狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

萌え絵が新しいオリエンタリズムにならない理由

炎上した「キズナアイ」問題…日本文化が描いてきた女性像から考えるという記事。炎上したのはキズナアイではなくて千田教授なのだが、その千田教授の論に比べてはるかにまともな批判なのでちょっと書いておこうかと。

まず簡単な部分を否定しておかねばならないのだが、

一般市民には“わかりにくい”“高度な科学的研究”を、“わかりやすく”“親しみやすい”キャラクターを利用して説明しようとする送り手側のコンセプトは理解できる。

ただし、説明をうけるキャラクターとしての「キズナアイ」と、解説する男性科学者の組合せは、“教える男性/教わる女子”という、メディアにおける男女の役割分担、特に教養的な番組の典型的なパターンに陥っている。

炎上した「キズナアイ」問題…日本文化が描いてきた女性像から考える

「教養番組の典型的なパターン」、本当にそうだろうか? 残念ながらテレビというメディアは検索性が皆無で検証は事実上無理なのだが、似たような「マンガでわかる」系の教養本における男女の役割分担についての調査がある。

見て分かる通り、2006年ごろまでは圧倒的に「男性が先生役、女性が生徒役」という配役が支配的だったが、2008年以降では男女比はほぼ同等か、若干ながら「女性が先生役、男性が生徒役」の方が多いと言える。(まあサンプル数的に誤差範囲ではあるが)

理系学習マンガは誰を先生役にし、誰を生徒役にしてきたか。-NHKキズナアイ騒動をうけて - 銀河孤児亭

こちらの調査によれば、10年ほど前までは確かに古典的な性役割が見られるものの、この10年ではほぼ解消されている。学問という場が社会の速度においついてないのではないか。

こうしたエビデンスに基づかない議論はソーカル事件を起こしたポストモダンを想起させる。モダンの徹底なきポストモダンはない。まずはモダンな合理性から始まらなくてはならない。ポストモダン建築もモダンな技術によって成立するようになったのである。

萌え絵が新しいオリエンタリズムに?

さて本題に入ろう。冒頭の記事には興味深い批判がある。かつてのジャポニズムが残したものについて、佐伯教授はこう語る。

しかし、一方で、アジアの女性を美化するあまりに性的なまなざしの対象とし、脆弱な存在として欧米人よりも低い立場とする発想は、強い欧米と弱いアジアという「オリエンタリズム」の構図を示し、手放しで喜ぶわけにはゆかない。

現実に芸者として働く現代の日本女性たちにとっても、ことさらに「ゲイシャ」が性的なまなざしの対象になるのは不本意であろう。

日本のポピュラー・カルチャーで描かれる、“かわいい”女性像の海外への輸出は、日本の女性といえば、未熟で性的な存在というステレオタイプにつながりかねないという点で、いわば21世紀の「オリエンタリズム」に陥る危険性がある。

炎上した「キズナアイ」問題…日本文化が描いてきた女性像から考える

結論から言うとこの不安についてはまったくの杞憂であると俺は考える。その理由を語るためには、キズナアイさんが自らのアバターに採用した萌え絵と呼ばれるスタイルと、その源流である漫画絵、特に少女漫画の絵についておさらいする必要がある。

少女漫画の絵はいかにして成立してきたか

萌え絵の歴史については以下ですでに書いたので参照してもらいたい。

萌え絵はポルノではなく、人間への回帰なのである - 狐の王国

上の記事でも引用しているが、少女漫画の絵の成立には少女雑誌に言及しない訳にはいかない。少女漫画はまず少女雑誌に掲載され、その後コミック誌として独立した経緯がある。

雑誌の表紙絵の少女像、その瞳は明治から大正、昭和にかけ徐々に大きくなっています。なぜでしょうか? 明治38年11月号の「少女界」の表紙絵。少女の目は、線や点でシンプルに描かれています。江戸時代以来の美人画の伝統を受け継いだ顔です。 大正5年2月号「新少女大」。正時代、竹久夢二の描く少女像が登場。初めて瞳が開き、瞳の輝きが描かれています。語りかけてきそうな、生き生きとした表情が生まれました。 大正15年2月号「少女画報」。夢二の後、大きな瞳が主流になります。高畠華宵(たかばたけかしょう)の描く少女は、大きな二重まぶた。白めが強調され、あでやかさが特徴です。 昭和14年4月号「少女の友」。瞳は、昭和に入ると極端な大きさになります。中原淳一の絵です。大きな瞳が支持された背景には、当時、自由な発言ができなかった少女たちが目で自分の意思を伝えたい、という自己表現への思いが反映されている、と評論家の上笙一郎氏は語ります。

file148 「少女雑誌」|NHK 鑑賞マニュアル 美の壺

竹久夢二中原淳一、確かにだんだん目が大きく描かれるようになったように感じられるのだが、俺はここに大きな断絶があると感じられる。上笙一郎氏の評論も的はずれであろう。中原淳一が目を大きく描いた背景には、西洋人形が影響している。

中原淳一のデビューが人形であったことは、まだあまり知られていません。十代の淳一少年が作っていたフランス人形を見て驚嘆した知人の推薦で、昭和7年、銀座松屋で創作人形展を開催。フランス人形というネーミングもその時に淳一が考えたものだそうです。その人形の叙情性を見た雑誌『少女の友』の編集者が、竹久夢二のあとを継ぐ専属挿絵画家として淳一を迎えたことが、淳一が仕事として絵を描いた最初であり、その後終生続くことになる雑誌創りの仕事との出会いでもあったのです。

人形 - 中原淳一ホームページ

中原淳一が自ら「フランス人形」と読んだそのスタイルは、幼児型でロココ調のドレスに身を包み、そしてなにより目が大きいものだった。西洋人の子供がモデルなのだから、それは当然であろう。

こうした中原淳一が活動の場にしていた少女雑誌というジャンルに、現代のような漫画を持ち込んだのはおそらく手塚治虫であろう。だが同時期に中原淳一にあこがれて絵を描いた高橋真琴という作家の登場が、おそらく少年漫画と少女漫画の絵を決定的に分岐させた事件であったと思われる。

高橋真琴は現在も現役で、地元の千葉県佐倉市では市のポスターなども描いていらっしゃるようだ。

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千葉県佐倉市で「佐倉“江戸”時代まつり」、11月11日開催 - 観光経済新聞

高橋真琴の絵は、漫画よりも女児向けの文房具や絵本などで馴染み深い人も多いだろう。少女と花という高橋真琴のモチーフは、おそらく女性と花をモチーフとしていたミュシャの影響によるものではないかと思われるが、これについては確証はない。社会学者の先生、高橋先生に直接聞きに行ってくれないですかね。

ともあれこうして少女漫画独特の絵柄というのは成立し、特に70年代や80年代においては西洋人顔が描かれることに対して白人に対する劣等感を指摘されもした。大元がフランス人形なのだからこれは妥当な批判とはいい難いと思うのだが。

国籍フリーの漫画絵

さて上記のように少女漫画絵は西洋人形を大元として出発したのだが、少年漫画はどうか。これはディズニーに明らかに影響された手塚治虫の絵が否定される劇画ブームに触れざるを得ない。手塚治虫が切り開いた映画のようなストーリー漫画の新基軸として、劇画という提案がなされたのは1959年のことである。ディズニーのようなデフォルメされた等身ではなく、もっとリアルな等身で描かれ、シリアスなストーリーを彩った。小池一夫梶原一騎らの作るストーリーや、池上遼一のようなしっかりしたリアルな絵が大いに受け入れられた。特に池上遼一は外見の美しさで劣ると考えられがちだったアジア人の特徴を捉えながらも、それを非常にかっこよく描くことが特徴的である。

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こうしてリアルな等身のキャラクターが描かれるようになった漫画だが、劇画ブームは70年代には一度収束する。

労働者階級の若者がメインターゲットの読者であった劇画は、当時盛んであった学生運動の熱狂と同期し、社会的なブームを巻き起こすことになる。貸本劇画誌を前身として1964年に創刊された「ガロ」(青林堂)は全共闘世代の大学生の愛読誌であった。1970年(昭和45年)3月31日によど号ハイジャック事件を起こした赤軍派グループの宣言「われわれは明日のジョーである」は当時の劇画の若者に対する影響力を物語っている。

だが、1972年(昭和47年)のあさま山荘事件などの左翼の過激化で学生運動が退潮したと同時に、革命をテーマに若者らに支持されていた劇画業界も冷え込んでいった。劇画は「重く」「暑苦しい」ものとして若者らから敬遠されるようになり、それまで人気を誇っていた劇画雑誌は1970年代中頃より急激に部数を落としていった。

劇画 - Wikipedia

萌え絵はポルノではなく、人間への回帰なのである」 でも書いたが、劇画ブームのあとの漫画というのは「かわいいヒロイン」が求められるようになる。それは硬派な時代の終わりでもあったのだろう。男たちはホモ・ソーシャルな熱血を好まなくなり、硬派の時代の人々から見れば「女のケツを追っかける」ようになる。そうした作品には劇画タッチの絵より、少女漫画の絵の要素を取り入れていくことが好まれていた。ヒロインの絵がまんま少女漫画タッチであったり、全体的に少女漫画絵の影響を受けていることがわかる作家も少なからずいた。また漫画家たちの画力も向上し、大友克洋鳥山明のような、イラストとしてみても遜色ないような絵で漫画を描く人たちも現れた。

こうしたムーブメントの中で、漫画絵というものはどんどん人種からかけ離れていく。西洋人顔ともアジア人顔ともつかない絵に変形していくのである。これは様々な理由が考えられるし、実際に様々な理由があったのであろうと思われる。

もともと手塚治虫時代の絵というのはディズニーの影響下にあり、そもそもが国籍と言えるものがなかった。カナダで放送された魔法使いサリーを見たフランス系カナダ人が「サリーちゃんはフランス人でしょ、フランス語を喋ってるし」と言われて困惑したという話を聞いたときには笑ってしまったのだが、この頃の漫画絵というのはそもそも国籍がなかった事が分かる話である。

80年代の漫画絵も、こうした基礎の上に成り立っていることがやはり影響しているのであろう。人種的な特徴を廃し、たいていの国の人々は自分の国の人間だと思えるような絵が多く見られた。キャプテン翼聖闘士星矢といった作品が海外でもたいへん受け入れられた背景には、こうした異国感の排除があったのであろう。こうした特徴はアニメでも見られ、スタジオ・ジブリの絵もまたアジア人が見ればアジア人に、西洋人が見れば西洋人に見えるような絵柄である。

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もちろんアニメ超時空シリーズのように海外で大ヒットしながらも、スタートレックなどの影響か人種多様性が見て取れる作品もある。とはいえ主人公一条輝が海外ではリック・ハンターという欧米人になれたのは、人種的特徴を廃した漫画絵だったことが大きいであろう。もちろんそうした海外展開を見据えてるからこそ意図的に人種的特徴を消していったのかもしれない。

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少女漫画と萌え絵

こうして人種的特徴を廃していく動きは少女漫画にも見られた。西洋人顔だった少女漫画絵も、丸みを帯びてアジア人とも西洋人ともつかない顔になっていく。

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またそもそも「美少女戦士セーラームーン」のように、少女漫画では金髪碧眼でも日本で生まれ日本で育った日本人として描かれるなど、人種的特徴と実際の人種は一致してないことも少なからずあった。髪の色もピンクや青など、実在する人種とはかけ離れて描かれることも少なくなかった。

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こうした動きは「人形化」として考えると原点回帰にも思える。人種も含む人間としての特徴が消えていき、人形のように描かれていく。中原淳一が目指したものも、やはり人形だった。

こうした少女漫画テイストの絵は、そのかいわらしさからポルノに転用されていく。アニメ「くりいむレモン」を筆頭に、90年代表現規制問題の端緒となった遊人による「ANGEL」などが代表的だ。

ANGEL(エンジェル) 改訂版 1

とくに遊人の絵はおそらく無断使用であろうが、街の性風俗店の広告などに広く利用されていく。バンコクの歓楽街でまで遊人の絵を見たときにはたいへん驚いた。少女漫画テイストの絵をポルノと勘違いしてる人たちが多いのだが、そうした人たちはおそらくロクに漫画も読まずに歓楽街で過ごす時間が長かったのだろうと思われる。性風俗店と少女漫画テイストの絵柄がイコールで結ばれてしまってるのだろう。子供たちには迷惑な話である。

また90年代に大ブームを迎えることになるアダルトゲームでも、やはりこうした少女漫画テイストの絵が使われるようになる。

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またやはり少女漫画テイストの絵で描かれたポルノコミックも多かった。その後児童文学の挿絵を描くことになる okama などが代表的である。

ふしぎの国のアリス (100年後も読まれる名作)

これまであげてきた作品やそれ以外の作品でもそうだが、設定上西洋人であったり東洋人であったりしても、まったく同じように描かれてることにお気づきだろうか。人種は設定上存在しても、文脈で理解するのがスタンダードなのだ。

こうした絵で鍛えられた絵師たちは、ライトノベルやアニメや漫画とどんどん活動の場を広げていった。いわゆる萌え絵と呼ばれるものはこうした少女漫画テイストだが少女漫画以外の媒体で使われてるものを指すようだ。

ライトノベルやアニメや漫画、アダルトゲームなどは、「人形化」された絵に人格とストーリーを宿すようになる。それが萌え絵の本質であると以前にも書いた。

「萌え絵」と呼ばれるスタイルがジャポニズムを超える日 - 狐の王国

人形であるがゆえに人種という属性を持たない。だが人格とストーリーはある。それゆえに愛される。人種などいう細かいことは気にしないのである。これは受け手もそうで、日本のアニメキャラクターに黒人が少ないことを嘆く向きはあるにはあるのだが、気にしない人たちもたくさんいるのである。黒人女性がセーラームーンのコスプレをしても、人種を理由に文句を言う人は見たことがない。宗教上の理由で髪を出せなくても、ヒジャブを髪の毛に見立ててコスプレしてる人たちもいる。いいぞもっとやれ、もっと楽しもう。

そもそも人間ではないのではないかという意見もあった。

どうみても白人とはまったく別の何かで、人間ですら無いというのが現状だ f:id:KoshianX:20181021085447j:plain

海外「なぜ白人はアジア人と同じようなアニメ絵を描けないの?」 【海外の反応】 : 海外の万国反応記@海外の反応

萌え絵はグローバル

以上のように、日本の発信する萌え系と言われる女性表象はそもそもが無国籍なのである。浮世絵のように明らかに東洋人が描かれてるわけではない。日本を感じさせるなんてこともおそらくないだろう。今の時代は韓国人や中国人が萌え系のイラストを描いて日本で出版してる時代である。

新訳 ナルニア国物語 (1)ライオンと魔女と洋服だんす (角川つばさ文庫)

おそらく次第に欧米人にも浸透し、欧米人の萌え系イラストレーターも出てくるであろう。アマチュアレベルではすでに存在してるはずである。

無国籍な表象であるからこそ、髪の色も肌の色も気にしない。同じキャラクターの肌や髪の色が変わったくらいでは揺れの範囲内。西洋人形を由来に持ち、少女漫画が生み出した「萌え絵」はまさしくグローバルなのだ。

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黒人の女の子が主役のパワフルな美少女戦士セーラームーン | パラリウム

この現状でジャポニズムのときのようなオリエンタリズムが発生しうるだろうか。まあ、ないだろうね。

「萌え絵」と呼ばれるスタイルがジャポニズムを超える日

なにやら近年、「萌え絵」をポルノだと認識してるおかしな弁護士だの社会学者だの大学教授だのが跳梁跋扈している。司法試験に受かったり学者になるだけの知力がありながら、たかだかこの40〜50年程度のオタク文化について調べもしないという態度は褒められたものではない。とはいえまとまった書籍があるかというと、特に「萌え」に関してはちょっと思い当たらないので、夜中にツイートしたものを下地にちょっと書き残しておく。

クィアとしてのオタク

そもそもオタクというのはある種のクィアであった。クィアというのはセクシャルマイノリティに代表される、標準的な異性愛規範から外れた人たちのことである。「少年漫画を読む女と少女漫画を読む男」たち、それがオタクであった。彼らは中高生や大学生、あるいは社会人となっても、子供向けの漫画を読み、アニメを見続けていた。それも男性は女児向けの、女性は男児向けの作品に夢中になっていた。当時としてはそうとう異常な趣味だった。

オタクがオタクと呼ばれる端緒となる中森明夫「おたくの研究」ではその序文で、彼自身がおたくと名付けることにしたという人々のことをこう書いている。

コミケット(略してコミケ)って知ってる?いやぁ僕も昨年、二十三才にして初めて行ったんだけど、驚いたねー。これはまぁ、つまりマンガマニアのためのお祭りみたいなもんで、早い話しマンガ同人誌やファンジンの即売会なのね。それで何に驚いたっていうと、とにかく東京中から一万人以上もの少年少女が集まってくるんだけど、その彼らの異様さね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。モロあれなんだよね。髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊っちゃん刈り。イトーヨーカドー西友でママに買ってきて貰った980円1980円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前はやったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らが、どこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!それも普段メチャ暗いぶんだけ、ここぞとばかりに大ハシャギ。アニメキャラの衣装をマネてみる奴、ご存知吾妻まんがのブキミスタイルの奴、ただニタニタと少女にロリコンファンジンを売りつけようとシツコク喰い下がる奴、わけもなく走り廻る奴、もー頭が破裂しそうだったよ。それがだいたいが十代の中高生を中心とする少年少女たちなんだよね。

『おたく』の研究 第1回 | 漫画ブリッコの世界

1983年というこの時期に書かれたこの文書により、当時の「オタク」と呼ばれることになる人々がイメージできるだろう。バブル前夜の高度経済成長期、スーパーマーケットで売られてる服は軒並みダサいと言われ、それなりの値段のする服をそれなりの場所で買い揃え、それなりに着こなしていることは当時の若者の間では実に常識的なことだったようだ。それに反していた彼らはその時点でだいぶ異性愛規範から外れていたのである。そして中森明夫が参加したというコミケ、当時は出展者の8割程度は女性だったはずである。コミケというのは女性オタクたちの祭典であり、オタクというのは主に女性の趣味でもあったのだ。

「萌え」の発見

70〜80年代、こうしたクィアな趣味の中で育まれたオタクたちが「萌え」という感覚を見出すのが90年代である。

これは「燃える」の誤変換から生まれたという説もある。要するに夢中になってしまう何かを見てしまったときの感情表現なのである。

誰もが経験したことはあるのではないか。猫の異様にかわいい仕草をみてしまったとき、犬のつぶらな瞳に見つめられたとき、子供の無邪気な姿を目の当たりにしたとき、壁に頭を打ち付けたくなるような激しい情動を覚えたことはあるのではないか。

そう、それが「萌え」である。

この言葉は男性オタクたちによって生み出されたようだが、すぐに女性オタクたちにも波及していく。今では「萌え」という言い方はだいぶ下火になり、「尊い」「まって」「無理」などの言い方がされることが多いように見受けられる。激しい情動に駆られて身も心もついていけない感覚が伝わってくる。まさに「ほとばしる熱いパトス」なのである。

さてこうした広範囲な「萌え」の感覚だが、オタク文脈にしたがってもう少し狭義の萌えを探っていこう。

女児向けのアニメや漫画を読むときに男性オタクたちが感じる「萌え」とはなにか。たとえば魔法少女アニメにおける変身シーンなどは「萌え」の対象だ。


セーラームーン変身

しかしこれは変身に伴う脱衣としてのエロスへの情動とも言える。


カードキャプターさくら「はにゃーん」まとめ

こちらのカードキャプターさくらNHKアニメということもあり、セクシャルなシーンはない。だがセーラームーンに負けず劣らず、あるいはそれ以上に90年代の男性オタクたちを「萌え」させた作品だ。

先述した犬や猫、小さな子供への情動としての「萌え」と合わせて考えれば、これが「少女的無垢性への憧憬」であることはきっとわかるであろう。

80年代から90年代、こうした少女的無垢性への憧憬としての萌えを感じ取っていた男性オタクたちは、多くが「ロリコン」を自称していた。これは「少女趣味」と言えば分かる人にはわかるであろう。少女的なかわいらしいもの、人形などへの愛着、少女雑誌や少女漫画のヒロインたちに対する憧憬。そうしたものを持つ男たちが、当時の感覚では「自分はロリコンである」と認識せざるを得なかったという、ある種の悲しい事情がそこにはある。

実際の所80年代のロリコンブームにおいて多くの児童ポルノが作られたのだが、その代表的なものはレズビアン活動家にして写真家の清岡純子の手によるものだった。当時の雑誌や書籍はもはや国会図書館においてすら閲覧禁止になっているが、清岡純子は本人やその家族との交流の中でずいぶんと平和的に少女たちのヌード写真を撮影していた、というのを当時の雑誌に寄稿していたようだ。

そういうかわいらしい少女写真だと思って欧米の児童ポルノを見てみると、あまりの違いに衝撃を受ける。欧米のそれは本物の性的虐待の写真であり、犯行現場の写真だからだ。苛烈なまでにその所持の禁止を叫ばれた理由もよくわかる。90年代のインターネットではそうした写真もちょっと探すとすぐ見つかったのである。

そういうものではない、「男の持つ少女趣味」としてのロリコン文化というのが80年代から90年代にかけて存在していたということは指摘しておくべきであろう。だがそれを「ロリコン」と自称していたことに現れているが、まだこの当時は「萌え」と「エロ」の区別が本人たちもついていなかった。

これは違うものだという認識が当事者たちの間で広まったのは、90年代に巻きおこったエロゲブームである。その端緒となる1992年の「同級生」には興味深いエピソードがある。

元々アダルトゲームには『TOKYOナンパストリート』(エニックス:1985年4月)を祖とする「ナンパ」というジャンルが存在しており、町で見かけた女の子を口説いてホテルに連れ込むと、ご褒美画像であるエッチシーンが見られる…というゲームの流れが確立していた。1989年発売のエルフの初期作品『ぴんきぃぽんきぃ』は、その流れを受けたナンパアドベンチャーゲームであるが、蛭田昌人は『同級生原画集』(辰巳出版)の対談記事の中で、「『同級生』の大元は『ぴんきぃぽんきぃ』」、「最初は40日の期間内に50人の女の子を次々とナンパしまくるストーリー性の低いゲームだった」と語っている。

つまり、『同級生』も元々は「ナンパゲーム」(その証として、インストール時に作成されるフォルダ名が、「NANPA」)として開発されていたが、蛭田が竹井の絵を見るうちにヒロインをただナンパしてセックスさせるだけでは勿体無いと思い、ヒロインの数を減らして個々にストーリー性のあるシナリオを付加させた結果、「恋愛ゲーム」になってしまったのである。これは蛭田自身も意図しておらず、ゲーム雑誌のインタビューの中で「購入者から『同級生はナンパゲームじゃなくて恋愛ゲームなんだ』と言われて初めて気が付いた」と語るに至った。

同級生 (ゲーム) - Wikipedia)

イラストレーター竹井正樹の手による美麗なイラストの魅力が、ポルノゲームを恋愛ゲームに変化させたのである。

elf 同級生  原画集

竹井正樹は「同級生」の仕事の前に、OVAロードス島戦記」に参加してたことが知られている。そのキャラクターデザインと総作画監督をつとめていた結城信輝がこんなツイートを残している。

いのまたむつみレダというのはこれである。

Le Avventure Di Leda [Italian Edition]

また出渕裕によるロードス島戦記の原作イラストもまた、ミュシャに強く影響されたものだった。

新装版 ロードス島戦記 灰色の魔女 (角川スニーカー文庫)

いのまたむつみ出渕裕結城信輝を経ておそらくはこうしたアールヌーヴォーのスタイルの影響を竹井正樹らにも与えたであろう。同様にミュシャの影響が色濃く見えるCLAMPの漫画作品らの大ブームもあって、「萌え絵」はアールヌーヴォーの影響を強く受けて成立してることは想像に難くない。

アルフォンス・ミュシャの世界 -2つのおとぎの国への旅-

また絵だけでなく、物語も複雑化していく、

もうひとつ重要なタイトルが「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO(elf・1996年)」である。本格的なSF的題材と複雑な物語を成人向けゲームに持ち込み、なおかつヒットしたことで、「同級生」ともどもその後の家庭用ゲーム機への移植、アニメ化などの道筋をつけ、こうした複雑な物語を受け入れる土壌が成人向けゲーム市場にあること示した。

この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO PC98

その後「To Heart(Leaf・1997年)」や「Kanon(Key・1999年)」といった「葉鍵系」と呼ばれる作品群がヒットを飛ばしていく。これらは当初から家庭用ゲーム機への移植とアニメ化を見込んで作られており、ポルノとしてリリースされていながらポルノシーンを必要としない構成であった。いわゆる「全年齢版」と呼ばれる別版がリリースされ始めるのである。

萌え絵はポルノではなく、人間への回帰なのである - 狐の王国

こうしていわゆるエロゲ、ポルノゲームの市場は恋愛物語を中心に据えるようになり、ポルノシーンはあってもなくてもいいような扱いになっていく。この頃にはあえて全年齢版を買うファンもいた。それはポルノシーンがむしろ物語の邪魔になるという感覚であった。

こうして当事者である男性オタクたちは「萌え」と「エロ」が違うものだということに気づいていく。それは少女的無垢性への憧憬であり、無垢な少女への自己同一化であり、無垢な存在に受容されることそのものであった。

一方多くの女性オタクたちは「萌え」概念の導入において、おそらく「既存のものに名前がついた」という感覚だったのではなかろうか。彼女らが求めていたもの、それもやはりエロではなく「関係性」であった。鉛筆と消しゴムがいたらその2者の関係性を妄想して2時間は過ごせるという女性オタクは少なくない。そこにエロが含まれることも少なからずあるが、それは彼女らにとってスパイスのようなものだろう。スパイスの効きまくった料理が好物でしょうがない人も少なからずいるのではあるが。

萌え絵と物語

こうした関係性や無垢性といったエロではないものへのフェティシズムこそが「萌え」であって、そこには単なる表象ではなく「物語」が求められている。腕のいいイラストレーターや画家が絵柄だけをコピーしても決して「萌え絵」にはならない。そこに物語を乗せることができないからだ。

エロゲがその名に反して「エロ」を置き去りにして「萌え」に走らせたのも、そこには物語があったからだ。ヒロインと出会い、恋をする物語がそこにはあった。もちろんただ恋するのではなく、一人ひとりの背景があり、人格が描かれ、そして物語として成立していく。そこに現れる関係性や無垢性こそ、オタクたちを虜にした「萌え」なのである。

例えば大ヒットしたエロゲ「Kanon」のメインヒロイン月宮あゆだ。

Kanon ~Standard Edition~ 全年齢対象版

少女漫画雑誌「ちゃお」の影響が見える輪郭が崩れそうなほど大きな目、少女漫画の枠を超えて活躍するCLAMPの影響と思しきランドセルの羽。これは当時の流行をよく反映した萌え絵であろう。

記憶喪失の少女月宮あゆと主人公は、彼女の記憶を探して街を歩く。そしてその記憶を思い出すことが2人の別れにつながっていく。その切なさや無垢な笑顔、それらが失われる苦しみ。そうした物語こそがこの作品を名作たらしめ、多くのオタクたちが萌えてきた要因なのである。

その物語を知るものには、上の絵はたいへん切なく映る。ありし日のあゆの姿、2人の思い出を象徴する木に腰掛けるその姿は、今にも消えてしまいそうで、あの日の別れを想起させる。

知らない人にはただの絵にしか見えないそれには、膨大な物語を想起させる情報が織り込まれている。そこにはラノベなりアニメなりエロゲなり、物語を知ってる人でなくては読み取れない情報がある。だからこそただの絵にオタクたちは興奮するのである。

ただの絵に人格と物語を付与することにより、非常にハイコンテキストな表現としてそれは成立する。ラノベの表紙もだから中身を読んでなければ意味を理解できない。「スレイヤーズ」で多くの人に知られる白蛇のナーガも、中身を知らなければただの露出狂である。

スレイヤーズすぺしゃる2 リトル・プリンセス (富士見ファンタジア文庫)

こうしたハイコンテキストな表現を意図的に組み込む仕掛けが使われることもある。たとえば大ヒットアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」におけるオープニングテーマソング「コネクト」である。

蒼樹うめのデザインによるポップで可愛らしいキャラクターとあいまって、ちょっとおしゃれでかわいらしい歌にすら聞こえる。だが本編10話を見たあとに聞くとまったく別の意味に聞こえてくる。この歌がある登場人物の胸の内であることに気付かされるのである。歌に人格と物語が付与される瞬間であった。この仕掛けにはたいへん驚いたし、楽しませてもらった。

ただの絵に人格と物語を付与する、これこそが「萌え絵」と呼ばれるスタイルの本質であるとここでは断言しておきたい。

未来へ

こうしたハイコンテキストな表現の最先端の応用が Vtuber だ。彼らは絵に与えるべき人格と物語を自分自身を用いて表現する。ここでいう人格は本人自身であり、物語とは本人の人生だ。ある種のタレントと呼ばれる仕事に近いものになっていく。

こうしたコンテキストを理解してなければ批判も批評も成立しない。時代は常々動き続けており、ステロタイプと呼ばれた表現すら簡単に目新しいものに変貌する。このハイコンテキストさこそが海外進出の難しさではあるのだが、いずれ理解も広まるかもしれない。

90年代からゼロ年代にかけてのエロゲブームでは、数々のクリエイターたちが育まれた。エロゲを機に奈須きのこ虚淵玄いとうのいぢといったビッグネームを筆頭に、数々のクリエイターらがアニメに進出し、深夜アニメブームに乗って彼らの活躍の場は増えていった。

10年代に入ると彼らの生み出した物語や絵はより多くの人々を魅了していく。児童書や教科書にも採用され、韓国や中国を中心に海外にもファン層が拡大していく。そして「RWBY」や「アズールレーン」を筆頭に海外から「萌え」の返球を大量に受け取ってるのが今という時代なのである。

思えば Vtuber の草分けであるキズナアイにしても、評価は海外から始まった。1年間鳴かず飛ばずだったキズナアイが昨年末に見出いだされ、Vtuber ブームにのってまたたくまに大人気タレントになってしまった。訪日観光大使としてニューヨーク事務所に採用されたのは今年の3月のことである。

バーチャルYouTuber「キズナアイ」、訪日観光大使に - ITmedia NEWS

この速度についていけた人はそう多くあるまい。俺も最近まで雌伏の1年間があったことを知らなかったくらいだ。

萌え絵の魅力は、もはや世界中に広まりつつある。韓国の女性イラストレーターが描いた萌え絵が日本の書籍に採用されたりもしている。中国人女性の起業したマンジュウ社が開発した「アズールレーン」は萌え絵の魅力とゲームとしての良さから中国のみならず日本でもヒットしている。

かつて浮世絵が欧州に渡り、ジャポニズムをもたらしたときも、欧州の作家たちが浮世絵自体を描くなんてことはなかった。現代では中国人も韓国人も欧米人も萌え絵を描くようになった。ジャポニズムよりももっと大きな潮流になる可能性もあるのではないか。

人格と物語というコンテキストに乗せられた絵を一緒に楽しむというスタイルは、まさに漫画が確立してきたものでもある。漫画文化の派生として考えてもおもしろいであろう。

絵はもはや絵だけ見てもわからない時代になっているのである。そこに込められた人格と物語を、さあ楽しもうではないか。そこに国境はない。

夏の定番! 俺のゴーヤチャンプルーはこう作る

うちでなぜか評判のいい俺のゴーヤチャンプルーなのだが、気が向いて調理過程を写真に撮ったのでレシピを書き留めておこうかなと。レシピは十数年前にどこかで読んだか見たかしたものが元で、何度も作ってるうちにこういう形になった。本場沖縄の作り方は知らないのだけれども。

用意するもの

  • ゴーヤ1本
  • 野菜適当(今回は玉ねぎ1個とにんじん半分ほど)
  • 豆腐一丁
  • ポークランチョンミート1缶(340g)を半分
  • 鰹節2袋(5gほど)
  • 鶏卵2個
  • 砂糖大さじ1
  • 酒大さじ2
  • 塩小さじ1
  • 油大さじ1

さあ調理を始めよう

ポークランチョンミートをじっくり焼く

f:id:KoshianX:20180730174532j:plain ポークランチョンミート、いわゆる SPAM 缶だが、おいしいのだけれど塩味が強くて薄味好みの我が家にはちょっと合わない。

ホーメル スパム レギュラーN 340g

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なのでまずはじっくり弱火でポークランチョンミートを焼いて、油と一緒に塩を出してもらう。

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こんなふうに表面が固くなるまで焼く。中央が焼けやすく外側は焼けないので、薄く切れてしまったものや内側で早く焼けてしまったものを外側に。

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焼き上がったら皿にあげておく。

ゴーヤの下ごしらえ

ポークランチョンミートを焼くのは時間がかかるので、その間にゴーヤの下ごしらえ。

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上の写真のように縦に割ってからスプーンで中の種を取り出し、5mm 幅くらいに切っていく。

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切ったゴーヤは小さじ1くらいの塩を入れ、よく揉んでおく。

豆腐の下ごしらえ

本場沖縄では凍み豆腐とかいうのを使うらしいが、うちでは普通の木綿豆腐を使っている。 f:id:KoshianX:20180730173154j:plain

豆腐をまるごとキッチンペーパーでくるんで、

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まな板を乗せて水を抜いておく。

野菜の下ごしらえ

野菜は何を入れてもいいのだが、ゴーヤと色の被らないにんじんを使うことが多い。 たまねぎは必ず入れてるのだが、理由はゴーヤは炒めてても見た目が変化しないので火が通ったかわかりにくいので、同じくらいの厚さに切ったたまねぎを目安にするためだ。

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ここではたまたま余ってた紫たまねぎを使ってるが、普通の玉ねぎで構わない。 たまねぎもにんじんも切ったゴーヤと同じくらいの厚さになるように切って、同時に火が通るようにしておく。

豆腐を焼く

ポークランチョンミートがすべて焼き終わったら、たくさん油が出ているはず。これを豆腐に吸ってもらう。 まずはここは強火にしてがつんと豆腐を焼いていく。

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上の写真のように適当に手で薄めにちぎってフライパンに放り込んでいく。焼き上がるまでに少し時間があるので、塩もみしておいたゴーヤをよく絞って他の野菜と一緒にしておこう。

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表面に焦げ目がつくまで焼いていく。こうすると炒めてても形が崩れにくい。ひっくり返すときはフライパンをあおってあらかた返したあと、ひっくり返らなかった豆腐をフライパンの端っこを使ってお箸でひっくり返していく。

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きれいに焼き目がついたら焼き上がったポークランチョンミートと一緒にフライパンの外に出しておく。

炒めて味付け

豆腐が焼き終わったら油がきれいに消えてるはずなので、ここで野菜を焼くために大さじ1くらいの油をしく。うちではオリーブオイルを使うが、普通の植物油でいいはず。豆腐を焼いてる間に絞っておいたゴーヤとその他の野菜を強火でガシガシ炒めていく。

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たまねぎの様子を見ながら、少し透き通り始めるまで炒める。

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たまねぎが透き通り始めたら、皿にあけておいたポークランチョンミートと豆腐をフライパンに戻して、全体を混ぜ合わせながらよく炒める。豆腐が大きすぎたらここで箸で適当に切っておく。たまねぎの様子を見ながら野菜に火を通していく。野菜に火が通ったら味付けに入る。

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ここで砂糖を大さじ1程度を投入。酒大さじ2程度を入れて全体に砂糖を行き渡らせる。

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それから鰹節5g程度を全体にふりかけ、混ぜ合わせる。

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最後に溶き卵2個分を全体に流し入れ、蓋をして火を止めて数分待つ。 卵を入れたあとも混ぜちゃっていい気がするんだけれども、うちではとろりとした卵で全体を固めるほうが好みだと言われるのでそうしている。

完成!

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卵がある程度固まったらお皿にあけて完成! ゴーヤ1本分で作るとたぶん4〜5人分くらいになると思う。ぺろりと食べちゃうけどね! おなかいっぱい! 今回もおいしかった!!

ランチョンミートではなく豚肉で作ることもあるけど、そのときはちょっと塩を足してやるとちょうどいいかもね。冒頭にも書いたが本場沖縄でどうやって作ってるかはよく知らない。

enjoy!

マスメディアの「思想なき反権力」が与党を有利に導いている

なにやらクソみたいな公文書偽造問題が起きて財務省ピンチかと思えばなぜか政権ピンチと語られてるのがよくわからないのだが、そのピンチのはずの現政権、どうも支持者がやたら多いようなのである。

なんとどちらのアンケートでも7割もの積極的支持者がいる。内閣支持率は42%程度のはずなのだが、比較的年齢層の若いネットユーザー中心のアンケートだから出た偏りのように見える。

実際のところここまで支持率が高いのは不思議である。アベノミクスがそこそこ成果を出してるとは言え、構造改革にはろくに手がついてないし政権とは無関係に景気回復期にかぶっただけだと言われたらまあそれもあるんかなという気もする。第一インフレ率など当初の目標をまったく達成できてない。

そこで俺も Twitter を用いて以下のようなアンケートを取ってみた。

びっくりである。他の方のアンケートでは「積極的支持」に票を入れた人が多かったのだが、安倍政権の政策を支持してる人は28%しかおらず、自民党支持者にいたっては4%ぽっちしかいない。ほぼ半数を占めるのは「野党に政権を取らせたくない」であり、「野党支持者たちのの言動が気に入らない」という人も20%もいる。これはどう見ても「消極的支持」のはずだが、「おまえらに政権を取らせたくないし言動が気に入らないから積極的に支持するぜ」ということなのだろうか。

なにより自民党支持者の少なさが驚きだ。あれほどの最大政党ですらこれとは、党単位で支持する人はかなりのマイノリティということであろう。つまるところ若年層に限って言えばほとんどが浮動票ということである。民主党政権時代に迷走してしまってリーマンショックからの回復も遅れ、震災などでてんやわんやだったことを思うと「あの時代に戻りたくない」という意識が強いのかなとも思ったのだが、自民党支持者がここまで少ないことを考えると別の要因にも思える。

リプライでいろんなご意見をいただいたのだが、どうも重要視されてるのは経済政策のようだ。メシが食えなきゃ理想もなにもあったもんじゃないのだからそりゃまあそうだろう。実際のところ野党が安倍政権の経済政策について的確な指摘をしてるところは見た覚えがない。的確な指摘というのは法人税率の引き下げがホントに効果あるのかとか賃金上昇につながってるのかとか、インフレターゲットを達成するためにこういうこともやる必要があるんじゃないかという例示などである。

もし経済政策だけで安倍政権が支持されてるというのなら、それは「安倍には期待できないが野党にはもっと期待できない」という思いが蔓延してるということになる。そうでなければ5年たっても目標達成できてない政権が支持される理由がわからない。

さて野党がここまで信頼を失っているのはなぜだろうか。それはおそらく「思想なき反権力」のせいではないかと思われる。

思想なき反権力に毒されたメディアと、流される我々

「思想なき反権力」は野党というよりは、マスメディアに蔓延している。最近わかりやすい事例があったので紹介しよう。

mainichi.jp mainichi.jp

放送法第4条について、2年前は「報道の自由に脅威」と見出しに書いた毎日新聞だが、現政権が撤廃の方針を固めたとたんに「番組の質低下の恐れ」と書きたてる。おまえはどっちのスタンスなんだよとツッコまれてもしょうがないだろう。こういうのが「思想なき反権力」である。ちなみに放送法第4条は「政治的中立性を保つ」ことをテレビ局に求める法律であり、違反によって電波停止措置もあり得るのかというのが話題であった。

もっとも苛烈な「思想なき反権力」報道は、やはり福島原発事故であった。福島に生きる人々の人権を無視した朝日新聞の報道などは今も多くの批判があるが、マスメディアではほとんど無視されている。まっとうに福島の現状を報道してるメディアはシノドスくらいのものだろうか。

synodos.jp

他にも薬害エイズ問題とでも混同したのか、HPVワクチンデマを反権力的な姿勢で大きく報道してきたマスメディアは、結果的にHPVワクチン接種を停止させ、日本から10万個の子宮を失わせる結果となった。これで少子化を嘆くのは笑えない笑い話である。

こうした「思想なき反権力」に毒されたメディアが報じる内容、膨大な国会でのやりとりの切り取り方、注視するポイントなどが、ますます野党を「思想なき反権力」のイメージに染め上げる。

野党もこうした「思想なき反権力」に不満を持たれてることは気づいているようで、立憲民主党代表枝野幸男が以下のようにツイートしていた。

残念ながらこうした反論は「思想なき反権力」の印象をますます強める。アピールすべきは賛成したか反対したかではなく、「どのような問題点を指摘し、どのような修正を要求したか」である。そこにこそ思想は現れるものであるし、こうしたものをなしに「反対した」「賛成した」ことばかり切り出されて報道されたら「思想なき反権力」のイメージはますます強くなるばかりである。

実際のところ超党派で策定に動いてる親子断絶防止法案など、DV加害者が子供に再会する危険などが取り沙汰され、修正されるなどしてるはずなのであるが、まったくそこらへんが報道されてるように見えない。単純な対立を描いたほうがテレビ映えすると考えられてるのかもしれない。

もちろん野党にも「思想なき反権力」がないわけではない。築地市場移転騒動のときのなにかに影響するとは思えないごく微量な有害物質を巡っての悪ノリとしか言いようがない姿勢は、野党としてはもっとも信頼感の高かった共産党さえ狂わせた。

「思想なき反権力」に絡め取られると安易にデマにも流される。これは俺もだまされてたので反省なのだが、ザハ氏デザインの国立競技場に至ってはその建築可能性を巡ってデマが蔓延し、デマの発信元をコメンテーターとして採用するテレビ番組まで現れた。オリンピックロゴのパクリ問題も明らかなデマであったが、やはり多くの人々がだまされていた。安易に騙されるのはHPVワクチンデマだけではないのである。我々は関東大震災の井戸に毒を投げ入れる朝鮮人デマを笑える立場にない。

未来のために

この経済政策が民主主義を救う──安倍政権に勝てる対案 を記した経済学者松尾匡は以下の記事でこのように書いている。

今、若者ほど自民党支持が高いことがしばしば報道されていますが、これを「若者が保守化している現れ」とみなしてはなりません。ナショナリズムもヘイトも、たとえあったとしても「後付け」です。極右「日本のこころ」の政治家を迎え、一生懸命左派・リベラル派を排除した「希望の党」が、若者の支持を集めることができず、若年層支持率で大きく自民党に水をあけられていることからも、彼らの自民党支持の本質が右派イデオロギーにはないことがわかります。

ただ望んでいるのは、雇用不安のないこと、まともな暮らしのできる賃金、少しでも人間的な労働条件です。この気持ちに現状でアピールできているのが安倍自民党だけであるという事実を直視し、それを圧倒的に乗り越えるアピールをしてください。

左派・リベラル派候補がアピールすべき要点 / 松尾匡 / 経済学 | SYNODOS -シノドス-

松尾匡氏は経済学者ではあるが左翼でもあり、どこだか忘れたが「どこの政党でもいいので安倍政権を倒したい政党にはいくらでも協力する」と書いていたのを覚えてる。見事なまでの反安倍の人なのである。

先述のアンケートを見ても、自民党支持が高いわけでも若者が右傾化してるわけでもなく、ただただ景気を良くしてくれる政治家とみなされてる人物が安倍晋三その人だというそれだけのことなのだ。そもそも日本に長期低迷をもたらしたのは財務省の方針である緊縮財政であり、それに反旗を翻したのが正反対のリフレ政策を採用した安倍政権なのである。

www.nikkei.com

財務省の緊縮方針を押さえ込み、経団連と交渉して賃上げに導き、機会があればリフレ派経済学者のクルーグマンからも直接話を聞き、松尾匡浜田宏一のようなリフレ派の経済学者をブレインとして迎えられるような政治家が求められてるのである。それをやってるとはいえ法人税減税とバーターに賃上げを要求した現政権は弱腰と批判されてしかるべきではあるが、他にそんな交渉ができる政治家はどこにいるのか、我々は知らないわけだ。

いわゆる左翼政権というのはどうしても福祉に金を使い込みすぎて財政を傾けがちではある。そういう意味では保守派の政権には有利な状況ではある。しかしそれ以上に「思想なき反権力」が嫌われてることは想像に難くない。

個人的に野党にオススメしたいのは「日本の電子政府化」を公約に掲げることである。ただ電子化するのではない。コンピュータとネットワークを駆使し、圧倒的な効率を叩き出す官公庁に生まれ変わらせるのである。そして霞が関から官公庁を解放し、日本各地の都市に職員を散らばせて東京一極集中の解消に動くのである。そのためにはまず党員全員にITパスポート合格を要件としてつきつけることだ。方針を定めるにしてもコンピュータとネットワークにそれなりに精通してなければ方針も定められない。コンピュータがわからない人にはコンピュータで何ができるかもわからないものである。

それが実現できれば日本の官公庁や役所はたいへん効率化され、民間の足を引っ張ることもなくなり、また民間企業の効率化のお手本にもなるであろう。

日本が誇る世界的企業任天堂は、自社のゲーム機の性能をどのように活かしたら良いか、見事なまでの「お手本」となるゲームを作ってゲーム機を売る。それを見たサードパーティが参考にし、よりおもしろいゲームを作ろうと切磋琢磨する。そうして任天堂トップランナーであり続けてきた。よいお手本を見せるというのは日本の文化にもマッチしてるはずである。

しかしそれもなにもすべては経済政策のまともさの上であり、思想を明確に打ち出して議論に望み、「なんでも反対」してるわけではなく「こういう修正が入るならよい」「こういう問題が発生するから反対」をきちんとマスメディアに頼らず国民に伝えていくことが肝要である。何のための誰もがメディアを持てる時代か。

政党が対立することは悪いとは思わない。競争あってこその品質向上ではある。なればまっとうに競争し、お互いの政治家としての政党としての品質を高め合えばよい。「あのイケメンはこんなに性格悪いからやめとけと囁くブサメン」になってはいけないのである。

アレフガルドの郷愁ただようロトゼタシアの旅

ネタバレはほぼなし書く。いろいろと手がついてないところ申し訳ないのだが、昨今はドラゴンクエスト11をずっとプレイしていた。ドラゴンクエスト・シリーズは大好きなシリーズで、オンライン版である10以外はすべてプレイしてきた。7と8はクリアまでやれず、9にいたってはあの短いシナリオを3年もかけてようやくクリアしたありさまだった。今回はちょっと時間をとらせてもらって、じっくりと遊ばせてもらった。

もう、最高だった。

正直、最近のドラゴンクエストには違和感があった。8の女性キャラたちは古臭い清純派と気の強いヒロイン(そしてエロい)だし、9のガングロ妖精もどうかと思った。

11になってもまだ昭和感から抜け出せない部分もある。えっちな本をいちいちギャグとして入れてくるところとか、セーニャのレベルアップでウィンクしちゃうところとか。ドラゴンクエスト4の主人公が男女選べて、シンシアとの関係性をどうとでも想像できて、ラスボスにがっつり感情移入させられて泣きながら戦わされたあの頃のドラクエはどうしたんだよという気持ちはある。

ファミコン時代から続く描かれないからこそ想像の余地があるドラクエに対し、ファイナルファンタジーは描きすぎて映画同然という批判もあった。だが実際にはゲーム業界はファイナルファンタジーの方向性こそが波及した。ゲームはインタラクティブムービーとしてメディア化してしまった。

そうした状況に対するドラクエの答えは「主人公を極力描写しない」であった。

ドラゴンクエスト11PS4版で遊んだので3DS版がどうなってるかは知らないが、最近のゲームらしくイベントは見てるだけの映画状態が多かった。ボイスが入ってないことに違和感を覚えるくらいには最近のゲームらしかった。しかしあえてボイスを入れないことで、主人公とのやり取りを具体的に描かずに済ませていた。そこは「想像しろ」というわけである。

それが正解だったとは言わない。昔のドラクエほどに想像の翼を広げられたかというと難しかったようにも思う。相変わらず女性キャラたちは清純派と気の強いヒロイン(そしてエロい)が用意され、そこにじゃりんことオネエキャラが追加されただけだった。

それでもそれぞれのキャラクターはちゃんと掘り下げられて、8のときほど薄っぺらではなかった。

清純派キャラ枠のセーニャは双子の姉であり諸事情で子供の体になってるベロニカにべったりで、その依存性を強く問われることになる。

気の強いヒロイン(そしてエロい)枠のマルティナは、その保有するおいろけスキルに違和感しかない高潔さを持った人物だ。だがむしろそれが想像の翼を刺激する。長い長い旅の中で生き延びてきた強かさに、使える武器はすべて使ってきたのかもしれない。

オネエキャラのシルビアの扱いは90年代を思わせる。主人公に好意的な同性愛者を気持ち悪く描くというやつだ。しかしそれだけでは終わらない。彼女は一流の旅芸人であり一流の騎士なのだ。その姿は美しくかっこいいとしか言いようがない。コミカルなそのスキルはたいへん頼り甲斐もあり、こちらも好意を持ってしまう。また父親との関係性の描かれ方はとてもすばらしかった。

そしてベロニカ。ドラゴンクエスト11をクリアした人で、彼女を嫌いになれる人なんているだろうか。あの木に体を預けてるシーンに、心を動かされなかった人はいるだろうか。

PS4で描かれるロトゼタシアの自然はとても美しかった。人々がそれぞれの幸福を持って暮らしてる様が想像できるセリフたちも相変わらずだった。

堀井雄二のシナリオの良さは、そういう日常感だった。

ロトゼタシアは世界樹の葉が命であり、葉が芽吹くとき人も生まれ、葉が散るとき人も死ぬ。木々の葉のように、人は生まれて死んで、そしてまた生まれてくる。大いなる命の流転。失われていく命の悲しさ。その悲しみを救いたいと願う人々。まさにそれこそが日常ではないか。

思えばドラゴンクエストとはそういう普遍的なテーマをいつも扱ってきたように思う。1や2のころはそれほどストーリー性があったとも言えないが、3では「父を追いかける子供」を描き、4ではデスピサロを通して人が悲しみから狂気に至るさまを描き出した。5では親子の愛や平和を自分から勝ち取る姿勢を描いていた。6は「自分とはなんだろう」というこれまた人生で一度は通るテーマだった。7〜9はそうしたテーマ性から少し離れてしまったかもしれないが、人生の選択や永遠の別れ、日常の幸福を味わう人々がやはり描かれていた。

ドラゴンクエスト11は、もしかしたら最後のドラゴンクエストになるかもしれない。友人がそういう不安を口にしたとき、さすがにはっとさせられた。1986年にリリースされたドラゴンクエストから実に31年の月日が流れ、堀井雄二鳥山明も60代になり、すぎやまこういちに至っては80代も後半である。ドラゴンクエストアイデンティティを作っているとすら言えるこの3人のうちどれか一人でも欠ければ、それはもうドラクエではないだろう。

少しネタバレになるが、ドラクエ11のサブタイトル「失われた時を求めて」という言葉は、実はクリア後のことを指している。クリア後から裏エンドまでの道筋はまさに「失われた時」を求めたシナリオだ。これがどういう意味かは実際にプレイして確かめていただきたい。

作品全体を通して、過去作、特に最初のロト三部作へのリスペクトが非常に高い。過去に活躍した勇者とその仲間たちは、ドラゴンクエスト3の勇者、戦士、賢者、魔法使いの出で立ちだ。物語が進んでフィールド曲にドラゴンクエスト3の音楽が流れた時はちょっと驚いた。30年前に我々が愛したあの物語たち。その愛に応えようという気持ちが伝わってきた。

ある意味では「失われた時」であるあの頃の旅の思い出。それがよみがえるようであった。

想像の翼を広げて旅したあのアレフガルド。恐ろしかった山、超えられなかった崖、渡るのに怯えた橋。ロトゼタシアの自然の美しさは、昨今のゲームが目指すような実写的な映像でもなく、かといって過度に漫画的でもない。でもきっとあの時に我々が旅した「ドラクエワールド」なんだと思う。

もちろんここまで「勇者ロト」の名前をチラ見せしておいて、なにもないわけがない。ロト三部作をやった人には「ああ、そういうことだったのか!」と思わされる展開がちゃんと用意されている。

だが、それがむしろ、「これで最後だ」という覚悟のようなものを感じてしまう。

ここまでドラクエの原点回帰をしたのだから、次はないなんて思いたくない。どうかもう1作、ルイーダの酒場ダーマ神殿のあるドラクエを出して欲しい。失われた時を求めるのは、もう少し先にさせてもらいたい。

そう、やっぱりドラクエが大好きなんだと、再確認させられたのである。

今週の主にネットのレシピで作り置き

そういえば最近慌ただしくて作り置きをこちらに書いてなかった。一応作ってるんですよ?

これが先週と先々週。

こちらは今週のもの。

メニュー

ひじきの煮物

こちらは以前買ったひじきについてたレシピに大豆やにんじん、さつま揚げを出して煮たもの。ひじき60gで作ったので半分はジップロックに入れて冷凍庫へ。

小松菜そぼろ

お惣菜系おかず。小松菜そぼろ | 作り置き・常備菜レシピサイト『つくおき』

もも肉の挽肉はなかったので鶏胸肉の挽肉で。炒める時に油を足した。

なすとズッキーニのマリネ

なすとズッキーニのマリネのレシピ・つくり方 | キッコーマン | ホームクッキング

直売所で大きな300gオーバーのズッキーニを見つけたのでさっそく確保。こないだまで春野菜を食べてたはずなのに、もう夏野菜が出てるんだねえ。

ほうれん草とささみの作り置きサラダ

ほうれん草とささみの作り置きサラダ。 by ラビー

いつも作ってるアレ。

ツナニラにんじん

ツナニラにんじん | 作り置き・常備菜レシピサイト『つくおき』

これも簡単なのでよく作る。たまたまニラが売ってたのでまた作った。

大根とツナの煮物

ほっこりおいしい。ツナと大根の煮物 | 作り置き・常備菜レシピサイト『つくおき』

メニューに困った時の大根とツナの煮物。簡単だしおいしいのでついついヘビロテ。

しかしずいぶん暑くなってきてしまってそろそり作り置きも厳しくなってきたかなあ。日持ちや再加熱も考えないといけないかしら。

でも夏は夏でおいしい野菜がいろいろあるので楽しみ!

enjoy!

非同期型一夫多妻はキモくて金のないおっさんを増加させる

何やら男性の生涯未婚率が上昇してる記事が2つも連続して上がってきてた。

どちらの記事にもあるように、女性の雇用環境が改善して自立しやすくなった結果、離婚が増加して再婚相手に初婚女性を選ぶパターンが多いから、となっている。離婚後の女性は再婚率があまり高くなく、これが真実!シングルマザーの再婚率とは? という記事によると夫再婚妻初婚のカップルは夫初婚妻再婚のカップルに比べ50%ほど多いようだ。

ようは結婚相手として人気のある男性というのはそんなに多くなく、同じ人が複数の女性と婚姻生活を送ることになりやすいということである。

もちろんこれはよいことである。結婚というのはおおむね失敗するものなので、さっさと諦めて別の人と反省を活かしてやり直すというのはとてもよい判断だ。女性に仕事があり離婚後の生活に不安がなくなるのももちろんとてもよいことである。

だが世の中良いことづくめということもそうそうない。

人気のある男性が複数の女性と婚姻することによって、あぶれる男性もまた増える。男性の生涯未婚率が急上昇してるのはそういう理由なのであろう。これがなにを意味するかというと、「キモくて金のないオッサン」の増加である。

孤独というのは人の心を蝕む。そうしたストレスがアルコール依存症などに現れるはず。そう思って推移のデータを探してみたのだが見つけられなかった。だが日本のアルコール依存症患者は増加傾向にあるようだ。

こちらの記事では原因にまで言及されてないが、男性の生涯未婚率が急上昇してることと無関係ではあるまい。日本は女性のアルコール依存症はたいへん低い国だからだ。こうした状況に政府はアルコール飲料価格の上昇や飲み放題禁止などで対応しようとしてるようだが、おそらく効果はないだろう。アルコールが慰めているであろう誰かの孤独のやり場を失わせるだけだ。

そしておそらく犯罪率も上昇することが考えられる。つまり治安悪化である。失うもののない独身男性の増加は、治安の低下を招く。

自由主義国家である日本において、もちろん婚姻するしないの選択の幅が広がることはとてもよいことである。だがそうした自由の拡大の影で、不自由であるがゆえに救われてた人々の幸福について考えなくてよいということはない。

福祉国家として名高いスウェーデンは、その福祉の増強とともに犯罪率もあがってきているようだ。

「社会あるところ、犯罪あり」と言われるように、福祉先進国や生活大国として知られるスウェーデンといえども、未だ犯罪の悩みから解放されてはいない。それどころか、スウェーデンの犯罪は1950年以来増加の一途をたどってきたのである。それ以前の統計を見ると、犯罪は19世紀中葉から減少し続け、第1次及び第2次世界大戦間の時期に最低の水準に達したことがわかるので、第2次大戦後、スウェーデンが高度経済成長に支えられて休息に福祉国家としての条件を整え始めたのと時を同じくして、犯罪情勢は悪化し始めたことになる。さらに、スウェーデンの犯罪は、激増傾向を示してきただけではなく、他国の公式統計と比較すると、国際的にも相当に高い水準にあるといわなければならない。

スウェーデンの犯罪と福祉(PDF)

上のレポートでは犯罪情勢悪化の要因として、離婚再婚を繰り返す環境で育つ子供への悪影響が語られているが、おそらく問題はそれだけではないだろう。

福祉の充足が広げてしまう格差というものが実は存在してるわけなのだ。

そうした格差で底辺に追いやられるのが独身男性である。

かわいいものは、優先的に救済される――それは動物界に限った話ではない。人間が社会的に助けられるかどうかも、この法則が歴然と働いている。もっといえば、この法則をめぐって、いまの世界は動いている。

世間に大きな波紋を呼んだ「電通・新卒女性社員自殺事件」。東京大学を卒業した、若くて有望な(おまけに容姿に優れているらしい)女性社員が、電通に入社して8ヶ月後に過労自殺したものだ。メディアでも大きく取沙汰された。(中略)最終的に、同社幹部が書類送検され、労働時間のルールの見直しにまで波及するなど、社会問題にまで化した。この一件によって人びとが労働問題に関心を持ち、働くことのあり方を問い直すようになった。そのこと自体に否定的な感情はない。たしかにないのだが、どこかしら憂鬱な気分が払拭できなかった。「なぜいままでの事件では、これほどまでに動かなかったのか、その理由はきっと――」と、どうしても考えてしまっていたからだ。

「かわいそうランキング」が世界を支配する | 白饅頭 | note

独身男性は「かわいそうランキング」の最下位であり、その中の最底辺が「キモくて金のないおっさん」である。

一般に男性というのは強者であると考えられている。女性に比して強靭な肉体を持ち、痛みに強く、社会的にも収入が高い。──あくまで統計上は、である。

実際には女性の平均に劣る体力や収入の男性はたくさんいる。それでも男性というだけで「強者」として扱われる。かわいそうランキングの最下位争いをするハメになる。そこに救いの手が差し伸べられることはまずない。

こうした弱い独身男性には、慰みが必要である。アルコールがその手段として不適切なのであれば、もっと健康な手段を提供する必要がある。そもそも彼らも多様であるし、慰みの種類も多様であるべきだ。

おそらくアイドルやポルノも彼らの慰みになっている。地方のコンビニには必ず成人向け雑誌コーナーがある。成人向けといいつつ実際には18歳未満禁止になるレベルの本はおけないことになっている。スマートフォンもインターネットも普及し、ポルノを買うのもたやすいこの時代になぜまだ売られ続けてるのか。ネットに接続するリテラシーすらない独身男性の慰みとして、需要が高いからであろう。

昨今のアイドルブームに、こうした弱い独身男性たちの慰み需要は決して低くないはずだ。今後のVRポルノやアンドロイド技術などには、彼らの慰みとして高い期待が寄せられる。

自由を謳歌できる人は、基本的に強者だ。弱者は自由を与えられても活かすだけの力がないから弱者なのである。そうした弱者を支援する活動は、「かわいそうランキング」の最下位争いをする人々にはなかなか届かない。誰も助けたいと思わないからだ。

彼らに慰みを提供することは、一見とてもアンフェアに見えるだろう。それは誰も「かわいそう」だとは思わないからだ。それでも慰みがなければ、彼らの中から治安を低下させる人物が現れてしまう。

秋葉原で起きた凄惨な事件のことを思い出す。彼に適切な慰みがあったら、こんなことにはならなかったんじゃないか。死なずにすんだ人もいたんじゃないか。まだアルコールに依存しててくれたほうが良かったんじゃないか。アイドルとの握手会の予定でも入れてくれてたら……。

そんなことを考えてしまう。

自由を重んじるリベラリストであればこそ、自由を謳歌できない弱者を、かわいそうランキングではない目で見る必要があるんじゃないのだろうか。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>