不愉快である。宮崎駿最新作、ジブリ映画「風立ちぬ」を見た感想だ。たいへん不愉快な映画だった。
なにやらアニメや漫画も規制対象とする児童ポルノ規制法案に賛同する人が「ジブリのようなアニメだけ作っていればいい」とトンチンカンなことを言ってるのを見たことがあるが、宮崎駿はそもそもが「メカと美少女が大好きなオタク」であることを思い出させられる。
今回の「風立ちぬ」は言ってしまえば「メカのことしか頭にないオタクが少女に受け入れられ許される物語」だからだ。
冒頭から妄想妄想妄想の山。まるでパプリカのようだ。夢といえば聞こえはいいかもしれないが、それモデルとなった堀越二郎じゃなくて宮崎駿本人の夢と妄想じゃないんですか、と言いたくなる。
白い服に白い帽子の病弱なお嬢様との出会いなんて、もう古典すぎるオタクの妄想すぎて見てられたものじゃない。原作陵辱だと言う向きもあるが、もう同意するほかない。よくご遺族は映画化を快諾して下さったものだ。
誤解しないでほしい。これが実在の人物や史実に基づかないオリジナルであるのなら、大した問題ではない。痛々しいオタクの妄想をこれほど見事な映画に仕上げた宮崎駿の手腕には感服としか言いようがない。宮崎駿がロリコンだろうがメカフェチだろうがそれが作品に反映されてようが、作品は作品として評価されるべきなのだから問題ではないのだ。
問題は、その痛々しいオタクの妄想を実在の人物を借りて作品化してしまったところだ。
宮崎駿は嘘つきだ。自分の本性を覆い隠すミノをいつも用意してきた。いや商業作家としてアニメを制作するなかで、その枠組みから本性がはみ出てきていたというべきだろうか。そのミノや枠組みはファンタジーであったり、メッセージであったりしてきた。
今回宮崎駿は実在の人物をミノに、メカと少女への偏愛を描いてしまった。それはやっていいことではないだろう。まだ隠れ蓑にしてないぶん、女体化のほうがマシだ。
しかし堀越二郎を隠れ蓑にしなければ、描けなかった本音、本性がある。作中、堀越二郎は立派な人物として描かれる。弱きを助け、みなに認められる才気ある技師で、朴訥としながらも物怖じせず誰とでも話をする。そういう立派な人物でなければ、ただただ美を探求し、美しい娘に愛されるという、宮崎駿の妄想を描くことはできなかった。それができるのであれば、これまでも描けていただろうから。
よく知られるように、宮崎駿は左翼思想家である。今回主人公を演じる庵野秀明が学生時代、はじめて宮崎駿に会った時、「庵野くん、君は共産党に票を入れたか」と聞かれたという話をどこかで残していたのを見た覚えがる。
左翼思想はいわば理想を頭で作るような考え方で、進歩的とも言えるが往々にして身体性を欠きやすい。共産主義国家の崩壊や資本主義取り入れも、身体性から離れて国家を作ってきたがゆえの過ちなのだろう。頭で考えた「正しさ」は、論理の真偽くらいしか判定できるものではない。自分を論理的だと思っている人へ/論理的思考は魔法の杖ではないって話という記事もあったが、論理が真であることが「正しさ」ではないことも、論理を学んだことのあるものなら知っているはずだ。
宮崎駿は身体性と思想の矛盾を抱えてきた。速いものが好きだ、強いものが好きだ、鋭いものが好きだ、爆発が好きだ、美しいものが好きだ、少女が大好きだ。頭で考えた政治的正しさではなく、そのような身体性に根ざした感覚に素直になるためには、「立派な人物」の隠れ蓑が必要だったのだろう。
それを不愉快に感じる人間は、そう少なくもないだろうが。
「生きねば」。作品のコピーとして使われるこの言葉は、理想や正しさではなく、生に立ち返る、自分の欲望に立ち返る言葉のように俺には感じられた。生きることは、もっと自分の体に素直になることなのだと。
宮崎駿はさすがに高齢であり、新作ももう無いかもしれない。だが死ぬ前に、隠れ蓑なしの宮崎駿を見せて欲しい。大人として嘘をついた作品を作ってこなくてはならなかったのも理解できる。だがここまでやらかしてしまったのだから、もうやるしかないだろう。嘘をつくのが大人だとでもいまさら言うつもりでもあるまい。
裸の宮崎駿を最後に見たい。正直な大人の姿を、子供たちに見せていただきたいのである。