狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

一冊の本が人生を変えることがある──宮崎駿最後の映画「君たちはどう生きるか」──

よくこんな映画を作れたなと思う。82歳を迎え、制作に7年も8年もかかるような長編映画はさすがに最後になるであろう宮崎駿の最新作にして最終作、「君たちはどう生きるか」の話である。

見た人間にはきっとわかるであろうセルフオマージュの数々に、宮崎アニメのファンはきっと大喜びだと思う。俺にも過去作からの引用がたくさん見えた。銭形警部の姿すら幻視した。それだけで満足したっていい。

でもなあ……いやこれ本当にわかりにくいのだ。おそらくあえてそうしてるのだとは思うが、娯楽作品にもなり得たろうにそうしなかった。理由は知らないが、おかげで非常にわかりにくいのも確かだ。

最後なんだから自由にやってくれとは思うのだが、それにしてもあんまりにも見る側に委ねすぎた映画だ。説明が足りなすぎるとは言わない。確かによく見れば、よく考えれば、なるほどなと思える映画ではある。それにしても初見で理解できるかと言われると厳しいように思う。俺も見終わってから帰りのクルマを運転しながらあれはあいうことかあと思いながら反芻を繰り返していた。

もちろんその後に友人知人らと議論したりネットで調べたりして気づいたこともいろいろとある。一人だったらそんなに理解が深まったかというと、そんな気はしない。そうして気づいたことを感想がてらちょっと書き留めておこうかなと思う。

さてここからは本編の話をするので、情報を仕入れずに見たいというネタバレ回避勢はいったんブックマークなりあとで読む系ツールなりを使ってひとまずタブを閉じていただきたい。

優雅に飛ぶアオサギ
優雅に飛ぶアオサギ

「少年宮﨑駿」としての牧眞人

主人公牧眞人(まき・まひと)のモデルは宮﨑駿自身である。宮崎駿監督は戦時中に栃木県は宇都宮に転居しているのだそうだ。宮﨑駿の父親は宮崎航空機製作所を経営し、中島飛行機から軍用機の部品を受注したという。工場は栃木県上都賀郡鹿沼町にあったようなのだが、このときに宇都宮にも工場を建てたのかもしれない。あるいは埼玉県人が「東京の方から来ました」というように、鹿沼と言っても知られてないので宇都宮と人には話しているのかもしれない。

映画の序盤はまさにこの転居が描かれる。戦時中の地方都市の風景は都市という言葉を使うのもためらわれるほど何もない。だが店の看板など見ればただの田舎ではない燃料など工業のための店が立ち並ぶのが見て取れる。これは宮崎監督自身の記憶の風景なのかもしれない。戦時中の記憶を鮮やかにいまの映像で描いてくれたことは、歴史的にも大変貴重であり感謝の念しかない。

ともあれ、主人公牧眞人(まき・まひと)が宮﨑駿自身がモデルであることは作品理解の一助になるであろう。

継母と初恋

主人公である眞人は転居先で継母になる夏子に出会う。すでに父の子を妊娠しており、腹を触らされ、弟か妹が生まれるのだと告げられる。

しかしこの継母である夏子の美しいこと。宮崎アニメ屈指の美女として描かれる夏子は、母親にそっくりなのだという。

眞人は母を失った少年だ。入院していた病院が空襲のせいかまではわからないがともかく火災にあい、そこで母は炎の向こう側に消えていった。

まずここがわかりにくいところなのであるが、眞人はこの継母に淡い初恋をしているのである。それはその後に繰り返し「好きなのか」と問われ「父さんの好きな人」と答えるところに現れている。ただの継母ならそもそもそんな問いは発生しないし、恋心でなければこんな答えにはならない。それだけで読み取れというのも酷だとは思うのだが。

だがそう考えていくとその後の夏子と眞人の描かれ方に合点がいくはずだ。他に登場する老婆たちに比してあまりにも美しく描かれてる夏子にも、眞人にはそう見えていると考えるとすっきり理解できる。

人は一冊の本で変わることがある

その次にわかりにくいのは、題名にもなっている「君たちはどう生きるか」という本だ。あるきっかけで眞人はこの本を読み始めるのだが、あまりに感銘を受けて泣き出してしまう。この読書体験が、父についていくだけで自分の意思や感情もうまく表せない眞人少年を変貌させる。

ところがこれが非常にわかりにくいのである。読書前後で明らかに行動が変化しているのだが、それだけでは受け止められる人はそう多くないんじゃなかろうか。いや、宮崎監督自身がそうした伝わらない演出を狙ったのだとは思うが。

ともあれ映画のタイトルにもなっているくらいの本の読書体験であり、眞人少年はここで人格が変貌し、謎のアオサギに怯えてばかりではなく対決することを選ぶのだ。これを一回見ただけでわかるのは、同じような体験をした人間だけかもしれない。本読みというのはそういう人生を一変させるほどの衝撃の読書体験というのを、若き日に経験しているものなのである。

そして少年は男になる

読書体験による変貌後の眞人もまだ子供ではあり、子供らしさが残る行動をする。だが、その後に巨大な魚を捕まえ、捌いて命を奪う体験をするのだが、これがある種のイニシエーションになっている。

老婆たちの人形に囲まれたエリアで寝かされている眞人は、人形に触れるなと言われるのだが、これは「守られるべき存在」であることを示している。大人たちの囲いの中で生きていた子供から、その人形たちの守っているエリアから自らの意志で外に出ることにより、少年から男に変わるのだ。このときの顔つきが少し変わってるように俺には思えた。男の顔になったのだ。

これも非常にわかりにくいのではあるが、その後の眞人の行動に迷いがないこと、恐れないことに注目されたい。このとき、彼は男になったのである。

もうひとつの恋

同世代の少女との出会いがある。母の味に似た食事を出してくれるその少女に眞人が恋をしたことに気づけというのはだいぶ無理があるなとは思う。だが、この少女との出会いのあと、眞人は継母夏子を初めて「夏子母さん」と呼ぶのである。夏子への淡い初恋、父の後妻という失恋から始まる恋に傷ついた少年は、新しい恋を得てようやく継母との適切な距離感を掴むのである。

そう考えてみると眞人のわかりにくい感情も素直に受け止められるであろう。だからこれはもう一つの恋なのである。

「女ってのはわけがわからないもんなんだよ」

宮﨑駿のそんな声が聞こえてくる気がする。夏子のことである。夏子が姿を消し、元の世界に帰りたがらなかった理由はあまり描かれていない。新しい夫の息子とどう付き合ったらいいのかわからず、距離を詰めてみたり腹を触らせてみたりもしたものの感情らしきものも読み取れず、ほとほと参ってたのは微妙に伝わってくる。だからこそあの「大嫌い」というセリフにもなるのであろう。

だがそれ以上のことがさっぱり読み取れる材料がない。なぜあそこ行ってしまったのか、なぜ帰りたがらないのか、その割に帰る段となればあっさりニコニコと帰っていったのはなぜなのか。本当にわけがわからないのである。

だからこれは宮﨑駿が「女ってのはわけがわからないもんなんだよ」と言いたかったのではないかと考えている。そしてたぶん、その解像度の荒さはなんかしらの知恵なのではあるまいか。

世界のバランス

その世界は積み木の絶妙なバランスで成り立っているという。この積み木に象徴された世界のバランスというのを、スタジオ・ジブリそのものであるという解釈をする人が多いかもしれない。それも間違いではないはずだが、宮﨑駿はあの「風の谷のナウシカ」を作った人物である。人類なんて滅んだっていいんだと言い放ったとも伝えられている。気候変動や核戦争によって世界が滅ぶ可能性は今もひしひしと増している。これは地球の人類環境そのものの話と受け取ってもいいだろう。

後継者か、友達作りか

これはもうラストの話なのだが、世界の管理者に後継者に選ばれる眞人少年は自分には資格がないことを悟り、元の世界に戻って友達を作ると宣言する。

孤独な全知全能の神などではなく、人と人との間で生きることを選ぶ。

これはいまさら気づいたのだが、冒頭にも書いたように俺もこの作品読解を一人ではやりきれれなかった。孤独な人間は無力だ。人間は他者と出会い、協力し合うことで、何倍もの大きな力を得る。

眞人が世界の管理者ではなく一人の人間として友達を作ることを選んだのはそういうことなのだろう。一人で何でもできるようなスーパーマンもどこかにはいるかもしれないが、それは自分じゃない。自分には友人とその助けが必要なことを、眞人はこの旅を通して身に沁みているのである。だからこの映画は、読書体験から始まる少年の成長物語なのだ。

モデル宮﨑駿

眞人が宮﨑駿をモデルに描かれていることを考えると、自分の映画監督としての人生も、一人ではなし得なかったことだと告白しているのであろう

宮﨑駿は自分には才能がないと言う。

――資金を集めること、キャラ作り、ストーリー作り、アニメ制作で一番大変なのはどれですか?

宮崎 お金集めは鈴木(敏夫)プロデューサーがやってくれるので何の心配もいりません。つまり、自分の才能の不足に苦しむのだと思います。

1日4時間しか寝なくてもスッキリしている頭とか、机の上の細かい絵がよく見える目とか、何時間指を動かしていても鉛筆を握っていても疲れない腕とかそういうものがないのです。

「世界は美しいものなんだな」と感じてくれる映画を作りたい――宮崎駿監督、映画哲学を語る(後編):“ポニョ”を作りながら考えていたこと(1/4 ページ) - ITmedia ビジネスオンライン

「1日4時間しか寝なくてもスッキリしている頭とか、机の上の細かい絵がよく見える目とか、何時間指を動かしていても鉛筆を握っていても疲れない腕」などというものを持つ人物を若き日に身近で見たのであろう。そんなことができる人物を前に、自分には才能があるとはそりゃあ言えまい。だがだからこそ鈴木敏夫というプロデューサーを得て、高畑勲というパートナーを得て、一人の映画監督としてあまりにも大きな実績を残せた。孤独な人間は無力だ。友達を作るという眞人の決断は、若き日の宮﨑駿の決断に重ねているのかもしれない。

だとしたら、あの崩壊した世界はスタジオ・ジブリなどではなく……あの世界を作り上げた偉大な人物はもしかして……

いや、これ以上は俺の解釈が入りすぎるだろう。

あとは自分の目で、宮﨑駿最後の長編アニメ映画を楽しんで欲しい。見終わったらまた語り合おう。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>