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狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

クィア映画としてのジャパニメーション

「アナ雪」エルサに続き、今度は「キャプテン・アメリカをゲイに」という記事。昨今北米ではセクシャルマイノリティの人権問題が大きくクローズアップされ、男性同性愛者(B)、女性同性愛者(L)、両性愛者(B)、性別の曖昧な人々(T)を中心に「LGBT」とひとくくりにして様々な運動や言論が盛り上がってるようだ。

アナと雪の女王」のエルサが同性愛者であるというのは、それをほのめかす演出がいくつもあるということらしいのだが、どちらかというとそのへんはLGBTへのアンチである保守的な人々による「ディズニーは同性愛を広めて公序良俗を見出そうとしてる」といった類の陰謀論として語られてることが多いようである。

さてそんな状況を北米から遠く離れたこの極東の島から見てると、実に滑稽な運動に見える。アニメや映画の登場人物が同性愛者であることなど珍しくもない話だからだ。

LGBTだのみならず、標準的な異性愛の形をとらない性愛全般を「クィア」と呼ぶそうで、そうしたクィアの登場人物がクローズアップされた映画を「クィア映画」と呼んだりするらしい。

BenshoffとGriffinによれば、「クィア映画とは何か?」という問いを答えるために少なくとも五つの方法がある。たぶんもっとも自明なものは、もし映画がクィアな登場人物を扱っている場合、それはクィア映画と言えるということである。最近のアメリカ映画では、クィアな登場人物がときどき脇役や主役として現れることもあるが、1960年代以前のアメリカ映画ではゲイ、レズビアンバイセクシャルトランスジェンダーといったクィア・キャラクターの存在を認めることはめったになかった。 (中略) しかし、古典期のハリウッドには、登場人物のクィアネスを暗示する演出を行った映画監督たちもいたわけで、そういった監督たちの作品には「内包的なホモセクシュアリティ "connotative homosexuality"」を登場人物の立ち振舞い、衣装、口語パターンに見ることができる。たとえば、男性登場人物は過剰にめめしく、女性登場人物は勇ましく表象された。これらの登場人物は自主検閲の網を逃れ、多くの観客はそれらの登場人物を同性愛者だと理解した。現在の視点から見れば、ほのめかされたホモセクシュアリティと伝統的なジェンダー規範からの逸脱によって、これらの登場人物たちはクィアとして認識することができるだろう。 クィア映画とは何か? Part 1(Queer Images, p. 9~10) - No Rainbows, No Ruby Slippers, But a Pen

このへんは非常におかしな話だ。めめしく描かれた男性登場人物が同性愛者であるなら「機動戦士ガンダム」のアムロ・レイもゲイであることになってしまうし、勇ましく描かれた女性ということならセイラ・マスレズビアンということになる。いやセイラさんは生涯独身だったしそれもあり得なくはなさそうだけれども。ともかく欧米では「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という性規範がとても強いのだろう。それをはずれただけで同性愛者だと理解されるくらいには。

さてクィア映画の定義を理解したところで日本のアニメを振り返ってみると、これがまたクィア映画だらけであることに気付く。

「男らしくない男性」「女らしくない女性」も「同性愛っぽく見えるもの」も出てこないアニメ作品なんてどれくらいあるだろうか。もちろんゼロではないだろうけれども、正直ぱっとは思い浮かばない。

たぶん元記事の人や「エルサにガールフレンドを」運動に賛同しちゃうような多くの一般的な人は知らないのだろうけれども、映画やアニメの登場人物を同性愛者と考えて二次創作する活動というのは世界的に昔から存在している。中には実在のアイドルやバンド、スポーツ選手が同性愛者だと仮定した二次創作なんてのもある。それは1970年代の日本にはすでにあったし、おそらくもっともっと昔から存在してたはずである。日本では「BL(男同士)」「GL(女同士)」などと呼ばれ、英語圏では「slash」と呼ばれてるようだ。なぜ slash なのかは K/Sのページを見てもらえばわかるだろう。

さてこういうBLやGLを描く二次創作文化は、そうした同人誌作家から商業デビューしてくる人々のおかげで徐々にメジャーな世界に広まりを見せる。代表的なのがCLAMPという作家だ。

CLAMPの作品は非常にクィア的で、記憶にあるだけでも「東京BABYLON」は3人の主人公の関係性はクィアとしか言いようがないものであったし、「ちょびっツ」などはパソコンと人間の恋愛を描くものであったりもする。

カードキャプターさくら 全12巻 完結セット  (KCデラックス)

カードキャプターさくら 全12巻 完結セット (KCデラックス)

そうしたCLAMPの代表作の一つが「カードキャプターさくら」だ。主人公の木之本桜は同級生の大道寺知世から偏執的な愛情を受けている(レズビアン)。木之本桜の母親は大道寺知世の母親から同じように愛情を受けていたが別の男性(桜の父親)と結婚してしまった。桜の兄である木之本桃矢は同級生の月城雪兎(男性)と深い関係にある。月城雪兎はまた木之本桜からも、そして桜のライバルである李小狼(男性)からも恋愛感情を抱かれている。重要なのはこの作品がアニメ化された際、日本でもっともお堅い放送局であるはずのNHKで放送されていたことだ。確か CLAMP だったと思うが「誰が誰を好きになってもいいじゃない!」というようなことをどこかで書いてた覚えがある。性愛の形というのをぶち壊す作品を描きつつ言われるとたいへん説得力がある。

カードキャプターさくらの連載が始まる少し前、武内直子による「美少女戦士セーラームーン」という作品が世界的な大ヒットを飛ばしていた。ガールズパワー、戦闘美少女と称されるような今にも流れる日本のアニメの方向を決定づけた作品でもある。女性が戦う作品の出てくる洋画に日本の影響が色濃く出がちなのもおそらく偶然ではないのだろう。セーラームーンの登場人物にみちるとはるかという2人のカップルが出てくる。はるかは原作では男性でもあり女性でもある半陰陽であり、アニメ版では男装したレズビアンである。どちらにとってもクィアであることには変わりない。

もちろんこの2作品は現代でも多くの人が知る代表作でしかない。セーラームーンはリメイクが今も放送中であるし、カードキャプターさくらも再放送中で様々なグッズが販売されている。CLAMP武内直子も、多大な影響をいまもって与え続けてる。

近年のアニメでいうと、現代美術作家でもある柴田英里氏による「クロスアンジュ」と「ヴァルキリードライヴ・マーメイド」のフェミニズム批評がたいへん興味深かった。

mess-y.com

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この2作品は極北であると言ってもいいのだけれども、それでもこうした同性愛描写は決して珍しくないのが日本のアニメである。大ヒットした「TIGER & BUNNY」はもちろん北米市場を見込んで作られたという意味では純然たる日本文化の体現とは言いがたいのだろうが、それでも妻を失った中年男と若き没落白人青年の2人は多くの人びとが「カップル」であると認識していたし、いわゆる「オネエ」キャラも出てくるのだが、そんな雰囲気もない男らしいマッチョ男性の同僚と2人で飲みに行くシーンもあった。主人公の同僚のある人物が恋に落ちる相手はアンドロイドだった。

他にもうっかりすると見過ごしてしまいそうな同性愛描写というのはたくさんある。これまた大ヒットした「魔法少女まどか☆マギカ」の佐倉杏子は、もはや意識のない美樹さやかに「ひとりぼっちは寂しいもんな」と声をかけ共に死ぬことを選ぶ。これをレズビアン描写ではないとは言えないだろう。「鉄血のオルフェンズ」のミカヅキとオルガにみられる深い信頼と関係性を同性愛として読み取ることも無理筋とまでは言えまい。「涼宮ハルヒの憂鬱」でハルヒキョンにやたらつっかかるのは、ハルヒのお気に入りであるみくると仲が良いキョンを遠ざけるためだと思っていた。

要するに現代日本のアニメというのはもっぱら同性愛こそが消費されているのである。それがもはや当たり前になっているし、異性愛が描かれたとしてもそれは「可能性のひとつ」でしかない。そうなってきたのはコミックマーケット(コミケ)を中心とした同人誌文化と、CLAMPはじめそこから商業デビューしてきた作家たちの影響力とでもいうべきなのだろう。

そもそも日本では男色や衆道など同性愛はごく普通のことだった。それを明治期になり当時同性愛が犯罪や病気だった欧米諸国を「先進的」と勘違いした当時の知識人たちが真似て「アジアの野蛮な風習」として禁じてきたに過ぎない。大衆はそんなことはさほど気にせず、いわゆるトランスジェンダーの芸能人なども古くからテレビに出てきたし大御所として認知されてる人たちもいる。

英語のWikipediaにアニメに出てくるLGBTキャラクターのリストがあったりするが、やたら日本のものが多いのはそういうわけなのだろう。もちろんこのリストにあるものは本当にごく一部でしかない。先述の Tiger & Bunny のキャラクターも入ってないしクロスアンジュも入ってない。先駆者にして代表的なボーイズラブ作品である「風と木の詩」すら入ってない。誰か英語の得意な人がいたら入れてあげて欲しい。

風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

要するに何が言いたいかというとようやく日本に追いついてきたなアメリカ!!ということである。

オタクは老いても中毒からは逃れられない

オタクが歳を取らないなんて大嘘だったという記事。年を取り、オタクとして十分にゲームやアニメを楽しめなくなったというお話。

中年ともなればそれなりに仕事も忙しいし家族の用事も増えてくる。おまけに若いころほどの体力や回復力もないので、そりゃあ遊びに費やす時間というのはどうしても減るし、「趣味に取り組む」のも難しくはなる。

だがオタクというのは中毒者なのだ。

漫画も読まずゲームもしない日々を1ヶ月も過ごすと、だんだんとおかしくなってくる。仕事が手につかず、集中力もなくなる。判断ミスも増えてくるし、おかしな行動に出てしまってアレ?となったりする。「疲れてるんだ、休もう」などと言って健康本に書いてあるような軽い運動と休息のつもりで泳ぎにいってプールサイドで昼寝する週末など過ごしたところで、まったく元には戻らない。

そんなとき、がっつりと漫画やアニメやゲームをやり込む。すると不思議な事にすっかり元気を取り戻すのだ。

人生には遊びが必要だ、なんてかっこつけた話に聞こえるかもしれない。いや、単にこれは中毒なのだ。禁断症状でおかしくなってきただけだったのだ。

よく「この程度でオタクとは言えない」というような、オタクとして謙遜のセリフを言う人がいる。確かに昔ほどがっつりとは趣味に力を入れられてるわけではない。新人漫画家のチェックも長いことしてないし、ゲームの設定資料集を読みこんだりもしてない。アニメもせいぜい週に数本、片手で数えられる程度の作品数しか見てはいられない。

だがそれでも漫画とアニメとゲームが俺には必要なのだ。これなしには生きていけない中毒者なのだ。

Fate/Grand Order

Fate/Grand Order

最近は Fate/Grand Order といういわゆるスマホゲームをやっている。濃いオタクからすれば「そんなライトなものを」と思うかもしれないが、ニコチン中毒者が気に入った銘柄でなくても無ければ他のタバコを吸うように、アルコール中毒者が安酒で量を稼ぐように、多少の代用品でもやらずにはいられないのである。様々な用事に忙殺される中、スキマ時間で少しずつ遊べてある程度遊んだらゲーム内のポイントが回復するまで遊べずキリよくやめられるスマホゲームはたいへんありがたいというのもある。奥が深すぎるゲームはハマりすぎて人生を壊してしまう。

こういう人生を壊すほどに趣味に没頭してしまう人間を良くも悪くもオタクというのだろう。

我々は中毒者だ。タガが外れてしまえば、きっと仕事も家族も自分の人生や命すらほっぽり出してアニメやマンガやゲームに夢中になってしまう。

「ゲームをする時間が減った」というのは、それなりに成長して上手にタガをハメておけるようになったということでもあるのだ。自分自身の中毒とのつきあい方がうまくなったということなのだ。

我々は人生を壊すわけにはいかない。愛する家族がいる人もいるだろう。来年の劇場版を見るまで死ねない人もいるだろう。あのゲームの続編が出るのはまだ先だ。大好きな作家の新作の連載だって始まったばかりだ。オタクがオタクであるために? いや違う。オタクという中毒を抱えながらもどうにか生きていくために、我々は上手にタガをハメ続けていかなくてはいけないし、たとえ代用品であろうと自分のオタク成分を摂取し続けなくてはならないのである。

たぶん、ただそれだけのことなのだ。

小学生からでも英語を学ぶべきなのは日本が落ちぶれたから

【特集】小学生から英語は必要か 文科省方針に賛否 - 共同通信 47NEWS という記事。

賛否両論あるようだが、はっきりいって今の小学生に英語は必須になるだろう。やっておくに越したことはない。

従来の英語教育というのは何より英語の文献を読み書きするためのもので、大学に入ってやっと意味を持つようなたぐいのものだった。これからは違う。カトコトでかまわないのでとにかく英語で外国人とコミュニケーションを取ることができることを目指さないといけない。

明治以来150年の日本というのは実にすばらしくて、多くの訳語を作り日本語でたいていの学問を身につけられるだけの本や資料を揃えてしまった。だから外国語が身につかなくてもなんとかなる国でいられた。

ところがそう言ってる場合でも無くなってしまった。21世紀に入り、情報爆発が起こったからだ。

インターネットにおける言語の使用 - Wikipedia

上記 Wikipedia の記事によれば、全ネット人口の3割近くが英語話者だそうだ。当然インターネットに書き込まれる情報も英語が中心となってしまう。他の言語では欠落があるわけだ。

Languages used on the Internet - Wikipedia, the free encyclopedia

実際に同じ項目の英語ページを見てみよう。そこには日本語版にはないインターネットのコンテンツが何の言語で書かれてるか、という情報がある。55.5% が英語だそうだ。日本語は4位だがそれでもたった 5% でしかない。

ついでにいえば日本語版のページは2013年のデータを元に書かれてるが、英語版は最新の2015年のデータにもとづいて書かれている。

日本語と英語ではこれだけ情報量が違ってくるのである。

そして英語はアメリカ人やイギリス人と話すためのツールではなくなっている。俺も英語で意思疎通をしたことのある人というと、英語圏から来た人なんて2〜3人で、大多数は他の国から来た人たちだ。タイ人、シンガポール人、マレーシア人、ベトナム人、ドイツ人、ラオス人、カンボジア人、韓国人、日本人(!)らと英語で意思疎通を(ギリギリなんとか、というところではあるが)やってきた。

俺は英語が非常に苦手でなかなかうまくはならないのだが、まあなんとか海外旅行レベルではあんまり困らないくらいにはなってきたし、動画を見ててもなんとなく言いたいことが把握できるくらにはなってきた。とても普通に「英語話せます」といえたレベルではないのだが、それでも英語の情報を検索したりするのにも非常に便利に使える。

また機械翻訳に頼るにしても日本語に翻訳してしまうより英語に翻訳したほうがわかりやすいことも少なくない。日本語というのはマイナーな言語なのでそこまでなんでも訳せるわけではないのである。

こうした「英語の世紀」の話は以前紹介した「日本語が亡びるとき」という本でも追体験できる。

koshian.hateblo.jp

どうやら昨年文庫版がでていたようなのでこの機会にでもぜひ。

まあそれだけなら小学生から学ばせる必要もない。中学英語をみっちりやればいいだけのことだ。

問題は英語と日本語が言語として非常に乖離しているということなのである。

これが韓国語やミャンマー語なら日本語と文法規則が似てるので、まだ覚えやすい。ヨーロッパ人が英語を学ぶ程度には簡単なはずだ。だが日本人が英語を学ぶとなるとぜんぜん違う言語を学ぶことになる。

おまけに日本語というのは世界でも音素数の少ない言語のひとつだ。中国語のように声調で意味が変わるもの(箸と橋など)もあるが、地方の訛りもあるのでさほど意識されない。韓国やベトナムが漢字を廃止できたのはおそらく発音が日本語とは比べ物にならないほど多様だからだ。同音異義語の数が日本より圧倒的に少ないのである。日本人同士で会話していても「それどんな字を書くの?」と聞いてしまうことがあるくらい、日本語は音素数が少ない。

つまりは外国語を学ぶとき、日本人は「日本語にない音」を聞き分けなくてはならないのである。

そんなものは子供のうちにやらないと身につくわけがない。子供の頃に音楽を学んだ人は外国語を覚えやすいというのだが、これも音楽を通して「日本語にない音」を聞き分ける訓練ができているからだろう。なので小学生の英語の教科はこういう「日本語にない音」を聞いたり発したりすることに費やして欲しいと思う。

そしてもう一つの理由はもちろん「日本が落ちぶれてしまったから」である。

日本は円高で物価も高くそうそう外国人が気軽に旅行に来れるような国ではなかった。反面、日本人が外国に行くといろんなモノやサービスが安く買えた。

俺がバンコクでよく食べた日本食レストランの定食は、2009年160バーツだった。当時は確か1バーツ2.7円くらいだったので、400円ちょっとくらいで食べられた。いまはタイも物価が上がり、180バーツになった。そして円安になったので1バーツ3.6円くらい。600円を超えてしまう。だったら日本で食べるのとさほど変わらない。

ちょっといいレストランで食事をしても2000バーツくらいだった。当時のレートなら5000円程度だったのだが、今のレートでは7000円以上である。

逆に日本のものがなんでも安くなってきた。500円以下で食べられるものも増えたし、運動するときに着てるシャツなどしまむらで180円だった。ここ5〜6年の変化はすさまじい。

当然円安で物価も下がってるのだから日本は「お得な旅行先」になった。2009年当時は700万人程度だった訪日外国人が2000万人にまで増えた。日本が「安くて手頃な旅行先」になったからである。

f:id:KoshianX:20160224062822p:plain http://www.mlit.go.jp/kankocho/siryou/toukei/in_out.html

そして日本は内需型国家なのに、その内需を支える人口は減る一方だ。2015年にはようやく少し上向いたが、一時的な現象だろう。今後「日本人」は減り続ける。内需も減り続けるのである。

となれば外国人に買ってもらうしかない。輸出依存度を高めたり、訪日外国人相手に商売をしなければならないのである。

タイはご存知のように観光立国なので、バンコク都内の中心地は割と英語が普通に通じる。スターバックスの店員で英語が話せない人は見たことがないし、たまに日本語も混じったりする。そう、2か国語話せるのは当たり前で、3ヶ国語以上話すのも割と普通なのである。

俺が日本国外で出会ってきたエンジニアたちも、2か国語しか話せない人というのはあまりいなかった。たいていは母国語+英語+αの3ヶ国語は話せるもので、すごい人になると7ヶ国語くらい話せる人もいた。

俺も一応日本語英語タイ語と3ヶ国語を学んではいるのだが、まあ実用性あるレベルまでもっていくのはやはり難しい。「ありがとう」を意味する言葉だけは現地語を覚えようと、ベトナム語の「カモーン(感恩)」とクメール語の「オークン・チュラン」だけは覚えたりもした。

そう、これからの日本人は英語なんてとっとと学んでしまって「3つ目の言語」を手に入れなくてはならないのである。未来の話ではない。これは「いま現在」の話なのだ。

言語というのは筋肉みたいなところがあって、使い慣れないとなかなかぱっと出てこない。俺はやはり外国語が苦手なせいもあり、レストランで "Can I have a menu?" の一言がぱっと出てくるまで1年くらいかかった。カフェで店員だと思われたのか "Do you work here?" と聞かれた時は walk に聞こえて「いや俺座ってるんだけどなあ」と不思議におもったりもした。


Learning English pronunciation - Work & Walk - Can you tell the difference? 英会話

英語なんてまだ音素数は多い方ではない。タイ語や中国語やベトナム語のほうが音素数は多いのだ。

こういうのはやっぱりしっかりと聞き慣れたり自分で発音してみたりしないと身につかない。それも早いうちのほうが耳は鍛えられる。

そういうわけで早期英語教育には大賛成である。とっととやって「3つ目の言語」を手に入れよう。

「鉄血のオルフェンズ」と「優しい家父長制」

昨今「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」というアニメがお気に入りである。もちろんガンダムは大好きな作品ではあるのだが、今作は今までのガンダムで描かれてきたどの世界とも関係がないし、共通点もほとんどない。一つのSFアニメとしてたいへん楽しませていただいている。

初代ガンダムの主人公はいわゆる内気で気弱な機械オタクの少年だった。今作の主人公ミカヅキは奴隷の少年兵である。感情が薄く、いつもポケットに入れたデーツを食み、砂漠のような厳しい環境の火星で多数の同じ境遇の少年たちと「宇宙ねずみ」として暮らしている。体には禁止されてるはずの「阿頼耶識システム」と呼ばれる脳と兵器をつなぐデバイスが埋め込まれ、人間離れした反応速度を得ている。そしてなにより、地球人たちに明らかな差別を受けている。

貧困地区の孤児として生きてきたミカヅキと、当時からミカヅキに常に策を与えて一緒に暮らしてきた親友オルガが、奴隷の少年兵として働かされてるところから物語は始まる。彼らはある事件から自分たちを奴隷兵としてこきつかってきた相手を出し抜き、組織をそのまま乗っ取って「鉄華団」を結成する。

オルフェンズの涙

オルフェンズの涙

本作で中心的に描かれるのは「差別」と「家父長制」である。

阿頼耶識システムを埋め込まれた彼ら「宇宙ねずみ」も不当な差別を受けるが、さらにひどいのは「ヒューマンデブリ」と呼ばれる人身売買されてきた孤児たちだ。

tonarino-kawauso.com

上記サイトに明確に解説されてるが、宇宙ねずみは一応組織と雇用関係にある。対してヒューマンデブリは人身売買されてきただけの「所有物」だ。

差別の構造はこれだけではない。彼らの住まう「火星」は地球から不平等な貿易関係を結ばされている。そして火星の独立運動を指導する若き革命の乙女クーデリアを交渉のため地球まで連れて行くことが鉄華団の初仕事になる。

しかし奴隷兵のような少年たちだけで火星から地球への航行が成立するものではない。鉄華団はマフィア企業の傘下になり、地球へ進む後ろ盾を得る。

その文化は古典的な日本のヤクザそのものだ。袴姿で杯を交わすシーンなどガンダム史上初ではないか。

古典的ヤクザであるがゆえに、古典的な家父長制がそこにある。鉄華団団長オルガと義兄弟の盃を交わした名瀬は、幾人もの愛人を周囲に置き、彼女らに役割と居場所を与える「家長」である。家長であるがゆえの責任を背負い、面倒を見る。

同じく「鉄華団」という「家族」の「家長」であるオルガはその姿に何を思ったか。

家父長主義というのはパターナリズムとも言われ、強い立場の者が弱い立場の者の意思決定を代行することを言う。序盤からミカヅキの印象的なセリフがある。

「オルガ、次はどうしたらいい?」

意思決定をぶん投げるミカヅキとそれを受け止めて判断を下すオルガの姿は、まごうことなき美しき家父長制である。

「家長」として成長するべく背伸びをするオルガの姿と、対象的に描かれるのは主人公ミカヅキだ。

家長である名瀬やオルガは、家族を守るために家族を自分の判断に従わせる。だがミカヅキはクーデリアにこう言い放つ。

「あんたが決めることだよ(中略)だからこれは、クーデリアが自分で決めなくちゃいけないんだ」

古典的家父長制が描かれたかと思えば、古典的家父長制では真っ先に無視されるはずの女性の自己決定権を投げつける。

思えば名瀬の愛人たちにしても、自己決定権が無視されてるようには見えない。鬱屈した人物は一人もおらず、人生を楽しんでるようにすら見える。名瀬の第一夫人であり組織の戦闘におけるリーダーでもあり、自身もパイロットであるアミダは言う。

男の度量ってのはね、愛の量で決まるんだよ。男の中にはね、持ってる愛がやたら多い奴がいる。その愛はたとえ多くの女に分配されても、普通の男の愛なんかよりずっとでかくて、心も体も芯の芯から満足できるのさ。

まずいメシを独占するより、うまいメシをわけあったほうがいい。それがアミダの哲学だ。

そう考えると、家父長制とはいえ彼女らの自己決定権は奪われてはいない。そう、彼女らは自分の意志で自己決定権を預けているのである。「優しい家父長制」とでも呼ぶべきものがそこにある。

おそらくこれは時代の要請でもあるのだろう。パターナリズム批判が長らく続き、多くの判断が個々人に任されるようになり、我々現代人は「判断に疲れている」のだ。かのスティーブ・ジョブズが判断を減らすために同じ服をずっと着続けていたという話があるが、そうまでして「判断の数」を減らさないといけないところまで我々は追い込まれてる。

時代は判断を預けるに足る「強い男」を求めているのだ。

ミカヅキにしても自己決定権をオルガにあずけているのは「その方がおもしろそうだから」である。この作品で描かれる家父長制はみな自己決定権を自分の意志で預ける「優しい家父長制」だ。

初代ガンダムで主人公アムロが艦長であるブライトに殴られたり独房に入れられたりしたのとは大違いである。アムロは仕方がなくガンダムに乗り戦ったのであり、自分自身の意志などではなかった。

機動戦士ガンダム I [DVD]

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少し気になるのは、「鉄華団」という家族の「家長」になったオルガがアミダのいう「愛の量がたくさんある男」になるのかと思いきや、むしろ複数の女性を抱きしめることになるのはミカヅキの方であることだ。

小さい体に似つかわしくない大きな手を持つミカヅキは、「家長」になるのかはたまた別の道を選ぶのか。本作の描く「優しい家父長制」をミカヅキも踏襲するのだろうか。

最終回まであと1ヶ月、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」「心が叫びたがってるんだ」の長井龍雪監督が、この「ガンダム」をどう締めてくれるのか、非常に楽しみである。

絶望の国で若者は老害に殺されるとSMAPとホリエモンが証明した

くだらないゴシップだと思ってたら妙なことになったSMAP事案なのだが、こういう比較的若くて新しいことをやろうとする人たちが高度経済成長期に大儲けした老人たちに潰されるという場面をまた見ることになるのか、という感慨があったので少し吐き出しておく。

飯島マネ今月退職決定!でも恩知らずはメリー副社長のほうだ!SMAPだけでなくジャニーズが今あるのも飯島のおかげ という記事に詳しいのだが、80年代までで一度は滅びたアイドル文化を、バラエティ番組に適合する形で再構築して定着させた SMAP の功績は決して小さくはない。バラエティ適合アイドルの鏑矢になったのは萩本欽一プロデュースの CHA-CHA だったが、その候補者としても後の SMAP メンバーらをふくむ数人のジャニーズメンバーたちが送り込まれていた。

こうして男性アイドルの伝統が21世紀になっても続き、女性アイドルの文化はモーニング娘。による復活を待たねばならなかった。この差はとても大きいだろう。

人気アイドルのSMAP、ジャニーズ事務所に刃向かったらどうなるかを公共の電波を使って解説 : 市況かぶ全力2階建

それをこうして上の世代が潰しにかかるという構図は、以前にも見たことがある。

d.hatena.ne.jp

そう、ライブドア事件だ。

同時期の粉飾決算事件と比べても、極々小規模の違法性*1に過大な罰が与えられたあの事件は、たいへん衝撃的なものだった。

高度経済成長期までに利益を確定し安定の地位を得た世代は、その後の若者がどれだけ頑張ろうとも潰すのであるというメッセージを広く日本社会に伝えた事件であった。

実際、当時のライブドアはよく買収をしており、学生や他企業の作ったウェブサイトを高額で買い取るなど、当時のウェブ関係者にはそれで大きな利益を得たものもいたりするわけである。その買い取り手がなくなって出口がなくなってしまったというのは、その後アメリカのウェブサイト価格の高騰を尻目に日本のサイトがさしたる値段がつかなかったことを考えても非常に大きな損失をもたらしたと言ってもいいだろう。

アメリカのブログサービス Tumblr が11億ドルで Yahoo! に買収されたことは記憶に新しいが、これがいま台湾企業がシャープの買収に提示してる金額(3000億円程度と報道されている)の半分近いということを考えると、いかにアメリカでウェブサイトの価値が高いかはわかるのではないだろうか。

何も製造業がうまくいかなくなってきてるのは日本だけではない。アメリカだって製造業のGDP比率は下がっている。金融やITが伸びてきたから今でも成長し続けてるだけだ。

景気が良いというのはお金が太く流れ続けるということだ。若い世代が自動車や家を買わなくなるのも当然だ。新しい産業が伸びなければ新しい世代にお金が流れていくわけなんてない。子供だって作らなくなり、日本民族は滅びる。

その元凶を作ったのはこうして新しい世代を潰してきた老人たちだろう。

老人たちも戦後の混乱で理不尽な目にあってきた。だが何もなかったからこそチャンスはそこかしこに転がっていた。いつだって何だって足りなかった。そういう時代だからこそ理不尽を受け入れることで利益が取れた。

しかし今はどうだ。人間が生きるために必要なものなんてだいたい供給されてしまっている。そこで新しい産業を興していくというのは、新しい価値を提示していくことに他ならない。そして新しい価値とは何なのか、誰も知らないのである。無いものを作れば利益が得られた時代とはまるっきり状況が違う。

そんな状況で理不尽にさらされた若者たちに未来が見えるはずもない。手探りで価値を見つけ出すことは、片っ端から穴を埋める作業ではないからだ。作っては見たものの誰にも見向きもされないことなんていくらでもある。昨今メディア利用が盛んな Twitter だってそうだ。誰にも見向きもされなかったサービスを作っていた彼らが、気晴らしに作ったのが Twitter だった。その Twitter だっていまだに赤字が続いている。マネタイズに悩んでいるのである。新しい価値は提供できても、利益が取れないことだってあるのだ。

こうした時代の老人の役割とは、若者に対して関門として立ちはだかることではない。彼らが「新しい価値」を見出すための資金を提供することだ。多産多死モデルで新産業を興す新しい世代へ投資していくのである。当たる確率は1%でも当たれば100倍以上になる事業を100個走らせるのだ。何が正しいのかわからないときにはそうするしかない。

こうした投資によって金融産業が盛り上がり、金融が投資対象として振興産業を盛り上げる。かくしてこの20年日本が負け続けてきたような新産業が盛り上がってくるわけである。

日本では投資どころか潰してしまった。なんとかかいくぐって伸びてきた事業ソーシャルゲームくらいだった。

president.jp

日本は絶望の国だそうだ。若者の自殺率世界一という不名誉な事実がここにある。どんなに苦しい状況でも、1% 以下の確率でも、100回でも1000回でもサイコロを振ることができる希望さえあれば生きていける。しかし今の日本にはそれがない。それがないからこその閉塞感であり、世界一の自殺率なのだろう。

若者にサイコロを振らせろ。新しい世代にしか振れないサイコロがある。その出目次第では、日本という国、アジアという地域、地球という星を変えることすらできる。

急速な少子高齢化も、環境汚染も、エネルギー問題も、紛争も差別も飢饉も、すべて豊かな経済あってこそ解決の手が伸びるのだ。

絶望の国を希望の国に変えるために。サイコロを振るその手に、希望を託すのだ。

*1:しかもどうやら監査法人と相談の上で確認ももらってたようである。

日本人は性と健康をもっと真面目に考えるべき

リプロダクティブ・ライツ、リプロダクティブ・ヘルス、という言葉がある。性と生殖に関する権利と健康という概念だ。どうも性と生殖に関する健康や権利はないがしろにされがちではあり、こと日本に置いてもだいたい笑いの種や抑圧の元となりがちである。

すぐに必要な時がある。緊急避妊薬ノルレボを市販薬に! というページがある。避妊の失敗や望まぬ性交があっときに、72時間以内に服用すれば81%の確率で妊娠を回避できるというお薬だ。現状ではノルレボは本人が医者にいって処方してもらうほかなく、その費用も1万5000円程度から2万円前後と非常に高額である。

本来ノルレボの価格は1500円程度である。これくらいの価格ならば貧しい人たちでもなんとか手が届くであろうし、市販薬であれば身近な人が買ってきてあげることもできる。良くも悪くも女性というのは弱いもので、避妊の失敗や望まぬ性交のショックで正常な判断力を取り戻すまでに時間がかかることも少なくない。本人が病院にいかねば処方されないようでは問題がある。他国ではとっくに市販化されてるようだ。

ところがどうも日本のフェミニズム界隈はノルレボ市販化には反対なようである。

togetter.com

法律を作る人たちへの圧力として機能するはずの権利団体のスタンスがこれではずいぶんと絶望的だ。

www.swissinfo.ch

上記のスイスでの事例など見ると、ノルレボの市販化がやはり奏功してるようで中絶件数が非常に低いという。10代の少女への手厚い対応も注目だ。の親に言えずに悶々としてるうちに妊娠が発覚し中絶するという事例がいかに多いかということでもあるだろう。

ecodb.net

おもしろいのが、2002年のノルレボ市販化後、スイスの出生率が底をうち、回復し始めたことである。他にも多様な要因はあるのだろうが、リプロダクティブ・ヘルスの推進も少なからず貢献してるのではないのだろうか。

さてリプロダクティブ・ヘルスは「性と生殖に関する健康」という概念だということは冒頭にも書いた。現在のところ国際的にも問題視されてるのは女性のそれであるが、もちろん男性にもリプロダクティブ・ヘルスはある。

俺は若年性男性更年期障害、いわゆるLOH症候群になり、男性ホルモン投与治療を受けていた。生活習慣の改善とともに今では投与がなくても、起きてられないほどの肩の痛みや不安定で鬱々とした精神に悩まされることもだいぶなくなってきた。

その治療の過程でつくづく思い知らされたのは、男性の健康と性が非常に密接であるということである。男性ホルモンというのは精巣で作られる。精巣が活発に活動するというのは、ありていに言えばなんらかに欲情していなくてはならないのである。

中高年のおじさんたちが妙にエロい週刊誌やグラビアを見たり、女性が横に座る飲み屋に行ったりするのは、加齢で減ってきた男性ホルモンを分泌させるためなのであろう。

自分でできる対処法を探して「魅力的な異性を見る」とか「頻繁に性行為をする」などがあったので、ガラにもなくグラビア写真など「治療だ、治療だ」と言い聞かせつつ見てたりなどしてたのだがさしたる効果はなかった。比較的効果があったのはやはりアニメで、アニメを見る量を増やしてたら食事改善の効果もあってだいぶよくなってきた。結局個々人にとっての「魅力的な異性」でなければ意味がないということである*1

こうした経験から、「ポルノは男性のリプロダクティブ・ヘルス」であると考えるようになった。もちろんポルノアニメを見ていたわけではないのだが、多くの男性にとって効果があるであろうものはおそらくポルノであろう。ポルノに用事のないアルファ・オスならともかく、ポルノでもなければ「魅力的な異性」を見る機会すら無いという男性も少なくない。なによりそうした性嗜好は人それぞれなので偶然の出会いなどに頼っては健康を維持できないのである。

欧米や韓国などのフェミニストたちは「ポルノグラフィティ防衛論」で有名なナディーン・ストロッセンを始め、ポルノ周りにも理解のあるフェミニストが多いらしい。

ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性

ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性

だが日本ではそうしたフェミニストたちは影を潜めてるのかそもそもいないのか、あまり声が上がることはない。代わりにあがってくるのは性嫌悪や男性嫌悪としか思えない罵倒の言葉ばかりだ。海外ではネットを通してそうした罵倒活動をする「フェミニスト」をソーシャル・ジャスティス・ウォーリアーと呼ぶそうだが、日本のフェミニストはそのほとんどがソーシャル・ジャスティス・ウォーリアーのようである。

どうか日本でもリプロダクティブ・ヘルス・ライツが深く浸透し、誰もが性と生殖に関する健康と権利を享受できるようになってもらいたい。そしてガラパゴスではないフェミニズムが浸透してくれることを切に願うものである。

そのためにもまずはノルレボ市販化へ向けて、微力ながら声を上げていきたい。

*1:どうも最近わかってきたのだが俺の場合は絵というより「物語」に対する性嗜好があるのではないかという気がしてきた。こういう非人間に対する性嗜好を持ち合わせる人たちをクィアと呼ぶそうだ。クィア理論としては性指向と性嗜好に区別をつけないんだとか。

外国人にわかりやすい地図記号は絵文字を使えばいいのではなかろうか

「卍」はナチス想起させるので「三重の塔」に 外国人向け地図記号、国土地理院が作成へ という記事。 ナチスを想起とかはさすがに敏感になり過ぎじゃないのかとは思うものの、外国人にもわかりやすい地図記号に変えようという動き自体はいいことだと思う。

しかし地図記号というのは「卍」や「〶」のように多くが文字としてコンピュータ上で使えるようになっている。新しい地図記号も既存の絵文字から使えるものが多いのではなかろうか、と思って 元の資料 で検討されてる文字が絵文字にあるか確認してみた。

検討されてる記号 Unicode 絵文字 備考
ホテル 🏨
レストラン 🍴
ショッピングセンター/百貨店 🏬
トイレ 🚻🚽🚾
寺院 仏教のマークがない
神社
温泉
博物館、美術館 🏛
教会
モスク 🕌☪
鉄道駅 🚃🚇🚉
空港
観光案内所 💁 Information Desk Person で代用
郵便局 🏣
銀行(ATM) 🏦
コンビニ/スーパーマーケット 🏪 スーパーの絵文字はない
病院 🏥
交番 👮 Police Officer で代用

こうしてみると以外なことに仏教寺院の絵文字がないことに気づく。モスクやユダヤのシナゴークなどはあるのだが。ちなみに礼拝堂の絵文字も Unicode 8.0 で追加されている。

もうひとつ問題なのがコンビニとスーパーマーケットを区別する絵文字がないということだろう。

絵文字は日本の携帯電話キャリアが考案したガラパゴスな代物であったが、その後 GoogleApple により国際規格 Unicode に採用され、世界的に使えるグローバルな文字となった。そこではもちろん国際性や意味の検討などもされており、非常にこなれたものになっていると言えるだろう。

このへんの事情は以下の記事を読むとよくわかる。あんまり勝手な規格を作るとあとが大変という事例でもあるけれども。

japan.cnet.com

Unicde の絵文字をベースに独自に地図向けの絵文字フォントを作るなどの対応はあってもいいと思うのだが、独自の文字が増えるような状況は避けてもらいたいなあと思う次第。

問題に上がってる温泉の絵文字にしたって、すでに Hot Springs として Unicode に登録されてたりするのだ。むやみに変更すると混乱を招くだけだろう。スーパーマーケットと仏教寺院の絵文字を追加するように Unicode コンソーシアムの方で議題にあげてもらうなどの対応はあってもいいと思うけれども。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>