秋葉原に巨大なアダルトゲーム広告が登場 「子どもに有害」と批判の一方、表現の自由指摘する声もという記事。問題の看板は、当事者がツイッターで写真を上げてるので参考に見てみよう。
【ついに】秋葉原はトレーダー3号店様外の巨大看板に登場しちゃいました!!🎊ここに出せるのは最初で最後になるかもしれないので、どうぞ記念にお納めください。「もっと!孕ませ!炎のおっぱい超エロ♡アプリ学園!」11月29日発売予定! #みるふぁく #みるくふぁくとりー #超エロアプリ pic.twitter.com/pU60mgQndT
— みるくふぁくとりー (@milkfactory_) November 1, 2019
さてこの看板、普段なら表現の自由を叫ぶような人たちまでもが割と批判的になったり、沈黙してしまったりしているようだ。18禁ポルノゲームの看板であり、法律に合わせて修正されているので、おそらくは東京都の広告審査も問題なく通ってしまったのだろう。
多くの人々が「これはダメだ」と思うような表現というのはある。多くの人々がダメだと思うような表現だからこそ人権である「表現の自由」で守る必要がある。だがその表現の自由という人権を制約してでも止めなくてはいけない表現というのも、実際のところ存在はしている。
わかりやすい例がヘイトスピーチだ。ヘイトスピーチは「キモくて金のないおっさん」同様、そのままの語義だけ見てしまうと伝わらない言葉だ。そのまま読めば「憎悪表現」程度の意味合いとなり、ただの悪口とすら解釈されてしまう。
厳密な意味でのヘイトスピーチは、「明白かつ現在の危険」がある状況における加害煽動表現のことだ。ルワンダ虐殺はとてもわかりやすいサンプルだ。
千の丘自由ラジオのヘイトスピーチ Hate-speech excerpt from RTLM - Radio Télévision Libre des Mille Collines (1994)
ツチ族をゴキブリと呼び、駆除を呼びかけるこの放送は、実際に50〜100万人が殺される事態を引き起こした直接の原因である。
背景にはツチ族とフチ族の長い対立があり、大統領暗殺の犯人を巡ってお互いがお互いを非難し合ってたなど、火薬庫のような状態が続いてたことがある。こういう状況で上のような放送を行うと強烈な加害煽動メッセージとなり、本当に虐殺が発生してしまうわけだ。
欧州では反ユダヤ的言説をヘイトスピーチとして取り締まっているようだが、どうもこれも反ユダヤ言説がそのまま加害煽動になる火薬庫を抱えたヨーロッパの事情があるようだ。
10 Hours of Walking in Paris as a Jew
この動画を見ると、パリでキッパ(ユダヤの帽子)をかぶって歩いてるだけで変な男たちが寄ってきてめんどうなことになるのがよくわかる。こういう状況が「明白かつ現在の危険」と認識されてるということのようだ。
つまるところヘイトスピーチ規制は表現の自由という人権を部分的に侵害することになるため、慎重にその範囲を限定されている、というわけだ。なんでもかんでも禁止してるわけではない。
おそらく日本でもいわゆる在特会、在日特権を許さない市民の会による暴力性の高いデモが起きなければ、ヘイトスピーチ解消法が成立することはなかっただろう。「明白かつ現在の危険」があるからこそ成立した法律というわけだ*1。
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このように、ごく限られた危機的状況に対応するために、表現の自由は制約されることがある。もっとも何を勘違いしたのかこれを拡大解釈しようという動きが地方自治体などでも起きていて、たいへん危険な状況になりつつあるのだが、その話はまた別の機会に。
さて、冒頭の話に戻ろう。秋葉原中央通り沿いのトレーダー3号店に設置された、「みるくふぁくとりー」というテックアーツ社のポルノゲームブランドの巨大広告の話である。同社の別ブランドSQUEEZの後継ブランドであり、SQUEEZ時代から続く「炎の孕ませ転校生」シリーズ最新作の広告だ。今回で12作目となる長期シリーズのようだ。
この広告は現行の日本の法律にはとくに抵触してないと思われる。日本での刑法175条で禁止される「わいせつ物」とは、警察がそのわいせつ性を恣意的に判断できるようになっている。最近でも春画を猥褻物から外したようで、春画の展示会なども取り締まられることはなくなったようだ。警察が猥褻と判断してるのは性器描写であるため、男女の向かい合う姿よりは性器が挿入された状態のほうが性器そのものが見えないので取り締まられにくいのだとか。今回の広告も性器描写はないため、警察の考える「わいせつ物」には該当しないということになる。
条例はどうか。東京都では東京都青少年健全育成審議会を起き、いわゆる有害図書指定を行っている。有害図書指定を受けると未成年の販売が禁じられ、陳列もゾーニングされた空間にしなくてはならなくなる。最近では女性向けのいわゆるボーイズラブ作品に対する有害指定が相次ぎ、18禁コーナーには入りにくい女性らの手に作品が届かなくなりつつある。しかしこれも本やゲームなどのコンテンツが対象であり、広告の規制にはならないようだ。
つまるところ法的にはなんら問題のない状況なのである。
にもかかわらず多くの人々が「この広告はダメだ」と感じている。それはなぜなのか。そうした人々の倫理観を明確にしていく倫理学という学問がある。
「性的モノ化」という概念はヘイトスピーチ同様ガバガバに定義を拡大して乱用されることの多い言葉だし、提唱してきた人たちもよくわかってないんじゃないかとすら思うのだが、ヌスバウムという人物が割と明確な「性的モノ化」の概念を提唱しているのを以下の論文で知った。
「性的モノ化と性の倫理学」と題されたこの論文からヌスバウムの箇所を引用してみよう。
以上のようなカントの議論とラディカルフェミニストのモノ化批判の間には密接な関係があ る。マーサ・ヌスバウムは“Objectification”(「モノ化」)という非常に優れた論文で、カント とラディカルフェミニストの両者の洞察に由来する説得的な議論を提示している(Nussbaum, 2002)。これは非常に興味深い議論なので若干細かく見てみたい。 典型的にはひと(person)のように、モノではないものをモノとして扱うのが「モノ化」である。ヌスバウムによれば、性的モノ化という概念は曖昧なだけでなく、実は根本的に集合的 な概念であり、これがポルノや買春を扱ったフェミニストの議論に混乱を引きおこしている。 彼女によれば、モノでないものをモノとしてとりあつかう(treating as an object)には少なく とも七つの意味がある。
- 道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
- 自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持 つことを否定する。
- 不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
- 代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
- 毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundary-integrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
- 所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
- 主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。
すべての「モノ」が上の特徴のすべてをそなえているわけではない。たとえば、たしかにたいていのモノは自律的でなく、また、その主観的経験を(道徳的に)配慮する必要はないかも しれない。また、すべてのモノをなんらかの道具として使うことができるかどうかは明確では ない。また、美術品(たとえばモネの絵画作品)のように、モノであっても、かけがえないの ないモノであり代替不可能で、毀損すべきでないモノもある。コンピュータのように、モノで はあるが、一定の意味では自発的活動性を有すると認められるモノもある。また、モノは誰か によって所有されることが多いが、富士山や月のように、通常の意味では所有されえないモノ もある。つまり、この七つの意味はそれぞれ論理的には独立の概念内容であると考えられる。 したがって、このさまざまな意味のどれが「モノ化」が倫理的に問題を含んでいると言われる 意味なのかを分析する必要がある。
この7つ項目に従って、トレーダー3号店のみるくふぁくとりー広告を見てみよう。
- 道具性
「おっぱいハーレムをゲット」という物をコレクションするかのようなコピーに道具性が現れている。
2 .自律性の否定
「孕ませ」というある種の強制性が自律性や自己決定能力を否定していると言える
3 .不活性
やはり「孕ませ」や「ゲット」といったワードに能動性の否定が見える。
4 .代替可能性
幾人もの似たような体型の人物が描かれており、またこれらをコレクション的に取り扱う文言があるため、代替可能性を示していると言える。
5 .毀損許容性
こちらも「孕ませ」というワードから毀損許容性を示していると言える。
6 .所有可能性
これもコレクション的に取り扱う文言があるため、所有可能性を示していると言える。
7 .主観の否定
顔を塗りつぶされてるというわけでもないので、こちらは該当しないと思われる。
このように見ていくと、かの広告は絵が性的だとかそういうことではなく、広告に載せられたコピーや作品タイトルに「性的モノ化」が潜んでいることがわかる。このあたりが多くの人々に非倫理性を感じさせる要因なのであろう。
もちろん性的モノ化されたポルノが存在することが悪いわけではない。だが広告としてどうか、というのは別の話である。
さらにいえば「性的モノ化」が悪いことなのか、という問題がある。
エブリン・ベンチコヴァ(1993〜)による「この人を見よ」。スロバキアの写真家。多数の人間の集合体を顔を写さずに捉えることによって、共感や理解の入り込む隙を排除し、奇妙な生物のように見せています。 pic.twitter.com/9LRqjB7GAc
— ◆デザインwithアート最前線◆ (@rejykikafav) 2019年10月28日
たとえば上記のようなアートはどうか。人間をモノ化し能動性や自律性を否定してはいないか。代替可能性を示してはいないか。そのような表象を広告に使ってはいけないのか。
もちろんそんなことはないのである。論文「性的モノ化と性の倫理学」ではヌスバウムも「チャタレイ夫人の恋人」を挙げ、「すばらしい性的モノ化」と評してることが記述されている。
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では非倫理的な「性的モノ化」とはなにか。同論文では雑誌「プレイボーイ」を例にあげている。
ヌスバウムが典型的な『プレイボーイ』的女性描写と見るのは次のようなものである。
女優のニコレット・シェルダンがテニスをしている写真。スカートがまくれあがり、黒いパンティが見えている。「オレたちがテニスが好きな理由」というキャプション。
『プレイボーイ』の視点は、女性をその人格・出自・内面性から切りはなし、快楽のための 手段としてのみ扱っており、道徳的に問題のある「モノ化」の典型である。このような写真や キャプションは、「この女がどんな女で、なにをしていようとも、性的な快楽の対象なのだ」 というメッセージを伝えているという。
こうした道徳的問題を抱える「性的モノ化」とそうではない「性的モノ化」をどのように峻別したらよいのであろうか。
ヘイトスピーチの議論を思い出そう。「明白かつ現在の危険」があるなら表現の自由は限定的に制約され得る。もし女性が街を歩くのに男性保護者が必要なほどいつもいつも危険にさらされているなら、それは「明白かつ現在の危険」になり得るということだ。そこにある種の「性的モノ化」がヘイトスピーチのような加害煽動として機能する可能性は十分にあるだろう。
アメリカの強制性交は日本の強制わいせつの10倍もの発生率がある。これは定義を広げてるせいもあるが、旧定義でも7倍程度はある。暗数調査でも日本は比較的申告率も低くないので、認知されてない事案が多いということもないはずだ。
さてこの状況を「明白かつ現在の危険」と言えるだろうか。そしてあなたが問題視してる表現は「加害煽動」になり得るだろうか。アメリカではどうだろうか。日本ではどうだろうか。
どうせ議論するなら有益な方がいい。不快さだけが理由ならトライポフォビアのために草間彌生のアートや水玉模様を禁止してみたらいい。禁止すべき広告があるなら、禁止すべき理由をきちんと説明できなければダメなのである。
我々は自由主義国家の市民なのだ。自由であることに誇りを持とう。