狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

東京オリンピックまで147日だったので「AKIRA」を見てみた

実は未見だったのだが、80年代アニメ映画の金字塔「AKIRA」を見てみた。東京オリンピックまでちょうど147日だったのでいい機会かなと思って。

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2020-02-28

さすがにもう30年以上昔のアニメでたいへん古いのだが、それでも作画はとても美しく、4Kリマスター版を見てみたくなる出来栄えだった。

しかし80年代後半というあの時代の、いわゆる今で言う左派的な世界観が凝縮された映画でもあるなと思った。

大衆のデモで投げられる可燃物と思しきものの煙など、あれは学生運動の時代の風景なのであろう。いまも禍根を残しがちな「科学では解明できない」「人間が取り扱うには大きすぎる力」など、現代でやれば失笑ものであろう。

かつて第二次世界大戦終結したころ、人々の間では「モダンに対する不信感」が募っていたらしい。モダン──近代的であること、科学的であること、合理的であること、そうしたものは結局のところ人を不幸にするのではないか。人間という小さな器では理解できない大きな存在があるのではないか、合理的なモダン建築はただただ冷たいだけではないか。合理性の行き着く先がナチスであり、原爆だったのではないか。

そうした思いはアニメの世界にも入り込むものがあり、「機動戦士ガンダム」で描かれた宇宙移民という合理性を超える力をジオン公国という形で見せつけた。科学が解明できない大きな力として、人類の革新「ニュータイプ」という存在が配置された。

AKIRA」でもそうしたものは存分に描かれる。「科学では解明できない力」に目覚め、飲み込まれていく鉄雄。それに対抗するのは合理性とはかけ離れた不良少年金田。この作品でも「科学者」という存在は「好奇心に負けて愚かな研究に手を出す」という存在に描かれる。あの時代は、そういう合理性や科学への不信が募っていた時代だったなあと、いささかの郷愁を覚えながら121分を楽しんだ。

いまならわかる。モダンであること、科学的であること、合理的であること、それらは人間を不幸にするわけではないのだと。

合理的で画一的なモダン建築は、いま思えば風景が人間に与える心理的影響が考慮されてなかった。正しく合理的に運用され適切にリプレース計画が実施された原子力が人間を不幸にしたことなどなかった。不幸を生み出したものは、モダンさが足りてなかった。合理的でも科学的でもまったくなかった。我々はいまだにウイルスに感染していても出勤を命じられ満員電車に乗りウイルスを撒き散らすくらいには、非合理的で非科学的で、まったく前近代的な生活をしている。

モダンの徹底なきポストモダンはないと宮台真司は言った。

我々は近代主義に立ち返る必要がある。あの頃のただただ伝統的なものを否定するだけの近代主義ではなく、人間心理も合理的に捉えた新しい近代主義を始める必要がある。伝統には伝統の合理性を、いまの我々は見出すことができるはずだ。

AKIRA」というモダン不信の時代に描かれた物語を見て、その思いを新たにしたのである。

大事なことはみんな e-sports に教わった

香川県はゲームよりも「うどん依存」を規制せよ という記事。昨今話題の香川県議らによる超党派のゲームやインターネット規制についての痛烈な皮肉で、まったくそのとおりであるとしか言いようがない記事だった。

すっかり知のインフラとなったインターネットを子供たちから取り上げることが、情報の少ない地方でどれほどのハンディキャップになるか、ろくに考えてないのは褒められたものではない。

それにゲームがどれほどの意味を持つかもわからないようだ。

子供たちに人気のある Minecraft というゲームは、ブロックを組み上げて回路を作って自動化するようなこともできる。また mod_python を入れることでブロックの組み上げ操作をプログラミングで実現することもできる。

はっきり言って教師がプログラミングなんかを教えるより、子供たちに自由に Minecraft で遊ばせておいたほうがよぽどプログラミングが学べるはずだ。

Minecraftで楽しく学べる Pythonプログラミング

Minecraftで楽しく学べる Pythonプログラミング

また Raspberry Pi 用の Rasbian という OS には最初から mod_python の入った無料版の Minecraft Pi が付いている。テレビにつなげてすぐさま Minecraft が遊べてプログラミングが学べる。

子供たちに一人1台のコンピュータを与えるというのならこれと安いモニタで十分じゃなかろうか。ゲームを遊んだり改造したりはプログラミングの入り口として最良であることは、マイコン世代のプログラマたちの経験からも確かであろう。

e-sports が教えてくれること

さて、ここ2〜3年ほどは Rocket League という e-sports をやっている。まだ800時間ほどしかやってないのでようやく中級者と言えるレベルになってきたかなあという感じなのだが、ここまででも学びの多いスポーツだなという思いがある。


RLCS League Play Promotion Tournament - Cloud9 vs G2 Esports

上記の動画を見ればわかるとおり、3 on 3 のラジコンカーでやるサッカーである。チームスポーツというのはよくよく考えてみるとちゃんとやるのは初めてなのだが、実に学びが多い。

仲間の士気をさげないこと

もちろん技術の差が大きければひとりでもなんとかなるのだが、似たような技術レベルの人たちがマッチングされるためにそんな大きな差がうまれることはほぼありえない。

ボールをひとりで敵陣まで運んだところで、センタリングまではできてもゴールまで入れられることは稀だ。味方が適切なポジションにいてくれないとどうしようもない。

またボールは車より速く飛ぶこともあるので、がんばって自陣まで戻ったところで敵のシュートをブロックする位置までたどり着けないことも多い。ディフェンスをしっかりやってくれる仲間がやはり必要だ。

こういうゲームなので、味方の士気はけっこう重要だ。あんまり上手じゃないやつに限ってチャットで味方をなじったりしている。そうすると士気がさがり、勝てるゲームも勝てなくなる。

全員が最後までがんばろうという意志があれば、逆転のチャンスだってある。

最後まで決して諦めないこと

ボールがゴールに入るかどうかに時間は関係ない。ほんの1〜2秒で入ってしまうことだってある。5分間のゲームだが、最後の40秒ちょいくらいで3点差をひっくり返したこともある。2点差をつけられたらそうそうに諦めるような人も多いのだが、もったいないことだ。最後まで自分たちの勝利を信じて戦い抜くことで、本当に逆転できることは少なからずあるのだ。

強い人と戦うことで自分も強くなる

最後まで諦めないことの重要性はもう一つある。決してかなわないような強い相手とのゲームも、必死で対応し続けていると自分たちのレベルが上っていくのだ。その試合は負けてしまっても、次の試合では相手の動きがゆっくりに見えて余裕で勝ててしまうこともけっこうある。そうやって少しずつ、自分たちのレベルも上がっていく。

自分の限界を自分で決めないこと

プロの動画を見てると、とてもじゃないができないような動きをしていることが多い。そんなプレイはただやってるだけでは身につかない。意識して上手な人たちのプレイを真似することで、自分自身の限界が上がっていく。

「ここまでしかできない」という思いが、自分自身の可能性を狭めてしまってるのだ。それに気づいたのは、やはりプロの動画を見たあとのプレイが変わることを何度も経験したからだ。

この距離でジャンプしてもボールには届かないと思っていたら、プロは余裕で届いてたりする。届くものなんだという思いがあれば、そこに果敢にチャレンジしていける。そうすることでやはり技術が上がっていくのだ。

仲間を信頼することの意味

仲間を信頼するということばの意味は、自分が手抜きしてもいいということではない。「あいつならディフェンスを任せておいても大丈夫だ」という信頼で自分は遠くのブーストを取りに行くなんてことはしてはいけない(しないといけないときもあるけど)。誰にだって必ずミスはある。それに備えてフォローできる位置まで急いで駆けつけるのだ。

むしろそういう「あいつならちゃんとフォローできる位置まで駆けつけてきてくれている」という信頼こそがミスを減らしてくれる。敵のチャンスを潰し、自分たちのチャンスを作る要素になる。これが「仲間を信頼する」ということなのだ。

頑張れば必ずうまくなる

一緒にやってる仲間は、俺が始めるまで空中でボールを捉えるなんてことは一生できないと思っていたという。俺が空中の練習をやり始めたことで自分にもできるように思えてきたらしい。練習はとても大事。いろんな練習をすることでプレイの幅が広がり、対応できるボールも増えていく。

それは決して無理なことではなく、チャレンジし続けていれば必ずできるようになるのだ。

体力はとても大事

体を動かさない e-sports だが、それでも体力は大事だ。5分間の試合とは言え、5試合も6試合もやってると集中力がだんだん落ちてくる。感覚もズレてくる。当てられたはずのボールに当てられなくなる。

こういう集中力を支えるのは体力だ。Rocket League の試合を戦い抜く集中力をつけるために、走り込みや筋トレも始めた。どこまで続けられるかわからないが、少しずつでも体力を付ける努力は続けていきたい。最後まで全力で戦える力をつけるために。

Rocket League (Official Game Soundtrack)

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  • 発売日: 2017/11/30
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だいじなのは学びをサポートすること

子供の成長に大切なのは、子供の夢中になってるものを取り上げることではない。そこから子供たちが何かを学べるように、サポートしていくことが大事だ。

ゲームをやらせないことなんかより、無能な味方を非難して士気を下げるような子供たちをちゃんと叱ることのほうがずっと大事なのだ。これができてる教員はそうそう多くない。

子供たちに必要なのは、適切な成功体験と適切な失敗体験だ。e-sports は、ゲームはそれを教えてくれる。失敗しても信頼する仲間がフォローしてくれることも、仲間をサポートする喜びも、努力がきちんと報われることも、みんなみんなゲームが教えてくれる。

そういう学びをサポートできる大人でありたいものである。

社会学者とキレンジャーの錯誤

小宮友根准教授の記事に非難轟々。「初手から飛躍した議論」「ジェンダーフェミニズムの屁理屈は本当に害悪」「根本的に誤り」 - Togetter というまとめ。炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか(小宮 友根,ふくろ) | 現代ビジネス | 講談社(1/9) という記事へのお怒りの言葉が集められている。

当該記事に対しては先日ここでも紹介したヌスバウムによる性的モノ化の基準を持ち出してきたところは称賛したい。実のところこのヌスバウムの基準にあてはめればこれまで放火されてきたキャラクターや宣伝のほとんどは性的モノ化にすら該当しないことがわかるだろう。

さて非難の集まってる当該記事に関しては、対話を呼びかける言葉とは裏腹にいわゆる「オタク」層に対する差別と偏見を扇動してる側面がある。それをここで説明していこう。

まずわかりやすいのはコレだ。

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社会学者の考えるゲームにおける男女の描き方

炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか(小宮 友根,ふくろ) | 現代ビジネス | 講談社(1/9)

男性キャラはしっかり防具をつけ、女性は無防備に無意味な露出をしているという図。多くの人々が「あーあるある、ありがちだよねえ」と思うかもしれない。

本当にそうだろうか。

実際にこのような「鎧を着込んだ男性」と「ビキニアーマーのような露出の高い女性」をキャラクター選択画面で提示されるゲームのタイトルを1つでも2つでも挙げられる人はいるだろうか。少なくとも俺には思い当たらない。せいぜい80年代のドラゴンクエスト3の戦士キャラくらいのものである。そのドラゴンクエストでも最新作である11では8人の主要人物のうちマルティナとカミュという男女2人が露出高い担当であり、やはり男女の偏りはない。マルティナの露出に関しては以前に書いたこともあるのでそちらも参照して欲しい。

だいたいいまどきのゲームは初期装備はシャツとパンツがあるくらいで、いきなり立派な鎧を与えられてスタートするゲームなんて普通はないものだ。

記事中でも言及されているビキニアーマーは古典どころか当時から「防御力はどこにあるのか」といったツッコミが多数あり、80年代中にはもはやネタ的なものでしかなかったはずだ。1992年に発行された「スレイヤーズすぺしゃる ナーガの冒険」ではビキニアーマーを着た白蛇のナーガという人物の時代錯誤というか狂乱っぷりが笑いたっぷりに描かれている。

とっくに廃れた描写のはずなのである。

キレンジャーの錯誤

ソフビ魂シリーズ キレンジャー

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  • 発売日: 2004/09/24
  • メディア: おもちゃ&ホビー

キレンジャーの錯誤」という概念がある。戦隊モノのイエローはカレーが大好きで太めであるというのが「定番」であるというように、実際にはほとんど存在しない事例を「定番」や「お約束」と理解してしまう錯誤のことだ。実際にはカレー好きのイエローというのは初代キレンジャーだけのはずで、2代目のキレンジャーにはカレーの描写はおそらくなかったはずである。それ以降の戦隊モノでもカレー好きのイエローがいた記憶はない。小林亜星演じるバルパンサーの父親がカレーにうるさかったくらいではなかろうか。

ちなみに初代キレンジャーのカレー好きはすさまじく、1話で「カレーを4つくだされ」と注文し「うちのカレーは大盛りだ、2つにしときな」「いいや4つお頼みもうす」というようなやりとりがある。これは映画ブレードランナーの「2つで十分ですよ」「No four, two two four」というやり取りの元ネタなのではないか、という説もある。

ブレードランナー ファイナル・カット(字幕版)

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  • 発売日: 2015/03/15
  • メディア: Prime Video

こうしたキレンジャーの錯誤として有名な事例に、食パン少女というものもある。食パンをくわえて「遅刻、遅刻」と慌てて家を飛び出るという少女漫画の「定番」の表現だ。

いまは web archive にしかない 遅刻する食パン少女まとめ という記事に詳しいが、実際にはこのような少女漫画は存在しなかったようだ。なぜか我々人類は数少ない事例しかないものや見たこともない表現を「定番」だとか「ありきたり」だとか認識してしまう能力があるというわけだ。

こうした能力はおそらく偏見や差別心の形成に多大な影響を与えている。「オタクが好む作品は女がモノとして扱われてる」なんてのはまさしくそうしたキレンジャーの錯誤からの差別心の形成であろう。

「明白かつ現在の危険」のあったオタク差別

「オタク」(おたく)は、差別目的語であった - Togetter という記事で引用されてる当時の空気感を伝える漫画群、いわゆるオタクという属性に「明白かつ現在の危険」が存在したことを指し示している。いわゆるヘイトスピーチにおけるブランデンバーグ基準をおそらくは満たした状態で、テレビや新聞などのマスメディア、ひどいときは学術論文の場ですら偏見を垂れ流され、差別を扇動されてきた。なかには「オタク狩り」と称して買い物に街にでかけたオタクを狙った強盗、大阪日本橋秋葉原を中心にずいぶん発生していたようだ。

そうした状況がマシになってきたのはせいぜいこの10年程度のことであり、それも不景気によってオタクくらいしか消費を続ける人たちがいなくなってしまったので扱いが良くなったというだけである。

ろくに事例もないようなものを「ありきたりの表現」であるかのように作例し、意図したかしないかはともかくオタクやオタク文化への差別を蘇らせるある種の扇動として小宮准教授の記事は存在している。だからこそ多くの非難があつまるのである。

ちなみに国産ゲームとしては昨年1200億円を売り上げ、現在はほぼサブカルチャーとしてはメインストリームといえる Fate/Grand Order における代表的なキャラクターはこんな感じである。

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FGOにおける代表的な男女のキャラクター

元はポルノゲームのメインキャラクターでもこんな感じなのである。「無意味な露出」は男女ともに存在したりしなかったりしていて決して偏ってるということはない。いわゆる体型が服の上から明確にわかる「乳袋」に関しても、服の上から腹筋のシックスパックが見える男性キャラクターなんてのもゴロゴロしている。そこに男女の偏りがあるようには見えない。

女性キャラの露出に関しては性的モノ化からの批判よりも 「闇落ちヒロインがエロくなる」問題の差別性 から批判するほうがフェミニズムとしては筋が良いのではなかろうか。これももはや廃れつつあるが。

「顔のない女」という事例の存在しないものの例示

小宮准教授の記事がたいへん悪質だなと思うのは他にもある。

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存在しない「顔のない女」という例示の図

炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか(小宮 友根,ふくろ) | 現代ビジネス | 講談社(1/9)

このような顔を消されたキャラクターが描かれた事例が、この数年間の炎上であったことはない。みなきちんと顔が描かれてきたし、乳首が浮き出てるような凹凸があったものも一つもない。肌にツヤを書くことや関節にハイライトが入ることによる性的部位の強調などという主張にいたってはまったく意味不明である。最近のこうした絵はほとんどコンピュータ彩色であり、この歴史は非常に浅い。個人の持てるコンピュータで印刷に耐えられる絵が描けるようになったのもこの20年程度のことであり、1000年近い歴史のある油絵具や、紀元前から存在すると言われる水彩に比べ、表現がまだまだ多様化してるとは言い難い面はある。それにしても性的部位の強調というにはあまりにも強引すぎやしまいか。

他にも性的なメタファーとして「髪をかきあげるしぐさ」があげられてたのは他の方からもツッコミが入っていた。

棒アイスやバナナを性的なメタファーとして利用してたのは昨今の絵ではなく、80年代のアイドル写真集である。確か榊原郁恵だったと思うが、いつぞやのテレビ番組において、写真集の撮影で棒アイスやバナナをなぜか目を閉じてくわえさせれたことに大変怒っているのを見かけたことがある。同意してた同時代のアイドルたちがいた覚えもあるので、おそらくは実際にありがちだったのであろう。何も知らない少女に黙ってそういうポーズを取らせたのだからその怒りはまさしく正当なものであるし、なんなら一緒に非難しにいってもいい。だがそうしたものをなぜかゲームやアニメの定番であるかのように「キレンジャーの錯誤」をするのであればこちらも怒らざるを得ない。それは先述の通り苛烈なオタク差別の歴史を蘇らせるものだからだ。

対話をするなら差別を扇動してはいけない

記事の最後に議論の出発点に立ったなどとして対話を呼びかけているが、それならばまずはこれまで説明してきたような差別扇動をやめるところから始めてもらいたい。自覚はないのだろうが、まるでありもしない在日特権を非難しながら対話による解決を呼びかけるネトウヨのようではないか。よもやこんなことが俺がヘイトスピーチを学んだ本の共訳者のひとりから向けられるとは思いもよらなかった。非常に残念である。

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

ちなみに Twitter でも端的にこうした誤認を指摘するのに画像を引用したのだが、権利者削除になったようだ。正当な引用であり記事への批判として必要なものだったはずなのだが。この記事で引用してる画像も必要かつ正当な引用であると認識している。

アキバ中央通りの18禁ゲーム看板はなぜ問題なのかを真面目に考える

秋葉原に巨大なアダルトゲーム広告が登場 「子どもに有害」と批判の一方、表現の自由指摘する声もという記事。問題の看板は、当事者がツイッターで写真を上げてるので参考に見てみよう。

さてこの看板、普段なら表現の自由を叫ぶような人たちまでもが割と批判的になったり、沈黙してしまったりしているようだ。18禁ポルノゲームの看板であり、法律に合わせて修正されているので、おそらくは東京都の広告審査も問題なく通ってしまったのだろう。

多くの人々が「これはダメだ」と思うような表現というのはある。多くの人々がダメだと思うような表現だからこそ人権である「表現の自由」で守る必要がある。だがその表現の自由という人権を制約してでも止めなくてはいけない表現というのも、実際のところ存在はしている。

わかりやすい例がヘイトスピーチだ。ヘイトスピーチは「キモくて金のないおっさん」同様、そのままの語義だけ見てしまうと伝わらない言葉だ。そのまま読めば「憎悪表現」程度の意味合いとなり、ただの悪口とすら解釈されてしまう。

厳密な意味でのヘイトスピーチは、「明白かつ現在の危険」がある状況における加害煽動表現のことだ。ルワンダ虐殺はとてもわかりやすいサンプルだ。


千の丘自由ラジオのヘイトスピーチ Hate-speech excerpt from RTLM - Radio Télévision Libre des Mille Collines (1994)

ツチ族をゴキブリと呼び、駆除を呼びかけるこの放送は、実際に50〜100万人が殺される事態を引き起こした直接の原因である。

背景にはツチ族とフチ族の長い対立があり、大統領暗殺の犯人を巡ってお互いがお互いを非難し合ってたなど、火薬庫のような状態が続いてたことがある。こういう状況で上のような放送を行うと強烈な加害煽動メッセージとなり、本当に虐殺が発生してしまうわけだ。

欧州では反ユダヤ的言説をヘイトスピーチとして取り締まっているようだが、どうもこれも反ユダヤ言説がそのまま加害煽動になる火薬庫を抱えたヨーロッパの事情があるようだ。


10 Hours of Walking in Paris as a Jew

この動画を見ると、パリでキッパ(ユダヤの帽子)をかぶって歩いてるだけで変な男たちが寄ってきてめんどうなことになるのがよくわかる。こういう状況が「明白かつ現在の危険」と認識されてるということのようだ。

つまるところヘイトスピーチ規制は表現の自由という人権を部分的に侵害することになるため、慎重にその範囲を限定されている、というわけだ。なんでもかんでも禁止してるわけではない。

おそらく日本でもいわゆる在特会在日特権を許さない市民の会による暴力性の高いデモが起きなければ、ヘイトスピーチ解消法が成立することはなかっただろう。「明白かつ現在の危険」があるからこそ成立した法律というわけだ*1

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

このように、ごく限られた危機的状況に対応するために、表現の自由は制約されることがある。もっとも何を勘違いしたのかこれを拡大解釈しようという動きが地方自治体などでも起きていて、たいへん危険な状況になりつつあるのだが、その話はまた別の機会に。

さて、冒頭の話に戻ろう。秋葉原中央通り沿いのトレーダー3号店に設置された、「みるくふぁくとりー」というテックアーツ社のポルノゲームブランドの巨大広告の話である。同社の別ブランドSQUEEZの後継ブランドであり、SQUEEZ時代から続く「炎の孕ませ転校生」シリーズ最新作の広告だ。今回で12作目となる長期シリーズのようだ。

この広告は現行の日本の法律にはとくに抵触してないと思われる。日本での刑法175条で禁止される「わいせつ物」とは、警察がそのわいせつ性を恣意的に判断できるようになっている。最近でも春画を猥褻物から外したようで、春画の展示会なども取り締まられることはなくなったようだ。警察が猥褻と判断してるのは性器描写であるため、男女の向かい合う姿よりは性器が挿入された状態のほうが性器そのものが見えないので取り締まられにくいのだとか。今回の広告も性器描写はないため、警察の考える「わいせつ物」には該当しないということになる。

条例はどうか。東京都では東京都青少年健全育成審議会を起き、いわゆる有害図書指定を行っている。有害図書指定を受けると未成年の販売が禁じられ、陳列もゾーニングされた空間にしなくてはならなくなる。最近では女性向けのいわゆるボーイズラブ作品に対する有害指定が相次ぎ、18禁コーナーには入りにくい女性らの手に作品が届かなくなりつつある。しかしこれも本やゲームなどのコンテンツが対象であり、広告の規制にはならないようだ。

つまるところ法的にはなんら問題のない状況なのである。

にもかかわらず多くの人々が「この広告はダメだ」と感じている。それはなぜなのか。そうした人々の倫理観を明確にしていく倫理学という学問がある。

「性的モノ化」という概念はヘイトスピーチ同様ガバガバに定義を拡大して乱用されることの多い言葉だし、提唱してきた人たちもよくわかってないんじゃないかとすら思うのだが、ヌスバウムという人物が割と明確な「性的モノ化」の概念を提唱しているのを以下の論文で知った。

ci.nii.ac.jp

「性的モノ化と性の倫理学」と題されたこの論文からヌスバウムの箇所を引用してみよう。

以上のようなカントの議論とラディカルフェミニストのモノ化批判の間には密接な関係があ る。マーサ・ヌスバウムは“Objectification”(「モノ化」)という非常に優れた論文で、カント とラディカルフェミニストの両者の洞察に由来する説得的な議論を提示している(Nussbaum, 2002)。これは非常に興味深い議論なので若干細かく見てみたい。 典型的にはひと(person)のように、モノではないものをモノとして扱うのが「モノ化」である。ヌスバウムによれば、性的モノ化という概念は曖昧なだけでなく、実は根本的に集合的 な概念であり、これがポルノや買春を扱ったフェミニストの議論に混乱を引きおこしている。 彼女によれば、モノでないものをモノとしてとりあつかう(treating as an object)には少なく とも七つの意味がある。

  1. 道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
  2. 自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持 つことを否定する。
  3. 不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
  4. 代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
  5. 毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundary-integrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
  6. 所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
  7. 主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。

すべての「モノ」が上の特徴のすべてをそなえているわけではない。たとえば、たしかにたいていのモノは自律的でなく、また、その主観的経験を(道徳的に)配慮する必要はないかも しれない。また、すべてのモノをなんらかの道具として使うことができるかどうかは明確では ない。また、美術品(たとえばモネの絵画作品)のように、モノであっても、かけがえないの ないモノであり代替不可能で、毀損すべきでないモノもある。コンピュータのように、モノで はあるが、一定の意味では自発的活動性を有すると認められるモノもある。また、モノは誰か によって所有されることが多いが、富士山や月のように、通常の意味では所有されえないモノ もある。つまり、この七つの意味はそれぞれ論理的には独立の概念内容であると考えられる。 したがって、このさまざまな意味のどれが「モノ化」が倫理的に問題を含んでいると言われる 意味なのかを分析する必要がある。

CiNii 論文 -  性的モノ化と性の倫理学

この7つ項目に従って、トレーダー3号店のみるくふぁくとりー広告を見てみよう。

  1. 道具性

「おっぱいハーレムをゲット」という物をコレクションするかのようなコピーに道具性が現れている。

2 .自律性の否定

「孕ませ」というある種の強制性が自律性や自己決定能力を否定していると言える

3 .不活性

やはり「孕ませ」や「ゲット」といったワードに能動性の否定が見える。

4 .代替可能性

幾人もの似たような体型の人物が描かれており、またこれらをコレクション的に取り扱う文言があるため、代替可能性を示していると言える。

5 .毀損許容性

こちらも「孕ませ」というワードから毀損許容性を示していると言える。

6 .所有可能性

これもコレクション的に取り扱う文言があるため、所有可能性を示していると言える。

7 .主観の否定

顔を塗りつぶされてるというわけでもないので、こちらは該当しないと思われる。

このように見ていくと、かの広告は絵が性的だとかそういうことではなく、広告に載せられたコピーや作品タイトルに「性的モノ化」が潜んでいることがわかる。このあたりが多くの人々に非倫理性を感じさせる要因なのであろう。

もちろん性的モノ化されたポルノが存在することが悪いわけではない。だが広告としてどうか、というのは別の話である。

さらにいえば「性的モノ化」が悪いことなのか、という問題がある。

たとえば上記のようなアートはどうか。人間をモノ化し能動性や自律性を否定してはいないか。代替可能性を示してはいないか。そのような表象を広告に使ってはいけないのか。

もちろんそんなことはないのである。論文「性的モノ化と性の倫理学」ではヌスバウムも「チャタレイ夫人の恋人」を挙げ、「すばらしい性的モノ化」と評してることが記述されている。

では非倫理的な「性的モノ化」とはなにか。同論文では雑誌「プレイボーイ」を例にあげている。

ヌスバウムが典型的な『プレイボーイ』的女性描写と見るのは次のようなものである。

女優のニコレット・シェルダンがテニスをしている写真。スカートがまくれあがり、黒いパンティが見えている。「オレたちがテニスが好きな理由」というキャプション。

『プレイボーイ』の視点は、女性をその人格・出自・内面性から切りはなし、快楽のための 手段としてのみ扱っており、道徳的に問題のある「モノ化」の典型である。このような写真や キャプションは、「この女がどんな女で、なにをしていようとも、性的な快楽の対象なのだ」 というメッセージを伝えているという。

CiNii 論文 -  性的モノ化と性の倫理学

こうした道徳的問題を抱える「性的モノ化」とそうではない「性的モノ化」をどのように峻別したらよいのであろうか。

ヘイトスピーチの議論を思い出そう。「明白かつ現在の危険」があるなら表現の自由は限定的に制約され得る。もし女性が街を歩くのに男性保護者が必要なほどいつもいつも危険にさらされているなら、それは「明白かつ現在の危険」になり得るということだ。そこにある種の「性的モノ化」がヘイトスピーチのような加害煽動として機能する可能性は十分にあるだろう。

アメリカの強制性交は日本の強制わいせつの10倍もの発生率がある。これは定義を広げてるせいもあるが、旧定義でも7倍程度はある。暗数調査でも日本は比較的申告率も低くないので、認知されてない事案が多いということもないはずだ。

さてこの状況を「明白かつ現在の危険」と言えるだろうか。そしてあなたが問題視してる表現は「加害煽動」になり得るだろうか。アメリカではどうだろうか。日本ではどうだろうか。

どうせ議論するなら有益な方がいい。不快さだけが理由ならトライポフォビアのために草間彌生のアートや水玉模様を禁止してみたらいい。禁止すべき広告があるなら、禁止すべき理由をきちんと説明できなければダメなのである。

我々は自由主義国家の市民なのだ。自由であることに誇りを持とう。

*1:個人的には軽犯罪法を少し拡張するだけで十分対応できたのではないかとは考えているが、悪質な扇動者を長期勾留するには足りないらしい。

京アニを知る人も知らない人も「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」を今すぐ見てきてください

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 - を見てきた。テレビシリーズ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の外伝であり、期間限定上映、なおかつ新人監督の作品ということもあって、来年に予定されていた新作劇場版を待ちきれないファンのための映画だと思っていた。

間違っていた。ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝は一つの映画としてきちんと完成していた。これはテレビシリーズ未見の方にも見ていただきたい作品だった。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンを知らない人にも見ていただきたい。そういう気持ちを込めて、多少のネタバレも含めてここに書く。知らない人にも興味を持ってもらいたいからだ。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンは自動手記人形(ドール)として働く少女だ。いわゆる代筆屋であり、タイプライターを抱えてどこにでも赴き、依頼主の「伝えたい言葉」を手紙にするのが仕事だ。

序盤に描かれるのは「新時代」だ。戦争が終わり、新しい時代が始まる。自動手記人形は女性の仕事であり、依頼主に気に入られて結婚し引退するのがゴールの形だったらしい。しかしヴァイオレットの同僚たちは、新しい時代の女性の生き方を語る。生涯の仕事として自動手記人形をやるもよし、鍛え上げた文章力で作家になるもよし。自由に生きられる時代の到来、その予感に心躍らせていく。

そんな自動手記人形のヴァイオレットだが、今回は貴族の娘イザベラ・ヨークという少女の教育係として女学校に向かう。ヴァイオレットの身につけた礼儀作法を仕込んで欲しいということらしい。数カ月後に控えるデビュタント(社交界へのデビュー)までに、イザベラを立派な貴族として教育しなければならない。

映画では、時間経過を表現するのに早回しの映像が使われることがある。この作品でも時間経過に植物の芽吹きの早回しの映像が差し挟まれた。その美しさに、息を呑んだ。ただ美しいだけじゃない。芽がなんとも言えずかわいらしいのである。

アニメの本質はメタモルフォーゼだ。なにかが別のなにかに変貌するアニメーション映像は、アニメの初期から多く描かれ、人がボールになったり弾丸になったり、ぐにぐにと気持ちよくメタモルフォーゼしていく白黒アニメが多く描かれてきた。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンにおける芽吹きの早回しは、そんなアニメ独特のメタモルフォーゼのように描かれ、ともすると少しシリアスな物語をまるで童話のように和らげてくれていた。動く絵本のようであった。

こうした演出を仕掛けた新人監督藤田春香は、テレビシリーズ「響け! ユーフォニアム」8話の演出で話題をかっさらった人物だ。主人公級の2人の少女がうやく心を通わせていく重要な回であり、脱ぎ散らかした靴ひとつで心の壁が取り払われることを示すなど、その映像手腕にアニメファンたちの絶賛を浴びていた。

藤田春香の映像センスや演出センスは今回のヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝でも白眉であり、1つ1つのシーンがまるでイラストレーションのように美しかった。終盤、ぬいぐるみをぶら下げて窓から外を見る少女の図など、大きく印刷して飾っておきたいとすら思えた。

なかでも驚いたのが、イザベラのデビュタントで男役をすることになったヴァイオレット・エヴァーガーデンの衣装である。ダンスの男役なのでパンツスタイルなのだが、ドレスといって過言ではない女性的な美をたたえており、衝撃的なデザインだった。このデザインは京アニの方のオリジナルなのだろうか。

こうした思い切ったデザインを取り入れていく様は、まさに「新時代」を予感させるのにふさわしいだろう。

教育係ヴァイオレットと貴族の娘イザベラは少しずつ「友人」になっていく。イザベラはどこにでも行けるヴァイオレットを羨望する。イザベラも自由に羽ばたく未来を夢見ていた。だがそれはかなわない。貴族の娘として生きることを決意したイザベラに、自由はない。

普通の物語なら、イザベラの不幸を嘆き自由を求めるお話になるかもしれない。だがこの映画は違った。イザベラは肺病を患っており、寛解の希望はない。自由を手に入れたイザベラは、おそらく長くは生きられないだろう。貴族に「売り渡した」彼女の人生で得たものは、映画の後半に描かれていく。

イザベラにはともに暮らした言葉もまだ怪しい幼い少女がいた。血縁もないその幼児を妹と呼び、テイラーと名付けて孤児が孤児を育てる険しい暮らしをしていた。貴族の娘となったイザベラと別れたテイラーは、一通の手紙に生涯を決意する希望を見出す。

テイラー・バートレットという名の少女が得たものは永遠と憧憬。「幸せを運ぶ」郵便配達人に強烈に憧れた少女が、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの元を訪れることで後半の物語が始まる。

諦めたイザベラと、希望に向かってまっすぐ走り続けるテイラー。対象的な二人だが、どちらかが幸せでどちらかが不幸なんてことはない。二人とも正しくも間違ってもいない。ただただ、自分と愛するものにとって、きっとベストだと信じた道を歩み続けている。

「愛してる」とはなにか。それはヴァイオレット・エヴァーガーデンの本編を通してヴァイオレット自身が探求していくテーマだ。

イザベラとテイラーは間違いなく愛し合う家族だ。その二人の愛をつなぐのは手紙、届けるのは郵便配達人だ。

仕事に飽きてきていた郵便配達人ベネディクトは、テイラーの思いを受け止めてこう言う。

「届かなくていい手紙なんてないからな」

テイラーの憧憬を一身に浴びるベネディクトは、郵便配達人としての誇りを少しずつ取り戻していくようだった。

どれだけ大好きな仕事でも、辛くなるときやむなしくなるときはある。自分で選んだ道を、後悔せずとも苦しく思う日だってある。どれだけ愛していてもだ。

あの女学校でひねていたイザベラもそうだった。おんぼろのバイクで飽き飽きした仕事を繰り返すベネディクトもそうだった。

だが「愛してる」ということは、何度でも恋に落ちることができるということだ。恋い焦がれた仕事、恋い焦がれた人生、愛してるからこそ裏切られてもまた恋することができる。もう一度踏み出すことができる。

この映画は7月16日に完成したそうだ。その後に起きた事件の話は、いまはしたくない。ただ言えるのは、これは俺たちの知る京都アニメーションの最後の作品になったということだ。京アニの復活は信じているしいつまででも待つ。だとしても消えた人々が蘇るわけではない。同じ「京アニ」には、おそらくならないだろうし、きっとなるべきでもない。

上記は中国のアニメ雑誌編集者が書いた文章の翻訳だ。日本のアニメシーンにおける京アニの存在の大きさを知れば知るほど、絶望しかないことがわかる。

京アニ」はきっと、新しく始めるしかないのだろう。それがゼロからというわけではないことに、希望はある。もう一度踏み出し始めてる人々が、そこにはいる。

この映画の封切りと前後して、ヴァイオレット・エヴァーガーデン劇場版本編の公開延期が発表された。新時代を生きるヴァイオレットたちに会える日はきっと来る。その時の京アニは、俺たちの愛した京アニとは少し違ってるかもしれない。でも何度でも恋に落ちるだろう。そうなることはとっくにわかっている。

いつか届くはずの手紙を待ち続けるイザベラのように、俺たちもずっと待ち続ける。ヴァイオレット・エヴァーガーデンと、唱えながら。

自由主義の結末は、結婚も労働もせず生きる社会

「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」 という記事。未婚の理由「めぐり合わない」 一方で「探していない」も という記事の感想文なのだが、まあ実にそのとおりだよねえと思うしかない話だった。

p-shirokuma.hatenadiary.com www3.nhk.or.jp

自由主義社会は個人の自由意志こそが至上だ。誰にも強制されない代わりに誰も責任をとってくれない。自由とはそういうものだ。

自由主義を強く描いたゲームに、Assassin's Creed シリーズがある。

Nothing is true; Everythig is permited. 真実はなく、許されぬ事などない

Assassin's Creedより

これがシリーズを通して提示されるアサシンたちの信条であり、主人公たちアサシン教団は人々の自由を守るため、全体主義を是とするテンプル騎士団と世界の裏側で戦っていくのである。

だが、こうした自由を描いてきたアサシンクリード・シリーズも、その自由に疑問を呈していく。

I understand now. Not a grant of permission. The Creed is a warning. Ideals too easily give way to dogma. Dogma becomes fanaticism. No higher power sits in judgement of us. No supreme being watches to punish us for our sins. In the end, only we ourselves can guard against our obsessions. Only we can decide whether the road we walk carries too high a toll.

だが今ならわかる。信条が与えるのは許可ではなく……警告

理想は容易く独断と化し……独断は……狂信と化す

我々を裁く存在も……我々の罪を監視する最高存在もいない

己を……護る事が出来るのは己自身

進む道、払う犠牲を選ぶのは己自身

Assassin's Creed: Unity より

「その自由は、本当におまえを幸福にするのか?」

そう問われているようだ。

自分自身だけじゃない。自由を重じんれば重んじるほど、我々は他人の選択肢を少しずつうばっていることがある。自由主義社会において、企業は人を雇用するもしないも自由である。どうせなら気に入った人物を雇用したい。企業がそうして選り好みすればするほど、就活に行く若者たちはそれの要求に応えるべくいわゆる「量産型」と呼ばれるような同じような見た目になっていく。選考する自由が、選考を受けるものの自由を奪っていく。

こんなことはあちこちにあるのだ。上記記事のような恋愛や結婚にだってある。まずはその現実を認められなければ話は始まらない。

矛盾社会序説──その「自由」が世界を縛る という本には、そうした事例がいくつか紹介されている。

「Big, BlackDogSyndrome(大きく黒い犬の問題)」ということばがある。ア メリカの捨て犬の保護施設で用いられる語句で「引き取り手がなく殺処分さ れるのは、黒い大型犬ばかり」である状況を指したものだ。毛並みの明るい、 あるいは小柄な捨て犬は、比較的容易に引き取り手が現れる。一方、大きく 黒い犬は、万人受けするような外見ではなく、攻撃的で凶暴なイメージを持 たれがちで、引き取り手がなかなか現れないのだという。

矛盾社会序説──その「自由」が世界を縛る

矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る

矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る

このような「大きく黒い犬の問題」は、キモくて金のないおっさん問題などとしてネットでもいくたびか話題になってきた。こうした魅力は実のところ生まれ持ったものだけでほとんどが決まってしまう。

確かによい姿形をしていることだけが有利に働くわけではないのだが、人々が好感を持つポイントというのはおおむね習慣によって形成される。曰く、箸の持ち方がきれいだとか、歯がきれいだとか、気遣いができるだとか、清潔感があるだとか、動作音が小さいだとか。こうしたものは生まれた家の習慣が反映されていくのである。

これは正直言うと実体験でもある。俺の生まれた家は職人の家系であり、粗野な言動や早食いが美徳であった。職人というのは思いのほか忙しいものであり、ちゃっちゃと仕事を片付けるためには儀礼的なことなどまどろっこしいことはしてられなかったのである。またたくさん食べてたくさん働くことを良しとされていたので、食べ物はおおいに与えられた。そうした食べ物はあとで栄養バランスを調査して気づいたのだが、脂質過多で食物繊維のほとんどない食事だった。おそらく職人が短い食事時間のなかたくさん体を動かすためのエネルギーを補給する食事だったのであろう。

そんな食事を現代社会のデスクワーカーがしていれば太るし体を壊す。こうした食習慣の見直しをいまでも少しずつ進めている最中だ。

そんな中で気づいたのだが、食事によって集中力も生産性もまるで違ってくる。脳を効率的に動かす習慣を身につけるには、脳を効率的に動かす習慣をもった家に生まれるのが至上である。それがなされなかったときに改善をするのは、習慣という無意識に埋め込まれたものだけに、まず気づくことが難しい。

こうした文化的な財産を「文化資本」と呼ぶそうだ。

ja.wikipedia.org

文化資本を持たない者たちにとっての福音は、インターネットが普及したことである。情報爆発が起き、自分たちの習慣が悪い習慣であることに気づくことが増えた。よい習慣もぐぐれば見つかることが多い。

だがそれでも足りない。習慣の違いは他人と一緒に暮らすことで気づくことが多い。同じ家の中で少しでも生活をしてみると、歯磨きの仕方や片付けの仕方、食事を用意して片付けるまでの手順、様々なところで違いを発見する。それも相手に敬意を持ちながら見てないと絶対に気づかないだろう。

最初に紹介され記事で見つけたのだが、フランスではひきこもりでもデートする という。これも習慣の差として見てみると実はそんなに不思議でもない。ひきこもるほど社会で傷つき、家族の理解が得られなかったとしても、食事はするし散歩くらいはしたほうがいい。公園でも高くもない店のランチでも、異性と会って話す機会をみんなが作ろうとしてればそりゃ作れる。

先進諸国では子供の養育コストの増加からどこも少子化ではあるのだが、フランスが様々な出産子育てと就労の両立支援で出生率を回復させたのはこうしたデート文化の強さもあるのであろう。

日本も含め、アジアでは結婚するまで子供を産まない傾向が強いという。フランスのような対策は効果が薄いかもしれない。お見合い文化は廃れ、恋愛もしないというのでは、そもそも子供を生む前提を2枚も3枚も壊してしまってる状況だ。

日本の知識階層は新渡戸稲造の昔から、欧米の習慣をコピーしてくることを是としてきた。脱亜入欧路線を推し進め、先進諸国を急いでキャッチアップしなくてはならない後進国としてはそれもしかたなかったのであろう。だが日本も先進国入りし、独自の問題を発生させてるさなかに、欧米をコピーしてくる対策が果たして有効だろうか。そのコピーは、日本の状況を正しく認識できているだろうか。

日本では男女の賃金格差が高いと言われるが、実際のところ結婚すると男性の収入を使うのは配偶者である女性の役割になる。ファイナンシャルプランナーなどの話を聞けば、手取り月給の1割程度が適正な男性の小遣いだそうだ。残りの9割は家のことに使われ、たいていその権限は専業主婦である女性に持たされる。昭和の頃は自分の妻を「大蔵省」と呼ぶサラリーマンたちも数多くいた。こうした習慣は欧米にはあまり見られないものだ。そして権力とはお金の権限を持つものこそが強い。世界一、男より女が幸せな日本 などと言われるのもそうした習慣が要因であろう。

同時に、男性の不幸度が妙に高いのもやはり日本である。これはいわゆるセクハラ・パワハラ、そして長時間労働が労働環境に蔓延してるせいであろう。日本は「働かない」というだけで幸福になれるくらい、働くことこそが不幸の要因となっているのである。女性の社会進出により、そうした労働環境の問題がようやく注目されてきたとも言える。アファーマティブ・アクションの効果ここに見たりという気分だ。

昨今ようやく「男のつらさ」が注目されるようになってきたのはとてもいいことだ。それは労働問題に楔を打つことになるであろうし、労働組合が雇用維持にだけこだわるのも意味がないことに人々は徐々に気づいてきてる。

男性が男性であるがゆえにまず逃れることのできない「労働」という問題。そこが幸福なものになれば、子供を持つような余裕も生まれてくるだろう。人を愛する余裕も生まれてくるだろう。そうした余裕が生まれたとき、本当に異性を、人間を愛するかどうかなんて、わからないけれども。

あるいはそもそも「労働」というものから解放される可能性もある。優秀でなければ仕事が無い時代の幕開け はもうずっと前から始まっている。儲かっている企業ほどその自由を行使し、優秀でない人間を排除しているからだ。彼らからたくさんの税金を取り再分配をすれば、充実した生活保護ベーシックインカム負の所得税で、働かずとも生きていける社会になるかもしれない。少なくとも金持ちからもっと税金を取れというのは、欧米では先進的な金持ちの意見としてスタンダードになりつつあるようだ。

www.afpbb.com

むしろ目指すべきは、そういう働かない社会なのかもしれないね。

金持ち課税

金持ち課税

敗北するオスと余るメス、そして野生に抗えぬサピエンス

ようやく昨今「男の生きづらさ」が話題になるようになってきた。

note.mu

上記記事はデータを元に男性の生きづらさを明確に語る試みである。そのデータの読み方に批判はあれど、大筋では同意できる話だ。

男性という性は、基本的には勝利者と敗北者とで構成される。人間に近い生態を持つゴリラなどは、おおむね半数のオスたちが1〜3頭程度のメスからなるハーレムを形成し、半数程度のオスたちは男社会を築き上げるそうだ。四足の哺乳類などでも、やはりハーレムを形成しメスを巡って争い、勝利者のみが子孫を残せるような行動を取る動物は少なくない。

ホミニンと呼ばれる動物も、やはりハーレムを形成する。ホミニンは昔はいくつかの種がいたが、みな絶滅していまは一種しか残っていない。ホミニンの社会は表向きは一夫一婦制を取ることが多いが、その実いわゆるアルファオスたちは愛人を作り、正妻に隠して、あるいは公認を得て、事実上のハーレムを構築している個体は少なくない。

孔雀が羽を広げて性的魅力をアピールするように、ホミニンのオスたちも性的魅力をアピールすることには余念がない。この動物における最大の性的魅力は、その社会で流通する紙や金属でできた貨幣である。貨幣を多く持つことをアピールするために、ホミニンのオスたちはメスに食物や貴金属を贈与することが多い。ただの食物や貴金属では価値が限られるので、それらを洗練させる行為にもたいへん労力が割かれ、それらは個々の群れにおけるカルチャーとして発展している。食物や貴金属はたいへん美しく形作られ、付加価値を増し、それらをメスに贈与することによってホミニンのオスたちは持ってる貨幣の量の多さをメスたちにアピールするのである。

また、より多くの貨幣を持つオスの寵愛を受けるべく、メスたちの性的アピールも激しい競争が行われている。粉末やゲル状の物質を顔などに塗って血色をよく見せたり、カラフルな糸状のものを編み合わせた布と呼ばれるものに代表されるような装飾品を身につけるなどして、その性的魅力をアピールする。オスから贈与される食物や貴金属は、こうした性的魅力の構築に役立てられる。食物を得ることで脂肪の多い魅力的な肉体を作ったり、貴金属で飾り付けることによってより魅力的に見せたりする。

おもしろいことに、ホミニンはそうして作られた性的魅力を利用し、直接貨幣を贈与させる行為がしばしば見られる。大きく発展した群れではよく見られる行動で、オスよりメスのほうがこうした行動に出る事が多い。生殖を伴うこともあるが、不思議なことに生殖を伴わないことのほうがずっと多く見られる。ミツバチの求愛ダンスのような動作と独特の鳴き声を伴ったパフォーマンスを行い、異性から貨幣を贈与させることもある。ここには同性愛も少なからず見られ、動物の奥深さを知ることができる。また多くの個体の興味を引きすぎてしまい、怪我を負うこともある。

こうしたホミニンの性行動は、過当競争に陥りがちだ。力をつけて大きく発展した群れほど、そうした競争のあまりの激しさに疲弊し、子供が産まれづらくなる。より多くの貨幣を得るためにオスたちは生まれたての頃から、あるいは生まれる前からより多くの貨幣を持てるように親たちの指導を受ける。ホミニンはゴリラよりは乱婚だが、チンパンジーほど乱婚ではない。オスたちはメスを獲得できるほどの貨幣を得ることができなければ、子孫を残せないのである。もちろんゴリラよりは乱婚なので、チンパンジーにも見られるようにハーレムに忍び込んでメスに取り入り、子孫を残すオスもいる。だがそれは例外的だ。

メスにおける過当競争はたいへん目に付きやすい。競争をやめて自分で餌をとる個体も少なからず観測することができる。メスはメス同士で社会を構成し、チンパンジーにおける毛づくろいのような行動を取る。色のついた水や糖質の多い食物を分け合い、鳴き声を発し合うことで毛づくろいのような効果をもたらすようだ。

一方、オスの過当競争は目に付きにくい。競争に敗北したオスたちは巣にこもってしまったり、群れから離れて行動することが多いからだ。まったく群れと行動をともにしないわけではないのだが、敗北したオスたちは群れとの関わりを避けることが多い。諦めの悪い敗北オスが群れのハーレムやアルファオスたちに近付こうとすると、アルファオスやメスたちは苛烈な示威行動を取って敗北オスを群れから追い出そうとする。メス同様にオスたちも布や貴金属で身を飾り、その所持する貨幣の多さをアピールする。敗北オスたちはあまり貨幣がないので、そうした布や貴金属を入手することが難しく、一瞥して敗北オスであることがわかりやすいのである。

このように、ホミニンの敗北オスは群れだけを見ていると非常に少数に見える。群れにいるオスたちはメスたちを支配、あるいは食物や貴金属を贈与し、自分のハーレムに取り入れることに熱心だ。巣ごもりしたり群れから離れた敗北オスたちの行動についてはいまいちよくわかっていないが、メスの形状をしたものを作成する個体もいるようだ。こうしたものはメスたちに見つかると激しい暴力にさらされる。群れにいるオスたちもそうした攻撃行動に参加し、群れから追い出そうとする。

大きく発展した群れになると、こうした敗北オスたちの数はぐっと増える。貨幣をより多く得るための工夫が発達し、一部のアルファオスとその子孫たちが貨幣を専有し始めるからである。そうなると群れに残るオスたちもメスを抱えきれなくなる。ホミニンの生殖能力はそこまで高くないので、メスが余り始めるのである。

メスたちもごく一部のアルファオスにしか興味を示さないわけではない。貨幣をある程度持っていることがわかれば生殖に応じることも少なくない。みずから貨幣を所持し、オスに贈与する個体もいるがやはり例外的だし、やはり基本的にメスたちは敗北オスとともに群れを離れるような行動を取ることはめったにない。敗北する前につがいになった場合でも、オスの敗北が決定的になるとメスは敗北オスを群れから追い出す行動がよく見られる。

こうして大きく発展した群れは急速に子供を作らなくなる。競争はより過当になり、敗北オスも余りメスも増えていく。そう、ホミニンにおけるオスは敗北し、メスは余るのである。

こうして多くの敗北オスと余りメスを生み出した群れがどうなるかはまだわかっていない。他の群れから多くの個体を迎え入れてる群れもあれば、そうしない群れもある。いずれ群れの統廃合が起きたり、他のホミニンたちのように絶滅したりするのかもしれないが、それはまだ誰にもわからない未来のこととである。

さて、ホミニンの例にも見られるように、男性というのは勝利者と敗北者しかいない。敗北者は群れから疎外され、勝利者は群れを支配する。傲慢な人間は自分が動物であることを忘れるものだが、しょせん人間も動物であり、その野生はそんな人間の中にも内在しているものなのである。

こうした内なる野生と戦い、敗北者や余り者にも優しい社会を作ることは容易ではない。かつて「キモくて金のないおっさん」という概念が出現した時に見受けられた社会からの攻撃的な言動の数々を思い出してみたらいい。あれはそもそもそうした欺瞞を暴き出すための概念であり、それは大成功したといえる。自分の野生と戦うことすらできない人々が「キモくて金のないおっさん」を激しく攻撃することで、その欺瞞は見事に暴き出された。

解決する方法は2つある。ひとつは敗北者や余り者の不幸に寄り添い、彼らの幸福に寄与することだ。ゆっくりと滅びていくだろうが、非人道的なことはしなくて済む。

もうひとつは、敗北者の数を減らすことだ。一夫一婦制規範の高い社会では、経済活動が活発化し、より多くのマネーがより多くの人々の手に渡ることによって敗北者を減らすことができる。そのためには富裕層課税をして再分配をする必要がある。

金持ち課税

金持ち課税

この2つの解決は衝突するものではない。どちらも同時にできるはずだ。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>