狐の王国

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日本アニメのピークかもしれない「窓ぎわのトットちゃん」は、今しか見れない映画かもしれない

年末はいろいろと忙しくて映画なんて見てる暇はなく、ゴジラもゲ謎も楽しみにしてた青ブタ新作も見に行けてなかったのだが、ある日少し遅く起きると友達から「トットちゃん見に行かない?」とお誘いが来ていた。あーこの機会を逃すとまた見に行けないなあ、どうせ起きても午前中はそんな集中できないしなあ、よし行くか、いま見逃すと一生見ない映画かもしれないしなあ、なんて感じでクッソ忙しい最中に映画館に行くというなんちゃって手塚治虫ムーブをカマシに行った朝があった。

結論から言おう。この時に見に行ってよかった。アニメ映画「窓ぎわのトットちゃん」は、本当に素晴らしい作品だった。


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もちろん原作はとても有名な作品で、ドラマ化もされているしタイトルは知っていたのだが、原作もドラマもいっさい触れずにアニメを見れたのも俺としてはたいへんよかった。

正直言えば、さほど期待してはいなかった。有名芸能人の自伝が原作で、出演者も声優としての実績がある人はほとんどいない。まあお金はかけてるようだからきれいな映像にいい話に棒読みの演技で触れる機会のなかった作品に触れるだけでも価値はあるだろう……という程度のものだった。

大間違いだった。

もちろんひとりのアニメオタクとして、声優の演技は決して特殊なものではないことは知っている。舞台で演技ができる役者なら、声優としても十分な演技ができるものだ。声優初挑戦で棒読みになる役者というのは、テレビでしか演技をしない役者だけである。だから舞台でコントをする芸人などは声優をやらせてみても意外にうまい。

今回の声優はアニメでの実績こそ少ないか皆無であるものの、ほぼ全員が舞台を経験している、本物の役者たちだ。

中でも驚かされたのは主人公トットちゃんを演じる大野りりあなである。アニメで子供が子供の演技をするのは不自然になりやすい。たとえば「AKIRA」などでもそうだった。ところが不自然どころか、的確にトットちゃんを演じきっているのである。聞けば2016年生まれのまだ7歳の子供だと言うではないか。収録時は6歳かもしれない。子供が子供の演技をし、なおかつその演技が的確というのはアニメでは初めて見たので本当に驚いた。

だから声優に見慣れた人がひとりもいないことは気にしなくていい。演技にも期待して今すぐ見に行くといい。公開から1ヶ月過ぎてるがまだかかっている映画館も多いはずである。

だがアニメ作品である以上、演技の主役はアニメーターが担う。声の演技は半分だけだ。もう半分はアニメーターが描く絵が演技する。

その点についても本当に素晴らしいものだった。

まずキャラクターデザインだ。この手の大衆受けを狙うような作品は、深夜アニメでよく見るような厚化粧のデザインを使わないことが多い。かの「君の名は」でも田中将賀の本来の絵柄からはだいぶ情報量が削がれ、あっさりした薄化粧デザインになっていた。

ところが窓ぎわのトットちゃんははっきりと厚化粧のデザインを使った。あまりに厚化粧なので本当にメイクをしてもらってる設定なのかと思うくらいだった。頬には血色を示す紅が入り、目ははっきりと大きく描かれ、アイシャドウのように縁がはっきり描かれる。こうした厚化粧デザインの最高峰はなんといっても京都アニメーションであり池田晶子だ。「涼宮ハルヒの憂鬱」や「響け!ユーフォニアム」の情報量の多いキャラクターデザインがちゃんとアニメとして動いてるのは衝撃的だった。トットちゃんはさらに唇も赤く描かれている。

どんな人がキャラクターデザインをしているのかと思えば、総作画監督も兼ねる金子志津枝という方だった。映画ドラえもん猫耳のしずかちゃんを描いたことで、一部の人々には有名なアニメーターだったようだ。「かわいい」を描く上で信頼の置ける人選である。そして実際にトットちゃんはものすごくかわいく描かれている。シンエイ動画もやるではないか。

おまけに作中トットちゃんの想像の世界が描かれるときは、絵のタッチが完全に変わり圧倒的なファンタジーが現れる。このアニメもたいへんすばらしいもので、よくこれだけの手間をかけたものだと思う。

すべてのシーンが丁寧に、圧倒的な技術をもって描かれ、毎週のドラえもんを作りながら劇場版も作ってきたシンエイ動画のスタッフたちの「本気」が見えた。これほどのアニメを今後作ることができるのだろうかと思うほどの出来栄えだった。

そう、これが日本のアニメのピークであり、もう二度とこれほどの作品は作れないのではないか。そんな不安にかられるほどの映像だった。それはアニメ業界や少子化への不安でもあるが、ここではそれについては触れまい。

まずその映像だけでも見に行って欲しい。これを超えるアニメは本当に存在し得るのか、自分の目で見て確認してきて欲しい。

先述したように原作もドラマも未見の俺にとって衝撃的だったのは、トモエ学園のあまりの自由っぷりである。戦前の日本にこんな自由な学校が存在したということそのものが衝撃だった。授業の時間割は子供たちがそれぞれ勝手に判断してるし、子供がなにをやってても自由にやらせてる。なのに引くべきラインを越えたらきっぱりと叱る。本当によく見ているなと思わされるこの校長ももちろん実在の人物で、リトミックという教育手法の研究者なのだそうだ。

あまりに自由な学園で、あまりに自由なトットちゃん、それを受け止める教員たちの姿に感銘を受けないわけがない。尋常小学校では問題児として追い出されたトットちゃんが、トモエ学園に馴染んでいく姿は感動的である。

学園も自由だがアニメも自由だ。実際のエピソードだからそのまま描かざるを得なかったのもあるだろうが、いまこんなことを描いたらおかしな人々に見つかってクレームが入り上映できなくなるのではないか。そうでなくても地上波や配信ではこのままでは流せないのではないかと不安になるようなシーンが数多く描かれていた。実際、そうしたクレームで潰された作品はここ10年ですごく増えてきた。例えば「幸色のワンルーム」のドラマ版が放送中止になった件などだ。子供や若者のささやかな楽しみにすら文句をつけ、潰してしまう大人たちには苦々しい思いしかない。同じように「窓ぎわのトットちゃん」もキャンセルされてしまうかもしれない。

そんな不安を抱えながら映画を見ていると、作中でも戦争が始まり、なんと子供たちのささやかな楽しみにすら文句をつけ叱りつける大人たちが現れるのである。どこまで狙ったのかはわからないが、1941年と2023年がオーバーラップする見事な演出になっているわけだ。同時に、現代の大人たちの持つ戦時中同様の精神的余裕の無さに対する痛烈な批判にもなっているし、今後あり得るかもしれない戦争への警鐘にもなっている。いや、どこまで狙ったのかはわからないが、結果としてそうなっている。

そんな理由もあり、この作品を子供と一緒に見ることができるのは今が最後かもしれない。ぜひ子供と一緒に見て欲しい。世界は本当に自由で、その自由は大人たちの都合であっさり壊されてしまうものだと、そしてそれは本当に悲しく、恐ろしいことなのだということが、きっと伝わるであろうから。

いまひとたび自由を志し、戦争など起こさせず、子供たちのささやかな楽しみを守るならば、いったい大人である我々にはなにができるだろうか。いざ破壊されたとして、あの校長先生のように「さあ次はどんな学校を作ろうか」と未来を見続けることができるだろうか。いじめっ子集団を言葉で撃退したトモエ学園の子供たちのように、覚悟を決めて立ち向かう勇気を、どう身につけていったらいいだろうか。

どうかアニメ「窓ぎわのトットちゃん」がそのまま未来へと受け継がれますように。そう祈らずにはいられなかった。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>