狐の王国

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東京オリンピックまで147日だったので「AKIRA」を見てみた

実は未見だったのだが、80年代アニメ映画の金字塔「AKIRA」を見てみた。東京オリンピックまでちょうど147日だったのでいい機会かなと思って。

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2020-02-28

さすがにもう30年以上昔のアニメでたいへん古いのだが、それでも作画はとても美しく、4Kリマスター版を見てみたくなる出来栄えだった。

しかし80年代後半というあの時代の、いわゆる今で言う左派的な世界観が凝縮された映画でもあるなと思った。

大衆のデモで投げられる可燃物と思しきものの煙など、あれは学生運動の時代の風景なのであろう。いまも禍根を残しがちな「科学では解明できない」「人間が取り扱うには大きすぎる力」など、現代でやれば失笑ものであろう。

かつて第二次世界大戦終結したころ、人々の間では「モダンに対する不信感」が募っていたらしい。モダン──近代的であること、科学的であること、合理的であること、そうしたものは結局のところ人を不幸にするのではないか。人間という小さな器では理解できない大きな存在があるのではないか、合理的なモダン建築はただただ冷たいだけではないか。合理性の行き着く先がナチスであり、原爆だったのではないか。

そうした思いはアニメの世界にも入り込むものがあり、「機動戦士ガンダム」で描かれた宇宙移民という合理性を超える力をジオン公国という形で見せつけた。科学が解明できない大きな力として、人類の革新「ニュータイプ」という存在が配置された。

AKIRA」でもそうしたものは存分に描かれる。「科学では解明できない力」に目覚め、飲み込まれていく鉄雄。それに対抗するのは合理性とはかけ離れた不良少年金田。この作品でも「科学者」という存在は「好奇心に負けて愚かな研究に手を出す」という存在に描かれる。あの時代は、そういう合理性や科学への不信が募っていた時代だったなあと、いささかの郷愁を覚えながら121分を楽しんだ。

いまならわかる。モダンであること、科学的であること、合理的であること、それらは人間を不幸にするわけではないのだと。

合理的で画一的なモダン建築は、いま思えば風景が人間に与える心理的影響が考慮されてなかった。正しく合理的に運用され適切にリプレース計画が実施された原子力が人間を不幸にしたことなどなかった。不幸を生み出したものは、モダンさが足りてなかった。合理的でも科学的でもまったくなかった。我々はいまだにウイルスに感染していても出勤を命じられ満員電車に乗りウイルスを撒き散らすくらいには、非合理的で非科学的で、まったく前近代的な生活をしている。

モダンの徹底なきポストモダンはないと宮台真司は言った。

我々は近代主義に立ち返る必要がある。あの頃のただただ伝統的なものを否定するだけの近代主義ではなく、人間心理も合理的に捉えた新しい近代主義を始める必要がある。伝統には伝統の合理性を、いまの我々は見出すことができるはずだ。

AKIRA」というモダン不信の時代に描かれた物語を見て、その思いを新たにしたのである。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>