「本当の意味で批判的な態度」について考える - メロンダウトという記事。現代の思想的状況でほんとうの意味で批判的な態度はあり得るのかと問いかける記事。
確かに記事の通り、いまは複雑な状況にある。特に日本においては、バラモン左翼とビジネスエリート右翼が結託して資本主義を利用した全体主義を推し進めてるようにしか見えない。こういう状況で「批判的な態度」はどうあるべきか。
それはね、「褒めること」だと思うんですよ。
「批判」というと昨今の若者言葉の文脈では悪いことであるかのように使われているそうだが、批判そのものが悪いわけじゃない。ダメ出しをすることが批判だと思ってる人もいるようだが、「批判」にそんな意味はない。
① 批評して判断すること。物事を判定・評価すること。 (中略) ③ 良し悪し、可否について論ずること。あげつらうこと。現在では、ふつう、否定的な意味で用いられる。 批判とは - コトバンク
ここでも今の時代では否定的な意味で用いられると買いてあるが、本来は良し悪しを見分けることが批判なのである。つまり悪いところを指摘するだけが批判じゃない、よいところをしっかり指摘することも批判なのである。
上記記事のネタ元である思想家東浩紀のツイートを見てみよう。
そういえばこのあいだの小林さん三浦さんとの対談で言ったのだけど、いまはセレブな富裕層でITでグローバルな人々こそがリベラルでヴィーガンで多様性と弱者の味方なのに、搾取されている一般大衆こそが保守的で強権的な政治家を求めナショナリストだという逆転が起きていると言われている(→)
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) 2021年7月4日
でもこれは逆転でもなんでもなくて、21世紀の世界においては、リベラルで反体制的(にみえる)主張をしたほうがお金が儲かるという、新しい条件の出現を意味している。だから一般大衆の保守化を「あいつらは騙されてる」と捉えるのは完全に間違っている。むしろ彼らのほうが現実をわかっている(→)
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) 2021年7月4日
ぼくたちは歴史上かつてなく富が偏在する社会に生きている。富裕層と貧困の差は恐ろしく大きく、しかも資本主義反対、気候変動阻止、多様性支持とかいう「意識の高い」主張は、金持ちをどんどん金持ちにする効果しかもたなくなっている。学問も芸術もいまやその道具でしかない。現代美術がいい例(→)
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) 2021年7月4日
だからいまは本当の意味で批判的なのはどういう態度なのか、原理から考えねばならない。リベラルが「意識の高い」主張をしても人々に届かないのは、それこそが体制順応的だとみな見抜いているから。一言でいえば、反アベといえばちやほやされる世界で、それが批判になるわけがないということです。
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) 2021年7月4日
反アベといえばちやほやされる世界で、それが批判になるわけがない
では安倍前首相を「批判」するときにはどうすればよかったのだろうか。「反アベ」とは単なる全否定でしかない。すべて否定してしまえば済むのだから頭を使う必要もない。良し悪しを分ける必要もない。それは知性的な態度だろうか。
だからまず「褒める」ところからだと言ってるわけだ。
少なくとも安倍前首相の就任直後に金融緩和をやり円安政策に振った点については褒めざるを得ない。リーマンショックからの回復がうまくいかず、いっときは今の日本はタマネギを切る仕事すらないとまで言われた状況から、国内に仕事を戻し、有効求人倍率も1を上回り、就職活動を飛躍的にラクにしてくれたのだから。若者に安倍支持が多いのもうなずける話である。
ではそのおかげで日本経済は順風満帆だったろうか。そんなわけない。安倍政権は消費税を2度もあげてしまい、日本経済に致命的なダメージを与えてしまった。アベノミクス3本の矢と言われた「金融緩和」「大規模財政出動」「構造改革」のうち、実際にやったのは金融緩和だけだ。大規模財政出動はコロナ禍が始まってようやく100兆円程度出したにすぎない。
こうして考えると総合的にとても褒められた政権ではなかった。やると言ったことができず、長期政権だった割に目標だったインフレターゲット2%すら達成できなかったのだから。
しかし批判のポイントは明確になる。いわゆるリフレ派の経済政策をやると言ってるのにさっぱりできてない、それどころか消費税をあげるとはどういうことなのか。言ってることとやってることが違いすぎないか。別の経済理論を採用するならそれでもいいが、じゃあ何を採用してなにをどうするのか、なにも見えてこない。
こういうポイントをしっかり「批判」できなかったから長期政権になってしまったのではないのか。
大蔵省時代から問題視されてきた官僚の権力の強さ、財務省の支配力の問題も合わせて考えれば、安倍前首相と財務省との間になにかがあったことは疑いようもあるまい。そこをつければいわゆる森友問題も違う展開があったのではないのか。
何事も良いだけのことも悪いだけのこともない。花粉症ですらコロナ禍においては「マスク着用」の社会的許容性を高め、他国よりは随分マシな被害に抑え込むことに貢献している。
昨今批判のターゲットにされている現代「リベラル」だってそうだ。エシカルであることをオシャレと結びつけて、特に若者に現代倫理的な行動を促すことに成功しつつある。環境問題になかなか興味を持ってもらえなかったことを考えるとこれはすばらしいことだ。
反面、そうしたエシカルさを「他人を貶める」ことに使う輩を止められていない。エシカルであることは他人には強制できない性質であることを本来の「リベラル」であれば知ってるはずなのに、政治的に利用しようという下心でもあったのではないかと言われたら否定もできまい。ましてやそうした行動がいわゆる「リベラル」そのものへの反発を生み出してることに少しは自覚を持てとしか言いようがない。
繰り返すが、何事もいいだけのことも悪いだけのこともないのである。かならず良い面も悪い面もある。それをこうして切り分けることが「批判」であり、「ほんとうの意味での批判的な態度」ではないのだろうか。
狂った活動家や思想家は、他人の話ばかりする。誰それがどこの立ち位置だとか、ポジショントークがどうだとか。そんなことはどうでもいい。
「本当の意味で批判的な態度」は、良し悪しを見分けようとする姿勢だ。全否定でも全肯定でもないといえばあたりまえが過ぎる話だ。
そんな「あたりまえ」をどうして忘れてしまったのか。そのことを深く深く反省する必要がある。
そして1日1つでいい、誰かを褒める練習から始めていこう。「褒める」という行動をする自分に慣れていこう。本当の批判はそこから始まるのだから。