派遣切りされた人間にも「自己責任」がある、と言う議論についてという記事を読んでて、一つ気付いたことがある。
「自己責任」という言葉は、充分な選択肢が与えられてる事が大前提としてあるなと。
イラク戦争の時も旅行者が戦地に赴いたりしてたら「自己責任」と言われたものだが、自分が暮らしてた土地が戦地になった人に「自己責任」という言葉を投げる人はいないだろう。それは選択肢の問題だ。
元記事でも問題にしてるいわゆる「派遣切り」。彼等に「自己責任」を問えるだけの選択肢は与えられてたのだろうか?
日本は自由と平等を憲法に掲げる国だし、職業選択の自由のある国だ。いやでもそれは法律上のことであって、実際に職業を選ぶ自由があるかどうかは個々人によるのではないか?
俺はさほど体が強くない。きつい肉体労働には耐えられないだろう。夏場の工場で扇風機が壊れたくらいで翌日寝込むのに、炎天下で重いものを運んだりする仕事で使いものになるとは思えない。実際に使いものにならなくてクビになったバイトもあった。
「仕事なんて選ばなければいくらでもある」
人はそう言う。じゃあ今「派遣切り」にあった人たちは、派遣の仕事を「選んだ」のだろうか?
以前にも考察してみた事があるが、自動車工場に派遣で働いてた人など、もっとマシな待遇の「期間従業員(期間工)」という労働形態がある。なぜそれを選ばなかったのか? 明らかによい待遇で仕事内容は変わらないのに、なぜ選択しなかったのか?
リクルートワークス研究所が出してる有効求人倍率のデータが、Wikipediaの就職氷河期の項目に掲載されている。1993年から2005年の13年間、有効求人倍率は1を切っている。そもそも全員就職できるだけのパイが無かった。この時期に学校を卒業してしまった人たちは、何を選択すべきだったのだろうか?
俺は自己責任という言葉は嫌いじゃない。どちらかというと好きな方だ。
なぜ好きかといえば、それは自分が主体となって選択した結果を自分で受け止める自由がそこにあるからだ。
コンピュータで使われるソフトウェアの多くは、その使用の結果を自己責任で受け止める事が使用条件に書かれている。それはそのソフトウェアを選択した自分の責任であり、使う自由も使わない自由も保証されてるがゆえだ(だからWindows寡占の現状が大嫌いなんだけどね、寡占されると使わざるを得ない場面が出てくるから)。
「派遣切り」の人たちにそのような仕事を選ぶ自由が与えられていたか。社会は彼等に充分な選択肢を与えていたか。
選択肢は能力によっても環境によっても限定される。しがらみで地元から離れられない人もいれば、体の弱い人も頭の弱い人もいる。
能力面はある程度努力でどうにかなることもあるけど、環境まで個人の努力でどうにかなるわけじゃない。
「自己責任」を問うなら、まずは選択肢が与えられてたことを証明してから言えばいい。カードの半分がババのトランプでババ抜きしてるような社会でどんな選択肢があるというのか、俺もぜひ知りたいところだ。