狐の王国

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"死にたい人"の物語「映画 聲の形」を演出する伝統のアニメ技法

映画「聲の形」を見た。「けいおん!」「たまこまーけっと」を監督し、「響け! ユーフォニアム」の演出を手掛けた希代の天才アニメーター山田尚子の最新作である。映画監督作品としては劇場版「けいおん!」「たまこラブストーリー」に続いて3作目となる。

山田尚子の作風を一言で表すなら、「萌えアニメが少女漫画に回帰した」ような演出が特徴だ。元々萌えアニメというのは「男性向け少女漫画」という側面がある。

いろいろと誤解も多いのだが、いわゆるオタク文化というのは元来「少年漫画を読む女と少女漫画を読む男」の文化である。その点においてジェンダー規範からの逸脱が気持ち悪がられ、長らく迫害の対象となってきた。いまも特に女性のオタクたちはその趣味を秘匿してる人たちが多い。

そして今では元来漫画やアニメが持っていた「少女向け」「少年向け」という垣根はどんどん取っ払われつつある。「Tiger & Bunny」のように少年向けに作ったつもりが女性に絶大な支持を得てしまったりと、なかなか狙い通りにもいかないものなのである。

山田尚子の作品は、男性向けのアイドル映画的な要素を持ちつつも、そうした少女漫画世界への回帰が見受けられる。これが男女問わず山田尚子作品が支持される理由でもあろう。

そして山田尚子の演出は、伝統的な出崎演出の進化系である。「あしたのジョー」「エースをねらえ!」といったある程度の年齢以上なら誰でも知ってるアニメを手が来てきた出崎統は、アニメ黎明期から活躍し、5年前に他界した天才演出家だ。

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出崎演出は大きく2つ大別できる。1つは作画枚数を減らしつつも効果的な演出にするためのアイデアだ。止め絵や繰り返しショットと呼ばれる技法がそれで、動かないが細かく描き込まれた1枚の絵を使用して深く印象づける「止め絵」、その止め絵をリズミカルに3回ほど繰り返しパンニングする「繰り返しショット」は、出崎作品以外にも広まった日本アニメでは定番の演出技法だ。

もう1つの出崎演出は、上記のまとめにもある「現実感」を強調するための演出技法だ。実写映画ならミステイクになるような音や光のノイズをわざと入れ、それにより現実感を際立たせる技法だ。この技法は今のアニメにもよく使用されてるが、山田尚子はさらにそれを進化させようとしてるようだ。

まとめ内で言われてる「エースをねらえ!」の対決で空に飛行機が飛びその音が響くシーン、これは「聲の形」でも意図は違えどまったく同じ演出が使われている。終盤の重要な橋の上での2人の邂逅。このシーンでやはり飛行機が飛び、その遠くの轟音が静かに深夜の2人の気持ちの高まりを演出してくれている。

他の作品でもそうだが、「聲の形」でもカメラが揺れたような演出や、普通のアニメならノイズとして最初から入れないであろう靴の音や物が擦れる音が非常に印象深く入れ込まれている。「聲の形」は内容的に号泣してしまうようなお話なので映画館で見ることをためらう人もいるだろうが、この音の演出を十分に味わうにはよい音響の映画館で見る価値は十分にあるだろう。

時に肉感的すぎると思わされることもある「萌え絵」だが、こうなってくるとその肉感すらリアリティを醸し出す演出になってくる。平面的な漫画絵に出崎統は光と音で生々しさを持ち込んだ。山田尚子は現代の技術でさらに進化させ、萌え絵の肉感的な描き方を映画の生々しさに応用していると見ることもできるのではないか。萌え絵の生々しさをむしろ削ぎ落とすことで一般向けを狙った「君の名は。」とはまったく真逆のアプローチだ。

こうまでして絵に生々しさを持ち込んだのは、作風という点だけでも十分に説明が付くが、「聲の形」というたいへん生々しい原作を演出するにはそれが必要だったという見方もできる。

聲の形」を「いじめっ子が都合よく仲直りしていじめられっ子と友達になる話」と解釈してる人も散見されるのだが、これは間違いだ。そんなわかりやすい話ではない。

本作のヒロインである西宮硝子は、聴覚障害をきっかけに周囲との軋轢を生む。西宮硝子が聴覚障害者として周囲に気を使われて生きてることに違和感を覚えてることは、そのおどおどとした姿勢から見て取ることができる。だから何があっても自分が悪い、ごめんなさいとすぐ謝る。そしてそれこそが周囲の神経を逆撫でしていく。

対して主人公の石田将也は、西宮硝子が「うまくやれてない」ことに気づく。もうひとりのヒロインである植野直花がいらだつのを横目には見てるが、決して将也本人はいらだっていたりはしない。ただ「うまくやれてない子」として硝子を取り扱う。それがイジメにつながっていく。

そんな周囲をいらだたせるおどおどとした硝子が、本気で取っ組み合いの喧嘩をする相手が将也である。この2人の関係をただのいじめっ子いじめられっ子として読み取ることはできない。初対面の時から将也はゲームのラスボスに遭遇したときのテンションにその出会いを重ね合わせていたし、障害者を「かわいそうな人」として取り扱わない態度、何かとてつもなくおもしろいものとしてある意味対等に向き合った将也に、硝子もまた思うところがあったのであろう。同級生の川井みきが徹底して硝子を「かわいそうな障害者」として扱い自分の「いい子」さの演出に利用していくのとは対象的である。

そんな人間同士のいびつさをぶつけ合うような生々しい話に、出崎演出の進化系はぴたりとハマる。

石田将也が死にたがっていたように、二宮硝子もまた死にたがっていた。その死を遠ざけたくて、あえて動物の死骸の写真ばかりとって家に張り出していた結弦の姉を思う気持ちはいかんばかりか。

「死にたい」という気持ちは本作の中心的なテーマである。持ってしまった罪悪感、うまく生きられない居心地の悪さ、自己否定の気持ち。そうした思いが積み重なり、石田将也も二宮硝子も死にたがる。その気持ちをごまかすように、日常を送る。それは今の多くの日本の若者が持っている気持ちに近いものがあるのではないか。

口癖のように「死ね」とつぶやく人がいるという。それは他人の死を願う呪詛ではなく、自分自身に向けた呪詛だという。

我々は死にたいのだ。長生きなどしたくない。そんな生きづらさ、居心地の悪さ、自分自身がそこにいてはいけない気持ち。たとえばそれは「新世紀エヴァンゲリオン」でも繰り返し描かれてきたテーマだ。ある種の現代病なのであろう。

聲の形」はそれも見方次第だと伝えてくれる。「エヴァ」がそのTV版最終話でもっとダイレクトに言葉で伝えてしまっていたものを、「聲の形」は次第に広がり再構築する人間関係で伝えてくれる。

「僕はここにいていいんだ」

それは自己肯定感の再生である。人は一人では生きられない。人は人と関係を持つことで「生きる」ための土台が作られる。それは衣食住以前の「自分は存在してていい」という自己肯定感である。

決して立派な人間でもない。自慢できるものもない。うまくいかないことばかりで、いつも罪悪感にさいなまれてる。そんな自分でも、受け入れてくれる人がいる。存在を望んでくれる人がいる。それを願い合うことを人は愛と呼ぶ。

シン・ゴジラ」や「君の名は。」の影に隠れがちで、話題性も公開の近づく「この世界の片隅に」に劣ってしまう「聲の形」だが、平日昼間だというのに映画館の席はかなり埋まっていた。上映館が少ないせいもあろうが、もっと広く見られていい映画だと思う。とはいえ興行収入も21億円を突破し、あの「魔法少女まどか☆マギカ」を超える大ヒット映画なのではある。

天才アニメーター山田尚子の最新作としても、生きづらさを抱えた人間の物語としても、アニメ演出の最高峰としても1度は見ていただきたい映画である。

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Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>