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狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

「戦う人」になれない僕らと、戦うことを求める社会

男に生まれついた者は、みな戦うことを求められる。実際には戦う資質を持った男性ばかりではないのだが、ともかく社会というのはそういう「男らしさ」を否応なしに押し付けてくる。女性も同様、「女らしさ」を社会から要請され続ける。

こういう「男らしさ」「女らしさ」の規範となるものをジェンダーと呼ぶ。肉体的な性別に対して、社会的な性別、というわけだ。

ジェンダー的に「男なんかでありたくない」という規範外れの資質を持った人間が「悔しいけど、僕は男なんだな」とつぶやくから、ガンダムアムロのあのセリフは重たい。アムロガンダムに乗り、戦いにその身を投じるが、本来そんな人間ではない。家にこもり、機械と戯れるのが好きな、内気で優しい少年だったはずだ。そんな彼が自分は「男」であると意識させた瞬間が、あのセリフとなっている。幼馴染のフラウ・ボゥが自ら戦いに出ようとするとき、女である彼女に戦わせるわけにはいかないという意識が彼を「男」にした。ジェンダーが押し付けられ、受け入れられたその瞬間である。

「光のオーロラ身にまとい、君は戦う人になれ」という仮面ライダーBlack RXのあの歌も、子供が戦う存在である「男」になることを示唆してる。「傷つくことを恐れたら地球は悪の手に沈む」という恐怖を提示し、戦う存在の男性的象徴「ヒーロー」として目覚めろと叫ぶ。

そこで90年代のエヴァンゲリオンは「少年よ神話になれ」と歌うわけだ。戦いや男らしさを超越し、神話になれと。残酷な天使が示した「テーゼ」とは、ある種の「男らしさ」の押し付けだったのかもしれない。

ひるがえって現実はどうか。90年代からゼロ年代、そして今に至る日本経済の凋落は、男だけでなく女も「戦う人」になることを求めている。男らしさはその資質を持たない男性のみならず、全国民へと求められるものになってきた。もはやジェンダーとは言えないものになりつつある。

その間、興隆を見せたのはセーラームーンに始まる「戦闘美少女」たちであった。セーラームーンの大ヒットは多くのフォロワーを産み、同じ監督の手による「少女革命ウテナ」にいたっては「僕は王子様になるんだ」という少女が主人公に設定された。エスニックな魅力を持つヒロイン姫宮アンシーの胸から剣を引き抜き「世界を革命する力を!」と叫ぶ少女の姿は、女性ジェンダーをも革命してしまいそうであった。

美少女戦士セーラームーン」も「少女革命ウテナ」も少女漫画として描かれたものであることに注意されたい。それに男性オタクたちがたいへん夢中になった。同様、多くの男性オタクたちが虜になり、エヴァンゲリオンと並んで2chに単独の板がある「カードキャプターさくら」も少女漫画である。オタクは少女向け作品に勝手に群がり「萌え」る存在であり、だからこそ男性ジェンダーにもそぐわず、気持ち悪がられる存在だった。

ところがこうした彼らの行動は商業的にも着目されるようになり、セーラームーンを超える長期シリーズとなってる「プリキュア」シリーズは最初から女児とともに20代30代男性をターゲットとするコンセプトが組み込まれた。プリキュアは基本的に徒手空拳で戦う少女たちのアニメであり、監督には「ドラゴンボール」や「ONE PIECE」といったバトル物の少年漫画を手がけてきた西尾大介が起用された。

そしてプリキュアは少女たちに受け入れられ、すでに10年目に突入している。また「戦闘美少女」たちは「女性らしさ」すら捨て去るようになり、「魔法少女リリカルなのは」など主人公は「男前」だの「白い悪魔」だのと呼ばれるし、登場人物たちが女性にも関わらず「男臭い」とすら言われる。実際タイトルに反して話の内容はドラゴンボールZのような熱血バトルである*1。もはや男性の象徴であった「戦い」に男性を起用することは、「戦う人」であることを押し付けられてきた男性たちにはつらすぎるのかもしれない。「戦闘美少女」たちに仮託せざるを得ないほどに。

男児向けにこれまた長期シリーズとなってる平成仮面ライダーシリーズでも、料理や家庭菜園が好きな主人公や、いじめられっこが主人公のシリーズが展開されるなど、もはやジェンダーとは何だったのかと思えるような状況が目の前にある。

日本におけるジェンダーは、もはや半壊しているといってもいいだろう。

だが先述のように、「プリキュア」も「仮面ライダー」も「戦う人」であることには変わらない。男女問わず戦う人になる時代を象徴してるに過ぎない。

だからこそ疲れた大人たちは癒しを求め、深夜アニメでは「日常系」と呼ばれる「戦わない存在」としての象徴である少女たちの日常的な姿が描かれるアニメが盛んに作られた。そんな中で作られた「魔法少女まどか☆マギカ」は戦闘美少女の系譜にありながら、無限の戦いに挑み続け表情を失った暁美ほむらを、主人公鹿目まどかが自己の存在を超越して救うお話である。神話になったのは少年ではなく少女だった。

「戦う人」になれない僕たちは、戦う人になることを要請される社会の中で、救いを求めてあがき続けている。救われた暁美ほむらが戦い続けることを決意したのは、僕たちへのエールだったのだろうか。

ガンダムアムロは最終話でこうつぶやく。「僕にはまだ帰れるところがあるんだ。こんなに嬉しいことはない」。

僕たちは、どこへ帰るのだろうか。

*1:映画版はTVシリーズにもあった優しさやはかなさが強調され、熱血バトルの要素を残しつつもたいへん涙腺を刺激するストーリーが展開される。いや、話の筋自体はもともとそういう感じだったんだけれども

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>