読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

安全地帯から一方的に殴れるのは「テレビの長所」、ネットの長所は自由と共有

安全地帯から一方的に殴れるのがネットの「長所」だもの。という記事。

言いたいことはよくわかるけれども、むしろこれはテレビによってついた習慣ではないかと思う。ほら、よくいるでしょう、テレビに向かって独り言のように悪態をつくような人。それをネットでそのままやってるだけなんだと思うよ。

だからこそ反論や反撃が来ることに、彼らは違和感を感じる。テレビに向かってぶつくさ言っててなんで反論されなきゃならないの? 画面の向こう側からこっちに手を出して来るなんて卑怯! そういうふうに感じ取れるように、テレビに訓練されて来たんじゃないかな。

多くの人たちは、自分は観客席にいると思っている。そこから野次を飛ばそうが、罵詈雑言を飛ばそうが、演者が舞台から降りて来て殴りかかって来るなんて想像もしていない。

だがネットは違う。The Internet はそもそもが一方通行のメディアじゃない。舞台と観客席の区別が無い。誰もが舞台に立っている。反論も反撃も来るのが当たり前。そこには大人も子供もニートも社会人も関係ない。スポットライトはいつ誰に当たるかわからない。良いことを書けば評価され、悪いことを書けば叩かれる。その評価軸の善し悪しはともかくとして、たいへん平等なメディアなのである。

その平等さが心地よい。それこそが本当の「ネットの長所」なのだ。

安全地帯から一方的に殴りたい人たちは、そもそもネットという場所にはそぐわない。彼らの需要を満たすために活動する業者は絶えないだろうが、法的な整備がそれを押さえこんでいくだろう。2chの時代はいずれ終るのである。

インターネットは自由のメディアだ。だがそれは自分で発信する場所を整備できるからだ。誰かに隠れ蓑を用意してもらって罵詈雑言を飛ばすことが自由ではない。

そして自由とは、必ずしも自分のために行使するものではない。かつて GNU 創始者リチャード・ストールマンは、自分が修正したプリンタドライバを隣人のためにコピーする自由を求めてフリーソフトウェア運動を始めたという。

20世紀、人は自由と平等を実現してきた。フランス革命の標語から取られたのだろうけれども、かの標語にはもう一つの単語がある。「博愛」だ。

人は隣人を助ける義務がある。手元にバグの直ったプリンタドライバがあったら、それを隣人にコピーして助けるのはとても倫理にかなうことだ。いかな著作者とはいえ、その倫理を阻害する権利などあってはならない。

それが博愛というものだろう。

しかし博愛(あるいは友愛)というのは、我々日本人には少しわかりにくいものかもしれない。そこで、共有と読みかえてみたいと思う。

自由と平等と共有。これこそがインターネットがもたらす奇跡であり、長所だ。知識は共有され、今や大学の講義が YouTube で見られるようになった。自由な言論活動は、ブログ論壇とも呼ばれて来た。教授と学生が本気の議論を対等にかわしあい、それを閲覧することも参加することもできる。

これらは共有され、いまも検索エンジンにたずねれば掘りおこすことのできるインターネットの財産となっている。

だから我々は、自由と平等と共有を侵害するものどもと戦わねばならない。テレビに飼い慣らされた観客でいたい人たちや、著作権を悪用して我々が隣人を助けることを阻害する人々たちとだ。

もう一度書く。自由と平等と共有だ。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>