ブラック企業肯定論と体罰肯定論は同根-若者をシバけば良くなるという日本社会の病という記事。
うん、確かにその通り、としかいいようがないね。最近体罰から自殺した高校生がいた事件の影響もあるのか、体罰ネタの話をよく見かける。ホントに日本の教育はなかなか変わらないものだなあとつくづく思う。
どうも日本人というのは、苦しい思いやつらい思いをするとその分成長すると思ってる人が多い。実際にはそんなことはない。何事にも適度な負荷というのはあって、それを超えたら壊れるのは当たり前。
ビデオゲームというのはそのへんがよく出来ていて、簡単にクリアできるハードルから徐々に難しさをあげていく。最終面まで辿り着く頃には、最初の面なんて楽勝でクリアできるようになってる。それでも油断してると1匹目のクリボーにやられたりする。こういうのは「良いゲームバランス」と表現される。
「リアルなんてクソゲー」だ、という決まり文句がある。クソゲーとは簡単にいえばゲームバランスを欠いたゲームのことである。せっかく買ったのにあんまりにも難しすぎてやる気がなくなる。あまりにも簡単すぎておもしろくない。意味もなくめんどくさいことをやらされる。そういうのはクソゲーなのである。
現実というのは確かにゲームバランスが悪い。なぜゲームバランスが悪いかと言えば、それは教育システムが画一的だからだ。
子供といえども個性がある。成長にも個人差がある。適切な時期に適切な課題を与えられてればゲームバランスはいいが、画一的な教育ではそれは不可能だ。
だいたいこういうことを言うと「現実はゲームじゃないんだ!」と言いだす人がいるのだが、さてどうだろうか。よいゲームバランスをもったゲームは、プレイヤーをちゃんと成長させる。序盤でつちかった技を駆使して、中盤をクリアし、最後のボスをちゃんと倒せるようにしてくれる。
さて教育はそのようにできているだろうか。
学習進度でクラス分けをしようとすれば差別だと言いだす。努力しろとは言っても方法は教えない。心の教育? あんたらがやってるのは儒教に基づいた目上の言うことなんでもハイハイ聞く人育てるだけの宗教教育でしょ。
サルマン・カーンという人が作ったカーン・アカデミーでは、学習内容をステップごとにわけてあり、それをクリアしないと次の段階の講義が受けられないようになっている。画面を見た感じは、まるでゲームのステージセレクト画面のようだ。でもそれがとてもわかりやすい。
ゲーミフィケーションという言葉が一時期流行ったけれども、このアプローチは間違ってないのだ。ゲームのように作業を作り込む。そうすることで次に何をすればいいかも、自分がいまどこにいるのかも明快にわかるようになる。そこには苦しさやつらさなんて必要ない。ゲームのように楽しめばいい。
厳しい環境が人を育てることはある。でもそれはゲームも同じだ。難度の高い面をクリアするために、何度も練習することはある。でもそれはやる気を失わせるような高難度であったり、意味もわからず単純作業をさせられることじゃない。成長することは楽しいことなんだ。
教育とは決してできない者を殴りつけて落ち込ませることでも、叱られ役をつくって全体を引き締めることでもない。できないことができるようになる喜び。それを教えるのが教育じゃないか。
だから教育はゲームであるべきだと、俺は思う。ゲームはちゃんと人を成長させる。そういうメソッドがゲームにはある。そうでなくては商品として成り立たない特性があるからだ。
教育も企業も、ゲームを見習うといい。ゲーミフィケーションの導入とでも言っておけばかっこうはつく。せっかく日本には、世界に名立たるゲーム企業があるのだから。そのアドバンテージを無視するなんてもったいない。そうは思わないか?