狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

アキバ中央通りの18禁ゲーム看板はなぜ問題なのかを真面目に考える

秋葉原に巨大なアダルトゲーム広告が登場 「子どもに有害」と批判の一方、表現の自由指摘する声もという記事。問題の看板は、当事者がツイッターで写真を上げてるので参考に見てみよう。

さてこの看板、普段なら表現の自由を叫ぶような人たちまでもが割と批判的になったり、沈黙してしまったりしているようだ。18禁ポルノゲームの看板であり、法律に合わせて修正されているので、おそらくは東京都の広告審査も問題なく通ってしまったのだろう。

多くの人々が「これはダメだ」と思うような表現というのはある。多くの人々がダメだと思うような表現だからこそ人権である「表現の自由」で守る必要がある。だがその表現の自由という人権を制約してでも止めなくてはいけない表現というのも、実際のところ存在はしている。

わかりやすい例がヘイトスピーチだ。ヘイトスピーチは「キモくて金のないおっさん」同様、そのままの語義だけ見てしまうと伝わらない言葉だ。そのまま読めば「憎悪表現」程度の意味合いとなり、ただの悪口とすら解釈されてしまう。

厳密な意味でのヘイトスピーチは、「明白かつ現在の危険」がある状況における加害煽動表現のことだ。ルワンダ虐殺はとてもわかりやすいサンプルだ。


千の丘自由ラジオのヘイトスピーチ Hate-speech excerpt from RTLM - Radio Télévision Libre des Mille Collines (1994)

ツチ族をゴキブリと呼び、駆除を呼びかけるこの放送は、実際に50〜100万人が殺される事態を引き起こした直接の原因である。

背景にはツチ族とフチ族の長い対立があり、大統領暗殺の犯人を巡ってお互いがお互いを非難し合ってたなど、火薬庫のような状態が続いてたことがある。こういう状況で上のような放送を行うと強烈な加害煽動メッセージとなり、本当に虐殺が発生してしまうわけだ。

欧州では反ユダヤ的言説をヘイトスピーチとして取り締まっているようだが、どうもこれも反ユダヤ言説がそのまま加害煽動になる火薬庫を抱えたヨーロッパの事情があるようだ。


10 Hours of Walking in Paris as a Jew

この動画を見ると、パリでキッパ(ユダヤの帽子)をかぶって歩いてるだけで変な男たちが寄ってきてめんどうなことになるのがよくわかる。こういう状況が「明白かつ現在の危険」と認識されてるということのようだ。

つまるところヘイトスピーチ規制は表現の自由という人権を部分的に侵害することになるため、慎重にその範囲を限定されている、というわけだ。なんでもかんでも禁止してるわけではない。

おそらく日本でもいわゆる在特会在日特権を許さない市民の会による暴力性の高いデモが起きなければ、ヘイトスピーチ解消法が成立することはなかっただろう。「明白かつ現在の危険」があるからこそ成立した法律というわけだ*1

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

このように、ごく限られた危機的状況に対応するために、表現の自由は制約されることがある。もっとも何を勘違いしたのかこれを拡大解釈しようという動きが地方自治体などでも起きていて、たいへん危険な状況になりつつあるのだが、その話はまた別の機会に。

さて、冒頭の話に戻ろう。秋葉原中央通り沿いのトレーダー3号店に設置された、「みるくふぁくとりー」というテックアーツ社のポルノゲームブランドの巨大広告の話である。同社の別ブランドSQUEEZの後継ブランドであり、SQUEEZ時代から続く「炎の孕ませ転校生」シリーズ最新作の広告だ。今回で12作目となる長期シリーズのようだ。

この広告は現行の日本の法律にはとくに抵触してないと思われる。日本での刑法175条で禁止される「わいせつ物」とは、警察がそのわいせつ性を恣意的に判断できるようになっている。最近でも春画を猥褻物から外したようで、春画の展示会なども取り締まられることはなくなったようだ。警察が猥褻と判断してるのは性器描写であるため、男女の向かい合う姿よりは性器が挿入された状態のほうが性器そのものが見えないので取り締まられにくいのだとか。今回の広告も性器描写はないため、警察の考える「わいせつ物」には該当しないということになる。

条例はどうか。東京都では東京都青少年健全育成審議会を起き、いわゆる有害図書指定を行っている。有害図書指定を受けると未成年の販売が禁じられ、陳列もゾーニングされた空間にしなくてはならなくなる。最近では女性向けのいわゆるボーイズラブ作品に対する有害指定が相次ぎ、18禁コーナーには入りにくい女性らの手に作品が届かなくなりつつある。しかしこれも本やゲームなどのコンテンツが対象であり、広告の規制にはならないようだ。

つまるところ法的にはなんら問題のない状況なのである。

にもかかわらず多くの人々が「この広告はダメだ」と感じている。それはなぜなのか。そうした人々の倫理観を明確にしていく倫理学という学問がある。

「性的モノ化」という概念はヘイトスピーチ同様ガバガバに定義を拡大して乱用されることの多い言葉だし、提唱してきた人たちもよくわかってないんじゃないかとすら思うのだが、ヌスバウムという人物が割と明確な「性的モノ化」の概念を提唱しているのを以下の論文で知った。

ci.nii.ac.jp

「性的モノ化と性の倫理学」と題されたこの論文からヌスバウムの箇所を引用してみよう。

以上のようなカントの議論とラディカルフェミニストのモノ化批判の間には密接な関係があ る。マーサ・ヌスバウムは“Objectification”(「モノ化」)という非常に優れた論文で、カント とラディカルフェミニストの両者の洞察に由来する説得的な議論を提示している(Nussbaum, 2002)。これは非常に興味深い議論なので若干細かく見てみたい。 典型的にはひと(person)のように、モノではないものをモノとして扱うのが「モノ化」である。ヌスバウムによれば、性的モノ化という概念は曖昧なだけでなく、実は根本的に集合的 な概念であり、これがポルノや買春を扱ったフェミニストの議論に混乱を引きおこしている。 彼女によれば、モノでないものをモノとしてとりあつかう(treating as an object)には少なく とも七つの意味がある。

  1. 道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
  2. 自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持 つことを否定する。
  3. 不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
  4. 代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
  5. 毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundary-integrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
  6. 所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
  7. 主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。

すべての「モノ」が上の特徴のすべてをそなえているわけではない。たとえば、たしかにたいていのモノは自律的でなく、また、その主観的経験を(道徳的に)配慮する必要はないかも しれない。また、すべてのモノをなんらかの道具として使うことができるかどうかは明確では ない。また、美術品(たとえばモネの絵画作品)のように、モノであっても、かけがえないの ないモノであり代替不可能で、毀損すべきでないモノもある。コンピュータのように、モノで はあるが、一定の意味では自発的活動性を有すると認められるモノもある。また、モノは誰か によって所有されることが多いが、富士山や月のように、通常の意味では所有されえないモノ もある。つまり、この七つの意味はそれぞれ論理的には独立の概念内容であると考えられる。 したがって、このさまざまな意味のどれが「モノ化」が倫理的に問題を含んでいると言われる 意味なのかを分析する必要がある。

CiNii 論文 -  性的モノ化と性の倫理学

この7つ項目に従って、トレーダー3号店のみるくふぁくとりー広告を見てみよう。

  1. 道具性

「おっぱいハーレムをゲット」という物をコレクションするかのようなコピーに道具性が現れている。

2 .自律性の否定

「孕ませ」というある種の強制性が自律性や自己決定能力を否定していると言える

3 .不活性

やはり「孕ませ」や「ゲット」といったワードに能動性の否定が見える。

4 .代替可能性

幾人もの似たような体型の人物が描かれており、またこれらをコレクション的に取り扱う文言があるため、代替可能性を示していると言える。

5 .毀損許容性

こちらも「孕ませ」というワードから毀損許容性を示していると言える。

6 .所有可能性

これもコレクション的に取り扱う文言があるため、所有可能性を示していると言える。

7 .主観の否定

顔を塗りつぶされてるというわけでもないので、こちらは該当しないと思われる。

このように見ていくと、かの広告は絵が性的だとかそういうことではなく、広告に載せられたコピーや作品タイトルに「性的モノ化」が潜んでいることがわかる。このあたりが多くの人々に非倫理性を感じさせる要因なのであろう。

もちろん性的モノ化されたポルノが存在することが悪いわけではない。だが広告としてどうか、というのは別の話である。

さらにいえば「性的モノ化」が悪いことなのか、という問題がある。

たとえば上記のようなアートはどうか。人間をモノ化し能動性や自律性を否定してはいないか。代替可能性を示してはいないか。そのような表象を広告に使ってはいけないのか。

もちろんそんなことはないのである。論文「性的モノ化と性の倫理学」ではヌスバウムも「チャタレイ夫人の恋人」を挙げ、「すばらしい性的モノ化」と評してることが記述されている。

では非倫理的な「性的モノ化」とはなにか。同論文では雑誌「プレイボーイ」を例にあげている。

ヌスバウムが典型的な『プレイボーイ』的女性描写と見るのは次のようなものである。

女優のニコレット・シェルダンがテニスをしている写真。スカートがまくれあがり、黒いパンティが見えている。「オレたちがテニスが好きな理由」というキャプション。

『プレイボーイ』の視点は、女性をその人格・出自・内面性から切りはなし、快楽のための 手段としてのみ扱っており、道徳的に問題のある「モノ化」の典型である。このような写真や キャプションは、「この女がどんな女で、なにをしていようとも、性的な快楽の対象なのだ」 というメッセージを伝えているという。

CiNii 論文 -  性的モノ化と性の倫理学

こうした道徳的問題を抱える「性的モノ化」とそうではない「性的モノ化」をどのように峻別したらよいのであろうか。

ヘイトスピーチの議論を思い出そう。「明白かつ現在の危険」があるなら表現の自由は限定的に制約され得る。もし女性が街を歩くのに男性保護者が必要なほどいつもいつも危険にさらされているなら、それは「明白かつ現在の危険」になり得るということだ。そこにある種の「性的モノ化」がヘイトスピーチのような加害煽動として機能する可能性は十分にあるだろう。

アメリカの強制性交は日本の強制わいせつの10倍もの発生率がある。これは定義を広げてるせいもあるが、旧定義でも7倍程度はある。暗数調査でも日本は比較的申告率も低くないので、認知されてない事案が多いということもないはずだ。

さてこの状況を「明白かつ現在の危険」と言えるだろうか。そしてあなたが問題視してる表現は「加害煽動」になり得るだろうか。アメリカではどうだろうか。日本ではどうだろうか。

どうせ議論するなら有益な方がいい。不快さだけが理由ならトライポフォビアのために草間彌生のアートや水玉模様を禁止してみたらいい。禁止すべき広告があるなら、禁止すべき理由をきちんと説明できなければダメなのである。

我々は自由主義国家の市民なのだ。自由であることに誇りを持とう。

*1:個人的には軽犯罪法を少し拡張するだけで十分対応できたのではないかとは考えているが、悪質な扇動者を長期勾留するには足りないらしい。

京アニを知る人も知らない人も「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」を今すぐ見てきてください

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 - を見てきた。テレビシリーズ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の外伝であり、期間限定上映、なおかつ新人監督の作品ということもあって、来年に予定されていた新作劇場版を待ちきれないファンのための映画だと思っていた。

間違っていた。ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝は一つの映画としてきちんと完成していた。これはテレビシリーズ未見の方にも見ていただきたい作品だった。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンを知らない人にも見ていただきたい。そういう気持ちを込めて、多少のネタバレも含めてここに書く。知らない人にも興味を持ってもらいたいからだ。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンは自動手記人形(ドール)として働く少女だ。いわゆる代筆屋であり、タイプライターを抱えてどこにでも赴き、依頼主の「伝えたい言葉」を手紙にするのが仕事だ。

序盤に描かれるのは「新時代」だ。戦争が終わり、新しい時代が始まる。自動手記人形は女性の仕事であり、依頼主に気に入られて結婚し引退するのがゴールの形だったらしい。しかしヴァイオレットの同僚たちは、新しい時代の女性の生き方を語る。生涯の仕事として自動手記人形をやるもよし、鍛え上げた文章力で作家になるもよし。自由に生きられる時代の到来、その予感に心躍らせていく。

そんな自動手記人形のヴァイオレットだが、今回は貴族の娘イザベラ・ヨークという少女の教育係として女学校に向かう。ヴァイオレットの身につけた礼儀作法を仕込んで欲しいということらしい。数カ月後に控えるデビュタント(社交界へのデビュー)までに、イザベラを立派な貴族として教育しなければならない。

映画では、時間経過を表現するのに早回しの映像が使われることがある。この作品でも時間経過に植物の芽吹きの早回しの映像が差し挟まれた。その美しさに、息を呑んだ。ただ美しいだけじゃない。芽がなんとも言えずかわいらしいのである。

アニメの本質はメタモルフォーゼだ。なにかが別のなにかに変貌するアニメーション映像は、アニメの初期から多く描かれ、人がボールになったり弾丸になったり、ぐにぐにと気持ちよくメタモルフォーゼしていく白黒アニメが多く描かれてきた。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンにおける芽吹きの早回しは、そんなアニメ独特のメタモルフォーゼのように描かれ、ともすると少しシリアスな物語をまるで童話のように和らげてくれていた。動く絵本のようであった。

こうした演出を仕掛けた新人監督藤田春香は、テレビシリーズ「響け! ユーフォニアム」8話の演出で話題をかっさらった人物だ。主人公級の2人の少女がうやく心を通わせていく重要な回であり、脱ぎ散らかした靴ひとつで心の壁が取り払われることを示すなど、その映像手腕にアニメファンたちの絶賛を浴びていた。

藤田春香の映像センスや演出センスは今回のヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝でも白眉であり、1つ1つのシーンがまるでイラストレーションのように美しかった。終盤、ぬいぐるみをぶら下げて窓から外を見る少女の図など、大きく印刷して飾っておきたいとすら思えた。

なかでも驚いたのが、イザベラのデビュタントで男役をすることになったヴァイオレット・エヴァーガーデンの衣装である。ダンスの男役なのでパンツスタイルなのだが、ドレスといって過言ではない女性的な美をたたえており、衝撃的なデザインだった。このデザインは京アニの方のオリジナルなのだろうか。

こうした思い切ったデザインを取り入れていく様は、まさに「新時代」を予感させるのにふさわしいだろう。

教育係ヴァイオレットと貴族の娘イザベラは少しずつ「友人」になっていく。イザベラはどこにでも行けるヴァイオレットを羨望する。イザベラも自由に羽ばたく未来を夢見ていた。だがそれはかなわない。貴族の娘として生きることを決意したイザベラに、自由はない。

普通の物語なら、イザベラの不幸を嘆き自由を求めるお話になるかもしれない。だがこの映画は違った。イザベラは肺病を患っており、寛解の希望はない。自由を手に入れたイザベラは、おそらく長くは生きられないだろう。貴族に「売り渡した」彼女の人生で得たものは、映画の後半に描かれていく。

イザベラにはともに暮らした言葉もまだ怪しい幼い少女がいた。血縁もないその幼児を妹と呼び、テイラーと名付けて孤児が孤児を育てる険しい暮らしをしていた。貴族の娘となったイザベラと別れたテイラーは、一通の手紙に生涯を決意する希望を見出す。

テイラー・バートレットという名の少女が得たものは永遠と憧憬。「幸せを運ぶ」郵便配達人に強烈に憧れた少女が、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの元を訪れることで後半の物語が始まる。

諦めたイザベラと、希望に向かってまっすぐ走り続けるテイラー。対象的な二人だが、どちらかが幸せでどちらかが不幸なんてことはない。二人とも正しくも間違ってもいない。ただただ、自分と愛するものにとって、きっとベストだと信じた道を歩み続けている。

「愛してる」とはなにか。それはヴァイオレット・エヴァーガーデンの本編を通してヴァイオレット自身が探求していくテーマだ。

イザベラとテイラーは間違いなく愛し合う家族だ。その二人の愛をつなぐのは手紙、届けるのは郵便配達人だ。

仕事に飽きてきていた郵便配達人ベネディクトは、テイラーの思いを受け止めてこう言う。

「届かなくていい手紙なんてないからな」

テイラーの憧憬を一身に浴びるベネディクトは、郵便配達人としての誇りを少しずつ取り戻していくようだった。

どれだけ大好きな仕事でも、辛くなるときやむなしくなるときはある。自分で選んだ道を、後悔せずとも苦しく思う日だってある。どれだけ愛していてもだ。

あの女学校でひねていたイザベラもそうだった。おんぼろのバイクで飽き飽きした仕事を繰り返すベネディクトもそうだった。

だが「愛してる」ということは、何度でも恋に落ちることができるということだ。恋い焦がれた仕事、恋い焦がれた人生、愛してるからこそ裏切られてもまた恋することができる。もう一度踏み出すことができる。

この映画は7月16日に完成したそうだ。その後に起きた事件の話は、いまはしたくない。ただ言えるのは、これは俺たちの知る京都アニメーションの最後の作品になったということだ。京アニの復活は信じているしいつまででも待つ。だとしても消えた人々が蘇るわけではない。同じ「京アニ」には、おそらくならないだろうし、きっとなるべきでもない。

上記は中国のアニメ雑誌編集者が書いた文章の翻訳だ。日本のアニメシーンにおける京アニの存在の大きさを知れば知るほど、絶望しかないことがわかる。

京アニ」はきっと、新しく始めるしかないのだろう。それがゼロからというわけではないことに、希望はある。もう一度踏み出し始めてる人々が、そこにはいる。

この映画の封切りと前後して、ヴァイオレット・エヴァーガーデン劇場版本編の公開延期が発表された。新時代を生きるヴァイオレットたちに会える日はきっと来る。その時の京アニは、俺たちの愛した京アニとは少し違ってるかもしれない。でも何度でも恋に落ちるだろう。そうなることはとっくにわかっている。

いつか届くはずの手紙を待ち続けるイザベラのように、俺たちもずっと待ち続ける。ヴァイオレット・エヴァーガーデンと、唱えながら。

自由主義の結末は、結婚も労働もせず生きる社会

「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」 という記事。未婚の理由「めぐり合わない」 一方で「探していない」も という記事の感想文なのだが、まあ実にそのとおりだよねえと思うしかない話だった。

p-shirokuma.hatenadiary.com www3.nhk.or.jp

自由主義社会は個人の自由意志こそが至上だ。誰にも強制されない代わりに誰も責任をとってくれない。自由とはそういうものだ。

自由主義を強く描いたゲームに、Assassin's Creed シリーズがある。

Nothing is true; Everythig is permited. 真実はなく、許されぬ事などない

Assassin's Creedより

これがシリーズを通して提示されるアサシンたちの信条であり、主人公たちアサシン教団は人々の自由を守るため、全体主義を是とするテンプル騎士団と世界の裏側で戦っていくのである。

だが、こうした自由を描いてきたアサシンクリード・シリーズも、その自由に疑問を呈していく。

I understand now. Not a grant of permission. The Creed is a warning. Ideals too easily give way to dogma. Dogma becomes fanaticism. No higher power sits in judgement of us. No supreme being watches to punish us for our sins. In the end, only we ourselves can guard against our obsessions. Only we can decide whether the road we walk carries too high a toll.

だが今ならわかる。信条が与えるのは許可ではなく……警告

理想は容易く独断と化し……独断は……狂信と化す

我々を裁く存在も……我々の罪を監視する最高存在もいない

己を……護る事が出来るのは己自身

進む道、払う犠牲を選ぶのは己自身

Assassin's Creed: Unity より

「その自由は、本当におまえを幸福にするのか?」

そう問われているようだ。

自分自身だけじゃない。自由を重じんれば重んじるほど、我々は他人の選択肢を少しずつうばっていることがある。自由主義社会において、企業は人を雇用するもしないも自由である。どうせなら気に入った人物を雇用したい。企業がそうして選り好みすればするほど、就活に行く若者たちはそれの要求に応えるべくいわゆる「量産型」と呼ばれるような同じような見た目になっていく。選考する自由が、選考を受けるものの自由を奪っていく。

こんなことはあちこちにあるのだ。上記記事のような恋愛や結婚にだってある。まずはその現実を認められなければ話は始まらない。

矛盾社会序説──その「自由」が世界を縛る という本には、そうした事例がいくつか紹介されている。

「Big, BlackDogSyndrome(大きく黒い犬の問題)」ということばがある。ア メリカの捨て犬の保護施設で用いられる語句で「引き取り手がなく殺処分さ れるのは、黒い大型犬ばかり」である状況を指したものだ。毛並みの明るい、 あるいは小柄な捨て犬は、比較的容易に引き取り手が現れる。一方、大きく 黒い犬は、万人受けするような外見ではなく、攻撃的で凶暴なイメージを持 たれがちで、引き取り手がなかなか現れないのだという。

矛盾社会序説──その「自由」が世界を縛る

矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る

矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る

このような「大きく黒い犬の問題」は、キモくて金のないおっさん問題などとしてネットでもいくたびか話題になってきた。こうした魅力は実のところ生まれ持ったものだけでほとんどが決まってしまう。

確かによい姿形をしていることだけが有利に働くわけではないのだが、人々が好感を持つポイントというのはおおむね習慣によって形成される。曰く、箸の持ち方がきれいだとか、歯がきれいだとか、気遣いができるだとか、清潔感があるだとか、動作音が小さいだとか。こうしたものは生まれた家の習慣が反映されていくのである。

これは正直言うと実体験でもある。俺の生まれた家は職人の家系であり、粗野な言動や早食いが美徳であった。職人というのは思いのほか忙しいものであり、ちゃっちゃと仕事を片付けるためには儀礼的なことなどまどろっこしいことはしてられなかったのである。またたくさん食べてたくさん働くことを良しとされていたので、食べ物はおおいに与えられた。そうした食べ物はあとで栄養バランスを調査して気づいたのだが、脂質過多で食物繊維のほとんどない食事だった。おそらく職人が短い食事時間のなかたくさん体を動かすためのエネルギーを補給する食事だったのであろう。

そんな食事を現代社会のデスクワーカーがしていれば太るし体を壊す。こうした食習慣の見直しをいまでも少しずつ進めている最中だ。

そんな中で気づいたのだが、食事によって集中力も生産性もまるで違ってくる。脳を効率的に動かす習慣を身につけるには、脳を効率的に動かす習慣をもった家に生まれるのが至上である。それがなされなかったときに改善をするのは、習慣という無意識に埋め込まれたものだけに、まず気づくことが難しい。

こうした文化的な財産を「文化資本」と呼ぶそうだ。

ja.wikipedia.org

文化資本を持たない者たちにとっての福音は、インターネットが普及したことである。情報爆発が起き、自分たちの習慣が悪い習慣であることに気づくことが増えた。よい習慣もぐぐれば見つかることが多い。

だがそれでも足りない。習慣の違いは他人と一緒に暮らすことで気づくことが多い。同じ家の中で少しでも生活をしてみると、歯磨きの仕方や片付けの仕方、食事を用意して片付けるまでの手順、様々なところで違いを発見する。それも相手に敬意を持ちながら見てないと絶対に気づかないだろう。

最初に紹介され記事で見つけたのだが、フランスではひきこもりでもデートする という。これも習慣の差として見てみると実はそんなに不思議でもない。ひきこもるほど社会で傷つき、家族の理解が得られなかったとしても、食事はするし散歩くらいはしたほうがいい。公園でも高くもない店のランチでも、異性と会って話す機会をみんなが作ろうとしてればそりゃ作れる。

先進諸国では子供の養育コストの増加からどこも少子化ではあるのだが、フランスが様々な出産子育てと就労の両立支援で出生率を回復させたのはこうしたデート文化の強さもあるのであろう。

日本も含め、アジアでは結婚するまで子供を産まない傾向が強いという。フランスのような対策は効果が薄いかもしれない。お見合い文化は廃れ、恋愛もしないというのでは、そもそも子供を生む前提を2枚も3枚も壊してしまってる状況だ。

日本の知識階層は新渡戸稲造の昔から、欧米の習慣をコピーしてくることを是としてきた。脱亜入欧路線を推し進め、先進諸国を急いでキャッチアップしなくてはならない後進国としてはそれもしかたなかったのであろう。だが日本も先進国入りし、独自の問題を発生させてるさなかに、欧米をコピーしてくる対策が果たして有効だろうか。そのコピーは、日本の状況を正しく認識できているだろうか。

日本では男女の賃金格差が高いと言われるが、実際のところ結婚すると男性の収入を使うのは配偶者である女性の役割になる。ファイナンシャルプランナーなどの話を聞けば、手取り月給の1割程度が適正な男性の小遣いだそうだ。残りの9割は家のことに使われ、たいていその権限は専業主婦である女性に持たされる。昭和の頃は自分の妻を「大蔵省」と呼ぶサラリーマンたちも数多くいた。こうした習慣は欧米にはあまり見られないものだ。そして権力とはお金の権限を持つものこそが強い。世界一、男より女が幸せな日本 などと言われるのもそうした習慣が要因であろう。

同時に、男性の不幸度が妙に高いのもやはり日本である。これはいわゆるセクハラ・パワハラ、そして長時間労働が労働環境に蔓延してるせいであろう。日本は「働かない」というだけで幸福になれるくらい、働くことこそが不幸の要因となっているのである。女性の社会進出により、そうした労働環境の問題がようやく注目されてきたとも言える。アファーマティブ・アクションの効果ここに見たりという気分だ。

昨今ようやく「男のつらさ」が注目されるようになってきたのはとてもいいことだ。それは労働問題に楔を打つことになるであろうし、労働組合が雇用維持にだけこだわるのも意味がないことに人々は徐々に気づいてきてる。

男性が男性であるがゆえにまず逃れることのできない「労働」という問題。そこが幸福なものになれば、子供を持つような余裕も生まれてくるだろう。人を愛する余裕も生まれてくるだろう。そうした余裕が生まれたとき、本当に異性を、人間を愛するかどうかなんて、わからないけれども。

あるいはそもそも「労働」というものから解放される可能性もある。優秀でなければ仕事が無い時代の幕開け はもうずっと前から始まっている。儲かっている企業ほどその自由を行使し、優秀でない人間を排除しているからだ。彼らからたくさんの税金を取り再分配をすれば、充実した生活保護ベーシックインカム負の所得税で、働かずとも生きていける社会になるかもしれない。少なくとも金持ちからもっと税金を取れというのは、欧米では先進的な金持ちの意見としてスタンダードになりつつあるようだ。

www.afpbb.com

むしろ目指すべきは、そういう働かない社会なのかもしれないね。

金持ち課税

金持ち課税

敗北するオスと余るメス、そして野生に抗えぬサピエンス

ようやく昨今「男の生きづらさ」が話題になるようになってきた。

note.mu

上記記事はデータを元に男性の生きづらさを明確に語る試みである。そのデータの読み方に批判はあれど、大筋では同意できる話だ。

男性という性は、基本的には勝利者と敗北者とで構成される。人間に近い生態を持つゴリラなどは、おおむね半数のオスたちが1〜3頭程度のメスからなるハーレムを形成し、半数程度のオスたちは男社会を築き上げるそうだ。四足の哺乳類などでも、やはりハーレムを形成しメスを巡って争い、勝利者のみが子孫を残せるような行動を取る動物は少なくない。

ホミニンと呼ばれる動物も、やはりハーレムを形成する。ホミニンは昔はいくつかの種がいたが、みな絶滅していまは一種しか残っていない。ホミニンの社会は表向きは一夫一婦制を取ることが多いが、その実いわゆるアルファオスたちは愛人を作り、正妻に隠して、あるいは公認を得て、事実上のハーレムを構築している個体は少なくない。

孔雀が羽を広げて性的魅力をアピールするように、ホミニンのオスたちも性的魅力をアピールすることには余念がない。この動物における最大の性的魅力は、その社会で流通する紙や金属でできた貨幣である。貨幣を多く持つことをアピールするために、ホミニンのオスたちはメスに食物や貴金属を贈与することが多い。ただの食物や貴金属では価値が限られるので、それらを洗練させる行為にもたいへん労力が割かれ、それらは個々の群れにおけるカルチャーとして発展している。食物や貴金属はたいへん美しく形作られ、付加価値を増し、それらをメスに贈与することによってホミニンのオスたちは持ってる貨幣の量の多さをメスたちにアピールするのである。

また、より多くの貨幣を持つオスの寵愛を受けるべく、メスたちの性的アピールも激しい競争が行われている。粉末やゲル状の物質を顔などに塗って血色をよく見せたり、カラフルな糸状のものを編み合わせた布と呼ばれるものに代表されるような装飾品を身につけるなどして、その性的魅力をアピールする。オスから贈与される食物や貴金属は、こうした性的魅力の構築に役立てられる。食物を得ることで脂肪の多い魅力的な肉体を作ったり、貴金属で飾り付けることによってより魅力的に見せたりする。

おもしろいことに、ホミニンはそうして作られた性的魅力を利用し、直接貨幣を贈与させる行為がしばしば見られる。大きく発展した群れではよく見られる行動で、オスよりメスのほうがこうした行動に出る事が多い。生殖を伴うこともあるが、不思議なことに生殖を伴わないことのほうがずっと多く見られる。ミツバチの求愛ダンスのような動作と独特の鳴き声を伴ったパフォーマンスを行い、異性から貨幣を贈与させることもある。ここには同性愛も少なからず見られ、動物の奥深さを知ることができる。また多くの個体の興味を引きすぎてしまい、怪我を負うこともある。

こうしたホミニンの性行動は、過当競争に陥りがちだ。力をつけて大きく発展した群れほど、そうした競争のあまりの激しさに疲弊し、子供が産まれづらくなる。より多くの貨幣を得るためにオスたちは生まれたての頃から、あるいは生まれる前からより多くの貨幣を持てるように親たちの指導を受ける。ホミニンはゴリラよりは乱婚だが、チンパンジーほど乱婚ではない。オスたちはメスを獲得できるほどの貨幣を得ることができなければ、子孫を残せないのである。もちろんゴリラよりは乱婚なので、チンパンジーにも見られるようにハーレムに忍び込んでメスに取り入り、子孫を残すオスもいる。だがそれは例外的だ。

メスにおける過当競争はたいへん目に付きやすい。競争をやめて自分で餌をとる個体も少なからず観測することができる。メスはメス同士で社会を構成し、チンパンジーにおける毛づくろいのような行動を取る。色のついた水や糖質の多い食物を分け合い、鳴き声を発し合うことで毛づくろいのような効果をもたらすようだ。

一方、オスの過当競争は目に付きにくい。競争に敗北したオスたちは巣にこもってしまったり、群れから離れて行動することが多いからだ。まったく群れと行動をともにしないわけではないのだが、敗北したオスたちは群れとの関わりを避けることが多い。諦めの悪い敗北オスが群れのハーレムやアルファオスたちに近付こうとすると、アルファオスやメスたちは苛烈な示威行動を取って敗北オスを群れから追い出そうとする。メス同様にオスたちも布や貴金属で身を飾り、その所持する貨幣の多さをアピールする。敗北オスたちはあまり貨幣がないので、そうした布や貴金属を入手することが難しく、一瞥して敗北オスであることがわかりやすいのである。

このように、ホミニンの敗北オスは群れだけを見ていると非常に少数に見える。群れにいるオスたちはメスたちを支配、あるいは食物や貴金属を贈与し、自分のハーレムに取り入れることに熱心だ。巣ごもりしたり群れから離れた敗北オスたちの行動についてはいまいちよくわかっていないが、メスの形状をしたものを作成する個体もいるようだ。こうしたものはメスたちに見つかると激しい暴力にさらされる。群れにいるオスたちもそうした攻撃行動に参加し、群れから追い出そうとする。

大きく発展した群れになると、こうした敗北オスたちの数はぐっと増える。貨幣をより多く得るための工夫が発達し、一部のアルファオスとその子孫たちが貨幣を専有し始めるからである。そうなると群れに残るオスたちもメスを抱えきれなくなる。ホミニンの生殖能力はそこまで高くないので、メスが余り始めるのである。

メスたちもごく一部のアルファオスにしか興味を示さないわけではない。貨幣をある程度持っていることがわかれば生殖に応じることも少なくない。みずから貨幣を所持し、オスに贈与する個体もいるがやはり例外的だし、やはり基本的にメスたちは敗北オスとともに群れを離れるような行動を取ることはめったにない。敗北する前につがいになった場合でも、オスの敗北が決定的になるとメスは敗北オスを群れから追い出す行動がよく見られる。

こうして大きく発展した群れは急速に子供を作らなくなる。競争はより過当になり、敗北オスも余りメスも増えていく。そう、ホミニンにおけるオスは敗北し、メスは余るのである。

こうして多くの敗北オスと余りメスを生み出した群れがどうなるかはまだわかっていない。他の群れから多くの個体を迎え入れてる群れもあれば、そうしない群れもある。いずれ群れの統廃合が起きたり、他のホミニンたちのように絶滅したりするのかもしれないが、それはまだ誰にもわからない未来のこととである。

さて、ホミニンの例にも見られるように、男性というのは勝利者と敗北者しかいない。敗北者は群れから疎外され、勝利者は群れを支配する。傲慢な人間は自分が動物であることを忘れるものだが、しょせん人間も動物であり、その野生はそんな人間の中にも内在しているものなのである。

こうした内なる野生と戦い、敗北者や余り者にも優しい社会を作ることは容易ではない。かつて「キモくて金のないおっさん」という概念が出現した時に見受けられた社会からの攻撃的な言動の数々を思い出してみたらいい。あれはそもそもそうした欺瞞を暴き出すための概念であり、それは大成功したといえる。自分の野生と戦うことすらできない人々が「キモくて金のないおっさん」を激しく攻撃することで、その欺瞞は見事に暴き出された。

解決する方法は2つある。ひとつは敗北者や余り者の不幸に寄り添い、彼らの幸福に寄与することだ。ゆっくりと滅びていくだろうが、非人道的なことはしなくて済む。

もうひとつは、敗北者の数を減らすことだ。一夫一婦制規範の高い社会では、経済活動が活発化し、より多くのマネーがより多くの人々の手に渡ることによって敗北者を減らすことができる。そのためには富裕層課税をして再分配をする必要がある。

金持ち課税

金持ち課税

この2つの解決は衝突するものではない。どちらも同時にできるはずだ。

萌え絵が新しいオリエンタリズムにならない理由

炎上した「キズナアイ」問題…日本文化が描いてきた女性像から考えるという記事。炎上したのはキズナアイではなくて千田教授なのだが、その千田教授の論に比べてはるかにまともな批判なのでちょっと書いておこうかと。

まず簡単な部分を否定しておかねばならないのだが、

一般市民には“わかりにくい”“高度な科学的研究”を、“わかりやすく”“親しみやすい”キャラクターを利用して説明しようとする送り手側のコンセプトは理解できる。

ただし、説明をうけるキャラクターとしての「キズナアイ」と、解説する男性科学者の組合せは、“教える男性/教わる女子”という、メディアにおける男女の役割分担、特に教養的な番組の典型的なパターンに陥っている。

炎上した「キズナアイ」問題…日本文化が描いてきた女性像から考える

「教養番組の典型的なパターン」、本当にそうだろうか? 残念ながらテレビというメディアは検索性が皆無で検証は事実上無理なのだが、似たような「マンガでわかる」系の教養本における男女の役割分担についての調査がある。

見て分かる通り、2006年ごろまでは圧倒的に「男性が先生役、女性が生徒役」という配役が支配的だったが、2008年以降では男女比はほぼ同等か、若干ながら「女性が先生役、男性が生徒役」の方が多いと言える。(まあサンプル数的に誤差範囲ではあるが)

理系学習マンガは誰を先生役にし、誰を生徒役にしてきたか。-NHKキズナアイ騒動をうけて - 銀河孤児亭

こちらの調査によれば、10年ほど前までは確かに古典的な性役割が見られるものの、この10年ではほぼ解消されている。学問という場が社会の速度においついてないのではないか。

こうしたエビデンスに基づかない議論はソーカル事件を起こしたポストモダンを想起させる。モダンの徹底なきポストモダンはない。まずはモダンな合理性から始まらなくてはならない。ポストモダン建築もモダンな技術によって成立するようになったのである。

萌え絵が新しいオリエンタリズムに?

さて本題に入ろう。冒頭の記事には興味深い批判がある。かつてのジャポニズムが残したものについて、佐伯教授はこう語る。

しかし、一方で、アジアの女性を美化するあまりに性的なまなざしの対象とし、脆弱な存在として欧米人よりも低い立場とする発想は、強い欧米と弱いアジアという「オリエンタリズム」の構図を示し、手放しで喜ぶわけにはゆかない。

現実に芸者として働く現代の日本女性たちにとっても、ことさらに「ゲイシャ」が性的なまなざしの対象になるのは不本意であろう。

日本のポピュラー・カルチャーで描かれる、“かわいい”女性像の海外への輸出は、日本の女性といえば、未熟で性的な存在というステレオタイプにつながりかねないという点で、いわば21世紀の「オリエンタリズム」に陥る危険性がある。

炎上した「キズナアイ」問題…日本文化が描いてきた女性像から考える

結論から言うとこの不安についてはまったくの杞憂であると俺は考える。その理由を語るためには、キズナアイさんが自らのアバターに採用した萌え絵と呼ばれるスタイルと、その源流である漫画絵、特に少女漫画の絵についておさらいする必要がある。

少女漫画の絵はいかにして成立してきたか

萌え絵の歴史については以下ですでに書いたので参照してもらいたい。

萌え絵はポルノではなく、人間への回帰なのである - 狐の王国

上の記事でも引用しているが、少女漫画の絵の成立には少女雑誌に言及しない訳にはいかない。少女漫画はまず少女雑誌に掲載され、その後コミック誌として独立した経緯がある。

雑誌の表紙絵の少女像、その瞳は明治から大正、昭和にかけ徐々に大きくなっています。なぜでしょうか? 明治38年11月号の「少女界」の表紙絵。少女の目は、線や点でシンプルに描かれています。江戸時代以来の美人画の伝統を受け継いだ顔です。 大正5年2月号「新少女大」。正時代、竹久夢二の描く少女像が登場。初めて瞳が開き、瞳の輝きが描かれています。語りかけてきそうな、生き生きとした表情が生まれました。 大正15年2月号「少女画報」。夢二の後、大きな瞳が主流になります。高畠華宵(たかばたけかしょう)の描く少女は、大きな二重まぶた。白めが強調され、あでやかさが特徴です。 昭和14年4月号「少女の友」。瞳は、昭和に入ると極端な大きさになります。中原淳一の絵です。大きな瞳が支持された背景には、当時、自由な発言ができなかった少女たちが目で自分の意思を伝えたい、という自己表現への思いが反映されている、と評論家の上笙一郎氏は語ります。

file148 「少女雑誌」|NHK 鑑賞マニュアル 美の壺

竹久夢二中原淳一、確かにだんだん目が大きく描かれるようになったように感じられるのだが、俺はここに大きな断絶があると感じられる。上笙一郎氏の評論も的はずれであろう。中原淳一が目を大きく描いた背景には、西洋人形が影響している。

中原淳一のデビューが人形であったことは、まだあまり知られていません。十代の淳一少年が作っていたフランス人形を見て驚嘆した知人の推薦で、昭和7年、銀座松屋で創作人形展を開催。フランス人形というネーミングもその時に淳一が考えたものだそうです。その人形の叙情性を見た雑誌『少女の友』の編集者が、竹久夢二のあとを継ぐ専属挿絵画家として淳一を迎えたことが、淳一が仕事として絵を描いた最初であり、その後終生続くことになる雑誌創りの仕事との出会いでもあったのです。

人形 - 中原淳一ホームページ

中原淳一が自ら「フランス人形」と読んだそのスタイルは、幼児型でロココ調のドレスに身を包み、そしてなにより目が大きいものだった。西洋人の子供がモデルなのだから、それは当然であろう。

こうした中原淳一が活動の場にしていた少女雑誌というジャンルに、現代のような漫画を持ち込んだのはおそらく手塚治虫であろう。だが同時期に中原淳一にあこがれて絵を描いた高橋真琴という作家の登場が、おそらく少年漫画と少女漫画の絵を決定的に分岐させた事件であったと思われる。

高橋真琴は現在も現役で、地元の千葉県佐倉市では市のポスターなども描いていらっしゃるようだ。

f:id:KoshianX:20181021071044j:plain

千葉県佐倉市で「佐倉“江戸”時代まつり」、11月11日開催 - 観光経済新聞

高橋真琴の絵は、漫画よりも女児向けの文房具や絵本などで馴染み深い人も多いだろう。少女と花という高橋真琴のモチーフは、おそらく女性と花をモチーフとしていたミュシャの影響によるものではないかと思われるが、これについては確証はない。社会学者の先生、高橋先生に直接聞きに行ってくれないですかね。

ともあれこうして少女漫画独特の絵柄というのは成立し、特に70年代や80年代においては西洋人顔が描かれることに対して白人に対する劣等感を指摘されもした。大元がフランス人形なのだからこれは妥当な批判とはいい難いと思うのだが。

国籍フリーの漫画絵

さて上記のように少女漫画絵は西洋人形を大元として出発したのだが、少年漫画はどうか。これはディズニーに明らかに影響された手塚治虫の絵が否定される劇画ブームに触れざるを得ない。手塚治虫が切り開いた映画のようなストーリー漫画の新基軸として、劇画という提案がなされたのは1959年のことである。ディズニーのようなデフォルメされた等身ではなく、もっとリアルな等身で描かれ、シリアスなストーリーを彩った。小池一夫梶原一騎らの作るストーリーや、池上遼一のようなしっかりしたリアルな絵が大いに受け入れられた。特に池上遼一は外見の美しさで劣ると考えられがちだったアジア人の特徴を捉えながらも、それを非常にかっこよく描くことが特徴的である。

サンクチュアリ 7 (My First Big SPECIAL)

こうしてリアルな等身のキャラクターが描かれるようになった漫画だが、劇画ブームは70年代には一度収束する。

労働者階級の若者がメインターゲットの読者であった劇画は、当時盛んであった学生運動の熱狂と同期し、社会的なブームを巻き起こすことになる。貸本劇画誌を前身として1964年に創刊された「ガロ」(青林堂)は全共闘世代の大学生の愛読誌であった。1970年(昭和45年)3月31日によど号ハイジャック事件を起こした赤軍派グループの宣言「われわれは明日のジョーである」は当時の劇画の若者に対する影響力を物語っている。

だが、1972年(昭和47年)のあさま山荘事件などの左翼の過激化で学生運動が退潮したと同時に、革命をテーマに若者らに支持されていた劇画業界も冷え込んでいった。劇画は「重く」「暑苦しい」ものとして若者らから敬遠されるようになり、それまで人気を誇っていた劇画雑誌は1970年代中頃より急激に部数を落としていった。

劇画 - Wikipedia

萌え絵はポルノではなく、人間への回帰なのである」 でも書いたが、劇画ブームのあとの漫画というのは「かわいいヒロイン」が求められるようになる。それは硬派な時代の終わりでもあったのだろう。男たちはホモ・ソーシャルな熱血を好まなくなり、硬派の時代の人々から見れば「女のケツを追っかける」ようになる。そうした作品には劇画タッチの絵より、少女漫画の絵の要素を取り入れていくことが好まれていた。ヒロインの絵がまんま少女漫画タッチであったり、全体的に少女漫画絵の影響を受けていることがわかる作家も少なからずいた。また漫画家たちの画力も向上し、大友克洋鳥山明のような、イラストとしてみても遜色ないような絵で漫画を描く人たちも現れた。

こうしたムーブメントの中で、漫画絵というものはどんどん人種からかけ離れていく。西洋人顔ともアジア人顔ともつかない絵に変形していくのである。これは様々な理由が考えられるし、実際に様々な理由があったのであろうと思われる。

もともと手塚治虫時代の絵というのはディズニーの影響下にあり、そもそもが国籍と言えるものがなかった。カナダで放送された魔法使いサリーを見たフランス系カナダ人が「サリーちゃんはフランス人でしょ、フランス語を喋ってるし」と言われて困惑したという話を聞いたときには笑ってしまったのだが、この頃の漫画絵というのはそもそも国籍がなかった事が分かる話である。

80年代の漫画絵も、こうした基礎の上に成り立っていることがやはり影響しているのであろう。人種的な特徴を廃し、たいていの国の人々は自分の国の人間だと思えるような絵が多く見られた。キャプテン翼聖闘士星矢といった作品が海外でもたいへん受け入れられた背景には、こうした異国感の排除があったのであろう。こうした特徴はアニメでも見られ、スタジオ・ジブリの絵もまたアジア人が見ればアジア人に、西洋人が見れば西洋人に見えるような絵柄である。

キャプテン翼 2 (ジャンプコミックス)

もちろんアニメ超時空シリーズのように海外で大ヒットしながらも、スタートレックなどの影響か人種多様性が見て取れる作品もある。とはいえ主人公一条輝が海外ではリック・ハンターという欧米人になれたのは、人種的特徴を廃した漫画絵だったことが大きいであろう。もちろんそうした海外展開を見据えてるからこそ意図的に人種的特徴を消していったのかもしれない。

超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか HDリマスター版 メモリアルボックス (初回限定生産) [DVD]

少女漫画と萌え絵

こうして人種的特徴を廃していく動きは少女漫画にも見られた。西洋人顔だった少女漫画絵も、丸みを帯びてアジア人とも西洋人ともつかない顔になっていく。

ぼくの地球を守って 3 (白泉社文庫)

こどものおもちゃ 1 (りぼんマスコットコミックスDIGITAL)

またそもそも「美少女戦士セーラームーン」のように、少女漫画では金髪碧眼でも日本で生まれ日本で育った日本人として描かれるなど、人種的特徴と実際の人種は一致してないことも少なからずあった。髪の色もピンクや青など、実在する人種とはかけ離れて描かれることも少なくなかった。

スケバン刑事if (MFコミックス)

こうした動きは「人形化」として考えると原点回帰にも思える。人種も含む人間としての特徴が消えていき、人形のように描かれていく。中原淳一が目指したものも、やはり人形だった。

こうした少女漫画テイストの絵は、そのかいわらしさからポルノに転用されていく。アニメ「くりいむレモン」を筆頭に、90年代表現規制問題の端緒となった遊人による「ANGEL」などが代表的だ。

ANGEL(エンジェル) 改訂版 1

とくに遊人の絵はおそらく無断使用であろうが、街の性風俗店の広告などに広く利用されていく。バンコクの歓楽街でまで遊人の絵を見たときにはたいへん驚いた。少女漫画テイストの絵をポルノと勘違いしてる人たちが多いのだが、そうした人たちはおそらくロクに漫画も読まずに歓楽街で過ごす時間が長かったのだろうと思われる。性風俗店と少女漫画テイストの絵柄がイコールで結ばれてしまってるのだろう。子供たちには迷惑な話である。

また90年代に大ブームを迎えることになるアダルトゲームでも、やはりこうした少女漫画テイストの絵が使われるようになる。

CLANNAD - PSVita

またやはり少女漫画テイストの絵で描かれたポルノコミックも多かった。その後児童文学の挿絵を描くことになる okama などが代表的である。

ふしぎの国のアリス (100年後も読まれる名作)

これまであげてきた作品やそれ以外の作品でもそうだが、設定上西洋人であったり東洋人であったりしても、まったく同じように描かれてることにお気づきだろうか。人種は設定上存在しても、文脈で理解するのがスタンダードなのだ。

こうした絵で鍛えられた絵師たちは、ライトノベルやアニメや漫画とどんどん活動の場を広げていった。いわゆる萌え絵と呼ばれるものはこうした少女漫画テイストだが少女漫画以外の媒体で使われてるものを指すようだ。

ライトノベルやアニメや漫画、アダルトゲームなどは、「人形化」された絵に人格とストーリーを宿すようになる。それが萌え絵の本質であると以前にも書いた。

「萌え絵」と呼ばれるスタイルがジャポニズムを超える日 - 狐の王国

人形であるがゆえに人種という属性を持たない。だが人格とストーリーはある。それゆえに愛される。人種などいう細かいことは気にしないのである。これは受け手もそうで、日本のアニメキャラクターに黒人が少ないことを嘆く向きはあるにはあるのだが、気にしない人たちもたくさんいるのである。黒人女性がセーラームーンのコスプレをしても、人種を理由に文句を言う人は見たことがない。宗教上の理由で髪を出せなくても、ヒジャブを髪の毛に見立ててコスプレしてる人たちもいる。いいぞもっとやれ、もっと楽しもう。

そもそも人間ではないのではないかという意見もあった。

どうみても白人とはまったく別の何かで、人間ですら無いというのが現状だ f:id:KoshianX:20181021085447j:plain

海外「なぜ白人はアジア人と同じようなアニメ絵を描けないの?」 【海外の反応】 : 海外の万国反応記@海外の反応

萌え絵はグローバル

以上のように、日本の発信する萌え系と言われる女性表象はそもそもが無国籍なのである。浮世絵のように明らかに東洋人が描かれてるわけではない。日本を感じさせるなんてこともおそらくないだろう。今の時代は韓国人や中国人が萌え系のイラストを描いて日本で出版してる時代である。

新訳 ナルニア国物語 (1)ライオンと魔女と洋服だんす (角川つばさ文庫)

おそらく次第に欧米人にも浸透し、欧米人の萌え系イラストレーターも出てくるであろう。アマチュアレベルではすでに存在してるはずである。

無国籍な表象であるからこそ、髪の色も肌の色も気にしない。同じキャラクターの肌や髪の色が変わったくらいでは揺れの範囲内。西洋人形を由来に持ち、少女漫画が生み出した「萌え絵」はまさしくグローバルなのだ。

f:id:KoshianX:20181021091148j:plain

黒人の女の子が主役のパワフルな美少女戦士セーラームーン | パラリウム

この現状でジャポニズムのときのようなオリエンタリズムが発生しうるだろうか。まあ、ないだろうね。

「萌え絵」と呼ばれるスタイルがジャポニズムを超える日

なにやら近年、「萌え絵」をポルノだと認識してるおかしな弁護士だの社会学者だの大学教授だのが跳梁跋扈している。司法試験に受かったり学者になるだけの知力がありながら、たかだかこの40〜50年程度のオタク文化について調べもしないという態度は褒められたものではない。とはいえまとまった書籍があるかというと、特に「萌え」に関してはちょっと思い当たらないので、夜中にツイートしたものを下地にちょっと書き残しておく。

クィアとしてのオタク

そもそもオタクというのはある種のクィアであった。クィアというのはセクシャルマイノリティに代表される、標準的な異性愛規範から外れた人たちのことである。「少年漫画を読む女と少女漫画を読む男」たち、それがオタクであった。彼らは中高生や大学生、あるいは社会人となっても、子供向けの漫画を読み、アニメを見続けていた。それも男性は女児向けの、女性は男児向けの作品に夢中になっていた。当時としてはそうとう異常な趣味だった。

オタクがオタクと呼ばれる端緒となる中森明夫「おたくの研究」ではその序文で、彼自身がおたくと名付けることにしたという人々のことをこう書いている。

コミケット(略してコミケ)って知ってる?いやぁ僕も昨年、二十三才にして初めて行ったんだけど、驚いたねー。これはまぁ、つまりマンガマニアのためのお祭りみたいなもんで、早い話しマンガ同人誌やファンジンの即売会なのね。それで何に驚いたっていうと、とにかく東京中から一万人以上もの少年少女が集まってくるんだけど、その彼らの異様さね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。モロあれなんだよね。髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊っちゃん刈り。イトーヨーカドー西友でママに買ってきて貰った980円1980円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前はやったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らが、どこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!それも普段メチャ暗いぶんだけ、ここぞとばかりに大ハシャギ。アニメキャラの衣装をマネてみる奴、ご存知吾妻まんがのブキミスタイルの奴、ただニタニタと少女にロリコンファンジンを売りつけようとシツコク喰い下がる奴、わけもなく走り廻る奴、もー頭が破裂しそうだったよ。それがだいたいが十代の中高生を中心とする少年少女たちなんだよね。

『おたく』の研究 第1回 | 漫画ブリッコの世界

1983年というこの時期に書かれたこの文書により、当時の「オタク」と呼ばれることになる人々がイメージできるだろう。バブル前夜の高度経済成長期、スーパーマーケットで売られてる服は軒並みダサいと言われ、それなりの値段のする服をそれなりの場所で買い揃え、それなりに着こなしていることは当時の若者の間では実に常識的なことだったようだ。それに反していた彼らはその時点でだいぶ異性愛規範から外れていたのである。そして中森明夫が参加したというコミケ、当時は出展者の8割程度は女性だったはずである。コミケというのは女性オタクたちの祭典であり、オタクというのは主に女性の趣味でもあったのだ。

「萌え」の発見

70〜80年代、こうしたクィアな趣味の中で育まれたオタクたちが「萌え」という感覚を見出すのが90年代である。

これは「燃える」の誤変換から生まれたという説もある。要するに夢中になってしまう何かを見てしまったときの感情表現なのである。

誰もが経験したことはあるのではないか。猫の異様にかわいい仕草をみてしまったとき、犬のつぶらな瞳に見つめられたとき、子供の無邪気な姿を目の当たりにしたとき、壁に頭を打ち付けたくなるような激しい情動を覚えたことはあるのではないか。

そう、それが「萌え」である。

この言葉は男性オタクたちによって生み出されたようだが、すぐに女性オタクたちにも波及していく。今では「萌え」という言い方はだいぶ下火になり、「尊い」「まって」「無理」などの言い方がされることが多いように見受けられる。激しい情動に駆られて身も心もついていけない感覚が伝わってくる。まさに「ほとばしる熱いパトス」なのである。

さてこうした広範囲な「萌え」の感覚だが、オタク文脈にしたがってもう少し狭義の萌えを探っていこう。

女児向けのアニメや漫画を読むときに男性オタクたちが感じる「萌え」とはなにか。たとえば魔法少女アニメにおける変身シーンなどは「萌え」の対象だ。


セーラームーン変身

しかしこれは変身に伴う脱衣としてのエロスへの情動とも言える。


カードキャプターさくら「はにゃーん」まとめ

こちらのカードキャプターさくらNHKアニメということもあり、セクシャルなシーンはない。だがセーラームーンに負けず劣らず、あるいはそれ以上に90年代の男性オタクたちを「萌え」させた作品だ。

先述した犬や猫、小さな子供への情動としての「萌え」と合わせて考えれば、これが「少女的無垢性への憧憬」であることはきっとわかるであろう。

80年代から90年代、こうした少女的無垢性への憧憬としての萌えを感じ取っていた男性オタクたちは、多くが「ロリコン」を自称していた。これは「少女趣味」と言えば分かる人にはわかるであろう。少女的なかわいらしいもの、人形などへの愛着、少女雑誌や少女漫画のヒロインたちに対する憧憬。そうしたものを持つ男たちが、当時の感覚では「自分はロリコンである」と認識せざるを得なかったという、ある種の悲しい事情がそこにはある。

実際の所80年代のロリコンブームにおいて多くの児童ポルノが作られたのだが、その代表的なものはレズビアン活動家にして写真家の清岡純子の手によるものだった。当時の雑誌や書籍はもはや国会図書館においてすら閲覧禁止になっているが、清岡純子は本人やその家族との交流の中でずいぶんと平和的に少女たちのヌード写真を撮影していた、というのを当時の雑誌に寄稿していたようだ。

そういうかわいらしい少女写真だと思って欧米の児童ポルノを見てみると、あまりの違いに衝撃を受ける。欧米のそれは本物の性的虐待の写真であり、犯行現場の写真だからだ。苛烈なまでにその所持の禁止を叫ばれた理由もよくわかる。90年代のインターネットではそうした写真もちょっと探すとすぐ見つかったのである。

そういうものではない、「男の持つ少女趣味」としてのロリコン文化というのが80年代から90年代にかけて存在していたということは指摘しておくべきであろう。だがそれを「ロリコン」と自称していたことに現れているが、まだこの当時は「萌え」と「エロ」の区別が本人たちもついていなかった。

これは違うものだという認識が当事者たちの間で広まったのは、90年代に巻きおこったエロゲブームである。その端緒となる1992年の「同級生」には興味深いエピソードがある。

元々アダルトゲームには『TOKYOナンパストリート』(エニックス:1985年4月)を祖とする「ナンパ」というジャンルが存在しており、町で見かけた女の子を口説いてホテルに連れ込むと、ご褒美画像であるエッチシーンが見られる…というゲームの流れが確立していた。1989年発売のエルフの初期作品『ぴんきぃぽんきぃ』は、その流れを受けたナンパアドベンチャーゲームであるが、蛭田昌人は『同級生原画集』(辰巳出版)の対談記事の中で、「『同級生』の大元は『ぴんきぃぽんきぃ』」、「最初は40日の期間内に50人の女の子を次々とナンパしまくるストーリー性の低いゲームだった」と語っている。

つまり、『同級生』も元々は「ナンパゲーム」(その証として、インストール時に作成されるフォルダ名が、「NANPA」)として開発されていたが、蛭田が竹井の絵を見るうちにヒロインをただナンパしてセックスさせるだけでは勿体無いと思い、ヒロインの数を減らして個々にストーリー性のあるシナリオを付加させた結果、「恋愛ゲーム」になってしまったのである。これは蛭田自身も意図しておらず、ゲーム雑誌のインタビューの中で「購入者から『同級生はナンパゲームじゃなくて恋愛ゲームなんだ』と言われて初めて気が付いた」と語るに至った。

同級生 (ゲーム) - Wikipedia)

イラストレーター竹井正樹の手による美麗なイラストの魅力が、ポルノゲームを恋愛ゲームに変化させたのである。

elf 同級生  原画集

竹井正樹は「同級生」の仕事の前に、OVAロードス島戦記」に参加してたことが知られている。そのキャラクターデザインと総作画監督をつとめていた結城信輝がこんなツイートを残している。

いのまたむつみレダというのはこれである。

Le Avventure Di Leda [Italian Edition]

また出渕裕によるロードス島戦記の原作イラストもまた、ミュシャに強く影響されたものだった。

新装版 ロードス島戦記 灰色の魔女 (角川スニーカー文庫)

いのまたむつみ出渕裕結城信輝を経ておそらくはこうしたアールヌーヴォーのスタイルの影響を竹井正樹らにも与えたであろう。同様にミュシャの影響が色濃く見えるCLAMPの漫画作品らの大ブームもあって、「萌え絵」はアールヌーヴォーの影響を強く受けて成立してることは想像に難くない。

アルフォンス・ミュシャの世界 -2つのおとぎの国への旅-

また絵だけでなく、物語も複雑化していく、

もうひとつ重要なタイトルが「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO(elf・1996年)」である。本格的なSF的題材と複雑な物語を成人向けゲームに持ち込み、なおかつヒットしたことで、「同級生」ともどもその後の家庭用ゲーム機への移植、アニメ化などの道筋をつけ、こうした複雑な物語を受け入れる土壌が成人向けゲーム市場にあること示した。

この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO PC98

その後「To Heart(Leaf・1997年)」や「Kanon(Key・1999年)」といった「葉鍵系」と呼ばれる作品群がヒットを飛ばしていく。これらは当初から家庭用ゲーム機への移植とアニメ化を見込んで作られており、ポルノとしてリリースされていながらポルノシーンを必要としない構成であった。いわゆる「全年齢版」と呼ばれる別版がリリースされ始めるのである。

萌え絵はポルノではなく、人間への回帰なのである - 狐の王国

こうしていわゆるエロゲ、ポルノゲームの市場は恋愛物語を中心に据えるようになり、ポルノシーンはあってもなくてもいいような扱いになっていく。この頃にはあえて全年齢版を買うファンもいた。それはポルノシーンがむしろ物語の邪魔になるという感覚であった。

こうして当事者である男性オタクたちは「萌え」と「エロ」が違うものだということに気づいていく。それは少女的無垢性への憧憬であり、無垢な少女への自己同一化であり、無垢な存在に受容されることそのものであった。

一方多くの女性オタクたちは「萌え」概念の導入において、おそらく「既存のものに名前がついた」という感覚だったのではなかろうか。彼女らが求めていたもの、それもやはりエロではなく「関係性」であった。鉛筆と消しゴムがいたらその2者の関係性を妄想して2時間は過ごせるという女性オタクは少なくない。そこにエロが含まれることも少なからずあるが、それは彼女らにとってスパイスのようなものだろう。スパイスの効きまくった料理が好物でしょうがない人も少なからずいるのではあるが。

萌え絵と物語

こうした関係性や無垢性といったエロではないものへのフェティシズムこそが「萌え」であって、そこには単なる表象ではなく「物語」が求められている。腕のいいイラストレーターや画家が絵柄だけをコピーしても決して「萌え絵」にはならない。そこに物語を乗せることができないからだ。

エロゲがその名に反して「エロ」を置き去りにして「萌え」に走らせたのも、そこには物語があったからだ。ヒロインと出会い、恋をする物語がそこにはあった。もちろんただ恋するのではなく、一人ひとりの背景があり、人格が描かれ、そして物語として成立していく。そこに現れる関係性や無垢性こそ、オタクたちを虜にした「萌え」なのである。

例えば大ヒットしたエロゲ「Kanon」のメインヒロイン月宮あゆだ。

Kanon ~Standard Edition~ 全年齢対象版

少女漫画雑誌「ちゃお」の影響が見える輪郭が崩れそうなほど大きな目、少女漫画の枠を超えて活躍するCLAMPの影響と思しきランドセルの羽。これは当時の流行をよく反映した萌え絵であろう。

記憶喪失の少女月宮あゆと主人公は、彼女の記憶を探して街を歩く。そしてその記憶を思い出すことが2人の別れにつながっていく。その切なさや無垢な笑顔、それらが失われる苦しみ。そうした物語こそがこの作品を名作たらしめ、多くのオタクたちが萌えてきた要因なのである。

その物語を知るものには、上の絵はたいへん切なく映る。ありし日のあゆの姿、2人の思い出を象徴する木に腰掛けるその姿は、今にも消えてしまいそうで、あの日の別れを想起させる。

知らない人にはただの絵にしか見えないそれには、膨大な物語を想起させる情報が織り込まれている。そこにはラノベなりアニメなりエロゲなり、物語を知ってる人でなくては読み取れない情報がある。だからこそただの絵にオタクたちは興奮するのである。

ただの絵に人格と物語を付与することにより、非常にハイコンテキストな表現としてそれは成立する。ラノベの表紙もだから中身を読んでなければ意味を理解できない。「スレイヤーズ」で多くの人に知られる白蛇のナーガも、中身を知らなければただの露出狂である。

スレイヤーズすぺしゃる2 リトル・プリンセス (富士見ファンタジア文庫)

こうしたハイコンテキストな表現を意図的に組み込む仕掛けが使われることもある。たとえば大ヒットアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」におけるオープニングテーマソング「コネクト」である。

蒼樹うめのデザインによるポップで可愛らしいキャラクターとあいまって、ちょっとおしゃれでかわいらしい歌にすら聞こえる。だが本編10話を見たあとに聞くとまったく別の意味に聞こえてくる。この歌がある登場人物の胸の内であることに気付かされるのである。歌に人格と物語が付与される瞬間であった。この仕掛けにはたいへん驚いたし、楽しませてもらった。

ただの絵に人格と物語を付与する、これこそが「萌え絵」と呼ばれるスタイルの本質であるとここでは断言しておきたい。

未来へ

こうしたハイコンテキストな表現の最先端の応用が Vtuber だ。彼らは絵に与えるべき人格と物語を自分自身を用いて表現する。ここでいう人格は本人自身であり、物語とは本人の人生だ。ある種のタレントと呼ばれる仕事に近いものになっていく。

こうしたコンテキストを理解してなければ批判も批評も成立しない。時代は常々動き続けており、ステロタイプと呼ばれた表現すら簡単に目新しいものに変貌する。このハイコンテキストさこそが海外進出の難しさではあるのだが、いずれ理解も広まるかもしれない。

90年代からゼロ年代にかけてのエロゲブームでは、数々のクリエイターたちが育まれた。エロゲを機に奈須きのこ虚淵玄いとうのいぢといったビッグネームを筆頭に、数々のクリエイターらがアニメに進出し、深夜アニメブームに乗って彼らの活躍の場は増えていった。

10年代に入ると彼らの生み出した物語や絵はより多くの人々を魅了していく。児童書や教科書にも採用され、韓国や中国を中心に海外にもファン層が拡大していく。そして「RWBY」や「アズールレーン」を筆頭に海外から「萌え」の返球を大量に受け取ってるのが今という時代なのである。

思えば Vtuber の草分けであるキズナアイにしても、評価は海外から始まった。1年間鳴かず飛ばずだったキズナアイが昨年末に見出いだされ、Vtuber ブームにのってまたたくまに大人気タレントになってしまった。訪日観光大使としてニューヨーク事務所に採用されたのは今年の3月のことである。

バーチャルYouTuber「キズナアイ」、訪日観光大使に - ITmedia NEWS

この速度についていけた人はそう多くあるまい。俺も最近まで雌伏の1年間があったことを知らなかったくらいだ。

萌え絵の魅力は、もはや世界中に広まりつつある。韓国の女性イラストレーターが描いた萌え絵が日本の書籍に採用されたりもしている。中国人女性の起業したマンジュウ社が開発した「アズールレーン」は萌え絵の魅力とゲームとしての良さから中国のみならず日本でもヒットしている。

かつて浮世絵が欧州に渡り、ジャポニズムをもたらしたときも、欧州の作家たちが浮世絵自体を描くなんてことはなかった。現代では中国人も韓国人も欧米人も萌え絵を描くようになった。ジャポニズムよりももっと大きな潮流になる可能性もあるのではないか。

人格と物語というコンテキストに乗せられた絵を一緒に楽しむというスタイルは、まさに漫画が確立してきたものでもある。漫画文化の派生として考えてもおもしろいであろう。

絵はもはや絵だけ見てもわからない時代になっているのである。そこに込められた人格と物語を、さあ楽しもうではないか。そこに国境はない。

夏の定番! 俺のゴーヤチャンプルーはこう作る

うちでなぜか評判のいい俺のゴーヤチャンプルーなのだが、気が向いて調理過程を写真に撮ったのでレシピを書き留めておこうかなと。レシピは十数年前にどこかで読んだか見たかしたものが元で、何度も作ってるうちにこういう形になった。本場沖縄の作り方は知らないのだけれども。

用意するもの

  • ゴーヤ1本
  • 野菜適当(今回は玉ねぎ1個とにんじん半分ほど)
  • 豆腐一丁
  • ポークランチョンミート1缶(340g)を半分
  • 鰹節2袋(5gほど)
  • 鶏卵2個
  • 砂糖大さじ1
  • 酒大さじ2
  • 塩小さじ1
  • 油大さじ1

さあ調理を始めよう

ポークランチョンミートをじっくり焼く

f:id:KoshianX:20180730174532j:plain ポークランチョンミート、いわゆる SPAM 缶だが、おいしいのだけれど塩味が強くて薄味好みの我が家にはちょっと合わない。

ホーメル スパム レギュラーN 340g

ホーメル スパム レギュラーN 340g

なのでまずはじっくり弱火でポークランチョンミートを焼いて、油と一緒に塩を出してもらう。

f:id:KoshianX:20180730174532j:plain

こんなふうに表面が固くなるまで焼く。中央が焼けやすく外側は焼けないので、薄く切れてしまったものや内側で早く焼けてしまったものを外側に。

f:id:KoshianX:20180730175843j:plain

焼き上がったら皿にあげておく。

ゴーヤの下ごしらえ

ポークランチョンミートを焼くのは時間がかかるので、その間にゴーヤの下ごしらえ。

f:id:KoshianX:20180730173219j:plain

上の写真のように縦に割ってからスプーンで中の種を取り出し、5mm 幅くらいに切っていく。

f:id:KoshianX:20180730173311j:plain

切ったゴーヤは小さじ1くらいの塩を入れ、よく揉んでおく。

豆腐の下ごしらえ

本場沖縄では凍み豆腐とかいうのを使うらしいが、うちでは普通の木綿豆腐を使っている。 f:id:KoshianX:20180730173154j:plain

豆腐をまるごとキッチンペーパーでくるんで、

f:id:KoshianX:20180730173207j:plain

まな板を乗せて水を抜いておく。

野菜の下ごしらえ

野菜は何を入れてもいいのだが、ゴーヤと色の被らないにんじんを使うことが多い。 たまねぎは必ず入れてるのだが、理由はゴーヤは炒めてても見た目が変化しないので火が通ったかわかりにくいので、同じくらいの厚さに切ったたまねぎを目安にするためだ。

f:id:KoshianX:20180730174028j:plain

ここではたまたま余ってた紫たまねぎを使ってるが、普通の玉ねぎで構わない。 たまねぎもにんじんも切ったゴーヤと同じくらいの厚さになるように切って、同時に火が通るようにしておく。

豆腐を焼く

ポークランチョンミートがすべて焼き終わったら、たくさん油が出ているはず。これを豆腐に吸ってもらう。 まずはここは強火にしてがつんと豆腐を焼いていく。

f:id:KoshianX:20180730175846j:plain

上の写真のように適当に手で薄めにちぎってフライパンに放り込んでいく。焼き上がるまでに少し時間があるので、塩もみしておいたゴーヤをよく絞って他の野菜と一緒にしておこう。

f:id:KoshianX:20180730175938j:plain

表面に焦げ目がつくまで焼いていく。こうすると炒めてても形が崩れにくい。ひっくり返すときはフライパンをあおってあらかた返したあと、ひっくり返らなかった豆腐をフライパンの端っこを使ってお箸でひっくり返していく。

f:id:KoshianX:20180730180101j:plain

きれいに焼き目がついたら焼き上がったポークランチョンミートと一緒にフライパンの外に出しておく。

炒めて味付け

豆腐が焼き終わったら油がきれいに消えてるはずなので、ここで野菜を焼くために大さじ1くらいの油をしく。うちではオリーブオイルを使うが、普通の植物油でいいはず。豆腐を焼いてる間に絞っておいたゴーヤとその他の野菜を強火でガシガシ炒めていく。

f:id:KoshianX:20180730180104j:plain

たまねぎの様子を見ながら、少し透き通り始めるまで炒める。

f:id:KoshianX:20180730180243j:plain

たまねぎが透き通り始めたら、皿にあけておいたポークランチョンミートと豆腐をフライパンに戻して、全体を混ぜ合わせながらよく炒める。豆腐が大きすぎたらここで箸で適当に切っておく。たまねぎの様子を見ながら野菜に火を通していく。野菜に火が通ったら味付けに入る。

f:id:KoshianX:20180730180332j:plain

ここで砂糖を大さじ1程度を投入。酒大さじ2程度を入れて全体に砂糖を行き渡らせる。

f:id:KoshianX:20180730180431j:plain

それから鰹節5g程度を全体にふりかけ、混ぜ合わせる。

f:id:KoshianX:20180730180512j:plain

最後に溶き卵2個分を全体に流し入れ、蓋をして火を止めて数分待つ。 卵を入れたあとも混ぜちゃっていい気がするんだけれども、うちではとろりとした卵で全体を固めるほうが好みだと言われるのでそうしている。

完成!

f:id:KoshianX:20180730180951j:plain

卵がある程度固まったらお皿にあけて完成! ゴーヤ1本分で作るとたぶん4〜5人分くらいになると思う。ぺろりと食べちゃうけどね! おなかいっぱい! 今回もおいしかった!!

ランチョンミートではなく豚肉で作ることもあるけど、そのときはちょっと塩を足してやるとちょうどいいかもね。冒頭にも書いたが本場沖縄でどうやって作ってるかはよく知らない。

enjoy!

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>