狐の王国

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差別は程度問題ではないなんてことはない ─ 現代倫理が示す公正の姿

差別考 -「差別に程度の差はない。全ての差別を許さない。」⇄「現実を認めた上で、より良い相互理解を目指すべき というまとめが目に入った。政治家米山隆一氏は経済に関しては保守派というか、米大統領バイデンが実際にやってみせたようなリフレ政策の考え方を真っ向から否定してしまうような人ではあるのだが、この差別の件にしては概ね正しいことを言っているし、穏当な態度であるとはっきり言って差し支えなかろう。

「反差別」を掲げるような人に限って差別的な言動を止めないという現象は割とよく見る。上のまとめのブックマークコメントには「種差別は極論として考えておくと役に立つぞ」と書いておいた。これについてもう少し踏み込んで書いておこうと思った次第。

まず前提として覚えていてもらいたいのは、我々は「幸福追求権」という権利を持っているということだ。これは人権のひとつで、字面だけ見れば誰もが幸福を目指してよいということはすぐわかるだろう。ではその「幸福」とはなにか。

幸福とは快楽が多く苦痛が少ないことである。快楽の中身はなんでもいい。単純な娯楽でもいいし知的好奇心を刺激する活動でもいい。個々人によって快楽が得られるものは違うのだから、その中身は問わない。俺もこうして文章を書いてるのは、書くこと自体も快楽だし、読んでもらえることも、感想をいただけることも快楽だからだ。これは古代ギリシア時代の幸福論の一つで、快楽主義と呼ばれる考え方だ。

近世ではこの快楽主義の考え方に基づき、社会全体として快楽が多く苦痛が少ない社会を目指していこうという考え方が生まれた。これが「最大多数の最大幸福」という言葉に現れる功利主義という考え方である。功利主義ではこの快楽を「効用」と呼び、現代の経済学にも活かされている。効用は計算可能で、効用関数なんてのもある。

効用、つまり快楽が少しでも増えるように個々人が行動することをとめてはいけない。それは幸福追求権があるからだ。

反面、社会に苦痛をもたらす行動はやめてもらわなくてはならない。どんな大きな効用も、それを上回る苦痛が発生してはマイナスになってしまうからだ。

ピンと来る人もいるだろうか。そう、社会に効用をもたらし苦痛を減らし、快楽をプラスにしていくことこそが、まさに現代倫理であり道徳なのである。なんとなくよいことくらいのニュアンスで倫理や道徳という言葉を使ってる人も多いだろうが、倫理や道徳は少なくともこの程度の解像度で語れるものなのである。

ここで「動物の快楽や苦痛はどうするの?」という疑問を呈した人がいた。ピーター・シンガーという人物で、著書「動物の解放」で有名な人物である。彼は動物の快楽や苦痛を人間と同様に考えないのは「種差別」であると主張した。

動物に苦痛を与えてはいけないし幸福追求権もあるという考え方は、屠殺にも苦痛のない方法を選ばなければいけないという圧力としても機能した。棍棒で殴り殺す屠殺から電気ショックへの移行は、労働者の苦痛も減らすので導入が進んだ。

また知能の高い動物は自分が殺されることを予見できるので、その恐怖が苦痛になるから殺してはいけない、というのも出てきた。「頭のいい動物は食べてはいけない」と言われて「はぁ?」としか思わない人も多いだろうが、実は功利主義に基づく論理的な考え方なのである。いわゆるヴィーガン思想はこういう論理的な後ろ盾があるのだ。

論理は非情だ。ホタテは痛覚がないから苦痛を感じないので食べていいとか言い出す人も現れた。確かに社会の苦痛を減らすということを考えるなら、元々ゼロならいくら殺してもゼロだろう。

ピーター・シンガーの思想は完全に受け入れられたわけではないが、それなりには受容はされた。動物には人権はないが、動物を虐待することは非倫理的だと多くの人々が考えるようになった。一方、動物を拘束し利己的な快楽のために飼育するペットというものには非難が集まらない。ピーター・シンガーは動物の権利を尊重し、ペットを飼わないにも関わらずだ。

我々はいまも種差別をしている。食べていい動物と食べてはいけない動物とを恣意的にわけている。大事にしていれば動物の自由を拘束しペットにしていいと思っている。その非倫理性から脱却するためにヴィーガンになろうとする者もいる。だが彼らとて現代技術ではビタミンB12は動物から取る他ない。

和食の文化で育った日本人にとって、ヴィーガンになることはあまり難しいことではない。出汁をかつおから昆布に変え、魚を食べずに米と野菜を食べればいい。タンパク源は大豆がある。豆腐でおいしい料理はいくらでも作れる。やはりビタミンB12の摂取源だけが問題だが、まあこれも脂溶性で蓄えられるので数年持つこともある。

だが1970年代までは割と普通だったそのような食生活も、日本人の脳卒中の多さという点で苦痛をもたらしてきた。食の欧米化で脂質摂取量が増えて、劇的に脳卒中が減ったのである。ヴィーガンになるのはいいがせめて牛乳は飲んで欲しいと常々言ってるのはそういうわけだ。ビタミンB12も牛乳から十分取れる。牛を飼育するという非倫理的な行いからは逃れられないが、ペットの飼育を許容できるくらいなら乳牛の飼育も十分に配慮して可能だろう。ピーター・シンガーには怒られるのであろうが。

動物の権利と人間の権利はこのようにしてあちこちでバッティングを起こしている。我々は我々の幸福追求権のために、程度の差はあれ種差別をし、動物の権利を侵害しなければならない。

そう、程度の問題なのである。誰も差別からは逃れられない。だからその中でもできるだけ苦痛を少なく、快楽を多くしていこうとしていくことが大事なのである。快楽にも苦痛にも量があるのだから、差別だって程度の問題になるのは当然なのである。差別は程度問題ではないと考えてしまう人は、現代倫理のこうした基礎を知らなすぎるのだ。

さてここまでが「極論としての動物の権利」である。極論を見るとどうしても程度問題にならざるを得ないのもご理解いただけたのではなかろうか。

目指すべきは公正

差別者を糾弾してれば自分が倫理的だと勘違いできて大きな快楽をもたらすのかもしれない。だがそうした行いが社会により大きな苦痛をもたらしているとしたらどうだろうか。

わからないことは不安なのはあたりまえだ。外国人であろうが原発であろう疫病であろうが、それは変わらない。だからできるだけわかりやすく事実を伝えていく必要がある。それでも不安にかられた人々が出てくるのはしょうがない。先に不安があるからこそ誤った判断をしてしまうものだからだ。

だから本人の知力や知性の問題ではないのである。とても賢いはずの人が陰謀論エセ科学に巻き取られるのを何度も見てきた。専門領域になると急に正気に戻るなんて現象も何度も見てきた。誰もが間違うリスクは抱えているのだ。

そういう人々の過ちを差別者としてレッテルを貼り糾弾しなければならない状況ももちろんあるだろう。だが基本的にはそうした行いは怒りを買うだけだ。

欧州ではそのような怒りが極右の台頭を呼び込み、極右政権があちこちで爆誕するハメになった。今年になってようやく極右政党が議席を失うような国も出てきてるようだが、そもそもそんなものの台頭を招いてはいけない。

そのためには人々を非難するのではなく、あくまで公正を目指すべきだ。社会の公正に疑義が持たれるような状況は避けなければならない。そうした疑義こそが差別を生み出すからだ。例えば日本人の性犯罪者には大きな非難が集まるのに外国人の性犯罪者には同じ程度の非難が集まってないのではないか、などだ。

非難や糾弾は手が回りきることなどあるわけない。平等に非難し続けるのは困難だ。その漏らした非難が外国人であったらどうする。庶民はそこに不公正を見る。極右勢力の言葉に耳を貸す理由ができる。社会に大きな苦痛をもたらすことになる。

そのような展開があるのはヨーロッパで起きてきたことを見てればわかるのだから、むしろ外国人犯罪は取り締まりを強化するくらいでちょうどいいのかもしれない。

不平等だって? 実を言えば公正とは平等ではない。むしろ平等は公正ではないのだ。

ニューヨークのブルックリンに、約二万人が暮らすスターレットシティという連邦政府の助成を受けたアメリカ最大の中間所得向け公営住宅がある。異なる人種が共存するコミュニティをつくるという目標をもとに、1970年代半ばに入居が始まった。(中略)近隣の都市では、白人の割合が一定度を下回ると「白人の流出」が起き、人種の統合が進まないという現象が起きていた。そこでスターレット・プロジェクトの担当者たちは、人種と民族のバランスを適正に保つことで、さまざまな人種が暮らす安定したコミュニティをつくろうと考えたのである。

この方法は成功した。スターレットシティの人気は高まり、多くの家族が入居を希望したため、待機者リストがつくられた。定員制限のせいでアフリカ系アメリカ人が入居できる住居は白人より少なかったこともあり、黒人世帯は白人世帯よりも長くまたなければならなかった。入居を希望してから実際に入居が決まるまでにかかる時間は、1980年代半ばの時点で白人世帯の場合は三、四ヶ月、黒人世帯の場合は二年に及んだ。

(中略)

スターレットシティが人種を基準に入居者数を決めたのは、不公正だったのだろうか。アファーマティブ・アクションの多様性論に照らせば、否だ。公営住宅と大学の教室とでは、人種と民族の多様性を実現する方法は違うし、争点も異なる。しかし公平さの観点から見れば、どちらも変わらない。

これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学

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アファーマティブ・アクションというのは昨今日本でもよくある大学の「女子枠」みたいなやつのことである。アファーマティブ・アクションそのものが差別ではあるのだが、格差の是正のためには仕方がないとして認められている差別である。そうした考え方は大学の入学だけでなく、こうした住宅にも応用できるわけだ。

アファーマティブ・アクションの多様性論に照らして、外国人の犯罪をより厳しく取り締まることで旧来の住人たちが安心し差別的な態度を取らなくなり、結果として多様な人種民族が平和的に暮らせるとしたらどうか。それは平等ではないが、公正なのである。その方が苦痛も少なくなるだろう。

公正は決してわかりやすくはない。このように不平等に見える状態が実は公正なこともある。しかし公正な状態はより多くの苦痛を減らし、より多くの効用をもたらすのだ。

そして上の引用でもわかるように、公正とは妥協の産物である。妥協なき理想はだいたいろくでもないことになる。過激な新興カルト教団は妥協なき理想を掲げるからカルトなのである。そうしたカルトも200年も生き延びるうちに現実社会と折り合いをつけ、妥協し、普通の宗教になっていく。重要なのは妥協しないことではなく、よりよい妥協をすることだ。

私はこのことを1944年、初めての大きなコンサルティングの仕事としてGMの経営組織と経営方針について調査したときに教えられた。

会長兼CEOのスローンは私を呼んでこういった。「何を調べ、何を書き、何を結論とすべきかはすべてお任せする。あなたの仕事だからだ。正しいと思うことはそのまま書いてほしい。反応は気にしないでほしい。気に入られるかどうかなど関係ない。受け入れられやすくするために妥協しようとは考えないでいただきたい。あなたの助けがなければ妥協できない者はこの会社にはいないはずである。しかし何が正しいかを最初に教えてくれなければ、正しい妥協もできなくなる」

意思決定を行うときには、この言葉を思い出すべきである。

経営者の条件 P.F.ドラッカー

妥協なき理想は持ち続けるべきだ。それが指針になる。その指針を念頭において、正しい妥協をしていくべきだ。それが公正になる。

正しい理想と正しい妥協が、はためにはただしくもない不平等に見えても、現実的な公正を生み出していくのである。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>