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狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

不滅の珈琲壺<アンブレイカブル・コーヒーサーバー>を手に入れた。

ほとんど毎日コーヒーをペーパードリップしているのだが、コーヒーサーバをよく割ってしまう。耐久性があるとはいえガラスだし、洗い物してるとうっかり何かにぶつけてしまって割れることがとても多い。いや俺がドジなだけかもしれないが、本当によく割ってしまう。今年だけですでに2〜3回割っている。

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あんまりにも割っては買い直しを繰り返してるので、ドラえもんひみつ道具をおねだりする気持ちで割れないコーヒーサーバはないものかと検索してみたところ、本当にあった。マジであったよ割れないコーヒーサーバ。その名も「アンブレイカブル・コーヒーサーバー」。

アンブレイカブルですよアンブレイカブル。何かすごくわくわくするものを感じませんか。漢字にルビも振って

不滅の珈琲壺(アンブレイカブル・コーヒーサーバー)

とか書きたくなるこのわくわく感。わかります?

さっそく注文してゲットしてみたところ、確かにポリカーボネイト素材のような弾力があってそうそう割れなさそう。珈琲にプラスティックぽい匂いがつくかと思ったけどそんなこともなく全然普通に使える。見た目はちょっとダサいけれども、年に2回も3回も書い直す手間とお金を考えたらぜんぜん妥協の範囲内。というか妥協しろよ俺。

俺が買ったのは5杯までの目盛りがついた大きさだけど、3杯までの目盛りがついた小さいやつもある模様。

おしむらくは少々軽すぎること。空っぽだと安定しないんですよね。まあそれはしょうがないかなあ。

ちなみにドリップに使ってるコーヒーポットはこちらの品。

竹井器物製作所 フィーノ コーヒードリップポット 1.2L

竹井器物製作所 フィーノ コーヒードリップポット 1.2L

前のを焦がしてしまって Amazon で安かったので間に合わせに買ってみたんだけど想像以上に使いやすかった。しかも Made in TUBAME 。昔の iPod touch なんかに使われてた鏡面磨きの技術で有名なところね。

chiikigoto.com

というわけで楽しいコーヒーライフを。

enjoy!

戦時下ラブコメ日常系萌えアニメ「この世界の片隅に」に教えられる人と暮らす楽しさ

話題作「この世界の片隅に」を見てきた。

konosekai.jp

「戦争もの」「太平洋戦争末期のお話」「広島にほど近い呉が舞台」という先入観はことごとく崩されてしまった。これは「萌えアニメ」だ。それも日常系萌えアニメである。

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

1943年、18歳で広島から呉に嫁に行った主人公すずさん。声を当てる「のん」こと能年玲奈にはまったく期待してなかったのだが、すずさんの人物像に能年玲奈の声があまりにもマッチしすぎている。なんとなくぼやっとしていて、ちょっとドジで、一生懸命ではあるんだけれど「あれれ?」となってしまう。それが周囲を笑顔にしていく。すずさんはそんなたいへんな萌えキャラで、そのキャラクターに能年玲奈のあのぼやっとした喋り方が完璧に重なるのである。むしろ滑舌の直されたプロの声優ではあの雰囲気は醸し出せなかったかもしれない。冷静に思い返すと「下手」ということなのかもしれないのだが、それを感じさせることもない。それくらいすずさんと能年玲奈は完璧に重なっていた。

そのすずさんの日々のおかしいことおかしいこと。映画館内はあちこちから笑いがこみ上げてきて、俺も思わず大声で爆笑してしまうところであった。肩を震わせながら鑑賞した人も多いだろう。ぼやっとしててドジっ娘のすずさんはいつも天然ボケ。その絵柄と動きのかわいらしさといったらたまらない。すずさんの日々を送る姿を見てるだけでこちらも笑顔になってしまう。ずーっと見ていたくなる。

もちろん戦時下なので決して豊かでも余裕のある暮らしでもないのだが、本をよく読み勉強もするすずさん(そこも萌えポイント!)の工夫をこらした食事のレシピも興味深かった。決して美味しいものではないのだが、そのうち再現レシピを作ってみたい。

ぼやっとしたまま嫁に行ってしまったすずさんと夫・周作とのやり取りは、初恋ラブコメとしかいいようがない恥ずかしさ。すずさんの幼馴染の軍人に嫉妬する周作のいじらしさは胸が張り裂けるよう。

なにより「この世界の片隅に」の描く日常は、体験したことこそなくても間違いなく今の生活に繋がる昔の日本の暮らしだ。裏の畑で採れた野菜、頂いてきた野菜、それらを煮炊きし、今日の胃袋を満たしていく。夏の日の畳、冷えたスイカ。それらをすずさんの視点で、ファンタジーと現実がないまぜになった風景を描き出していく。

そんな「萌え」に満ちたこの作品だが、やはりどうしても時代設定として「あの日」がやってくる。ぼやっとしてドジっ娘のすずさんが、本気で落ち込んでしまうあの日がやってくる。

「それでも日々は続いていく」

日常系ほのぼのアニメに「戦争」のような苦しい風景を背景にあるからこそ、日々の暮らしが愛おしく見える。それは監督の狙い通りだろう*1

どんな苦しくつらい日がやってきても、命がある限り我々の暮らしは続いていく。暮らすということは食べるものと着るものと寝るところを用意することだ。その日々はとどまることなく続いていくのである。

すずさんの時代から70年、DV、介護、毒親。もはや「家族」はリスク要因となってしまった現代。ともすれば誰かと生活することそのものがリスクになるこの時代。人と暮らすということは決して陰鬱なものではなく、楽しいものなのだということ、愛おしいものなのだということを、すずさんたちは思い出させてくれるようだった。

もちろん現代では同じ形ではあり得ないだろう。新しい家族の形を探しながら、あのすずさんたちのように、誰かと笑い合いながら暮らしていきたい。

さあ、誰と一緒に窯の火を炊こうか。

*1:似たようなアプローチをとった作品に「がっこうぐらし!」がある。こちらの主人公ゆきは本当に賑やかしで、直接サバイバルの役に立ったりはしないが、やはりすずさんと同じくそのキャラクターで周囲を元気づけている。

"死にたい人"の物語「映画 聲の形」を演出する伝統のアニメ技法

映画「聲の形」を見た。「けいおん!」「たまこまーけっと」を監督し、「響け! ユーフォニアム」の演出を手掛けた希代の天才アニメーター山田尚子の最新作である。映画監督作品としては劇場版「けいおん!」「たまこラブストーリー」に続いて3作目となる。

山田尚子の作風を一言で表すなら、「萌えアニメが少女漫画に回帰した」ような演出が特徴だ。元々萌えアニメというのは「男性向け少女漫画」という側面がある。

いろいろと誤解も多いのだが、いわゆるオタク文化というのは元来「少年漫画を読む女と少女漫画を読む男」の文化である。その点においてジェンダー規範からの逸脱が気持ち悪がられ、長らく迫害の対象となってきた。いまも特に女性のオタクたちはその趣味を秘匿してる人たちが多い。

そして今では元来漫画やアニメが持っていた「少女向け」「少年向け」という垣根はどんどん取っ払われつつある。「Tiger & Bunny」のように少年向けに作ったつもりが女性に絶大な支持を得てしまったりと、なかなか狙い通りにもいかないものなのである。

山田尚子の作品は、男性向けのアイドル映画的な要素を持ちつつも、そうした少女漫画世界への回帰が見受けられる。これが男女問わず山田尚子作品が支持される理由でもあろう。

そして山田尚子の演出は、伝統的な出崎演出の進化系である。「あしたのジョー」「エースをねらえ!」といったある程度の年齢以上なら誰でも知ってるアニメを手が来てきた出崎統は、アニメ黎明期から活躍し、5年前に他界した天才演出家だ。

togetter.com

出崎演出は大きく2つ大別できる。1つは作画枚数を減らしつつも効果的な演出にするためのアイデアだ。止め絵や繰り返しショットと呼ばれる技法がそれで、動かないが細かく描き込まれた1枚の絵を使用して深く印象づける「止め絵」、その止め絵をリズミカルに3回ほど繰り返しパンニングする「繰り返しショット」は、出崎作品以外にも広まった日本アニメでは定番の演出技法だ。

もう1つの出崎演出は、上記のまとめにもある「現実感」を強調するための演出技法だ。実写映画ならミステイクになるような音や光のノイズをわざと入れ、それにより現実感を際立たせる技法だ。この技法は今のアニメにもよく使用されてるが、山田尚子はさらにそれを進化させようとしてるようだ。

まとめ内で言われてる「エースをねらえ!」の対決で空に飛行機が飛びその音が響くシーン、これは「聲の形」でも意図は違えどまったく同じ演出が使われている。終盤の重要な橋の上での2人の邂逅。このシーンでやはり飛行機が飛び、その遠くの轟音が静かに深夜の2人の気持ちの高まりを演出してくれている。

他の作品でもそうだが、「聲の形」でもカメラが揺れたような演出や、普通のアニメならノイズとして最初から入れないであろう靴の音や物が擦れる音が非常に印象深く入れ込まれている。「聲の形」は内容的に号泣してしまうようなお話なので映画館で見ることをためらう人もいるだろうが、この音の演出を十分に味わうにはよい音響の映画館で見る価値は十分にあるだろう。

時に肉感的すぎると思わされることもある「萌え絵」だが、こうなってくるとその肉感すらリアリティを醸し出す演出になってくる。平面的な漫画絵に出崎統は光と音で生々しさを持ち込んだ。山田尚子は現代の技術でさらに進化させ、萌え絵の肉感的な描き方を映画の生々しさに応用していると見ることもできるのではないか。萌え絵の生々しさをむしろ削ぎ落とすことで一般向けを狙った「君の名は。」とはまったく真逆のアプローチだ。

こうまでして絵に生々しさを持ち込んだのは、作風という点だけでも十分に説明が付くが、「聲の形」というたいへん生々しい原作を演出するにはそれが必要だったという見方もできる。

「聲の形」を「いじめっ子が都合よく仲直りしていじめられっ子と友達になる話」と解釈してる人も散見されるのだが、これは間違いだ。そんなわかりやすい話ではない。

本作のヒロインである西宮硝子は、聴覚障害をきっかけに周囲との軋轢を生む。西宮硝子が聴覚障害者として周囲に気を使われて生きてることに違和感を覚えてることは、そのおどおどとした姿勢から見て取ることができる。だから何があっても自分が悪い、ごめんなさいとすぐ謝る。そしてそれこそが周囲の神経を逆撫でしていく。

対して主人公の石田将也は、西宮硝子が「うまくやれてない」ことに気づく。もうひとりのヒロインである植野直花がいらだつのを横目には見てるが、決して将也本人はいらだっていたりはしない。ただ「うまくやれてない子」として硝子を取り扱う。それがイジメにつながっていく。

そんな周囲をいらだたせるおどおどとした硝子が、本気で取っ組み合いの喧嘩をする相手が将也である。この2人の関係をただのいじめっ子いじめられっ子として読み取ることはできない。初対面の時から将也はゲームのラスボスに遭遇したときのテンションにその出会いを重ね合わせていたし、障害者を「かわいそうな人」として取り扱わない態度、何かとてつもなくおもしろいものとしてある意味対等に向き合った将也に、硝子もまた思うところがあったのであろう。同級生の川井みきが徹底して硝子を「かわいそうな障害者」として扱い自分の「いい子」さの演出に利用していくのとは対象的である。

そんな人間同士のいびつさをぶつけ合うような生々しい話に、出崎演出の進化系はぴたりとハマる。

石田将也が死にたがっていたように、二宮硝子もまた死にたがっていた。その死を遠ざけたくて、あえて動物の死骸の写真ばかりとって家に張り出していた結弦の姉を思う気持ちはいかんばかりか。

「死にたい」という気持ちは本作の中心的なテーマである。持ってしまった罪悪感、うまく生きられない居心地の悪さ、自己否定の気持ち。そうした思いが積み重なり、石田将也も二宮硝子も死にたがる。その気持ちをごまかすように、日常を送る。それは今の多くの日本の若者が持っている気持ちに近いものがあるのではないか。

口癖のように「死ね」とつぶやく人がいるという。それは他人の死を願う呪詛ではなく、自分自身に向けた呪詛だという。

我々は死にたいのだ。長生きなどしたくない。そんな生きづらさ、居心地の悪さ、自分自身がそこにいてはいけない気持ち。たとえばそれは「新世紀エヴァンゲリオン」でも繰り返し描かれてきたテーマだ。ある種の現代病なのであろう。

「聲の形」はそれも見方次第だと伝えてくれる。「エヴァ」がそのTV版最終話でもっとダイレクトに言葉で伝えてしまっていたものを、「聲の形」は次第に広がり再構築する人間関係で伝えてくれる。

「僕はここにいていいんだ」

それは自己肯定感の再生である。人は一人では生きられない。人は人と関係を持つことで「生きる」ための土台が作られる。それは衣食住以前の「自分は存在してていい」という自己肯定感である。

決して立派な人間でもない。自慢できるものもない。うまくいかないことばかりで、いつも罪悪感にさいなまれてる。そんな自分でも、受け入れてくれる人がいる。存在を望んでくれる人がいる。それを願い合うことを人は愛と呼ぶ。

シン・ゴジラ」や「君の名は。」の影に隠れがちで、話題性も公開の近づく「この世界の片隅に」に劣ってしまう「聲の形」だが、平日昼間だというのに映画館の席はかなり埋まっていた。上映館が少ないせいもあろうが、もっと広く見られていい映画だと思う。とはいえ興行収入も21億円を突破し、あの「魔法少女まどか☆マギカ」を超える大ヒット映画なのではある。

天才アニメーター山田尚子の最新作としても、生きづらさを抱えた人間の物語としても、アニメ演出の最高峰としても1度は見ていただきたい映画である。

シン・ゴジラ、裏切りの庵野秀明が描く「チーム戦」

いまさらながら映画「シン・ゴジラ」を見てきた。ここ数ヶ月は珍しく余裕のない日々を過ごしていて、事前情報から情報量のやたら多そうなこの作品を見る体力がなく、なかなか見にいけてなかった。様々なタスクをうっちゃって体力回復に努め、多少は回復しつつあるのだが、今日はあまりにも疲れてしまったので近くの温泉銭湯にでもいくつもりだった。しかし風呂にはいるには時間が早すぎたので、ネタバレ回避し続けてるのもめんどうになったので思い切って見に行ったというわけである。

しかし予想通りではあるのだが、これを楽しむほどには体力が回復してなかった。膨大な情報量、メッセージ、オマージュ。とてもじゃないが受け止めきれる量ではなかった。

ご存知の通り、監督の庵野秀明は天才アニメーターである。


Hideaki Anno Short Film 庵野秀明 自主制作アニメ2 じょうぶなタイヤ!

こちらは庵野秀明が学生時代に作った有名なパラパラ漫画だ。これを見てもわかる精緻な「破壊」の描写、躍動感ある動き、これを10代で描き上げたというのだから天才としかいいようがない。

20年ほど前のことだ。俺は劇場で呆然としていた。おわかりだろう。「劇場版エヴァンゲリオン」の話である。庵野秀明が前代未聞のテレビシリーズ「新世紀エヴァンゲリオン」を完結しそびれ、その尻拭いとして作られた2つの劇場版。映像の中に唐突に現れるスクリーン側から見た映画館の客席どれだけの人間が憤慨したことだろうか。

あんなハチャメチャな映画を見せられたあと、実写映画を撮るなどと言われてもまったく期待しようがなかった。「ラブ&ポップ」も原作は読んだが映画は見なかった。「キューティーハニー」も無視した。80年代に作られた「トップをねらえ!」はやっぱりいいなと繰り返し見た。この頃の庵野はやはり最高だったなと思いながら。


トップをねらえ! ガンバスター合体

トップをねらえ! Blu-ray Box

トップをねらえ! Blu-ray Box

だから「新劇場版ヱヴァンゲリヲン」の時は戸惑った。あの呆然とした日から10年、旧エヴァから離れてエンターテイメントに徹した「ヱヴァ」に、興奮しつつも戸惑うしかなかった。新劇場版3作目の「Q」の公開前、スタンディングオベーションをしようなどという声が広まっていったのには本気で狼狽した。おかしいだろう。「エヴァ」はそんな映画じゃない。俺が1997年に憤慨した「エヴァ」はそんなんじゃなかった。

庵野秀明は裏切りの監督だ。必ず期待を裏切る。良くも悪くも裏切る男だ。

完結を望んでいた旧エヴァは「気持ち悪い」の一言で終わらされた。新劇場版はなぜか娯楽に徹した。じゃあ娯楽作品としてのエヴァを楽しんでやろうかなんて思えば「Q」である。完全に旧エヴァに戻っていてなお発展した「Q」は、娯楽作品としてのエヴァを期待した気持ちも、昔のエヴァ完結を期待した気持ちも、すべて裏切られた。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の予告で締められた「Q」は、また旧劇場版のあの気持ち悪さ、居心地の悪さ、憤慨の気持ちを蘇らせた。ああ、でもこれが「エヴァ」だよなあと、懐かしい気持ちで劇場を後にした。スタンディングオベーションなんて言ってた奴らには「ざまあみろ、これが庵野なんだよ、エヴァなんだよ!」と言ってやりたかった。

そして「シン・ゴジラ」である。実写? 「シン・エヴァ」じゃなくて「シン・ゴジラ」? 何言ってんだこいつ。本当にそう思っていた。

だがよく知られてるように、庵野秀明は特撮マニアでもある。学生時代に自らウルトラマンに扮した作品は実に見事だったし、それに打ちのめされた同級生で漫画家の島本和彦の自伝的作品「アオイホノオ」にも出てくる。

アオイホノオ(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)

アオイホノオ(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)

俺が大好きだった「トップをねらえ!」は宇宙怪獣とロボットの戦いだったし、「エヴァンゲリオン」もまた謎の怪獣(使徒)とウルトラマンに似せたロボットが戦う話だ。特撮の影響を強く受けた庵野作品たちの映像はすばらしかった。

今時「特撮」といっても、着包みとミニチュアで撮影なんてほとんどないだろう。「シン・ゴジラ」はコンピュータ・グラフィックスで描かれていた。つまりアニメだ。これは期待できるかもしれない。そう思った俺は劇場で見ることを決意していた。

そして裏切られた。

庵野秀明エヴァで見せてきた軍隊の描写や怪獣の描写はたいへんすばらしい。だから自衛隊がガンガン撃ちまくる映画を期待するに決まってるじゃないですか。

ところが出てきたのは会議会議会議、ひたすら会議。そのなんとおもしろいこと。

思えば「トップをねらえ!」の頃からやたら会議の描写が細かった。そうだ、これも庵野だ。わけのわからん偉いさんたちがぐだぐだと決まらない会議を続ける描写。それをなんとリアルに描くのか。

どうやら丹念に取材をしていたようで、自民党小池百合子氏や民進党枝野幸男氏などにも協力してもらっていたようだ。特に枝野幸男氏はあの「3.11」当時の内閣官房長官である。それはそれはたいへんリアルな話が聞けただろう。

「怪獣」は自然災害だ。それを描くのについ5年前に実際に起きた未曾有の自然災害を参照しないはずがない。「3.11」を経験した我々は、「3.11」を抜きに「怪獣」という自然災害を考えることなどできはしないのである。

シン・ゴジラ」の話のプロットとしてはそう珍しくはない。落ちこぼれたちの寄せ集めチームが、その極端な能力を活かして未経験の危機に立ち向かう。だが彼らに当たるスポットはさほど明るくない。未来の総理を狙う若手政治家を主人公に据えてはいるが、それもさほどスポットが当たらない。この映画が描くのは個人じゃない。チームなのだ。

20年前に「オタクは現実に帰れ」と空振りのメッセージを送ってきた庵野秀明は、「シン・ゴジラ」では「チームで戦うこと」「決して諦めないこと」をぶん投げてきた。あの「国電パンチ」のためにどれだけの根回しと協力を得たのか、描かれてない「チーム戦」はたくさんある。

トップをねらえ!」では主人公とその先輩が、心を通じ合わせることで強大な力を発揮した。「エヴァンゲリオン」でもひとりぼっちの碇シンジは弱かった。アニメは一人じゃ作れない。チームの大切さは、庵野秀明自身が一番よく身にしみてるのではないだろうか。

劇中に「日本は何度もスクラップ&ビルドして立ち上がってきた」という台詞がある。150年前の明治維新、70年前の敗戦、確かに日本はボロボロに壊れて作り直して、そのたびに強くなってきた。

明治維新や敗戦に等しいカタルシスをもたらすのは「ゴジラ」だ。我々はゴジラに破壊されなければならない。庵野秀明もまたゴジラに破壊された。「メカと美少女」のアニメから離れ、戦争と災害のリアリズムに立ち向かった。

そこからビルドしてくる「シン・エヴァンゲリオン」はどんな映画になるのか楽しみでしょうがない。

「チームで戦うこと」「決して諦めないこと」。それはどんなときにも言えることだ。孤独の中、戦える人間なんていやしない。我々はよいチーム作りからはじめなくてはならない。

そう、例えば眼の前の家族や同僚と「チーム」でいられていますか?

クィア映画としてのジャパニメーション

「アナ雪」エルサに続き、今度は「キャプテン・アメリカをゲイに」という記事。昨今北米ではセクシャルマイノリティの人権問題が大きくクローズアップされ、男性同性愛者(B)、女性同性愛者(L)、両性愛者(B)、性別の曖昧な人々(T)を中心に「LGBT」とひとくくりにして様々な運動や言論が盛り上がってるようだ。

アナと雪の女王」のエルサが同性愛者であるというのは、それをほのめかす演出がいくつもあるということらしいのだが、どちらかというとそのへんはLGBTへのアンチである保守的な人々による「ディズニーは同性愛を広めて公序良俗を見出そうとしてる」といった類の陰謀論として語られてることが多いようである。

さてそんな状況を北米から遠く離れたこの極東の島から見てると、実に滑稽な運動に見える。アニメや映画の登場人物が同性愛者であることなど珍しくもない話だからだ。

LGBTだのみならず、標準的な異性愛の形をとらない性愛全般を「クィア」と呼ぶそうで、そうしたクィアの登場人物がクローズアップされた映画を「クィア映画」と呼んだりするらしい。

BenshoffとGriffinによれば、「クィア映画とは何か?」という問いを答えるために少なくとも五つの方法がある。たぶんもっとも自明なものは、もし映画がクィアな登場人物を扱っている場合、それはクィア映画と言えるということである。最近のアメリカ映画では、クィアな登場人物がときどき脇役や主役として現れることもあるが、1960年代以前のアメリカ映画ではゲイ、レズビアンバイセクシャルトランスジェンダーといったクィア・キャラクターの存在を認めることはめったになかった。 (中略) しかし、古典期のハリウッドには、登場人物のクィアネスを暗示する演出を行った映画監督たちもいたわけで、そういった監督たちの作品には「内包的なホモセクシュアリティ "connotative homosexuality"」を登場人物の立ち振舞い、衣装、口語パターンに見ることができる。たとえば、男性登場人物は過剰にめめしく、女性登場人物は勇ましく表象された。これらの登場人物は自主検閲の網を逃れ、多くの観客はそれらの登場人物を同性愛者だと理解した。現在の視点から見れば、ほのめかされたホモセクシュアリティと伝統的なジェンダー規範からの逸脱によって、これらの登場人物たちはクィアとして認識することができるだろう。 クィア映画とは何か? Part 1(Queer Images, p. 9~10) - No Rainbows, No Ruby Slippers, But a Pen

このへんは非常におかしな話だ。めめしく描かれた男性登場人物が同性愛者であるなら「機動戦士ガンダム」のアムロ・レイもゲイであることになってしまうし、勇ましく描かれた女性ということならセイラ・マスレズビアンということになる。いやセイラさんは生涯独身だったしそれもあり得なくはなさそうだけれども。ともかく欧米では「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という性規範がとても強いのだろう。それをはずれただけで同性愛者だと理解されるくらいには。

さてクィア映画の定義を理解したところで日本のアニメを振り返ってみると、これがまたクィア映画だらけであることに気付く。

「男らしくない男性」「女らしくない女性」も「同性愛っぽく見えるもの」も出てこないアニメ作品なんてどれくらいあるだろうか。もちろんゼロではないだろうけれども、正直ぱっとは思い浮かばない。

たぶん元記事の人や「エルサにガールフレンドを」運動に賛同しちゃうような多くの一般的な人は知らないのだろうけれども、映画やアニメの登場人物を同性愛者と考えて二次創作する活動というのは世界的に昔から存在している。中には実在のアイドルやバンド、スポーツ選手が同性愛者だと仮定した二次創作なんてのもある。それは1970年代の日本にはすでにあったし、おそらくもっともっと昔から存在してたはずである。日本では「BL(男同士)」「GL(女同士)」などと呼ばれ、英語圏では「slash」と呼ばれてるようだ。なぜ slash なのかは K/Sのページを見てもらえばわかるだろう。

さてこういうBLやGLを描く二次創作文化は、そうした同人誌作家から商業デビューしてくる人々のおかげで徐々にメジャーな世界に広まりを見せる。代表的なのがCLAMPという作家だ。

CLAMPの作品は非常にクィア的で、記憶にあるだけでも「東京BABYLON」は3人の主人公の関係性はクィアとしか言いようがないものであったし、「ちょびっツ」などはパソコンと人間の恋愛を描くものであったりもする。

カードキャプターさくら 全12巻 完結セット  (KCデラックス)

カードキャプターさくら 全12巻 完結セット (KCデラックス)

そうしたCLAMPの代表作の一つが「カードキャプターさくら」だ。主人公の木之本桜は同級生の大道寺知世から偏執的な愛情を受けている(レズビアン)。木之本桜の母親は大道寺知世の母親から同じように愛情を受けていたが別の男性(桜の父親)と結婚してしまった。桜の兄である木之本桃矢は同級生の月城雪兎(男性)と深い関係にある。月城雪兎はまた木之本桜からも、そして桜のライバルである李小狼(男性)からも恋愛感情を抱かれている。重要なのはこの作品がアニメ化された際、日本でもっともお堅い放送局であるはずのNHKで放送されていたことだ。確か CLAMP だったと思うが「誰が誰を好きになってもいいじゃない!」というようなことをどこかで書いてた覚えがある。性愛の形というのをぶち壊す作品を描きつつ言われるとたいへん説得力がある。

カードキャプターさくらの連載が始まる少し前、武内直子による「美少女戦士セーラームーン」という作品が世界的な大ヒットを飛ばしていた。ガールズパワー、戦闘美少女と称されるような今にも流れる日本のアニメの方向を決定づけた作品でもある。女性が戦う作品の出てくる洋画に日本の影響が色濃く出がちなのもおそらく偶然ではないのだろう。セーラームーンの登場人物にみちるとはるかという2人のカップルが出てくる。はるかは原作では男性でもあり女性でもある半陰陽であり、アニメ版では男装したレズビアンである。どちらにとってもクィアであることには変わりない。

もちろんこの2作品は現代でも多くの人が知る代表作でしかない。セーラームーンはリメイクが今も放送中であるし、カードキャプターさくらも再放送中で様々なグッズが販売されている。CLAMP武内直子も、多大な影響をいまもって与え続けてる。

近年のアニメでいうと、現代美術作家でもある柴田英里氏による「クロスアンジュ」と「ヴァルキリードライヴ・マーメイド」のフェミニズム批評がたいへん興味深かった。

mess-y.com

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この2作品は極北であると言ってもいいのだけれども、それでもこうした同性愛描写は決して珍しくないのが日本のアニメである。大ヒットした「TIGER & BUNNY」はもちろん北米市場を見込んで作られたという意味では純然たる日本文化の体現とは言いがたいのだろうが、それでも妻を失った中年男と若き没落白人青年の2人は多くの人びとが「カップル」であると認識していたし、いわゆる「オネエ」キャラも出てくるのだが、そんな雰囲気もない男らしいマッチョ男性の同僚と2人で飲みに行くシーンもあった。主人公の同僚のある人物が恋に落ちる相手はアンドロイドだった。

他にもうっかりすると見過ごしてしまいそうな同性愛描写というのはたくさんある。これまた大ヒットした「魔法少女まどか☆マギカ」の佐倉杏子は、もはや意識のない美樹さやかに「ひとりぼっちは寂しいもんな」と声をかけ共に死ぬことを選ぶ。これをレズビアン描写ではないとは言えないだろう。「鉄血のオルフェンズ」のミカヅキとオルガにみられる深い信頼と関係性を同性愛として読み取ることも無理筋とまでは言えまい。「涼宮ハルヒの憂鬱」でハルヒキョンにやたらつっかかるのは、ハルヒのお気に入りであるみくると仲が良いキョンを遠ざけるためだと思っていた。

要するに現代日本のアニメというのはもっぱら同性愛こそが消費されているのである。それがもはや当たり前になっているし、異性愛が描かれたとしてもそれは「可能性のひとつ」でしかない。そうなってきたのはコミックマーケット(コミケ)を中心とした同人誌文化と、CLAMPはじめそこから商業デビューしてきた作家たちの影響力とでもいうべきなのだろう。

そもそも日本では男色や衆道など同性愛はごく普通のことだった。それを明治期になり当時同性愛が犯罪や病気だった欧米諸国を「先進的」と勘違いした当時の知識人たちが真似て「アジアの野蛮な風習」として禁じてきたに過ぎない。大衆はそんなことはさほど気にせず、いわゆるトランスジェンダーの芸能人なども古くからテレビに出てきたし大御所として認知されてる人たちもいる。

英語のWikipediaにアニメに出てくるLGBTキャラクターのリストがあったりするが、やたら日本のものが多いのはそういうわけなのだろう。もちろんこのリストにあるものは本当にごく一部でしかない。先述の Tiger & Bunny のキャラクターも入ってないしクロスアンジュも入ってない。先駆者にして代表的なボーイズラブ作品である「風と木の詩」すら入ってない。誰か英語の得意な人がいたら入れてあげて欲しい。

風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

要するに何が言いたいかというとようやく日本に追いついてきたなアメリカ!!ということである。

オタクは老いても中毒からは逃れられない

オタクが歳を取らないなんて大嘘だったという記事。年を取り、オタクとして十分にゲームやアニメを楽しめなくなったというお話。

中年ともなればそれなりに仕事も忙しいし家族の用事も増えてくる。おまけに若いころほどの体力や回復力もないので、そりゃあ遊びに費やす時間というのはどうしても減るし、「趣味に取り組む」のも難しくはなる。

だがオタクというのは中毒者なのだ。

漫画も読まずゲームもしない日々を1ヶ月も過ごすと、だんだんとおかしくなってくる。仕事が手につかず、集中力もなくなる。判断ミスも増えてくるし、おかしな行動に出てしまってアレ?となったりする。「疲れてるんだ、休もう」などと言って健康本に書いてあるような軽い運動と休息のつもりで泳ぎにいってプールサイドで昼寝する週末など過ごしたところで、まったく元には戻らない。

そんなとき、がっつりと漫画やアニメやゲームをやり込む。すると不思議な事にすっかり元気を取り戻すのだ。

人生には遊びが必要だ、なんてかっこつけた話に聞こえるかもしれない。いや、単にこれは中毒なのだ。禁断症状でおかしくなってきただけだったのだ。

よく「この程度でオタクとは言えない」というような、オタクとして謙遜のセリフを言う人がいる。確かに昔ほどがっつりとは趣味に力を入れられてるわけではない。新人漫画家のチェックも長いことしてないし、ゲームの設定資料集を読みこんだりもしてない。アニメもせいぜい週に数本、片手で数えられる程度の作品数しか見てはいられない。

だがそれでも漫画とアニメとゲームが俺には必要なのだ。これなしには生きていけない中毒者なのだ。

Fate/Grand Order

Fate/Grand Order

最近は Fate/Grand Order といういわゆるスマホゲームをやっている。濃いオタクからすれば「そんなライトなものを」と思うかもしれないが、ニコチン中毒者が気に入った銘柄でなくても無ければ他のタバコを吸うように、アルコール中毒者が安酒で量を稼ぐように、多少の代用品でもやらずにはいられないのである。様々な用事に忙殺される中、スキマ時間で少しずつ遊べてある程度遊んだらゲーム内のポイントが回復するまで遊べずキリよくやめられるスマホゲームはたいへんありがたいというのもある。奥が深すぎるゲームはハマりすぎて人生を壊してしまう。

こういう人生を壊すほどに趣味に没頭してしまう人間を良くも悪くもオタクというのだろう。

我々は中毒者だ。タガが外れてしまえば、きっと仕事も家族も自分の人生や命すらほっぽり出してアニメやマンガやゲームに夢中になってしまう。

「ゲームをする時間が減った」というのは、それなりに成長して上手にタガをハメておけるようになったということでもあるのだ。自分自身の中毒とのつきあい方がうまくなったということなのだ。

我々は人生を壊すわけにはいかない。愛する家族がいる人もいるだろう。来年の劇場版を見るまで死ねない人もいるだろう。あのゲームの続編が出るのはまだ先だ。大好きな作家の新作の連載だって始まったばかりだ。オタクがオタクであるために? いや違う。オタクという中毒を抱えながらもどうにか生きていくために、我々は上手にタガをハメ続けていかなくてはいけないし、たとえ代用品であろうと自分のオタク成分を摂取し続けなくてはならないのである。

たぶん、ただそれだけのことなのだ。

小学生からでも英語を学ぶべきなのは日本が落ちぶれたから

【特集】小学生から英語は必要か 文科省方針に賛否 - 共同通信 47NEWS という記事。

賛否両論あるようだが、はっきりいって今の小学生に英語は必須になるだろう。やっておくに越したことはない。

従来の英語教育というのは何より英語の文献を読み書きするためのもので、大学に入ってやっと意味を持つようなたぐいのものだった。これからは違う。カトコトでかまわないのでとにかく英語で外国人とコミュニケーションを取ることができることを目指さないといけない。

明治以来150年の日本というのは実にすばらしくて、多くの訳語を作り日本語でたいていの学問を身につけられるだけの本や資料を揃えてしまった。だから外国語が身につかなくてもなんとかなる国でいられた。

ところがそう言ってる場合でも無くなってしまった。21世紀に入り、情報爆発が起こったからだ。

インターネットにおける言語の使用 - Wikipedia

上記 Wikipedia の記事によれば、全ネット人口の3割近くが英語話者だそうだ。当然インターネットに書き込まれる情報も英語が中心となってしまう。他の言語では欠落があるわけだ。

Languages used on the Internet - Wikipedia, the free encyclopedia

実際に同じ項目の英語ページを見てみよう。そこには日本語版にはないインターネットのコンテンツが何の言語で書かれてるか、という情報がある。55.5% が英語だそうだ。日本語は4位だがそれでもたった 5% でしかない。

ついでにいえば日本語版のページは2013年のデータを元に書かれてるが、英語版は最新の2015年のデータにもとづいて書かれている。

日本語と英語ではこれだけ情報量が違ってくるのである。

そして英語はアメリカ人やイギリス人と話すためのツールではなくなっている。俺も英語で意思疎通をしたことのある人というと、英語圏から来た人なんて2〜3人で、大多数は他の国から来た人たちだ。タイ人、シンガポール人、マレーシア人、ベトナム人、ドイツ人、ラオス人、カンボジア人、韓国人、日本人(!)らと英語で意思疎通を(ギリギリなんとか、というところではあるが)やってきた。

俺は英語が非常に苦手でなかなかうまくはならないのだが、まあなんとか海外旅行レベルではあんまり困らないくらいにはなってきたし、動画を見ててもなんとなく言いたいことが把握できるくらにはなってきた。とても普通に「英語話せます」といえたレベルではないのだが、それでも英語の情報を検索したりするのにも非常に便利に使える。

また機械翻訳に頼るにしても日本語に翻訳してしまうより英語に翻訳したほうがわかりやすいことも少なくない。日本語というのはマイナーな言語なのでそこまでなんでも訳せるわけではないのである。

こうした「英語の世紀」の話は以前紹介した「日本語が亡びるとき」という本でも追体験できる。

koshian.hateblo.jp

どうやら昨年文庫版がでていたようなのでこの機会にでもぜひ。

まあそれだけなら小学生から学ばせる必要もない。中学英語をみっちりやればいいだけのことだ。

問題は英語と日本語が言語として非常に乖離しているということなのである。

これが韓国語やミャンマー語なら日本語と文法規則が似てるので、まだ覚えやすい。ヨーロッパ人が英語を学ぶ程度には簡単なはずだ。だが日本人が英語を学ぶとなるとぜんぜん違う言語を学ぶことになる。

おまけに日本語というのは世界でも音素数の少ない言語のひとつだ。中国語のように声調で意味が変わるもの(箸と橋など)もあるが、地方の訛りもあるのでさほど意識されない。韓国やベトナムが漢字を廃止できたのはおそらく発音が日本語とは比べ物にならないほど多様だからだ。同音異義語の数が日本より圧倒的に少ないのである。日本人同士で会話していても「それどんな字を書くの?」と聞いてしまうことがあるくらい、日本語は音素数が少ない。

つまりは外国語を学ぶとき、日本人は「日本語にない音」を聞き分けなくてはならないのである。

そんなものは子供のうちにやらないと身につくわけがない。子供の頃に音楽を学んだ人は外国語を覚えやすいというのだが、これも音楽を通して「日本語にない音」を聞き分ける訓練ができているからだろう。なので小学生の英語の教科はこういう「日本語にない音」を聞いたり発したりすることに費やして欲しいと思う。

そしてもう一つの理由はもちろん「日本が落ちぶれてしまったから」である。

日本は円高で物価も高くそうそう外国人が気軽に旅行に来れるような国ではなかった。反面、日本人が外国に行くといろんなモノやサービスが安く買えた。

俺がバンコクでよく食べた日本食レストランの定食は、2009年160バーツだった。当時は確か1バーツ2.7円くらいだったので、400円ちょっとくらいで食べられた。いまはタイも物価が上がり、180バーツになった。そして円安になったので1バーツ3.6円くらい。600円を超えてしまう。だったら日本で食べるのとさほど変わらない。

ちょっといいレストランで食事をしても2000バーツくらいだった。当時のレートなら5000円程度だったのだが、今のレートでは7000円以上である。

逆に日本のものがなんでも安くなってきた。500円以下で食べられるものも増えたし、運動するときに着てるシャツなどしまむらで180円だった。ここ5〜6年の変化はすさまじい。

当然円安で物価も下がってるのだから日本は「お得な旅行先」になった。2009年当時は700万人程度だった訪日外国人が2000万人にまで増えた。日本が「安くて手頃な旅行先」になったからである。

f:id:KoshianX:20160224062822p:plain http://www.mlit.go.jp/kankocho/siryou/toukei/in_out.html

そして日本は内需型国家なのに、その内需を支える人口は減る一方だ。2015年にはようやく少し上向いたが、一時的な現象だろう。今後「日本人」は減り続ける。内需も減り続けるのである。

となれば外国人に買ってもらうしかない。輸出依存度を高めたり、訪日外国人相手に商売をしなければならないのである。

タイはご存知のように観光立国なので、バンコク都内の中心地は割と英語が普通に通じる。スターバックスの店員で英語が話せない人は見たことがないし、たまに日本語も混じったりする。そう、2か国語話せるのは当たり前で、3ヶ国語以上話すのも割と普通なのである。

俺が日本国外で出会ってきたエンジニアたちも、2か国語しか話せない人というのはあまりいなかった。たいていは母国語+英語+αの3ヶ国語は話せるもので、すごい人になると7ヶ国語くらい話せる人もいた。

俺も一応日本語英語タイ語と3ヶ国語を学んではいるのだが、まあ実用性あるレベルまでもっていくのはやはり難しい。「ありがとう」を意味する言葉だけは現地語を覚えようと、ベトナム語の「カモーン(感恩)」とクメール語の「オークン・チュラン」だけは覚えたりもした。

そう、これからの日本人は英語なんてとっとと学んでしまって「3つ目の言語」を手に入れなくてはならないのである。未来の話ではない。これは「いま現在」の話なのだ。

言語というのは筋肉みたいなところがあって、使い慣れないとなかなかぱっと出てこない。俺はやはり外国語が苦手なせいもあり、レストランで "Can I have a menu?" の一言がぱっと出てくるまで1年くらいかかった。カフェで店員だと思われたのか "Do you work here?" と聞かれた時は walk に聞こえて「いや俺座ってるんだけどなあ」と不思議におもったりもした。


Learning English pronunciation - Work & Walk - Can you tell the difference? 英会話

英語なんてまだ音素数は多い方ではない。タイ語や中国語やベトナム語のほうが音素数は多いのだ。

こういうのはやっぱりしっかりと聞き慣れたり自分で発音してみたりしないと身につかない。それも早いうちのほうが耳は鍛えられる。

そういうわけで早期英語教育には大賛成である。とっととやって「3つ目の言語」を手に入れよう。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>