狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

喫茶リコリコとマイクロ共同体主義

今年の夏アニメでは最も話題であったろうリコリス・リコイルが完結を迎えた。「女の子でシティハンターをやろう」というコンセプトだったそうなのだが、シティハンターに夢中だった俺としても大満足の13話だった。

このアニメの魅力は語り尽くせないところがある。「平和で安全な日本」は実は危ない奴らを殺して回ってる無国籍の女の子たちが作っていた、という作品背景はまさにディストピアだ。だが主人公である錦木千束の天真爛漫なキャラクターもあいまって、全体としてはとても明るく楽観的な作風に見える。設定のシリアスさと明るい演出とのギャップにまず惹きつけられる。

「平和で安全な日本」という虚構を作り出す主人公側の組織と、その虚構を破壊しようとするテロリスト、という対立構造が明かされてくると、もう完全に物語の世界にはまりこんでしまう。

この対立構造は「正義vsまた別の正義」として描かれてる。だが主人公の錦木千束はどちらの立場にも与しないところも興味深い。

千束の願いはささやかだ。父親代わりの訓練教官だったミカとともに「喫茶リコリコ」を運営し、自分の周りで困ってる人たちの助けになること。そこには正義なんて微塵もない。ただただ半径数メートルの幸福に、自分が寄与できたらいい。そういう小さな願いだ。

思い起こせば、「シティハンター」も冴羽獠という世界最高峰の銃の名手が、新宿という小さなエリアで日常を過ごしていく話だったようにも思う。

このような千束のあり方に「マイクロ共同体主義」という言葉を連想した。

彼らの多くは「マイクロ共同体主義」とでもいうべき人生観を持つ。すなわち「自分と自分の仲間内だけがうまくいけばそれでよい」という最適化戦略を取っているのだ。自民党が推進する「自己責任」の規範を内面化しつつ、新自由主義的な社会を生き抜いていかねばならないという文脈で、少なくとも社会的・経済的には「現状維持」を提供してくれそうな政党として、彼らは消極的に自民党を選好している。

なぜ若者は、それでも「安倍晋三」を支持するのか(御田寺 圭) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

ひところよく「大きな物語の終焉」などという言葉を並べるよくわからない言論人たちがいたが、こういうことだったのかなと今では思う。大上段に構えた「正義」や「ただしさ」のような大きな話はピンとこない、あるいはシラけた目でしか見ることができない。そんなことより眼の前の生活や周囲の人間の状況をなんとかしていくことのほうがはるかに重要。半径数メートルの幸福が、そのすべてだからだ。

こうして考えてみると「リコリス・リコイル」におけるディストピア的でシリアスな世界設定と、明るく生きる千束たちの対比は、まさに現代を生きる人々を象徴してるように思う。

世界はパンデミックやら戦争やら経済問題やら大きな話で大混乱だ。ネットでは正義の味方ぶった連中が暴れまわり、小市民の小さな喜びすら世界をひっくり返す大犯罪であるかのように叩いて回ってる。

そんなクソみたいな世界に背を向け、半径数メートルの幸福を大事に生きるマイクロ共同体主義の人々の姿には、あの明るく天真爛漫な錦木千束の姿が重なって見える。

だからこそ今の時代に「リコリコ」は強く刺さったのではないだろうか。だとするならば、こんな時代にあるべき正義はいかにして語られるべきだろうか。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>