狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

京アニを知る人も知らない人も「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」を今すぐ見てきてください

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 - を見てきた。テレビシリーズ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の外伝であり、期間限定上映、なおかつ新人監督の作品ということもあって、来年に予定されていた新作劇場版を待ちきれないファンのための映画だと思っていた。

間違っていた。ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝は一つの映画としてきちんと完成していた。これはテレビシリーズ未見の方にも見ていただきたい作品だった。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンを知らない人にも見ていただきたい。そういう気持ちを込めて、多少のネタバレも含めてここに書く。知らない人にも興味を持ってもらいたいからだ。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンは自動手記人形(ドール)として働く少女だ。いわゆる代筆屋であり、タイプライターを抱えてどこにでも赴き、依頼主の「伝えたい言葉」を手紙にするのが仕事だ。

序盤に描かれるのは「新時代」だ。戦争が終わり、新しい時代が始まる。自動手記人形は女性の仕事であり、依頼主に気に入られて結婚し引退するのがゴールの形だったらしい。しかしヴァイオレットの同僚たちは、新しい時代の女性の生き方を語る。生涯の仕事として自動手記人形をやるもよし、鍛え上げた文章力で作家になるもよし。自由に生きられる時代の到来、その予感に心躍らせていく。

そんな自動手記人形のヴァイオレットだが、今回は貴族の娘イザベラ・ヨークという少女の教育係として女学校に向かう。ヴァイオレットの身につけた礼儀作法を仕込んで欲しいということらしい。数カ月後に控えるデビュタント(社交界へのデビュー)までに、イザベラを立派な貴族として教育しなければならない。

映画では、時間経過を表現するのに早回しの映像が使われることがある。この作品でも時間経過に植物の芽吹きの早回しの映像が差し挟まれた。その美しさに、息を呑んだ。ただ美しいだけじゃない。芽がなんとも言えずかわいらしいのである。

アニメの本質はメタモルフォーゼだ。なにかが別のなにかに変貌するアニメーション映像は、アニメの初期から多く描かれ、人がボールになったり弾丸になったり、ぐにぐにと気持ちよくメタモルフォーゼしていく白黒アニメが多く描かれてきた。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンにおける芽吹きの早回しは、そんなアニメ独特のメタモルフォーゼのように描かれ、ともすると少しシリアスな物語をまるで童話のように和らげてくれていた。動く絵本のようであった。

こうした演出を仕掛けた新人監督藤田春香は、テレビシリーズ「響け! ユーフォニアム」8話の演出で話題をかっさらった人物だ。主人公級の2人の少女がうやく心を通わせていく重要な回であり、脱ぎ散らかした靴ひとつで心の壁が取り払われることを示すなど、その映像手腕にアニメファンたちの絶賛を浴びていた。

藤田春香の映像センスや演出センスは今回のヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝でも白眉であり、1つ1つのシーンがまるでイラストレーションのように美しかった。終盤、ぬいぐるみをぶら下げて窓から外を見る少女の図など、大きく印刷して飾っておきたいとすら思えた。

なかでも驚いたのが、イザベラのデビュタントで男役をすることになったヴァイオレット・エヴァーガーデンの衣装である。ダンスの男役なのでパンツスタイルなのだが、ドレスといって過言ではない女性的な美をたたえており、衝撃的なデザインだった。このデザインは京アニの方のオリジナルなのだろうか。

こうした思い切ったデザインを取り入れていく様は、まさに「新時代」を予感させるのにふさわしいだろう。

教育係ヴァイオレットと貴族の娘イザベラは少しずつ「友人」になっていく。イザベラはどこにでも行けるヴァイオレットを羨望する。イザベラも自由に羽ばたく未来を夢見ていた。だがそれはかなわない。貴族の娘として生きることを決意したイザベラに、自由はない。

普通の物語なら、イザベラの不幸を嘆き自由を求めるお話になるかもしれない。だがこの映画は違った。イザベラは肺病を患っており、寛解の希望はない。自由を手に入れたイザベラは、おそらく長くは生きられないだろう。貴族に「売り渡した」彼女の人生で得たものは、映画の後半に描かれていく。

イザベラにはともに暮らした言葉もまだ怪しい幼い少女がいた。血縁もないその幼児を妹と呼び、テイラーと名付けて孤児が孤児を育てる険しい暮らしをしていた。貴族の娘となったイザベラと別れたテイラーは、一通の手紙に生涯を決意する希望を見出す。

テイラー・バートレットという名の少女が得たものは永遠と憧憬。「幸せを運ぶ」郵便配達人に強烈に憧れた少女が、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの元を訪れることで後半の物語が始まる。

諦めたイザベラと、希望に向かってまっすぐ走り続けるテイラー。対象的な二人だが、どちらかが幸せでどちらかが不幸なんてことはない。二人とも正しくも間違ってもいない。ただただ、自分と愛するものにとって、きっとベストだと信じた道を歩み続けている。

「愛してる」とはなにか。それはヴァイオレット・エヴァーガーデンの本編を通してヴァイオレット自身が探求していくテーマだ。

イザベラとテイラーは間違いなく愛し合う家族だ。その二人の愛をつなぐのは手紙、届けるのは郵便配達人だ。

仕事に飽きてきていた郵便配達人ベネディクトは、テイラーの思いを受け止めてこう言う。

「届かなくていい手紙なんてないからな」

テイラーの憧憬を一身に浴びるベネディクトは、郵便配達人としての誇りを少しずつ取り戻していくようだった。

どれだけ大好きな仕事でも、辛くなるときやむなしくなるときはある。自分で選んだ道を、後悔せずとも苦しく思う日だってある。どれだけ愛していてもだ。

あの女学校でひねていたイザベラもそうだった。おんぼろのバイクで飽き飽きした仕事を繰り返すベネディクトもそうだった。

だが「愛してる」ということは、何度でも恋に落ちることができるということだ。恋い焦がれた仕事、恋い焦がれた人生、愛してるからこそ裏切られてもまた恋することができる。もう一度踏み出すことができる。

この映画は7月16日に完成したそうだ。その後に起きた事件の話は、いまはしたくない。ただ言えるのは、これは俺たちの知る京都アニメーションの最後の作品になったということだ。京アニの復活は信じているしいつまででも待つ。だとしても消えた人々が蘇るわけではない。同じ「京アニ」には、おそらくならないだろうし、きっとなるべきでもない。

上記は中国のアニメ雑誌編集者が書いた文章の翻訳だ。日本のアニメシーンにおける京アニの存在の大きさを知れば知るほど、絶望しかないことがわかる。

京アニ」はきっと、新しく始めるしかないのだろう。それがゼロからというわけではないことに、希望はある。もう一度踏み出し始めてる人々が、そこにはいる。

この映画の封切りと前後して、ヴァイオレット・エヴァーガーデン劇場版本編の公開延期が発表された。新時代を生きるヴァイオレットたちに会える日はきっと来る。その時の京アニは、俺たちの愛した京アニとは少し違ってるかもしれない。でも何度でも恋に落ちるだろう。そうなることはとっくにわかっている。

いつか届くはずの手紙を待ち続けるイザベラのように、俺たちもずっと待ち続ける。ヴァイオレット・エヴァーガーデンと、唱えながら。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>