今も昔も庶民にとって日本のエリートは「言葉で遊んでいる人たち」という記事。
庶民は「金払いのいい阿呆」なだけではない。どんなものであれ即時的な結果を求めているに過ぎないのだ。
楽しければパチンコに金を出す。美味しければ外食に金を出す。手持ちが増えると聞けばFXに手を出す。
それって、私たちに何か意味があるんですか?得するんですか?
庶民はこれしか聞いてない。だからアホと会話したくありませんというのが態度から出ている高学歴エリートの意見よりも
アホの庶民に解りやすい形で政策と銘打った己への利益誘導をする自民党・公明党が支持を集めているのだ。
今も昔も庶民にとって日本のエリートは「言葉で遊んでいる人たち」
なんか最近も某所で某氏に「アンタ頭いいんだからもっと役に立つことやれよ」とか呼び掛けてる人をお見かけしたなあ。
実際にはこういう人たちが「小難しくて役に立たないもの」だと思ってることが積もり積もって「すごいもの」になったりするんだけど、そういうところまでは見てくれないのだろうな。
疑似科学なんかが簡単に受け入れられるのもこのへんだろうね。即時的な結果を求めるとああなるっていう。バックグラウンドにある膨大な知識までは、そりゃ見てられないのもわかるけどさ。
どの本だったか失念したが、ソクラテスが測量術という暗喩を用いてこういう即時的な結果を求めがちな理由を説明する箇所があったのを思い出す。
遠くにあるものは小さく見える。近くにあるものは大きく見える。
だからどれだけ重大なものでも遠くにあると過小評価してしまうし、ささいなことでも近くにあると過大評価してしまうんだ、と。
元記事では「いかに知識層の人々が社会で生きている人々と対話せずに内輪の人間だけで言葉遊びをしてきたかの証明だ」なんて言ってるけど、そうした研究成果が芸術作品になったり工業製品になったりして大衆に降りて来るまではけっこうな時間がかかる。
遠くにあるから過小評価してしまうんだろうね。正しく測量術を扱えないと、その価値を見失ってしまう。
この暗喩のおもしろいところは、視野の広さもこれで説明できちゃうところ。視野が狭いと遠くにあるものや横にあるものがそもそも見えないってね。
距離は多くは時間ということになるけど、理解に至るステップとも捉えられる。さすがソクラテス、見事だなあと思った(いや本書いたのはプラトンだけどさ)。
無意味で小さく見えることでも、実はそれはものすごく遠くにあるからそう見えてるだけ、なんてのはホントによくあることだと思う。武装しなけりゃ戦争起きないなんてのもそうだろうし、ついついラーメンやケーキを食べちゃうのもそうだろう。
こういう知の測量術を身に付けるには、必死に頭を鍛えるしか無いのかな。もっといい方法、あるといいのだけども。