日本語が亡びるとき──英語の世紀の中でを読んでの感想はすでに書いたのだが、この本自体が扱ってるテーマが複雑で、ちょっとやそっとでは言い表せない面がある。
- 作者: 水村美苗
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/11/05
- メディア: 単行本
- 購入: 169人 クリック: 12,657回
- この商品を含むブログ (463件) を見る
この本を簡単にこれこれこうだから価値が無い、というようなことを書いている記事をいくつか見つけたのだが、そういう記事はたぶん信用しない方がいいだろう。「これこれこうだ」という部分を情報として受け取っておいて価値判断については放っておくのがいいと思う。MONOGUSA blogさんの表現が非常にすばらしくて、「様々な重要で大きなテーマが並列的、あるいは重層的に含まれている」というのはまさにその通り。だから簡単に「これこれこうだから価値が無い」と断言してる記事は、たぶんツッコミどころを見つけただけでまともに本を読めてない。いや、わざとか知らんが複雑な書き方されてて読み取れなくてもしょうがないという面もあるんだけども。だから価値が無いと言った人が頭悪いとかじゃなくて、むしろ頭いいから「あれ、おかしくね?」と思っちゃうんだと思う。俺も「あれ?」と思ってはさかのぼって「伏線」を探したりしたのが何度かあった。
だからこの本の感想は1度ならず書くことになるだろう。今回は第2弾ということになる。
この本の最終的な主張である国文学を子供たちに読ませろというのには同意するものではないのだが、「英語の世紀」の到来についての話は俺としてもかなり実感するところがある。その論拠もその出し方も含めてあまりよろしくないのか、ちょっと補完が必要じゃないのかな、と思うのだけれどもね。
その補完になるかどうかはわからないが、著者のいう「英語の世紀」がどういうものになるのか、というのを俺なりに、自分の脳味噌の整理もかねて少し書いてみようかと思う。
コミュニケーションは英語で
俺はF1が好きでよく見てるのだけども、F1のレギュレーション(ルールや規則)が何で書かれているかというと、実はフランス語で書かれているのだそうだ。その翻訳として英語版があるんだと。
これは国際自動車連盟(FIA)がフランスに本拠地があるためなのだが、モータースポーツや自動車の歴史としてもイギリスをはずすわけにはいかないので、とにかく英語版は用意されるんだそうだ。
やはり欧州でもフランスとイギリスというのが二大巨頭なんだなあと思ったものである。戦勝国は強い強い。車ならドイツだってすごいのにね。
さてしかしレギュレーションもフランス語で書かれるようなスポーツであっても、チーム内部でのコミュニケーションはほとんど英語なんだそうだ。もちろんエンジニアたちもそれなりに英語を話し、ドライバーもレースばっかやってて勉強なんかほとんどしてない奴ばっかなのに英語はちゃんと話せたりする。
実際、1〜3位に入ったレーサーは記者会見でインタビューに答えるのだが、それも英語で受け答えしているし、レーサーの出身地以外のメディアに取材されて答えてるのも英語。
F1というのは年間400億円もの大金を投じて世界中から才能を集めて戦うスポーツなので、どうしてもコミュニケーションに使う共通言語が必要になるんだろう。それがとりあえずフランス語ではなくて英語になってしまった。
インターネットと英語
もちろん英語圏から始まった影響も強いのだろうが、やはりインターネットでもF1と同じように英語でコミュニケーションを取る機会が多い。
ネットゲームで日本人とフランス人とイタリア人がコミュニケーションを取るのは英語だったし、IRCでイタリア人やドイツ人と会話したときも英語だった。英語でちょろちょろと話してあとは自国語で遠慮なく話してるのは空気読めないポーランド人くらいのものだった。
もちろん俺は英語が苦手なので単語を並べて必死に会話するのだが、通じたり通じなかったり。まあそんなんでもなんとか意志は伝わるもので、イタリア人が自国のイメージを聞くから「Italy is pasta!」「Italy is Ferrari!」と叫んでみたらとりあえず納得してくれたりな。
オープンソース開発でもやはり似たようなもので、俺はバグ報告を読んだりたまにバグ報告を出したりする程度なのだが、そこで扱われる言語は英語だ。
日本国内で生まれて日本人がメンテナンスしてるソフトウェアでも、普通にメーリングリストに英語の質問が流れて来たりする。開発者も普通に英語で返事を書いている。誰もそんなことに疑問を持ったりはしない。
ただあまりに注目度が高いソフトウェアだと、先端がどうしても日本語で流れてて他国の人がわかりにくいという印象があるらしい。日本人が開発しているRubyがそうで、いつだったかそんなんで文句たれてる外国人を見掛けた記憶がある。
しかしそんなRubyでもその活動の様子を見てみると、半分以上が英語でやりとりされてるのがわかる。
昔2chのUNIX板かLinux板あたりで「なんで日本人が書いて日本人が使うためのアプリでもRAEDMEが英語なんだよ」と文句を言ってる人がいたけども、日本語を扱うのは日本人だけじゃないということも考えれば納得なのだ。
よく「へたくそな英語なら書かない方がマシ」とか言いだす人がいるんだけど、それもこういう世界ではぜんぜん真逆。
/.-jあたりで前に議論されてたけど、俺ら日本人が情報を探しててポーランド語や韓国語で書かれたドキュメントしか無かったら困るだろ、と。せめて英語ならなんとか読めるじゃん?
あんま人のこと言えないんだけども、実際に検索なんかしてて「なんでロシア語しかねえんだよ!」「くそ、ポーランド語かよ」というシチュエーションはあったのでよくわかる。へたくそでもなんでもいいからとりあえず英語で書いといてくれればなんとか読めるのに。
結局世界中の人々が「第二言語」として選ぶ、選ばざるをえないのは英語なんだよな。大英帝国バンザイってところか、こんちくしょうめ。
扱いにくい日本語という問題
インターネットはそもそも英語しか扱えなかった。いやむしろコンピュータそのものが英語しか扱えなかった。
ネットワークが整備されてもしばらくは、とくにインターネットは英語の世界だった。
昔パソコン通信の時代に、北海道から東京へメールを送るよりも近くの外国へ国際電話を使って送った方が安いという話があった。しかし海外のネットワークを経由するので日本語が通らない。しょうがないのでローマ字で日本語を書いてやりとりしてたのだそうだ。
しかし今はどうだ。米国標準が世界標準なのはしょーがねーべという記事で前にも書いたのだが、たくさんの人がご尽力してくださったおかげでこうして無事インターネットで英語以外の言語を流通させることに成功している。
しかしそれでもたかだか10年前まではウェブサイトが文字化けしてるなんてのはよくあることで、「美乳テーブル」などという文書の上部に「美乳」と書いておくと文字化けしにくいなんて話がまかり通っていた世界だ。バカみたいなまじないに聞こえるだろうがちゃんと根拠もあるので、興味ある人は検索されたし。
またネットゲームなんかでも日本語が使えないなんてことは今でもよくある。友達を誘ってサーバを立ててみんなにログインしてもらったら、交わされる会話は「oo, tunagata」「ato 1 nin iru?」「ok, sasottekuru」なんてものである。パッチで日本語が通るようになったときは感動ものだったりするのだが、バグって発言できなくなったりするとすげえ悲しい。
ウェブの文書を書き表すHTMLという言語にはruby要素というのがあって、実はこれでウェブ文書にルビをふることができる。しかしこれに対応したブラウザはIEくらいのもので、その複雑さもあってあまり普及していなかったりもする。
みんなが思うよりも「英語以外の言語」、とみに漢字はその文字の多さもあって意外に立場が悪いものなのである。文字化けという現象は我々日本人にはけっこう馴染み深いのだが、その現象を表す英語として「mojibake」が使われてるというのも、日本語がコンピュータにとっていかにめんどくさいものかをよく表してるだろう。
さすがにMS-Windowsくらい広く使われてるとそうそう日本語まわりでトラブルは起きないだろうが、MacやLinuxではいまだにニコニコ動画にコメントが入力できないなんてトラブルが出たりする。
そんなそうそうトラブルが起きないはずのWindowsだって日本語の立場はやっぱりよろしくない。
某MS社員に、「MS IME最近どうなっているのよ?」と先週聞いた答えが...「IME開発の主体が、中国にシフトしまっていて我々も手を出せない......個人的にはATOKに切り替えようと思っている」と言う現役開発系社員の発言に絶句!!!
古川 享 ブログ: MS IMEさらに...お馬鹿になっていく
あんまりWindows付属のかな漢字変換システム(MS-IME)がお馬鹿なのでMS社員に聞いてみたら、日本語入力を中国に開発させてると……。そりゃあお馬鹿にもなるだろ……
- 出版社/メーカー: ジャストシステム
- 発売日: 2008/02/08
- メディア: CD-ROM
- 購入: 4人 クリック: 82回
- この商品を含むブログ (78件) を見る
しかし、日本語入力、かな漢字変換システムというのは、それだけ開発の難しいものなのである。このシステムに数十年取り組んでるジャストシステムのATOKなどよくやってるなと思う。それでもいまだに「なぜかATOKでだけ起きるトラブル」なんてのもある。たぶんマイクロソフトがちゃんと情報を出してなくて、ジャストシステムじゃ触れられない部分で問題が起きたりしてるのだろう。そういった部分を懸命に対応してるジャストシステムさんには頭が下がる思いだ。
またここでもガラパゴス……
日本語が亡びるとき──英語の世紀の中ででは、中国の事例をこう書いている。
科挙試験は、名目上は出自と関係なく受けられ、今の言葉でいえば、「機会の平等」を重んじる。また、一人が合格すれば一族がともに栄耀栄華を極めることができる。しかも、合格者のうち首席三名はことに華やかな将来がそのまま約束される。すなわち、科挙試験とは、競争を熾烈化させるメカニズムを、これでもかこれでもかと内在させたものである。加えて、試験の内容は、儒学を基本とし、古典を暗記したり、規則にしたがって文章を書いたりと、極めて文学的なものである。そのような制度がいかなる結果を生むかは目に見えている。
読書人階級であれば一族からなるべく頭脳明晰な男の子を選び、一族をあげてその子に投資する。中国全土の読書人階級のなかでもことに読み書きに向いた男の子たちが、いざ、科挙試験に受からんと、もの心がついてから、十代、二十代、三十代と一心不乱に勉強をする。そのような状態が百年、二百年のみならず、千年以上続くということは、広域にわたって点在する優秀な人材が、悠久の時のなかで、ことごとく漢文化の奥へ奥へと深々と吸い込まれてしまうということである。それは、優秀な人材が、ことごとく漢文の〈図書館〉に吸い込まれてしまうということである。もし中国の周辺国が科挙制度を導入すればどうなるか。二重言語者の男たち、しかも、ことに頭脳明晰な男たちが、科挙試験に受かろうとしてことごとく漢文の〈図書館〉に吸い込まれてしまうということにほかならない。〈現地語〉での書き言葉が充分に成熟しなかったとしても不思議はない。中国と地続きだった朝鮮と越南は科挙制度を取り入れた。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で(P168〜)
しっかし引用しにくい文章だ……。こんだけまとめてひっぱってこないといかん。
さてこの時代にインターネットがあったらどうなってたろうか。
もちろんインターネットは中国で生まれ、コンピュータは漢字を扱うことを前提に作られていただろう。中華ネットに繋がった周辺諸国は漢文でやりとりし、漢文でその思想も技術も書き残しただろう。「叡智」は漢文で書かれ、漢文で読まれる。「叡智」にふれるためには漢文を学ばねばならない。
実際この時代は日本でも漢文を書いていたし、それは江戸時代まで続いていた事はみなさんご存知の通り。当時の知識人たちは漢文を読み書きしていたと理解してるが、それであってるよね?
しかし日本語は死ななかった。それは漢文を日本語として読む手法を見つけられたという点がきっと大きいのだろう。漢文を読み書きしてたにしても、少なくとも日本語として読めてたわけだ。
ラテン語や漢語のような共通語としての役割は、明らかに英語という一つの言語に吸い込まれつつある。英文が漢文のように訓読できるなら、何も心配はいらなかったのだけれども。
まだヨーロッパの言葉同士は訳しやすいというし、実際似たような環境の地続きで暮らして来たのだから、各国に訳しようが無い概念なんかはたいして無いんじゃないかと思う。
しかし日本語にはまだまだ英訳出来ない概念がたくさんある。中学生の子供に「isは『は』という意味だよ」と言われて頭を抱えてしまった事があるのは俺だけじゃないだろう。英語と日本語を一対一対応させるなんて無理すぎる話だ。
2004年に/.-jのkazekiriさんが日本のOSSをガラパゴス諸島と表現して3年、昨年あたりからこの表現を日本の産業、とくに携帯電話の状況に転用する人がぽつりぽつりと現れた。実際俺もその一人だったりする。
- 作者: 鈴木孝夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1999/07/19
- メディア: 新書
- 購入: 4人 クリック: 50回
- この商品を含むブログ (28件) を見る
前の記事でも紹介した日本人はなぜ英語ができないかという本は、日本の産業の現状をよく冷静に見ている。
うまく引用できる箇所が見当たらないのだが、ようするにこういう事だ。
- 過去、日本が諸外国に学ばねばならない時代は、英語ドイツ語フランス語を読むことは非常に重要だった。英語教育もその点において非常に適切に行われていた。
- だが今は違う。日本は世界でも指折りの先進国へと成長し、今度は日本が諸外国に「発信」する立場になった。
- しかし日本の語学教育は「情報を入手する」ことにはマッチしていても、発信するというところではぜんぜんなっちゃいない。
俺はこの本を読んで「ガラパゴス」という言葉が胸を去来した。ガラパゴス化の原因の一つなんじゃないかこれは、と。
グローバル化というと諸外国にあわせるというイメージを持つ方もいらっしゃるようだけども、そういうことじゃない。日本のものを適切に世界に広めて自分自身がデファクトスタンダードを取るのもグローバル化だ。
モバイル端末では世界最先端を突き進んだ日本がそのグローバル化に失敗し、次代の世界標準を争うのはiPhoneとAndroidとWindowsMobileとBlackBerryなどなどだ。日本は辛うじてGoogle主導のAndroidにDoCoMoやauが参加してるにすぎない。
そりゃDoCoMoだってCHTMLの策定とかがんばった面もあるけど、スタンダードは取れなかった。
いまじゃiPhoneでウェブを見てる外人さんが「やっぱちょっと見にくいねえ」とか言ってるらしい。俺は携帯電話向けのサイトや携帯電話向けに変換するゲートウェイを通してiPhoneで読んでたりする。実に見やすい。ポケットはてななんてちゃんとcookieで認証してくれるからiPhoneユーザーにもオススメ。
ばかばかしすぎないか。日本がもうちょっと発信能力が強くて、うまく交渉も進められたなら、今ごろ日本のモバイルウェブが文字通り世界標準だったかもしれないのに。モバイルの革命は、日本が中心だったかもしれないのに。
DoCoMoやNECの作った日本語の技術仕様書を、英訳されるのを心待ちにする世界中のエンジニア。先んじて仕様書を読める日本のエンジニア。
GIGAZINEのガジェット記事を本家GIZMODOが英訳して紹介するような、もう一つの「あったかもしれない世界」。
あんまりガラパゴスという言葉が流行りすぎて食傷気味の連中が「もうガラパゴスでいいじゃん」とか言い出し始めてるようだけれども、ガラパゴスというのはこういうことなんだ。
日本が経済的にこれからどんどん貧乏になっていくという予測がある。世界第2位の経済大国は、5位や6位に転落してくだろうと。
もし今ごろ日本のモバイルウェブが世界に出ていき、成功をおさめていたら、まだまだ日本は安泰だったろう。日本のハードウェアが世界中で売られ、日本のコンテンツが世界中からリンクされる。そしてお金も落ちて来る。
今日、難しくてめんどくさい日本語環境がそれなりに整備されてるのは、日本がお金持ち国家で環境を整えることに投資価値があるからだろう。
ガラパゴスでいいなんて言ってる場合じゃない。欧米から学ぶ時代も終りを告げようとしている。
世界中で使われる made in japan をこれからも生み出してくために、自分に何ができるか、もっと考えたいと思う。