狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

滅びていいならSDGsなんて要らないじゃない

「出生率押し上げより男女平等を」 国連人口基金が提言 という記事があって、あんまりにも無責任な放言に腹がたった。出生率が2.1を維持できなければその社会は滅びるのである。滅びを肯定する思想は根本からダメというのはまともに思想を学んだことのある人なら誰でも知ってるだろう。滅んでいいなら環境問題も温室効果ガスも気にする必要はないでしょ、どうせ滅ぶんだし。滅びを肯定した時点でなにもかもが無に帰するのでダメ、未来永劫に渡って存在し、命を繋ぎ続けることをまず大前提におかなければ、どんな思想も倫理も意味をなさないのである。

出生率は社会のサステナビリティ(持続可能性)そのものなのだ。

そんなことを考えてたら、こんな記事があがってきた。

p-shirokuma.hatenadiary.com

私は、反出生主義を人間を滅亡させ得る思想のひとつ、危険な文化的ミームのひとつとみなしています。 (中略) そのうえ、「すべての生の苦をなくす」という発想において、反出征主義にはある種の功利主義的な「正しさ」があります。思想と思想がぶつかり合う際には、「正しさ」は非常に強いカードです。反出生主義という文化的ミームが「正しさ」という武器を携え、西洋哲学の論理という甲冑を身にまとっている点には注意が必要です。

反出生主義という人類滅亡のミーム - シロクマの屑籠

これはまったくその通りで、反出生主義は功利主義の思想に根ざしている。功利主義とは現代の我々の社会を形作る基礎的な思想で、大元はギリシア時代の快楽主義にさかのぼる。快楽主義とは幸福論の一つで、快楽を感じることが幸福であり、苦痛を感じることが不幸であるという考えだ。快楽や苦痛の中身を問わないことが重要で、アリストテレスあたりは哲学することそのものが最大の快楽と言っていたし、アリスティッポスは今ある快楽を最大に楽しむために娼館にも通っていたという。また快楽も苦痛も量の概念があり、大きな快楽のために小さな苦痛を我慢するのはよいこととされるし、小さな快楽のために大きな苦痛を味わうのはよろしくないこととされる。

この考えを社会に応用し、公衆的快楽主義とでも言うべきものを構築したのが功利主義だ。社会には様々な快楽があるべきで、その中身は問われるべきではない。個々人が自由に自分の快楽=幸福を追求することができるのがよい社会であるという思想である。ピンと来る人はいるだろうが、もちろんこれはその後の人権論の基礎にもなっているはずだ。幸福追求権とはつまり快楽を追い求める権利なのである。また功利主義ではこの快楽を効用と呼び、経済学などにも効用という用語は導入されている。いかに我々の社会の基礎になっている思想か、こういうところからもわかるであろう。

このへんを大学で学んでいた頃、功利主義における快楽の捉え方に違和感を覚えたものである。快楽を他者が計測していいものか、快楽も苦痛もあくまで個々人のものでしかないのではないか、という違和感である。この違和感は直後にピーター・シンガーの思想を学んだことで半ば確信に代わりつつあった。ピーター・シンガーはいわゆるアニマルライツを提唱した人物で、功利主義が快楽や苦痛を人間のものに限定してるのは種差別であると主張したのである。動物の快楽と苦痛も社会は考慮するべきだし、動物を食べるにしても苦痛を与えるような方法を取ってはいけない、できることなら食べないほうがいいという、いわゆるヴィーガン思想の基礎になっている思想である。

日本人はどうせ殺すなら一緒じゃないのかと考えがちだが、功利主義的には快苦の量の問題なのでそういうわけではないのである。社会にある苦痛の量を減らし、快楽の量を増やすことが功利主義的な正義であり倫理なのだ。

俺の覚えた違和感は、功利主義ですら他者の快楽や苦痛の量を測るという逸脱があるのに、さらに人間以外まで勝手に当人しか感じ得ない快楽や苦痛の量を推し量ってよいのかという点である。

反出生主義はピーター・シンガー以上に功利主義の対象を拡大し、いまだ生まれてこない命が感じるであろう苦痛の量まで推し量ろうという思想である。生きることは苦痛だから生まれてくるべきではなかったし、今後も子供など作るべきではないというのは、あまりにも他者の幸福を決めつけすぎている。幸福は当人にしか決めることなどあってはならない。そこを逸脱してるからピーター・シンガーや反出生主義には違和感を覚えるのである。功利主義ですら社会に存在する人々の幸福の量を推し量るという欺瞞があるのに、その欺瞞の部分を拡大し続けるピーター・シンガーや反出生主義には苛立ちを禁じ得ない。

さらにいえば反出生主義は子供を産み命をつなぐことを否定している。滅びの肯定である。最初に言ったように、滅びを肯定するなら倫理なんて要らないのだ。どうせ滅ぶんだから環境問題も温室効果ガスも気にしなくていい。当人たちは倫理的な態度のつもりかもしれないが、倫理の存在意義そのものをぶち壊す思想なのである。

出生率は社会のサステナビリティそのものであると言った。

――韓国の少子化の現状をどう見ていますか。

◆世界にも例を見ない急速な速度で合計特殊出生率が落ちて、経済協力開発機構OECD)加盟国で最下位になっている。日本の合計特殊出生率も22年に1・26と過去最低を記録した。でも、韓国と比べると、その数字へと至った速度はゆるやかだ。もしかすると、幸せに衰退する方法も見つけることができるかもしれない。ところが韓国は、このまま少子化が進むと国そのものが墜落してしまうような状況だ。

――どのような未来が来るのでしょう。

◆社会のあちこちで、さまざまな問題が確実に出てくる。経済への悪影響はもちろんだし、安全保障面も深刻だ。北朝鮮と向き合っている韓国は、18歳以上の男性国民に兵役を義務づけているが、軍人の確保さえ難しくなる。子どもの減少に伴って、学校の廃校も相次ぐだろう。国がなくなるかもしれないというぐらいの大きな危機だ。

世界人口考:「地球から消える最初の国に」 専門家が警鐘鳴らす韓国の少子化 | 毎日新聞

韓国では子供が減りすぎて、将来的に北朝鮮に軍事的に敗北する未来がもう見え始めている。韓国という国が地球上から消滅しかねないのである。

これは韓国だけの問題ではもちろんない。出生率を低下させてる先進国のほとんどが自由主義国家だ。これは300年後に自由主義を地球上に残せるかどうかという戦いなのである。もっと言えば、自由主義や人権論そのものの持続可能性が問われている。このままでは自由や人権なんて社会を滅ぼす思想でしかないという「学び」を人類史に残すことになるのである。そんな人類史の汚点になることを受け入れろというのか?

出生率はなにがなんでも回復させなければならない。それは300年後に自由主義と人権を残すためだ。人類史に自由のすばらしさを書き残すためだ。自由は滅びの思想ではないことを証明するためだ。

いままさに我々に突きつけられてる人類史の課題こそが、出生率回復なのである。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>