせん人間も動物であり、その野生はそんな人間の中にも内在しているものなのである。

こうした内なる野生と戦い、敗北者や余り者にも優しい社会を作ることは容易ではない。かつて「キモくて金のないおっさん」という概念が出現した時に見受けられた社会からの攻撃的な言動の数々を思い出してみたらいい。あれはそもそもそうした欺瞞を暴き出すための概念であり、それは大成功したといえる。自分の野生と戦うことすらできない人々が「キモくて金のないおっさん」を激しく攻撃することで、その欺瞞は見事に暴き出された。

解決する方法は2つある。ひとつは敗北者や余り者の不幸に寄り添い、彼らの幸福に寄与することだ。ゆっくりと滅びていくだろうが、非人道的なことはしなくて済む。

もうひとつは、敗北者の数を減らすことだ。一夫一婦制規範の高い社会では、経済活動が活発化し、より多くのマネーがより多くの人々の手に渡ることによって敗北者を減らすことができる。そのためには富裕層課税をして再分配をする必要がある。

金持ち課税

金持ち課税

この2つの解決は衝突するものではない。どちらも同時にできるはずだ。

萌え絵が新しいオリエンタリズムにならない理由

炎上した「キズナアイ」問題…日本文化が描いてきた女性像から考えるという記事。炎上したのはキズナアイではなくて千田教授なのだが、その千田教授の論に比べてはるかにまともな批判なのでちょっと書いておこうかと。

まず簡単な部分を否定しておかねばならないのだが、

一般市民には“わかりにくい”“高度な科学的研究”を、“わかりやすく”“親しみやすい”キャラクターを利用して説明しようとする送り手側のコンセプトは理解できる。

ただし、説明をうけるキャラクターとしての「キズナアイ」と、解説する男性科学者の組合せは、“教える男性/教わる女子”という、メディアにおける男女の役割分担、特に教養的な番組の典型的なパターンに陥っている。

炎上した「キズナアイ」問題…日本文化が描いてきた女性像から考える

「教養番組の典型的なパターン」、本当にそうだろうか? 残念ながらテレビというメディアは検索性が皆無で検証は事実上無理なのだが、似たような「マンガでわかる」系の教養本における男女の役割分担についての調査がある。

見て分かる通り、2006年ごろまでは圧倒的に「男性が先生役、女性が生徒役」という配役が支配的だったが、2008年以降では男女比はほぼ同等か、若干ながら「女性が先生役、男性が生徒役」の方が多いと言える。(まあサンプル数的に誤差範囲ではあるが)

理系学習マンガは誰を先生役にし、誰を生徒役にしてきたか。-NHKキズナアイ騒動をうけて - 銀河孤児亭

こちらの調査によれば、10年ほど前までは確かに古典的な性役割が見られるものの、この10年ではほぼ解消されている。学問という場が社会の速度においついてないのではないか。

こうしたエビデンスに基づかない議論はソーカル事件を起こしたポストモダンを想起させる。モダンの徹底なきポストモダンはない。まずはモダンな合理性から始まらなくてはならない。ポストモダン建築もモダンな技術によって成立するようになったのである。

萌え絵が新しいオリエンタリズムに?

さて本題に入ろう。冒頭の記事には興味深い批判がある。かつてのジャポニズムが残したものについて、佐伯教授はこう語る。

しかし、一方で、アジアの女性を美化するあまりに性的なまなざしの対象とし、脆弱な存在として欧米人よりも低い立場とする発想は、強い欧米と弱いアジアという「オリエンタリズム」の構図を示し、手放しで喜ぶわけにはゆかない。

現実に芸者として働く現代の日本女性たちにとっても、ことさらに「ゲイシャ」が性的なまなざしの対象になるのは不本意であろう。

日本のポピュラー・カルチャーで描かれる、“かわいい”女性像の海外への輸出は、日本の女性といえば、未熟で性的な存在というステレオタイプにつながりかねないという点で、いわば21世紀の「オリエンタリズム」に陥る危険性がある。

炎上した「キズナアイ」問題…日本文化が描いてきた女性像から考える

結論から言うとこの不安についてはまったくの杞憂であると俺は考える。その理由を語るためには、キズナアイさんが自らのアバターに採用した萌え絵と呼ばれるスタイルと、その源流である漫画絵、特に少女漫画の絵についておさらいする必要がある。

少女漫画の絵はいかにして成立してきたか

萌え絵の歴史については以下ですでに書いたので参照してもらいたい。

萌え絵はポルノではなく、人間への回帰なのである - 狐の王国

上の記事でも引用しているが、少女漫画の絵の成立には少女雑誌に言及しない訳にはいかない。少女漫画はまず少女雑誌に掲載され、その後コミック誌として独立した経緯がある。

雑誌の表紙絵の少女像、その瞳は明治から大正、昭和にかけ徐々に大きくなっています。なぜでしょうか? 明治38年11月号の「少女界」の表紙絵。少女の目は、線や点でシンプルに描かれています。江戸時代以来の美人画の伝統を受け継いだ顔です。 大正5年2月号「新少女大」。正時代、竹久夢二の描く少女像が登場。初めて瞳が開き、瞳の輝きが描かれています。語りかけてきそうな、生き生きとした表情が生まれました。 大正15年2月号「少女画報」。夢二の後、大きな瞳が主流になります。高畠華宵(たかばたけかしょう)の描く少女は、大きな二重まぶた。白めが強調され、あでやかさが特徴です。 昭和14年4月号「少女の友」。瞳は、昭和に入ると極端な大きさになります。中原淳一の絵です。大きな瞳が支持された背景には、当時、自由な発言ができなかった少女たちが目で自分の意思を伝えたい、という自己表現への思いが反映されている、と評論家の上笙一郎氏は語ります。

file148 「少女雑誌」|NHK 鑑賞マニュアル 美の壺

竹久夢二中原淳一、確かにだんだん目が大きく描かれるようになったように感じられるのだが、俺はここに大きな断絶があると感じられる。上笙一郎氏の評論も的はずれであろう。中原淳一が目を大きく描いた背景には、西洋人形が影響している。

中原淳一のデビューが人形であったことは、まだあまり知られていません。十代の淳一少年が作っていたフランス人形を見て驚嘆した知人の推薦で、昭和7年、銀座松屋で創作人形展を開催。フランス人形というネーミングもその時に淳一が考えたものだそうです。その人形の叙情性を見た雑誌『少女の友』の編集者が、竹久夢二のあとを継ぐ専属挿絵画家として淳一を迎えたことが、淳一が仕事として絵を描いた最初であり、その後終生続くことになる雑誌創りの仕事との出会いでもあったのです。

人形 - 中原淳一ホームページ

中原淳一が自ら「フランス人形」と読んだそのスタイルは、幼児型でロココ調のドレスに身を包み、そしてなにより目が大きいものだった。西洋人の子供がモデルなのだから、それは当然であろう。

こうした中原淳一が活動の場にしていた少女雑誌というジャンルに、現代のような漫画を持ち込んだのはおそらく手塚治虫であろう。だが同時期に中原淳一にあこがれて絵を描いた高橋真琴という作家の登場が、おそらく少年漫画と少女漫画の絵を決定的に分岐させた事件であったと思われる。

高橋真琴は現在も現役で、地元の千葉県佐倉市では市のポスターなども描いていらっしゃるようだ。

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千葉県佐倉市で「佐倉“江戸”時代まつり」、11月11日開催 - 観光経済新聞

高橋真琴の絵は、漫画よりも女児向けの文房具や絵本などで馴染み深い人も多いだろう。少女と花という高橋真琴のモチーフは、おそらく女性と花をモチーフとしていたミュシャの影響によるものではないかと思われるが、これについては確証はない。社会学者の先生、高橋先生に直接聞きに行ってくれないですかね。

ともあれこうして少女漫画独特の絵柄というのは成立し、特に70年代や80年代においては西洋人顔が描かれることに対して白人に対する劣等感を指摘されもした。大元がフランス人形なのだからこれは妥当な批判とはいい難いと思うのだが。

国籍フリーの漫画絵

さて上記のように少女漫画絵は西洋人形を大元として出発したのだが、少年漫画はどうか。これはディズニーに明らかに影響された手塚治虫の絵が否定される劇画ブームに触れざるを得ない。手塚治虫が切り開いた映画のようなストーリー漫画の新基軸として、劇画という提案がなされたのは1959年のことである。ディズニーのようなデフォルメされた等身ではなく、もっとリアルな等身で描かれ、シリアスなストーリーを彩った。小池一夫梶原一騎らの作るストーリーや、池上遼一のようなしっかりしたリアルな絵が大いに受け入れられた。特に池上遼一は外見の美しさで劣ると考えられがちだったアジア人の特徴を捉えながらも、それを非常にかっこよく描くことが特徴的である。

サンクチュアリ 7 (My First Big SPECIAL)

こうしてリアルな等身のキャラクターが描かれるようになった漫画だが、劇画ブームは70年代には一度収束する。

労働者階級の若者がメインターゲットの読者であった劇画は、当時盛んであった学生運動の熱狂と同期し、社会的なブームを巻き起こすことになる。貸本劇画誌を前身として1964年に創刊された「ガロ」(青林堂)は全共闘世代の大学生の愛読誌であった。1970年(昭和45年)3月31日によど号ハイジャック事件を起こした赤軍派グループの宣言「われわれは明日のジョーである」は当時の劇画の若者に対する影響力を物語っている。

だが、1972年(昭和47年)のあさま山荘事件などの左翼の過激化で学生運動が退潮したと同時に、革命をテーマに若者らに支持されていた劇画業界も冷え込んでいった。劇画は「重く」「暑苦しい」ものとして若者らから敬遠されるようになり、それまで人気を誇っていた劇画雑誌は1970年代中頃より急激に部数を落としていった。

劇画 - Wikipedia

萌え絵はポルノではなく、人間への回帰なのである」 でも書いたが、劇画ブームのあとの漫画というのは「かわいいヒロイン」が求められるようになる。それは硬派な時代の終わりでもあったのだろう。男たちはホモ・ソーシャルな熱血を好まなくなり、硬派の時代の人々から見れば「女のケツを追っかける」ようになる。そうした作品には劇画タッチの絵より、少女漫画の絵の要素を取り入れていくことが好まれていた。ヒロインの絵がまんま少女漫画タッチであったり、全体的に少女漫画絵の影響を受けていることがわかる作家も少なからずいた。また漫画家たちの画力も向上し、大友克洋鳥山明のような、イラストとしてみても遜色ないような絵で漫画を描く人たちも現れた。

こうしたムーブメントの中で、漫画絵というものはどんどん人種からかけ離れていく。西洋人顔ともアジア人顔ともつかない絵に変形していくのである。これは様々な理由が考えられるし、実際に様々な理由があったのであろうと思われる。

もともと手塚治虫時代の絵というのはディズニーの影響下にあり、そもそもが国籍と言えるものがなかった。カナダで放送された魔法使いサリーを見たフランス系カナダ人が「サリーちゃんはフランス人でしょ、フランス語を喋ってるし」と言われて困惑したという話を聞いたときには笑ってしまったのだが、この頃の漫画絵というのはそもそも国籍がなかった事が分かる話である。

80年代の漫画絵も、こうした基礎の上に成り立っていることがやはり影響しているのであろう。人種的な特徴を廃し、たいていの国の人々は自分の国の人間だと思えるような絵が多く見られた。キャプテン翼聖闘士星矢といった作品が海外でもたいへん受け入れられた背景には、こうした異国感の排除があったのであろう。こうした特徴はアニメでも見られ、スタジオ・ジブリの絵もまたアジア人が見ればアジア人に、西洋人が見れば西洋人に見えるような絵柄である。

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もちろんアニメ超時空シリーズのように海外で大ヒットしながらも、スタートレックなどの影響か人種多様性が見て取れる作品もある。とはいえ主人公一条輝が海外ではリック・ハンターという欧米人になれたのは、人種的特徴を廃した漫画絵だったことが大きいであろう。もちろんそうした海外展開を見据えてるからこそ意図的に人種的特徴を消していったのかもしれない。

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少女漫画と萌え絵

こうして人種的特徴を廃していく動きは少女漫画にも見られた。西洋人顔だった少女漫画絵も、丸みを帯びてアジア人とも西洋人ともつかない顔になっていく。

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またそもそも「美少女戦士セーラームーン」のように、少女漫画では金髪碧眼でも日本で生まれ日本で育った日本人として描かれるなど、人種的特徴と実際の人種は一致してないことも少なからずあった。髪の色もピンクや青など、実在する人種とはかけ離れて描かれることも少なくなかった。

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こうした動きは「人形化」として考えると原点回帰にも思える。人種も含む人間としての特徴が消えていき、人形のように描かれていく。中原淳一が目指したものも、やはり人形だった。

こうした少女漫画テイストの絵は、そのかいわらしさからポルノに転用されていく。アニメ「くりいむレモン」を筆頭に、90年代表現規制問題の端緒となった遊人による「ANGEL」などが代表的だ。

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とくに遊人の絵はおそらく無断使用であろうが、街の性風俗店の広告などに広く利用されていく。バンコクの歓楽街でまで遊人の絵を見たときにはたいへん驚いた。少女漫画テイストの絵をポルノと勘違いしてる人たちが多いのだが、そうした人たちはおそらくロクに漫画も読まずに歓楽街で過ごす時間が長かったのだろうと思われる。性風俗店と少女漫画テイストの絵柄がイコールで結ばれてしまってるのだろう。子供たちには迷惑な話である。

また90年代に大ブームを迎えることになるアダルトゲームでも、やはりこうした少女漫画テイストの絵が使われるようになる。

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またやはり少女漫画テイストの絵で描かれたポルノコミックも多かった。その後児童文学の挿絵を描くことになる okama などが代表的である。

ふしぎの国のアリス (100年後も読まれる名作)

これまであげてきた作品やそれ以外の作品でもそうだが、設定上西洋人であったり東洋人であったりしても、まったく同じように描かれてることにお気づきだろうか。人種は設定上存在しても、文脈で理解するのがスタンダードなのだ。

こうした絵で鍛えられた絵師たちは、ライトノベルやアニメや漫画とどんどん活動の場を広げていった。いわゆる萌え絵と呼ばれるものはこうした少女漫画テイストだが少女漫画以外の媒体で使われてるものを指すようだ。

ライトノベルやアニメや漫画、アダルトゲームなどは、「人形化」された絵に人格とストーリーを宿すようになる。それが萌え絵の本質であると以前にも書いた。

「萌え絵」と呼ばれるスタイルがジャポニズムを超える日 - 狐の王国

人形であるがゆえに人種という属性を持たない。だが人格とストーリーはある。それゆえに愛される。人種などいう細かいことは気にしないのである。これは受け手もそうで、日本のアニメキャラクターに黒人が少ないことを嘆く向きはあるにはあるのだが、気にしない人たちもたくさんいるのである。黒人女性がセーラームーンのコスプレをしても、人種を理由に文句を言う人は見たことがない。宗教上の理由で髪を出せなくても、ヒジャブを髪の毛に見立ててコスプレしてる人たちもいる。いいぞもっとやれ、もっと楽しもう。

そもそも人間ではないのではないかという意見もあった。

どうみても白人とはまったく別の何かで、人間ですら無いというのが現状だ f:id:KoshianX:20181021085447j:plain

海外「なぜ白人はアジア人と同じようなアニメ絵を描けないの?」 【海外の反応】 : 海外の万国反応記@海外の反応

萌え絵はグローバル

以上のように、日本の発信する萌え系と言われる女性表象はそもそもが無国籍なのである。浮世絵のように明らかに東洋人が描かれてるわけではない。日本を感じさせるなんてこともおそらくないだろう。今の時代は韓国人や中国人が萌え系のイラストを描いて日本で出版してる時代である。

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おそらく次第に欧米人にも浸透し、欧米人の萌え系イラストレーターも出てくるであろう。アマチュアレベルではすでに存在してるはずである。

無国籍な表象であるからこそ、髪の色も肌の色も気にしない。同じキャラクターの肌や髪の色が変わったくらいでは揺れの範囲内。西洋人形を由来に持ち、少女漫画が生み出した「萌え絵」はまさしくグローバルなのだ。

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黒人の女の子が主役のパワフルな美少女戦士セーラームーン | パラリウム

この現状でジャポニズムのときのようなオリエンタリズムが発生しうるだろうか。まあ、ないだろうね。

「萌え絵」と呼ばれるスタイルがジャポニズムを超える日

なにやら近年、「萌え絵」をポルノだと認識してるおかしな弁護士だの社会学者だの大学教授だのが跳梁跋扈している。司法試験に受かったり学者になるだけの知力がありながら、たかだかこの40〜50年程度のオタク文化について調べもしないという態度は褒められたものではない。とはいえまとまった書籍があるかというと、特に「萌え」に関してはちょっと思い当たらないので、夜中にツイートしたものを下地にちょっと書き残しておく。

クィアとしてのオタク

そもそもオタクというのはある種のクィアであった。クィアというのはセクシャルマイノリティに代表される、標準的な異性愛規範から外れた人たちのことである。「少年漫画を読む女と少女漫画を読む男」たち、それがオタクであった。彼らは中高生や大学生、あるいは社会人となっても、子供向けの漫画を読み、アニメを見続けていた。それも男性は女児向けの、女性は男児向けの作品に夢中になっていた。当時としてはそうとう異常な趣味だった。

オタクがオタクと呼ばれる端緒となる中森明夫「おたくの研究」ではその序文で、彼自身がおたくと名付けることにしたという人々のことをこう書いている。

コミケット(略してコミケ)って知ってる?いやぁ僕も昨年、二十三才にして初めて行ったんだけど、驚いたねー。これはまぁ、つまりマンガマニアのためのお祭りみたいなもんで、早い話しマンガ同人誌やファンジンの即売会なのね。それで何に驚いたっていうと、とにかく東京中から一万人以上もの少年少女が集まってくるんだけど、その彼らの異様さね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。モロあれなんだよね。髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊っちゃん刈り。イトーヨーカドー西友でママに買ってきて貰った980円1980円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前はやったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らが、どこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!それも普段メチャ暗いぶんだけ、ここぞとばかりに大ハシャギ。アニメキャラの衣装をマネてみる奴、ご存知吾妻まんがのブキミスタイルの奴、ただニタニタと少女にロリコンファンジンを売りつけようとシツコク喰い下がる奴、わけもなく走り廻る奴、もー頭が破裂しそうだったよ。それがだいたいが十代の中高生を中心とする少年少女たちなんだよね。

『おたく』の研究 第1回 | 漫画ブリッコの世界

1983年というこの時期に書かれたこの文書により、当時の「オタク」と呼ばれることになる人々がイメージできるだろう。バブル前夜の高度経済成長期、スーパーマーケットで売られてる服は軒並みダサいと言われ、それなりの値段のする服をそれなりの場所で買い揃え、それなりに着こなしていることは当時の若者の間では実に常識的なことだったようだ。それに反していた彼らはその時点でだいぶ異性愛規範から外れていたのである。そして中森明夫が参加したというコミケ、当時は出展者の8割程度は女性だったはずである。コミケというのは女性オタクたちの祭典であり、オタクというのは主に女性の趣味でもあったのだ。

「萌え」の発見

70〜80年代、こうしたクィアな趣味の中で育まれたオタクたちが「萌え」という感覚を見出すのが90年代である。

これは「燃える」の誤変換から生まれたという説もある。要するに夢中になってしまう何かを見てしまったときの感情表現なのである。

誰もが経験したことはあるのではないか。猫の異様にかわいい仕草をみてしまったとき、犬のつぶらな瞳に見つめられたとき、子供の無邪気な姿を目の当たりにしたとき、壁に頭を打ち付けたくなるような激しい情動を覚えたことはあるのではないか。

そう、それが「萌え」である。

この言葉は男性オタクたちによって生み出されたようだが、すぐに女性オタクたちにも波及していく。今では「萌え」という言い方はだいぶ下火になり、「尊い」「まって」「無理」などの言い方がされることが多いように見受けられる。激しい情動に駆られて身も心もついていけない感覚が伝わってくる。まさに「ほとばしる熱いパトス」なのである。

さてこうした広範囲な「萌え」の感覚だが、オタク文脈にしたがってもう少し狭義の萌えを探っていこう。

女児向けのアニメや漫画を読むときに男性オタクたちが感じる「萌え」とはなにか。たとえば魔法少女アニメにおける変身シーンなどは「萌え」の対象だ。


セーラームーン変身

しかしこれは変身に伴う脱衣としてのエロスへの情動とも言える。


カードキャプターさくら「はにゃーん」まとめ

こちらのカードキャプターさくらNHKアニメということもあり、セクシャルなシーンはない。だがセーラームーンに負けず劣らず、あるいはそれ以上に90年代の男性オタクたちを「萌え」させた作品だ。

先述した犬や猫、小さな子供への情動としての「萌え」と合わせて考えれば、これが「少女的無垢性への憧憬」であることはきっとわかるであろう。

80年代から90年代、こうした少女的無垢性への憧憬としての萌えを感じ取っていた男性オタクたちは、多くが「ロリコン」を自称していた。これは「少女趣味」と言えば分かる人にはわかるであろう。少女的なかわいらしいもの、人形などへの愛着、少女雑誌や少女漫画のヒロインたちに対する憧憬。そうしたものを持つ男たちが、当時の感覚では「自分はロリコンである」と認識せざるを得なかったという、ある種の悲しい事情がそこにはある。

実際の所80年代のロリコンブームにおいて多くの児童ポルノが作られたのだが、その代表的なものはレズビアン活動家にして写真家の清岡純子の手によるものだった。当時の雑誌や書籍はもはや国会図書館においてすら閲覧禁止になっているが、清岡純子は本人やその家族との交流の中でずいぶんと平和的に少女たちのヌード写真を撮影していた、というのを当時の雑誌に寄稿していたようだ。

そういうかわいらしい少女写真だと思って欧米の児童ポルノを見てみると、あまりの違いに衝撃を受ける。欧米のそれは本物の性的虐待の写真であり、犯行現場の写真だからだ。苛烈なまでにその所持の禁止を叫ばれた理由もよくわかる。90年代のインターネットではそうした写真もちょっと探すとすぐ見つかったのである。

そういうものではない、「男の持つ少女趣味」としてのロリコン文化というのが80年代から90年代にかけて存在していたということは指摘しておくべきであろう。だがそれを「ロリコン」と自称していたことに現れているが、まだこの当時は「萌え」と「エロ」の区別が本人たちもついていなかった。

これは違うものだという認識が当事者たちの間で広まったのは、90年代に巻きおこったエロゲブームである。その端緒となる1992年の「同級生」には興味深いエピソードがある。

元々アダルトゲームには『TOKYOナンパストリート』(エニックス:1985年4月)を祖とする「ナンパ」というジャンルが存在しており、町で見かけた女の子を口説いてホテルに連れ込むと、ご褒美画像であるエッチシーンが見られる…というゲームの流れが確立していた。1989年発売のエルフの初期作品『ぴんきぃぽんきぃ』は、その流れを受けたナンパアドベンチャーゲームであるが、蛭田昌人は『同級生原画集』(辰巳出版)の対談記事の中で、「『同級生』の大元は『ぴんきぃぽんきぃ』」、「最初は40日の期間内に50人の女の子を次々とナンパしまくるストーリー性の低いゲームだった」と語っている。

つまり、『同級生』も元々は「ナンパゲーム」(その証として、インストール時に作成されるフォルダ名が、「NANPA」)として開発されていたが、蛭田が竹井の絵を見るうちにヒロインをただナンパしてセックスさせるだけでは勿体無いと思い、ヒロインの数を減らして個々にストーリー性のあるシナリオを付加させた結果、「恋愛ゲーム」になってしまったのである。これは蛭田自身も意図しておらず、ゲーム雑誌のインタビューの中で「購入者から『同級生はナンパゲームじゃなくて恋愛ゲームなんだ』と言われて初めて気が付いた」と語るに至った。

同級生 (ゲーム) - Wikipedia)

イラストレーター竹井正樹の手による美麗なイラストの魅力が、ポルノゲームを恋愛ゲームに変化させたのである。

elf 同級生  原画集

竹井正樹は「同級生」の仕事の前に、OVAロードス島戦記」に参加してたことが知られている。そのキャラクターデザインと総作画監督をつとめていた結城信輝がこんなツイートを残している。

いのまたむつみレダというのはこれである。

Le Avventure Di Leda [Italian Edition]

また出渕裕によるロードス島戦記の原作イラストもまた、ミュシャに強く影響されたものだった。

新装版 ロードス島戦記 灰色の魔女 (角川スニーカー文庫)

いのまたむつみ出渕裕結城信輝を経ておそらくはこうしたアールヌーヴォーのスタイルの影響を竹井正樹らにも与えたであろう。同様にミュシャの影響が色濃く見えるCLAMPの漫画作品らの大ブームもあって、「萌え絵」はアールヌーヴォーの影響を強く受けて成立してることは想像に難くない。

アルフォンス・ミュシャの世界 -2つのおとぎの国への旅-

また絵だけでなく、物語も複雑化していく、

もうひとつ重要なタイトルが「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO(elf・1996年)」である。本格的なSF的題材と複雑な物語を成人向けゲームに持ち込み、なおかつヒットしたことで、「同級生」ともどもその後の家庭用ゲーム機への移植、アニメ化などの道筋をつけ、こうした複雑な物語を受け入れる土壌が成人向けゲーム市場にあること示した。

この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO PC98

その後「To Heart(Leaf・1997年)」や「Kanon(Key・1999年)」といった「葉鍵系」と呼ばれる作品群がヒットを飛ばしていく。これらは当初から家庭用ゲーム機への移植とアニメ化を見込んで作られており、ポルノとしてリリースされていながらポルノシーンを必要としない構成であった。いわゆる「全年齢版」と呼ばれる別版がリリースされ始めるのである。

萌え絵はポルノではなく、人間への回帰なのである - 狐の王国

こうしていわゆるエロゲ、ポルノゲームの市場は恋愛物語を中心に据えるようになり、ポルノシーンはあってもなくてもいいような扱いになっていく。この頃にはあえて全年齢版を買うファンもいた。それはポルノシーンがむしろ物語の邪魔になるという感覚であった。

こうして当事者である男性オタクたちは「萌え」と「エロ」が違うものだということに気づいていく。それは少女的無垢性への憧憬であり、無垢な少女への自己同一化であり、無垢な存在に受容されることそのものであった。

一方多くの女性オタクたちは「萌え」概念の導入において、おそらく「既存のものに名前がついた」という感覚だったのではなかろうか。彼女らが求めていたもの、それもやはりエロではなく「関係性」であった。鉛筆と消しゴムがいたらその2者の関係性を妄想して2時間は過ごせるという女性オタクは少なくない。そこにエロが含まれることも少なからずあるが、それは彼女らにとってスパイスのようなものだろう。スパイスの効きまくった料理が好物でしょうがない人も少なからずいるのではあるが。

萌え絵と物語

こうした関係性や無垢性といったエロではないものへのフェティシズムこそが「萌え」であって、そこには単なる表象ではなく「物語」が求められている。腕のいいイラストレーターや画家が絵柄だけをコピーしても決して「萌え絵」にはならない。そこに物語を乗せることができないからだ。

エロゲがその名に反して「エロ」を置き去りにして「萌え」に走らせたのも、そこには物語があったからだ。ヒロインと出会い、恋をする物語がそこにはあった。もちろんただ恋するのではなく、一人ひとりの背景があり、人格が描かれ、そして物語として成立していく。そこに現れる関係性や無垢性こそ、オタクたちを虜にした「萌え」なのである。

例えば大ヒットしたエロゲ「Kanon」のメインヒロイン月宮あゆだ。

Kanon ~Standard Edition~ 全年齢対象版

少女漫画雑誌「ちゃお」の影響が見える輪郭が崩れそうなほど大きな目、少女漫画の枠を超えて活躍するCLAMPの影響と思しきランドセルの羽。これは当時の流行をよく反映した萌え絵であろう。

記憶喪失の少女月宮あゆと主人公は、彼女の記憶を探して街を歩く。そしてその記憶を思い出すことが2人の別れにつながっていく。その切なさや無垢な笑顔、それらが失われる苦しみ。そうした物語こそがこの作品を名作たらしめ、多くのオタクたちが萌えてきた要因なのである。

その物語を知るものには、上の絵はたいへん切なく映る。ありし日のあゆの姿、2人の思い出を象徴する木に腰掛けるその姿は、今にも消えてしまいそうで、あの日の別れを想起させる。

知らない人にはただの絵にしか見えないそれには、膨大な物語を想起させる情報が織り込まれている。そこにはラノベなりアニメなりエロゲなり、物語を知ってる人でなくては読み取れない情報がある。だからこそただの絵にオタクたちは興奮するのである。

ただの絵に人格と物語を付与することにより、非常にハイコンテキストな表現としてそれは成立する。ラノベの表紙もだから中身を読んでなければ意味を理解できない。「スレイヤーズ」で多くの人に知られる白蛇のナーガも、中身を知らなければただの露出狂である。

スレイヤーズすぺしゃる2 リトル・プリンセス (富士見ファンタジア文庫)

こうしたハイコンテキストな表現を意図的に組み込む仕掛けが使われることもある。たとえば大ヒットアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」におけるオープニングテーマソング「コネクト」である。

蒼樹うめのデザインによるポップで可愛らしいキャラクターとあいまって、ちょっとおしゃれでかわいらしい歌にすら聞こえる。だが本編10話を見たあとに聞くとまったく別の意味に聞こえてくる。この歌がある登場人物の胸の内であることに気付かされるのである。歌に人格と物語が付与される瞬間であった。この仕掛けにはたいへん驚いたし、楽しませてもらった。

ただの絵に人格と物語を付与する、これこそが「萌え絵」と呼ばれるスタイルの本質であるとここでは断言しておきたい。

未来へ

こうしたハイコンテキストな表現の最先端の応用が Vtuber だ。彼らは絵に与えるべき人格と物語を自分自身を用いて表現する。ここでいう人格は本人自身であり、物語とは本人の人生だ。ある種のタレントと呼ばれる仕事に近いものになっていく。

こうしたコンテキストを理解してなければ批判も批評も成立しない。時代は常々動き続けており、ステロタイプと呼ばれた表現すら簡単に目新しいものに変貌する。このハイコンテキストさこそが海外進出の難しさではあるのだが、いずれ理解も広まるかもしれない。

90年代からゼロ年代にかけてのエロゲブームでは、数々のクリエイターたちが育まれた。エロゲを機に奈須きのこ虚淵玄いとうのいぢといったビッグネームを筆頭に、数々のクリエイターらがアニメに進出し、深夜アニメブームに乗って彼らの活躍の場は増えていった。

10年代に入ると彼らの生み出した物語や絵はより多くの人々を魅了していく。児童書や教科書にも採用され、韓国や中国を中心に海外にもファン層が拡大していく。そして「RWBY」や「アズールレーン」を筆頭に海外から「萌え」の返球を大量に受け取ってるのが今という時代なのである。

思えば Vtuber の草分けであるキズナアイにしても、評価は海外から始まった。1年間鳴かず飛ばずだったキズナアイが昨年末に見出いだされ、Vtuber ブームにのってまたたくまに大人気タレントになってしまった。訪日観光大使としてニューヨーク事務所に採用されたのは今年の3月のことである。

バーチャルYouTuber「キズナアイ」、訪日観光大使に - ITmedia NEWS

この速度についていけた人はそう多くあるまい。俺も最近まで雌伏の1年間があったことを知らなかったくらいだ。

萌え絵の魅力は、もはや世界中に広まりつつある。韓国の女性イラストレーターが描いた萌え絵が日本の書籍に採用されたりもしている。中国人女性の起業したマンジュウ社が開発した「アズールレーン」は萌え絵の魅力とゲームとしての良さから中国のみならず日本でもヒットしている。

かつて浮世絵が欧州に渡り、ジャポニズムをもたらしたときも、欧州の作家たちが浮世絵自体を描くなんてことはなかった。現代では中国人も韓国人も欧米人も萌え絵を描くようになった。ジャポニズムよりももっと大きな潮流になる可能性もあるのではないか。

人格と物語というコンテキストに乗せられた絵を一緒に楽しむというスタイルは、まさに漫画が確立してきたものでもある。漫画文化の派生として考えてもおもしろいであろう。

絵はもはや絵だけ見てもわからない時代になっているのである。そこに込められた人格と物語を、さあ楽しもうではないか。そこに国境はない。

夏の定番! 俺のゴーヤチャンプルーはこう作る

うちでなぜか評判のいい俺のゴーヤチャンプルーなのだが、気が向いて調理過程を写真に撮ったのでレシピを書き留めておこうかなと。レシピは十数年前にどこかで読んだか見たかしたものが元で、何度も作ってるうちにこういう形になった。本場沖縄の作り方は知らないのだけれども。

用意するもの

  • ゴーヤ1本
  • 野菜適当(今回は玉ねぎ1個とにんじん半分ほど)
  • 豆腐一丁
  • ポークランチョンミート1缶(340g)を半分
  • 鰹節2袋(5gほど)
  • 鶏卵2個
  • 砂糖大さじ1
  • 酒大さじ2
  • 塩小さじ1
  • 油大さじ1

さあ調理を始めよう

ポークランチョンミートをじっくり焼く

f:id:KoshianX:20180730174532j:plain ポークランチョンミート、いわゆる SPAM 缶だが、おいしいのだけれど塩味が強くて薄味好みの我が家にはちょっと合わない。

ホーメル スパム レギュラーN 340g

ホーメル スパム レギュラーN 340g

なのでまずはじっくり弱火でポークランチョンミートを焼いて、油と一緒に塩を出してもらう。

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こんなふうに表面が固くなるまで焼く。中央が焼けやすく外側は焼けないので、薄く切れてしまったものや内側で早く焼けてしまったものを外側に。

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焼き上がったら皿にあげておく。

ゴーヤの下ごしらえ

ポークランチョンミートを焼くのは時間がかかるので、その間にゴーヤの下ごしらえ。

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上の写真のように縦に割ってからスプーンで中の種を取り出し、5mm 幅くらいに切っていく。

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切ったゴーヤは小さじ1くらいの塩を入れ、よく揉んでおく。

豆腐の下ごしらえ

本場沖縄では凍み豆腐とかいうのを使うらしいが、うちでは普通の木綿豆腐を使っている。 f:id:KoshianX:20180730173154j:plain

豆腐をまるごとキッチンペーパーでくるんで、

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まな板を乗せて水を抜いておく。

野菜の下ごしらえ

野菜は何を入れてもいいのだが、ゴーヤと色の被らないにんじんを使うことが多い。 たまねぎは必ず入れてるのだが、理由はゴーヤは炒めてても見た目が変化しないので火が通ったかわかりにくいので、同じくらいの厚さに切ったたまねぎを目安にするためだ。

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ここではたまたま余ってた紫たまねぎを使ってるが、普通の玉ねぎで構わない。 たまねぎもにんじんも切ったゴーヤと同じくらいの厚さになるように切って、同時に火が通るようにしておく。

豆腐を焼く

ポークランチョンミートがすべて焼き終わったら、たくさん油が出ているはず。これを豆腐に吸ってもらう。 まずはここは強火にしてがつんと豆腐を焼いていく。

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上の写真のように適当に手で薄めにちぎってフライパンに放り込んでいく。焼き上がるまでに少し時間があるので、塩もみしておいたゴーヤをよく絞って他の野菜と一緒にしておこう。

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表面に焦げ目がつくまで焼いていく。こうすると炒めてても形が崩れにくい。ひっくり返すときはフライパンをあおってあらかた返したあと、ひっくり返らなかった豆腐をフライパンの端っこを使ってお箸でひっくり返していく。

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きれいに焼き目がついたら焼き上がったポークランチョンミートと一緒にフライパンの外に出しておく。

炒めて味付け

豆腐が焼き終わったら油がきれいに消えてるはずなので、ここで野菜を焼くために大さじ1くらいの油をしく。うちではオリーブオイルを使うが、普通の植物油でいいはず。豆腐を焼いてる間に絞っておいたゴーヤとその他の野菜を強火でガシガシ炒めていく。

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たまねぎの様子を見ながら、少し透き通り始めるまで炒める。

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たまねぎが透き通り始めたら、皿にあけておいたポークランチョンミートと豆腐をフライパンに戻して、全体を混ぜ合わせながらよく炒める。豆腐が大きすぎたらここで箸で適当に切っておく。たまねぎの様子を見ながら野菜に火を通していく。野菜に火が通ったら味付けに入る。

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ここで砂糖を大さじ1程度を投入。酒大さじ2程度を入れて全体に砂糖を行き渡らせる。

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それから鰹節5g程度を全体にふりかけ、混ぜ合わせる。

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最後に溶き卵2個分を全体に流し入れ、蓋をして火を止めて数分待つ。 卵を入れたあとも混ぜちゃっていい気がするんだけれども、うちではとろりとした卵で全体を固めるほうが好みだと言われるのでそうしている。

完成!

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卵がある程度固まったらお皿にあけて完成! ゴーヤ1本分で作るとたぶん4〜5人分くらいになると思う。ぺろりと食べちゃうけどね! おなかいっぱい! 今回もおいしかった!!

ランチョンミートではなく豚肉で作ることもあるけど、そのときはちょっと塩を足してやるとちょうどいいかもね。冒頭にも書いたが本場沖縄でどうやって作ってるかはよく知らない。

enjoy!

マスメディアの「思想なき反権力」が与党を有利に導いている

なにやらクソみたいな公文書偽造問題が起きて財務省ピンチかと思えばなぜか政権ピンチと語られてるのがよくわからないのだが、そのピンチのはずの現政権、どうも支持者がやたら多いようなのである。

なんとどちらのアンケートでも7割もの積極的支持者がいる。内閣支持率は42%程度のはずなのだが、比較的年齢層の若いネットユーザー中心のアンケートだから出た偏りのように見える。

実際のところここまで支持率が高いのは不思議である。アベノミクスがそこそこ成果を出してるとは言え、構造改革にはろくに手がついてないし政権とは無関係に景気回復期にかぶっただけだと言われたらまあそれもあるんかなという気もする。第一インフレ率など当初の目標をまったく達成できてない。

そこで俺も Twitter を用いて以下のようなアンケートを取ってみた。

びっくりである。他の方のアンケートでは「積極的支持」に票を入れた人が多かったのだが、安倍政権の政策を支持してる人は28%しかおらず、自民党支持者にいたっては4%ぽっちしかいない。ほぼ半数を占めるのは「野党に政権を取らせたくない」であり、「野党支持者たちのの言動が気に入らない」という人も20%もいる。これはどう見ても「消極的支持」のはずだが、「おまえらに政権を取らせたくないし言動が気に入らないから積極的に支持するぜ」ということなのだろうか。

なにより自民党支持者の少なさが驚きだ。あれほどの最大政党ですらこれとは、党単位で支持する人はかなりのマイノリティということであろう。つまるところ若年層に限って言えばほとんどが浮動票ということである。民主党政権時代に迷走してしまってリーマンショックからの回復も遅れ、震災などでてんやわんやだったことを思うと「あの時代に戻りたくない」という意識が強いのかなとも思ったのだが、自民党支持者がここまで少ないことを考えると別の要因にも思える。

リプライでいろんなご意見をいただいたのだが、どうも重要視されてるのは経済政策のようだ。メシが食えなきゃ理想もなにもあったもんじゃないのだからそりゃまあそうだろう。実際のところ野党が安倍政権の経済政策について的確な指摘をしてるところは見た覚えがない。的確な指摘というのは法人税率の引き下げがホントに効果あるのかとか賃金上昇につながってるのかとか、インフレターゲットを達成するためにこういうこともやる必要があるんじゃないかという例示などである。

もし経済政策だけで安倍政権が支持されてるというのなら、それは「安倍には期待できないが野党にはもっと期待できない」という思いが蔓延してるということになる。そうでなければ5年たっても目標達成できてない政権が支持される理由がわからない。

さて野党がここまで信頼を失っているのはなぜだろうか。それはおそらく「思想なき反権力」のせいではないかと思われる。

思想なき反権力に毒されたメディアと、流される我々

「思想なき反権力」は野党というよりは、マスメディアに蔓延している。最近わかりやすい事例があったので紹介しよう。

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放送法第4条について、2年前は「報道の自由に脅威」と見出しに書いた毎日新聞だが、現政権が撤廃の方針を固めたとたんに「番組の質低下の恐れ」と書きたてる。おまえはどっちのスタンスなんだよとツッコまれてもしょうがないだろう。こういうのが「思想なき反権力」である。ちなみに放送法第4条は「政治的中立性を保つ」ことをテレビ局に求める法律であり、違反によって電波停止措置もあり得るのかというのが話題であった。

もっとも苛烈な「思想なき反権力」報道は、やはり福島原発事故であった。福島に生きる人々の人権を無視した朝日新聞の報道などは今も多くの批判があるが、マスメディアではほとんど無視されている。まっとうに福島の現状を報道してるメディアはシノドスくらいのものだろうか。

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他にも薬害エイズ問題とでも混同したのか、HPVワクチンデマを反権力的な姿勢で大きく報道してきたマスメディアは、結果的にHPVワクチン接種を停止させ、日本から10万個の子宮を失わせる結果となった。これで少子化を嘆くのは笑えない笑い話である。

こうした「思想なき反権力」に毒されたメディアが報じる内容、膨大な国会でのやりとりの切り取り方、注視するポイントなどが、ますます野党を「思想なき反権力」のイメージに染め上げる。

野党もこうした「思想なき反権力」に不満を持たれてることは気づいているようで、立憲民主党代表枝野幸男が以下のようにツイートしていた。

残念ながらこうした反論は「思想なき反権力」の印象をますます強める。アピールすべきは賛成したか反対したかではなく、「どのような問題点を指摘し、どのような修正を要求したか」である。そこにこそ思想は現れるものであるし、こうしたものをなしに「反対した」「賛成した」ことばかり切り出されて報道されたら「思想なき反権力」のイメージはますます強くなるばかりである。

実際のところ超党派で策定に動いてる親子断絶防止法案など、DV加害者が子供に再会する危険などが取り沙汰され、修正されるなどしてるはずなのであるが、まったくそこらへんが報道されてるように見えない。単純な対立を描いたほうがテレビ映えすると考えられてるのかもしれない。

もちろん野党にも「思想なき反権力」がないわけではない。築地市場移転騒動のときのなにかに影響するとは思えないごく微量な有害物質を巡っての悪ノリとしか言いようがない姿勢は、野党としてはもっとも信頼感の高かった共産党さえ狂わせた。

「思想なき反権力」に絡め取られると安易にデマにも流される。これは俺もだまされてたので反省なのだが、ザハ氏デザインの国立競技場に至ってはその建築可能性を巡ってデマが蔓延し、デマの発信元をコメンテーターとして採用するテレビ番組まで現れた。オリンピックロゴのパクリ問題も明らかなデマであったが、やはり多くの人々がだまされていた。安易に騙されるのはHPVワクチンデマだけではないのである。我々は関東大震災の井戸に毒を投げ入れる朝鮮人デマを笑える立場にない。

未来のために

この経済政策が民主主義を救う──安倍政権に勝てる対案 を記した経済学者松尾匡は以下の記事でこのように書いている。

今、若者ほど自民党支持が高いことがしばしば報道されていますが、これを「若者が保守化している現れ」とみなしてはなりません。ナショナリズムもヘイトも、たとえあったとしても「後付け」です。極右「日本のこころ」の政治家を迎え、一生懸命左派・リベラル派を排除した「希望の党」が、若者の支持を集めることができず、若年層支持率で大きく自民党に水をあけられていることからも、彼らの自民党支持の本質が右派イデオロギーにはないことがわかります。

ただ望んでいるのは、雇用不安のないこと、まともな暮らしのできる賃金、少しでも人間的な労働条件です。この気持ちに現状でアピールできているのが安倍自民党だけであるという事実を直視し、それを圧倒的に乗り越えるアピールをしてください。

左派・リベラル派候補がアピールすべき要点 / 松尾匡 / 経済学 | SYNODOS -シノドス-

松尾匡氏は経済学者ではあるが左翼でもあり、どこだか忘れたが「どこの政党でもいいので安倍政権を倒したい政党にはいくらでも協力する」と書いていたのを覚えてる。見事なまでの反安倍の人なのである。

先述のアンケートを見ても、自民党支持が高いわけでも若者が右傾化してるわけでもなく、ただただ景気を良くしてくれる政治家とみなされてる人物が安倍晋三その人だというそれだけのことなのだ。そもそも日本に長期低迷をもたらしたのは財務省の方針である緊縮財政であり、それに反旗を翻したのが正反対のリフレ政策を採用した安倍政権なのである。

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財務省の緊縮方針を押さえ込み、経団連と交渉して賃上げに導き、機会があればリフレ派経済学者のクルーグマンからも直接話を聞き、松尾匡浜田宏一のようなリフレ派の経済学者をブレインとして迎えられるような政治家が求められてるのである。それをやってるとはいえ法人税減税とバーターに賃上げを要求した現政権は弱腰と批判されてしかるべきではあるが、他にそんな交渉ができる政治家はどこにいるのか、我々は知らないわけだ。

いわゆる左翼政権というのはどうしても福祉に金を使い込みすぎて財政を傾けがちではある。そういう意味では保守派の政権には有利な状況ではある。しかしそれ以上に「思想なき反権力」が嫌われてることは想像に難くない。

個人的に野党にオススメしたいのは「日本の電子政府化」を公約に掲げることである。ただ電子化するのではない。コンピュータとネットワークを駆使し、圧倒的な効率を叩き出す官公庁に生まれ変わらせるのである。そして霞が関から官公庁を解放し、日本各地の都市に職員を散らばせて東京一極集中の解消に動くのである。そのためにはまず党員全員にITパスポート合格を要件としてつきつけることだ。方針を定めるにしてもコンピュータとネットワークにそれなりに精通してなければ方針も定められない。コンピュータがわからない人にはコンピュータで何ができるかもわからないものである。

それが実現できれば日本の官公庁や役所はたいへん効率化され、民間の足を引っ張ることもなくなり、また民間企業の効率化のお手本にもなるであろう。

日本が誇る世界的企業任天堂は、自社のゲーム機の性能をどのように活かしたら良いか、見事なまでの「お手本」となるゲームを作ってゲーム機を売る。それを見たサードパーティが参考にし、よりおもしろいゲームを作ろうと切磋琢磨する。そうして任天堂トップランナーであり続けてきた。よいお手本を見せるというのは日本の文化にもマッチしてるはずである。

しかしそれもなにもすべては経済政策のまともさの上であり、思想を明確に打ち出して議論に望み、「なんでも反対」してるわけではなく「こういう修正が入るならよい」「こういう問題が発生するから反対」をきちんとマスメディアに頼らず国民に伝えていくことが肝要である。何のための誰もがメディアを持てる時代か。

政党が対立することは悪いとは思わない。競争あってこその品質向上ではある。なればまっとうに競争し、お互いの政治家としての政党としての品質を高め合えばよい。「あのイケメンはこんなに性格悪いからやめとけと囁くブサメン」になってはいけないのである。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>