狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

世界の繋がりは見えるようで見えないから

世界には見えてるようで見えないもの、見えないようで見えてるものがある。

俺たちは気軽に頭がいいとか悪いとかいうけど、それは本来見えないものだ。見えてるような気になってるだけにすぎない。頭の良さを本当に見ようと思うと、まず何をもって頭がいいと定義できるのかというところから始め、それを計測する手段を見いださなくてはならない。

逆もある。俺たちは気軽に真実なんかわからないというけれど、今目の前に何かがあって、それに触れて、感じたことは真実だ。何よりも自分自身がそう感じてることを偽れる人はいない。見えないのは、それを見失ってるだけなのだ。

気になる記事があった。

というのも、東さんも言うように、結局若い人たちが、そういうコミュニティで新しい価値観や共同体意識つくったのは、貧しくても、社会的な貯めがなくても、それでも楽しむ創意工夫を強いられているだけだってのもあるけど、2011年の色々なことが浮き彫りにしたのは、なんていうか、全体が悪い感じになってきたときほど、持ってる人と持ってない人、選ばれた人と選ばれてない人、っていうような、二分的な差の違いがはっきり見えちゃうんだな、って。
(中略)
たとえばツイッターとかで、誰かが地震のことを色々言ってる一方で、全然違う街の楽しいイベントの実況をつぶやいてる人とか、美味しそうな食べ物とか綺麗な風景とかの写真うpしてる人たちがいる。

そんなんをみて思った。つながってるようで、じつはつながってない。自分たちは、結局のところで、自分たちを区切るせまいせまい箱のような領域のなかでしか生きられないんじゃないかっていう感じがしたよ。 一人で生きて、一人で死んでいるに違いないんだろう。

2011年が僕に示したものを考えると僕が今まで考えていたことは間違っていて、その間違っていたことを受け容れたところでこれからどうしようと迷うばかりな気がするがとにかく書いておこうと考えた。 - ニチヨウテツガク

そこはね、違うと言っておこうか。

人は繋がってないようでみんな繋がっている。それは見えるようで見えないものだ。人と人との繋がりは、ゆるやかで、意識すること無く、でも確実にそこにある。

昨年末、その年を現す「今年の漢字」に選ばれたのは「絆」の一文字だった。ネット界隈では失笑と共にそれは流されていた。俺も失笑した一人だ。

しかし思うところはある。発展途上国の人々は絆をとても大切にする。ひとりでは生きられないからだ。都会とはいえ、バンコクで暮らしてみた自分もそれは身にしみた。東京なら誰とも言葉を交わさず日々を過ごすこともできる。誰とも関わらずとも生きることは難しくない。それは本当に都会だからだ。街が発展しつくしてるからだ。

そうでないところで生きるというのは、人と関わらざるを得ない。ガイドブックと指さし会話帳でなんとかごはんは食べられるかもしれない。けどスーパーに行ってもシャンプーひとつ見付けられない。腹を壊しても、薬一つ買えやしない。日本にいたときどうしてたんだっけ。自然に動いてた体、無意識に判断してた事柄が、たくさんあったことに気付く。

日本の田舎だってそうだ。田舎暮らしに憧れる人がいるというが、田舎暮らしとはそれこそ人と関わることだ。なんでも売ってる都会と違って、何かを手に入れようとすればそこに頼るべき人が必要になる。貨幣経済では割り切れない、感情経済とでもいうべきものがそこにある。

人と人とのこうした関係は連鎖して、途切れることは無い。誰かと誰かはどこかで繋がっている。それが見えたり見えなかったり、隠されていたりするだけだ。

日本の都会で暮らしていると、孤独という言葉を実感する。どうしても馴染めない田舎暮らしも、やはり孤独を実感する。人はそこにいるのに、いやいるからこそ、繋がれないことに寂しさや辛さを感じる。

たとえばツイッターとかで、誰かが地震のことを色々言ってる一方で、全然違う街の楽しいイベントの実況をつぶやいてる人とか、美味しそうな食べ物とか綺麗な風景とかの写真うpしてる人たちがいる。

2011年が僕に示したものを考えると僕が今まで考えていたことは間違っていて、その間違っていたことを受け容れたところでこれからどうしようと迷うばかりな気がするがとにかく書いておこうと考えた。 - ニチヨウテツガク

きっとこれはそういうことなんじゃないか。そのタイムラインにいる人々と、繋がれてないから孤独を感じる。

でもね、繋がってる人はいるんだよ。それはあなたの横にいるのかもしれないし、後ろにいるのかもしれない。はたまたタイムラインの中に埋もれて目に入ってないだけかもしれない。けど、いるんだ。

その繋がりの先に、繋がってないと思ってたあの人だっているはずなんだ。重苦しい空気に耐えられなくて、楽しいタイムラインを取りもどしたかっただけの人だっている。共に嘆くことが繋がりなのか?

連帯という言葉がある。左翼の人たちが「連帯を表明する」といって使うのをよく見るが、その思想とは関係なく、これはとてもいい言葉だなあと思う。

いまその悲しみに、苦しみに、手を出すことはできない。何かしてやれることがあるわけじゃない。ただ、連帯を表明する。おまえと俺は並び連なる一つの何かだと、表明する。いずれ共に戦う時が来るのだと。

おまえは孤独ではないのだと。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>