狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

テレワークからノマドワークへ、Third place という「新しい日常」にシフトしよう

コワーキングスペースの写真
コワーキングスペースの写真

インターリンクはオフィスを閉鎖して、単なる在宅ワークではない、ノマドワーク(在宅+WeWork)へ完全移行します という記事。テレワークとかリモートワークとかじゃなく、ノマドワークというところがすばらしい。

ノマドというと一時期詐欺師のような連中が暴れまわったせいでおかしなイメージを持ってる人も少なからずいるだろうが、俺や id:elm200 さんが10年以上前にこれからはノマドノマドだと騒いでいたのは、物理的な場所にとらわれる必要はもうなくなったということをずっと言ってたのである。

逆に言えば10年以上前にはそういう下地がとっくにできてたわけだ。現代の仕事はほとんどがパソコンひとつで完結するのであり、真面目にペーパーレス社会に取り組んでいれば接触8割減なんてそう難しい話ではなかったはずなのである。

さて、上記記事ではコワーキングスペースを活用し、働く場所を在宅でもコワーキングスペースでも好きなところで働いたらいいという形にしている。コストの問題は別としてカフェでも問題はないだろう。特に東京はルノアールという古からのノマドワーカーたちの聖地があり、Wi-Fi も電源もあって快適な作業場だ。ノマドというワードが流行ってた頃、なぜか彼らをくさす言葉として「スタバでドヤ顔」というのが言われてたが、当時の日本のスターバックスは電源もWi-Fiもなく、本物のノマドはスタバにはいなかった。本物のノマドルノアールにいた。

パンデミックなんか発生したせいというのが悲しいところだが、ようやくオフィスに集まることの意味の無さに気づいた人が増えたのはたいへん喜ばしいことだ。

しかし数年前からコワーキングスペースが流行したとはいえ、なぜかコワーキングスペースは都心に作られることが多かった。もちろんそれはそれで重要なのではあろうが、ノマドワークには東京一極集中を解消する力があるはずなのに、それではまったく意味がない。

コワーキングスペースはむしろ住宅街にあるべきなのだ。

コワーキングスペースの機能は働く場所というだけではない。Third place という思想がある。

サード・プレイスとは、コミュニティにおいて、自宅や職場とは隔離された、心地のよい第3の居場所を指す。サード・プレイスの例としては、カフェ、クラブ、公園などである。アメリカの社会学者、レイ・オルデンバーグはその著書『ザ・グレート・グッド・プレイス』(The Great Good Place)で、市民社会、民主主義、市民参加、ある場所への特別な思いを確立するのに重要だと論じている。

サード・プレイス - Wikipedia

コワーキングスペースはまさに Third place だ。知らない人もいるようだが、スターバックスなどもこうしたサードプレイス思想の影響のもとに作られている。

私たちは、誰もが歓迎される温もりと帰属意識のある文化の創造に努めています。この方針は、私たちのミッションである "人間の精神を鼓舞し、育む──ひとりのお客様、一杯のコーヒー、そしてひとつのコミュニティから" に沿って、サードプレイスの環境を維持することを目的としています。 (機械翻訳+筆者による修正)

Use of the Third Place Policy

書籍もいろいろ出てるので興味のある人は手にとってもらいたい。

サードプレイスは仕事をするだけの場ではない。家庭でも勤め先でもないコミュニティであり、どちらでも難しい自己実現の場でもある。コワーキングスペースは例えば家においておけない趣味がおかれててもぜんぜん不思議ではない。

そういう場は住宅街にあるべきだ。できれば住宅地の駅前にあるとよい。地元の駅前のカフェ、そこで議論したり仕事をしたり趣味に興じたりする人々、そういう風景こそがサードプレイスであり、コワーキングスペースのあるべき姿だ。

そう、ちょっと思い出してみるといい。そうした風景は日本に元々ある。そう、公民館だ。公民館では各部屋に別れて、様々な活動をしてる人々がいる。音楽をしてる人もゲームをしてる人もいる。そこに「仕事をする人」が加わるのだ。

だからこれは東京一極集中解消という名目で、公民館の一種として国が作っていくべきであろう。私的なコワーキングスペースにも補助金を出していくべきだ。なんなら鉄道会社が通勤減の売上の補填として経営してもいい。人々が通勤をしない、ノマドワークがあたりまえになり、東京一極集中が解消され、満員電車も過去のものとなる。そんな「新しい日常」を我々は作っていくべきだ。

コワーキングスペースは、図書館とカフェが併設されたような場でもいい。人々がゆったりと自分の興味に興じられればそれでいいのである。ただそこには、電源とWi-Fiが必要になる。椅子も座り心地の悪いものではなく、長く座っていられるものがいい。イメージとしては図書館の自習室を思い浮かべてもいい。

我々は公民館の一種としてのコワーキングスペースで仕事をし、ときどき人に会ったり現物を確認するために都心へ行く。

そんな「新しい日常」を作るためにも、国や行政には意識を変えてもらいたい。サードプレイス思想を持った、新しい公民館を官民協力して作っていくのだと。

ノマドワークの時代が始まるのではない、始めていくのだ。

思い出せ、人類は風邪予防すらまともにできていなかったことを

9年くらい前に1000年に一度の大震災を目の当たりにしたはずなのだが、今度は100年に1度のパンデミックなんてものを目の当たりにするとは、なかなかすごい時代に生まれてしまったものだと思う。こんなときだから人々がいろいろと語りたくなる気持ちはわかるのだけれども、素っ頓狂な「アフターコロナ論」を言い出す人々にはずいぶんともやもやしたものを感じてしまう。

もやもやするのはそんな論者たちばかりでもない。専門家会議の出した「新しい生活様式」というものにもたいへんもやもやするものがある。距離を取れ、食べながらしゃべるな、そんなこと専門家が指示するようなことだろうか。

そもそも SARS-CoV-2 、新型コロナウイルスはそんなに特別なものだろうか。

確かに誰もまだ免疫を持ってない新しいウイルスだし、変異したばかりで毒性も高い。そりゃあ感染も広まりやすいだろう。だがよくよく考えて欲しい。よくよく思い出して欲しい。

これは風邪の一種だということを。

そしてもともと風邪はこじらせたら死ぬ病気だということを。

その日、人類は思い出した。ヤツらに支配されていた恐怖を……

進撃の巨人(1) (週刊少年マガジンコミックス)

風邪は万病の元ともいう。風邪の9割はウイルス感染症だ。治療法はない。寝てればだいたいは治る。だがこじらせれば重症化することも死ぬこともある。だからこそ風邪予防をずっとずっと呼びかけられてきたのではないか。

そして新型コロナウイルスへの個人でできる対策はぜんぶ今までずっと言われてきたただの「風邪予防」だ。

手洗い、うがい、水分補給、栄養、睡眠、リラックス、保温、保湿の8つが対策としてあげられている。

そして重要なのは「風邪を引いてしまったら」の項目だ

もしも「かぜ」や「インフルエンザ」にかかってしまったら、他の人にうつさないエチケットを心がけてください。

  • せきやくしゃみはハンカチや手で口と鼻をしっかり覆って飛沫をブロック
  • マスクで飛沫の拡散を防止しましょう(特に「インフルエンザ」)
  • 手をよく洗い・乾燥させて、接触感染を防ぎましょう(菌やウイルスは乾燥に弱い)
  • 「かぜ」をひいた人が使った食器類はきちんと洗いましょう(接触感染を防ぐ)

無理をして出社や登校せずに、医師の診断と治療を受け、安静にして早く治しましょう

2-8. 「かぜ症候群」は予防が一番です! | 日本BD

結局これも SARS-CoV-2 対策となにも変わらないではないか。

ようは人類は風邪をナメてたのだ。SARS-CoV-2 ウイルスによる感染症 COVID-19 が流行し始めてから、明らかにインフルエンザ感染は減っているという。いままで手洗い1つ十分になされていなかったということだ。

風邪をひいていても解熱剤などで症状を抑えて出勤・登校する人々を、我々は知っているはずだ。トイレの後、帰宅時の手洗いをしない子供も、帰宅後に部屋着に着替えない人たちもだ。どれもこれも外でついたウイルスを家の中に蔓延させてしまう行為だというのに。

満員電車だってそうだ。喋らないからマシかもしれないが、あんな密着した状態で感染症が広まらないわけがない。そうでなくても激しいストレスにより免疫力は低下する。あんなものを許容してた事自体がおかしいのである。

三密? 行動様式? それ以前の問題じゃないですか?

少なくとも手洗いを真面目にやり、満員電車になど乗らず、発熱があったらきちんと休む。ただそれだけのことができていれば、パンデミックになんかならなかったんじゃないんですか?

食事のマナーだってそうだ。食べる前に手洗いをする、飲み込んでからしゃべる。噛んでる間は口を開かない。それができるだけでずいぶん違ったのではないのか。

ウイルスだって少量入り込んだくらいで感染症を引き起こしたりはしない。免疫機構がすぐに退治してしまうからだ。免疫機構の能力を超えたウイルス量を曝露するから感染する。

いままで言われてきた風邪対策をまずは徹底して普及させることが先決なのではないのか。

「変わってしまう」ではなく「変えていく」ために

人類は愚かだ。世界は決定的に変わってしまったみたいなアフターコロナ論に俺は与しない。人々は恐怖を忘れ、また同じような生活に戻ってしまうだろう。

そうはさせない。させてはいけないのである。

特に日本においては、ろくに手がついてなかった満員電車を解消する絶好のチャンスである。

リモートワークだってやればできることが証明された。あとは自宅で作業するのは厳しいことも多いから、各地の住宅街の駅近くにでもどんどんコワーキングスペースを作っていくべきだ。企業共同で作ってもいいし、国は補助金を出すべきだ。出社するのはミーティングの時間でいい。

でかけなければできない作業をどんどんオンライン化していくべきだ。まずは行政手続き、役所の窓口業務をぜんぶオンライン化すべきだ。物理的な窓口はオンライン手続きのサポート会場としての役割以外を排除すべきだ。電子政府化を真面目にやらなければならない。

東京一極集中を解消すべきだ。過密都市東京は、ちょっと高級な内装のレストランであっても他のテーブルと距離が近すぎると思っていた。妙に狭っ苦しく感じるのである。仕切りや膜を張るような対策は一時的なものだろう。オフィスにしても極端に狭いところに詰め込まれるといった話も聞く。オフィスにしてもレストランにしても、換気基準と面積あたりの席数の基準を改め規制をすべきだ。

発熱した労働者も給料が減るのでは休めない。出社してきてウイルスをばらまかれたら他の労働者たちにも感染が広がる。だからいわゆる sick leave 、傷病用の有給休暇を別途設定することを義務付けるべきだ。

これらは COVID-19 対策などではない。一般的な感染症を、風邪を予防するために必要なことだ。今までもやっておかなければいけなかったはずのことなのである。

風邪が予防できずに新型コロナウイルスが予防できるわけないだろ!?

もし本当に「世界は決定的に変わってしまった」というのなら、今までのビジネスは成立しなくなる。廃業者も主に飲食店などを中心に大量に出てくるだろう。ならば起業支援を今まで以上にどんどんやらなければ雇用は減り続ける一方だ。新しいビジネスのチャンスでもあると考えるしかない。

まじめに風邪予防をやれ、起業支援をしろ。

新しい行動様式だのアフターコロナうんたらだのは、そのあとの話であると俺は考えるのである。

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東京オリンピックまで147日だったので「AKIRA」を見てみた

実は未見だったのだが、80年代アニメ映画の金字塔「AKIRA」を見てみた。東京オリンピックまでちょうど147日だったのでいい機会かなと思って。

$ ruby -rdate -e "puts Date.parse('2020-07-24') - 147"
2020-02-28

さすがにもう30年以上昔のアニメでたいへん古いのだが、それでも作画はとても美しく、4Kリマスター版を見てみたくなる出来栄えだった。

しかし80年代後半というあの時代の、いわゆる今で言う左派的な世界観が凝縮された映画でもあるなと思った。

大衆のデモで投げられる可燃物と思しきものの煙など、あれは学生運動の時代の風景なのであろう。いまも禍根を残しがちな「科学では解明できない」「人間が取り扱うには大きすぎる力」など、現代でやれば失笑ものであろう。

かつて第二次世界大戦終結したころ、人々の間では「モダンに対する不信感」が募っていたらしい。モダン──近代的であること、科学的であること、合理的であること、そうしたものは結局のところ人を不幸にするのではないか。人間という小さな器では理解できない大きな存在があるのではないか、合理的なモダン建築はただただ冷たいだけではないか。合理性の行き着く先がナチスであり、原爆だったのではないか。

そうした思いはアニメの世界にも入り込むものがあり、「機動戦士ガンダム」で描かれた宇宙移民という合理性を超える力をジオン公国という形で見せつけた。科学が解明できない大きな力として、人類の革新「ニュータイプ」という存在が配置された。

AKIRA」でもそうしたものは存分に描かれる。「科学では解明できない力」に目覚め、飲み込まれていく鉄雄。それに対抗するのは合理性とはかけ離れた不良少年金田。この作品でも「科学者」という存在は「好奇心に負けて愚かな研究に手を出す」という存在に描かれる。あの時代は、そういう合理性や科学への不信が募っていた時代だったなあと、いささかの郷愁を覚えながら121分を楽しんだ。

いまならわかる。モダンであること、科学的であること、合理的であること、それらは人間を不幸にするわけではないのだと。

合理的で画一的なモダン建築は、いま思えば風景が人間に与える心理的影響が考慮されてなかった。正しく合理的に運用され適切にリプレース計画が実施された原子力が人間を不幸にしたことなどなかった。不幸を生み出したものは、モダンさが足りてなかった。合理的でも科学的でもまったくなかった。我々はいまだにウイルスに感染していても出勤を命じられ満員電車に乗りウイルスを撒き散らすくらいには、非合理的で非科学的で、まったく前近代的な生活をしている。

モダンの徹底なきポストモダンはないと宮台真司は言った。

我々は近代主義に立ち返る必要がある。あの頃のただただ伝統的なものを否定するだけの近代主義ではなく、人間心理も合理的に捉えた新しい近代主義を始める必要がある。伝統には伝統の合理性を、いまの我々は見出すことができるはずだ。

AKIRA」というモダン不信の時代に描かれた物語を見て、その思いを新たにしたのである。

大事なことはみんな e-sports に教わった

香川県はゲームよりも「うどん依存」を規制せよ という記事。昨今話題の香川県議らによる超党派のゲームやインターネット規制についての痛烈な皮肉で、まったくそのとおりであるとしか言いようがない記事だった。

すっかり知のインフラとなったインターネットを子供たちから取り上げることが、情報の少ない地方でどれほどのハンディキャップになるか、ろくに考えてないのは褒められたものではない。

それにゲームがどれほどの意味を持つかもわからないようだ。

子供たちに人気のある Minecraft というゲームは、ブロックを組み上げて回路を作って自動化するようなこともできる。また mod_python を入れることでブロックの組み上げ操作をプログラミングで実現することもできる。

はっきり言って教師がプログラミングなんかを教えるより、子供たちに自由に Minecraft で遊ばせておいたほうがよぽどプログラミングが学べるはずだ。

Minecraftで楽しく学べる Pythonプログラミング

Minecraftで楽しく学べる Pythonプログラミング

また Raspberry Pi 用の Rasbian という OS には最初から mod_python の入った無料版の Minecraft Pi が付いている。テレビにつなげてすぐさま Minecraft が遊べてプログラミングが学べる。

子供たちに一人1台のコンピュータを与えるというのならこれと安いモニタで十分じゃなかろうか。ゲームを遊んだり改造したりはプログラミングの入り口として最良であることは、マイコン世代のプログラマたちの経験からも確かであろう。

e-sports が教えてくれること

さて、ここ2〜3年ほどは Rocket League という e-sports をやっている。まだ800時間ほどしかやってないのでようやく中級者と言えるレベルになってきたかなあという感じなのだが、ここまででも学びの多いスポーツだなという思いがある。


RLCS League Play Promotion Tournament - Cloud9 vs G2 Esports

上記の動画を見ればわかるとおり、3 on 3 のラジコンカーでやるサッカーである。チームスポーツというのはよくよく考えてみるとちゃんとやるのは初めてなのだが、実に学びが多い。

仲間の士気をさげないこと

もちろん技術の差が大きければひとりでもなんとかなるのだが、似たような技術レベルの人たちがマッチングされるためにそんな大きな差がうまれることはほぼありえない。

ボールをひとりで敵陣まで運んだところで、センタリングまではできてもゴールまで入れられることは稀だ。味方が適切なポジションにいてくれないとどうしようもない。

またボールは車より速く飛ぶこともあるので、がんばって自陣まで戻ったところで敵のシュートをブロックする位置までたどり着けないことも多い。ディフェンスをしっかりやってくれる仲間がやはり必要だ。

こういうゲームなので、味方の士気はけっこう重要だ。あんまり上手じゃないやつに限ってチャットで味方をなじったりしている。そうすると士気がさがり、勝てるゲームも勝てなくなる。

全員が最後までがんばろうという意志があれば、逆転のチャンスだってある。

最後まで決して諦めないこと

ボールがゴールに入るかどうかに時間は関係ない。ほんの1〜2秒で入ってしまうことだってある。5分間のゲームだが、最後の40秒ちょいくらいで3点差をひっくり返したこともある。2点差をつけられたらそうそうに諦めるような人も多いのだが、もったいないことだ。最後まで自分たちの勝利を信じて戦い抜くことで、本当に逆転できることは少なからずあるのだ。

強い人と戦うことで自分も強くなる

最後まで諦めないことの重要性はもう一つある。決してかなわないような強い相手とのゲームも、必死で対応し続けていると自分たちのレベルが上っていくのだ。その試合は負けてしまっても、次の試合では相手の動きがゆっくりに見えて余裕で勝ててしまうこともけっこうある。そうやって少しずつ、自分たちのレベルも上がっていく。

自分の限界を自分で決めないこと

プロの動画を見てると、とてもじゃないができないような動きをしていることが多い。そんなプレイはただやってるだけでは身につかない。意識して上手な人たちのプレイを真似することで、自分自身の限界が上がっていく。

「ここまでしかできない」という思いが、自分自身の可能性を狭めてしまってるのだ。それに気づいたのは、やはりプロの動画を見たあとのプレイが変わることを何度も経験したからだ。

この距離でジャンプしてもボールには届かないと思っていたら、プロは余裕で届いてたりする。届くものなんだという思いがあれば、そこに果敢にチャレンジしていける。そうすることでやはり技術が上がっていくのだ。

仲間を信頼することの意味

仲間を信頼するということばの意味は、自分が手抜きしてもいいということではない。「あいつならディフェンスを任せておいても大丈夫だ」という信頼で自分は遠くのブーストを取りに行くなんてことはしてはいけない(しないといけないときもあるけど)。誰にだって必ずミスはある。それに備えてフォローできる位置まで急いで駆けつけるのだ。

むしろそういう「あいつならちゃんとフォローできる位置まで駆けつけてきてくれている」という信頼こそがミスを減らしてくれる。敵のチャンスを潰し、自分たちのチャンスを作る要素になる。これが「仲間を信頼する」ということなのだ。

頑張れば必ずうまくなる

一緒にやってる仲間は、俺が始めるまで空中でボールを捉えるなんてことは一生できないと思っていたという。俺が空中の練習をやり始めたことで自分にもできるように思えてきたらしい。練習はとても大事。いろんな練習をすることでプレイの幅が広がり、対応できるボールも増えていく。

それは決して無理なことではなく、チャレンジし続けていれば必ずできるようになるのだ。

体力はとても大事

体を動かさない e-sports だが、それでも体力は大事だ。5分間の試合とは言え、5試合も6試合もやってると集中力がだんだん落ちてくる。感覚もズレてくる。当てられたはずのボールに当てられなくなる。

こういう集中力を支えるのは体力だ。Rocket League の試合を戦い抜く集中力をつけるために、走り込みや筋トレも始めた。どこまで続けられるかわからないが、少しずつでも体力を付ける努力は続けていきたい。最後まで全力で戦える力をつけるために。

Rocket League (Official Game Soundtrack)

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  • 発売日: 2017/11/30
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だいじなのは学びをサポートすること

子供の成長に大切なのは、子供の夢中になってるものを取り上げることではない。そこから子供たちが何かを学べるように、サポートしていくことが大事だ。

ゲームをやらせないことなんかより、無能な味方を非難して士気を下げるような子供たちをちゃんと叱ることのほうがずっと大事なのだ。これができてる教員はそうそう多くない。

子供たちに必要なのは、適切な成功体験と適切な失敗体験だ。e-sports は、ゲームはそれを教えてくれる。失敗しても信頼する仲間がフォローしてくれることも、仲間をサポートする喜びも、努力がきちんと報われることも、みんなみんなゲームが教えてくれる。

そういう学びをサポートできる大人でありたいものである。

社会学者とキレンジャーの錯誤

小宮友根准教授の記事に非難轟々。「初手から飛躍した議論」「ジェンダーフェミニズムの屁理屈は本当に害悪」「根本的に誤り」 - Togetter というまとめ。炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか(小宮 友根,ふくろ) | 現代ビジネス | 講談社(1/9) という記事へのお怒りの言葉が集められている。

当該記事に対しては先日ここでも紹介したヌスバウムによる性的モノ化の基準を持ち出してきたところは称賛したい。実のところこのヌスバウムの基準にあてはめればこれまで放火されてきたキャラクターや宣伝のほとんどは性的モノ化にすら該当しないことがわかるだろう。

さて非難の集まってる当該記事に関しては、対話を呼びかける言葉とは裏腹にいわゆる「オタク」層に対する差別と偏見を扇動してる側面がある。それをここで説明していこう。

まずわかりやすいのはコレだ。

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社会学者の考えるゲームにおける男女の描き方

炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか(小宮 友根,ふくろ) | 現代ビジネス | 講談社(1/9)

男性キャラはしっかり防具をつけ、女性は無防備に無意味な露出をしているという図。多くの人々が「あーあるある、ありがちだよねえ」と思うかもしれない。

本当にそうだろうか。

実際にこのような「鎧を着込んだ男性」と「ビキニアーマーのような露出の高い女性」をキャラクター選択画面で提示されるゲームのタイトルを1つでも2つでも挙げられる人はいるだろうか。少なくとも俺には思い当たらない。せいぜい80年代のドラゴンクエスト3の戦士キャラくらいのものである。そのドラゴンクエストでも最新作である11では8人の主要人物のうちマルティナとカミュという男女2人が露出高い担当であり、やはり男女の偏りはない。マルティナの露出に関しては以前に書いたこともあるのでそちらも参照して欲しい。

だいたいいまどきのゲームは初期装備はシャツとパンツがあるくらいで、いきなり立派な鎧を与えられてスタートするゲームなんて普通はないものだ。

記事中でも言及されているビキニアーマーは古典どころか当時から「防御力はどこにあるのか」といったツッコミが多数あり、80年代中にはもはやネタ的なものでしかなかったはずだ。1992年に発行された「スレイヤーズすぺしゃる ナーガの冒険」ではビキニアーマーを着た白蛇のナーガという人物の時代錯誤というか狂乱っぷりが笑いたっぷりに描かれている。

とっくに廃れた描写のはずなのである。

キレンジャーの錯誤

ソフビ魂シリーズ キレンジャー

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  • 発売日: 2004/09/24
  • メディア: おもちゃ&ホビー

キレンジャーの錯誤」という概念がある。戦隊モノのイエローはカレーが大好きで太めであるというのが「定番」であるというように、実際にはほとんど存在しない事例を「定番」や「お約束」と理解してしまう錯誤のことだ。実際にはカレー好きのイエローというのは初代キレンジャーだけのはずで、2代目のキレンジャーにはカレーの描写はおそらくなかったはずである。それ以降の戦隊モノでもカレー好きのイエローがいた記憶はない。小林亜星演じるバルパンサーの父親がカレーにうるさかったくらいではなかろうか。

ちなみに初代キレンジャーのカレー好きはすさまじく、1話で「カレーを4つくだされ」と注文し「うちのカレーは大盛りだ、2つにしときな」「いいや4つお頼みもうす」というようなやりとりがある。これは映画ブレードランナーの「2つで十分ですよ」「No four, two two four」というやり取りの元ネタなのではないか、という説もある。

ブレードランナー ファイナル・カット(字幕版)

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  • 発売日: 2015/03/15
  • メディア: Prime Video

こうしたキレンジャーの錯誤として有名な事例に、食パン少女というものもある。食パンをくわえて「遅刻、遅刻」と慌てて家を飛び出るという少女漫画の「定番」の表現だ。

いまは web archive にしかない 遅刻する食パン少女まとめ という記事に詳しいが、実際にはこのような少女漫画は存在しなかったようだ。なぜか我々人類は数少ない事例しかないものや見たこともない表現を「定番」だとか「ありきたり」だとか認識してしまう能力があるというわけだ。

こうした能力はおそらく偏見や差別心の形成に多大な影響を与えている。「オタクが好む作品は女がモノとして扱われてる」なんてのはまさしくそうしたキレンジャーの錯誤からの差別心の形成であろう。

「明白かつ現在の危険」のあったオタク差別

「オタク」(おたく)は、差別目的語であった - Togetter という記事で引用されてる当時の空気感を伝える漫画群、いわゆるオタクという属性に「明白かつ現在の危険」が存在したことを指し示している。いわゆるヘイトスピーチにおけるブランデンバーグ基準をおそらくは満たした状態で、テレビや新聞などのマスメディア、ひどいときは学術論文の場ですら偏見を垂れ流され、差別を扇動されてきた。なかには「オタク狩り」と称して買い物に街にでかけたオタクを狙った強盗、大阪日本橋秋葉原を中心にずいぶん発生していたようだ。

そうした状況がマシになってきたのはせいぜいこの10年程度のことであり、それも不景気によってオタクくらいしか消費を続ける人たちがいなくなってしまったので扱いが良くなったというだけである。

ろくに事例もないようなものを「ありきたりの表現」であるかのように作例し、意図したかしないかはともかくオタクやオタク文化への差別を蘇らせるある種の扇動として小宮准教授の記事は存在している。だからこそ多くの非難があつまるのである。

ちなみに国産ゲームとしては昨年1200億円を売り上げ、現在はほぼサブカルチャーとしてはメインストリームといえる Fate/Grand Order における代表的なキャラクターはこんな感じである。

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FGOにおける代表的な男女のキャラクター

元はポルノゲームのメインキャラクターでもこんな感じなのである。「無意味な露出」は男女ともに存在したりしなかったりしていて決して偏ってるということはない。いわゆる体型が服の上から明確にわかる「乳袋」に関しても、服の上から腹筋のシックスパックが見える男性キャラクターなんてのもゴロゴロしている。そこに男女の偏りがあるようには見えない。

女性キャラの露出に関しては性的モノ化からの批判よりも 「闇落ちヒロインがエロくなる」問題の差別性 から批判するほうがフェミニズムとしては筋が良いのではなかろうか。これももはや廃れつつあるが。

「顔のない女」という事例の存在しないものの例示

小宮准教授の記事がたいへん悪質だなと思うのは他にもある。

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存在しない「顔のない女」という例示の図

炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか(小宮 友根,ふくろ) | 現代ビジネス | 講談社(1/9)

このような顔を消されたキャラクターが描かれた事例が、この数年間の炎上であったことはない。みなきちんと顔が描かれてきたし、乳首が浮き出てるような凹凸があったものも一つもない。肌にツヤを書くことや関節にハイライトが入ることによる性的部位の強調などという主張にいたってはまったく意味不明である。最近のこうした絵はほとんどコンピュータ彩色であり、この歴史は非常に浅い。個人の持てるコンピュータで印刷に耐えられる絵が描けるようになったのもこの20年程度のことであり、1000年近い歴史のある油絵具や、紀元前から存在すると言われる水彩に比べ、表現がまだまだ多様化してるとは言い難い面はある。それにしても性的部位の強調というにはあまりにも強引すぎやしまいか。

他にも性的なメタファーとして「髪をかきあげるしぐさ」があげられてたのは他の方からもツッコミが入っていた。

棒アイスやバナナを性的なメタファーとして利用してたのは昨今の絵ではなく、80年代のアイドル写真集である。確か榊原郁恵だったと思うが、いつぞやのテレビ番組において、写真集の撮影で棒アイスやバナナをなぜか目を閉じてくわえさせれたことに大変怒っているのを見かけたことがある。同意してた同時代のアイドルたちがいた覚えもあるので、おそらくは実際にありがちだったのであろう。何も知らない少女に黙ってそういうポーズを取らせたのだからその怒りはまさしく正当なものであるし、なんなら一緒に非難しにいってもいい。だがそうしたものをなぜかゲームやアニメの定番であるかのように「キレンジャーの錯誤」をするのであればこちらも怒らざるを得ない。それは先述の通り苛烈なオタク差別の歴史を蘇らせるものだからだ。

対話をするなら差別を扇動してはいけない

記事の最後に議論の出発点に立ったなどとして対話を呼びかけているが、それならばまずはこれまで説明してきたような差別扇動をやめるところから始めてもらいたい。自覚はないのだろうが、まるでありもしない在日特権を非難しながら対話による解決を呼びかけるネトウヨのようではないか。よもやこんなことが俺がヘイトスピーチを学んだ本の共訳者のひとりから向けられるとは思いもよらなかった。非常に残念である。

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

ちなみに Twitter でも端的にこうした誤認を指摘するのに画像を引用したのだが、権利者削除になったようだ。正当な引用であり記事への批判として必要なものだったはずなのだが。この記事で引用してる画像も必要かつ正当な引用であると認識している。

アキバ中央通りの18禁ゲーム看板はなぜ問題なのかを真面目に考える

秋葉原に巨大なアダルトゲーム広告が登場 「子どもに有害」と批判の一方、表現の自由指摘する声もという記事。問題の看板は、当事者がツイッターで写真を上げてるので参考に見てみよう。

さてこの看板、普段なら表現の自由を叫ぶような人たちまでもが割と批判的になったり、沈黙してしまったりしているようだ。18禁ポルノゲームの看板であり、法律に合わせて修正されているので、おそらくは東京都の広告審査も問題なく通ってしまったのだろう。

多くの人々が「これはダメだ」と思うような表現というのはある。多くの人々がダメだと思うような表現だからこそ人権である「表現の自由」で守る必要がある。だがその表現の自由という人権を制約してでも止めなくてはいけない表現というのも、実際のところ存在はしている。

わかりやすい例がヘイトスピーチだ。ヘイトスピーチは「キモくて金のないおっさん」同様、そのままの語義だけ見てしまうと伝わらない言葉だ。そのまま読めば「憎悪表現」程度の意味合いとなり、ただの悪口とすら解釈されてしまう。

厳密な意味でのヘイトスピーチは、「明白かつ現在の危険」がある状況における加害煽動表現のことだ。ルワンダ虐殺はとてもわかりやすいサンプルだ。


千の丘自由ラジオのヘイトスピーチ Hate-speech excerpt from RTLM - Radio Télévision Libre des Mille Collines (1994)

ツチ族をゴキブリと呼び、駆除を呼びかけるこの放送は、実際に50〜100万人が殺される事態を引き起こした直接の原因である。

背景にはツチ族とフチ族の長い対立があり、大統領暗殺の犯人を巡ってお互いがお互いを非難し合ってたなど、火薬庫のような状態が続いてたことがある。こういう状況で上のような放送を行うと強烈な加害煽動メッセージとなり、本当に虐殺が発生してしまうわけだ。

欧州では反ユダヤ的言説をヘイトスピーチとして取り締まっているようだが、どうもこれも反ユダヤ言説がそのまま加害煽動になる火薬庫を抱えたヨーロッパの事情があるようだ。


10 Hours of Walking in Paris as a Jew

この動画を見ると、パリでキッパ(ユダヤの帽子)をかぶって歩いてるだけで変な男たちが寄ってきてめんどうなことになるのがよくわかる。こういう状況が「明白かつ現在の危険」と認識されてるということのようだ。

つまるところヘイトスピーチ規制は表現の自由という人権を部分的に侵害することになるため、慎重にその範囲を限定されている、というわけだ。なんでもかんでも禁止してるわけではない。

おそらく日本でもいわゆる在特会在日特権を許さない市民の会による暴力性の高いデモが起きなければ、ヘイトスピーチ解消法が成立することはなかっただろう。「明白かつ現在の危険」があるからこそ成立した法律というわけだ*1

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

このように、ごく限られた危機的状況に対応するために、表現の自由は制約されることがある。もっとも何を勘違いしたのかこれを拡大解釈しようという動きが地方自治体などでも起きていて、たいへん危険な状況になりつつあるのだが、その話はまた別の機会に。

さて、冒頭の話に戻ろう。秋葉原中央通り沿いのトレーダー3号店に設置された、「みるくふぁくとりー」というテックアーツ社のポルノゲームブランドの巨大広告の話である。同社の別ブランドSQUEEZの後継ブランドであり、SQUEEZ時代から続く「炎の孕ませ転校生」シリーズ最新作の広告だ。今回で12作目となる長期シリーズのようだ。

この広告は現行の日本の法律にはとくに抵触してないと思われる。日本での刑法175条で禁止される「わいせつ物」とは、警察がそのわいせつ性を恣意的に判断できるようになっている。最近でも春画を猥褻物から外したようで、春画の展示会なども取り締まられることはなくなったようだ。警察が猥褻と判断してるのは性器描写であるため、男女の向かい合う姿よりは性器が挿入された状態のほうが性器そのものが見えないので取り締まられにくいのだとか。今回の広告も性器描写はないため、警察の考える「わいせつ物」には該当しないということになる。

条例はどうか。東京都では東京都青少年健全育成審議会を起き、いわゆる有害図書指定を行っている。有害図書指定を受けると未成年の販売が禁じられ、陳列もゾーニングされた空間にしなくてはならなくなる。最近では女性向けのいわゆるボーイズラブ作品に対する有害指定が相次ぎ、18禁コーナーには入りにくい女性らの手に作品が届かなくなりつつある。しかしこれも本やゲームなどのコンテンツが対象であり、広告の規制にはならないようだ。

つまるところ法的にはなんら問題のない状況なのである。

にもかかわらず多くの人々が「この広告はダメだ」と感じている。それはなぜなのか。そうした人々の倫理観を明確にしていく倫理学という学問がある。

「性的モノ化」という概念はヘイトスピーチ同様ガバガバに定義を拡大して乱用されることの多い言葉だし、提唱してきた人たちもよくわかってないんじゃないかとすら思うのだが、ヌスバウムという人物が割と明確な「性的モノ化」の概念を提唱しているのを以下の論文で知った。

ci.nii.ac.jp

「性的モノ化と性の倫理学」と題されたこの論文からヌスバウムの箇所を引用してみよう。

以上のようなカントの議論とラディカルフェミニストのモノ化批判の間には密接な関係があ る。マーサ・ヌスバウムは“Objectification”(「モノ化」)という非常に優れた論文で、カント とラディカルフェミニストの両者の洞察に由来する説得的な議論を提示している(Nussbaum, 2002)。これは非常に興味深い議論なので若干細かく見てみたい。 典型的にはひと(person)のように、モノではないものをモノとして扱うのが「モノ化」である。ヌスバウムによれば、性的モノ化という概念は曖昧なだけでなく、実は根本的に集合的 な概念であり、これがポルノや買春を扱ったフェミニストの議論に混乱を引きおこしている。 彼女によれば、モノでないものをモノとしてとりあつかう(treating as an object)には少なく とも七つの意味がある。

  1. 道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
  2. 自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持 つことを否定する。
  3. 不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
  4. 代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
  5. 毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundary-integrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
  6. 所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
  7. 主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。

すべての「モノ」が上の特徴のすべてをそなえているわけではない。たとえば、たしかにたいていのモノは自律的でなく、また、その主観的経験を(道徳的に)配慮する必要はないかも しれない。また、すべてのモノをなんらかの道具として使うことができるかどうかは明確では ない。また、美術品(たとえばモネの絵画作品)のように、モノであっても、かけがえないの ないモノであり代替不可能で、毀損すべきでないモノもある。コンピュータのように、モノで はあるが、一定の意味では自発的活動性を有すると認められるモノもある。また、モノは誰か によって所有されることが多いが、富士山や月のように、通常の意味では所有されえないモノ もある。つまり、この七つの意味はそれぞれ論理的には独立の概念内容であると考えられる。 したがって、このさまざまな意味のどれが「モノ化」が倫理的に問題を含んでいると言われる 意味なのかを分析する必要がある。

CiNii 論文 -  性的モノ化と性の倫理学

この7つ項目に従って、トレーダー3号店のみるくふぁくとりー広告を見てみよう。

  1. 道具性

「おっぱいハーレムをゲット」という物をコレクションするかのようなコピーに道具性が現れている。

2 .自律性の否定

「孕ませ」というある種の強制性が自律性や自己決定能力を否定していると言える

3 .不活性

やはり「孕ませ」や「ゲット」といったワードに能動性の否定が見える。

4 .代替可能性

幾人もの似たような体型の人物が描かれており、またこれらをコレクション的に取り扱う文言があるため、代替可能性を示していると言える。

5 .毀損許容性

こちらも「孕ませ」というワードから毀損許容性を示していると言える。

6 .所有可能性

これもコレクション的に取り扱う文言があるため、所有可能性を示していると言える。

7 .主観の否定

顔を塗りつぶされてるというわけでもないので、こちらは該当しないと思われる。

このように見ていくと、かの広告は絵が性的だとかそういうことではなく、広告に載せられたコピーや作品タイトルに「性的モノ化」が潜んでいることがわかる。このあたりが多くの人々に非倫理性を感じさせる要因なのであろう。

もちろん性的モノ化されたポルノが存在することが悪いわけではない。だが広告としてどうか、というのは別の話である。

さらにいえば「性的モノ化」が悪いことなのか、という問題がある。

たとえば上記のようなアートはどうか。人間をモノ化し能動性や自律性を否定してはいないか。代替可能性を示してはいないか。そのような表象を広告に使ってはいけないのか。

もちろんそんなことはないのである。論文「性的モノ化と性の倫理学」ではヌスバウムも「チャタレイ夫人の恋人」を挙げ、「すばらしい性的モノ化」と評してることが記述されている。

では非倫理的な「性的モノ化」とはなにか。同論文では雑誌「プレイボーイ」を例にあげている。

ヌスバウムが典型的な『プレイボーイ』的女性描写と見るのは次のようなものである。

女優のニコレット・シェルダンがテニスをしている写真。スカートがまくれあがり、黒いパンティが見えている。「オレたちがテニスが好きな理由」というキャプション。

『プレイボーイ』の視点は、女性をその人格・出自・内面性から切りはなし、快楽のための 手段としてのみ扱っており、道徳的に問題のある「モノ化」の典型である。このような写真や キャプションは、「この女がどんな女で、なにをしていようとも、性的な快楽の対象なのだ」 というメッセージを伝えているという。

CiNii 論文 -  性的モノ化と性の倫理学

こうした道徳的問題を抱える「性的モノ化」とそうではない「性的モノ化」をどのように峻別したらよいのであろうか。

ヘイトスピーチの議論を思い出そう。「明白かつ現在の危険」があるなら表現の自由は限定的に制約され得る。もし女性が街を歩くのに男性保護者が必要なほどいつもいつも危険にさらされているなら、それは「明白かつ現在の危険」になり得るということだ。そこにある種の「性的モノ化」がヘイトスピーチのような加害煽動として機能する可能性は十分にあるだろう。

アメリカの強制性交は日本の強制わいせつの10倍もの発生率がある。これは定義を広げてるせいもあるが、旧定義でも7倍程度はある。暗数調査でも日本は比較的申告率も低くないので、認知されてない事案が多いということもないはずだ。

さてこの状況を「明白かつ現在の危険」と言えるだろうか。そしてあなたが問題視してる表現は「加害煽動」になり得るだろうか。アメリカではどうだろうか。日本ではどうだろうか。

どうせ議論するなら有益な方がいい。不快さだけが理由ならトライポフォビアのために草間彌生のアートや水玉模様を禁止してみたらいい。禁止すべき広告があるなら、禁止すべき理由をきちんと説明できなければダメなのである。

我々は自由主義国家の市民なのだ。自由であることに誇りを持とう。

*1:個人的には軽犯罪法を少し拡張するだけで十分対応できたのではないかとは考えているが、悪質な扇動者を長期勾留するには足りないらしい。

京アニを知る人も知らない人も「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」を今すぐ見てきてください

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 - を見てきた。テレビシリーズ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の外伝であり、期間限定上映、なおかつ新人監督の作品ということもあって、来年に予定されていた新作劇場版を待ちきれないファンのための映画だと思っていた。

間違っていた。ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝は一つの映画としてきちんと完成していた。これはテレビシリーズ未見の方にも見ていただきたい作品だった。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンを知らない人にも見ていただきたい。そういう気持ちを込めて、多少のネタバレも含めてここに書く。知らない人にも興味を持ってもらいたいからだ。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンは自動手記人形(ドール)として働く少女だ。いわゆる代筆屋であり、タイプライターを抱えてどこにでも赴き、依頼主の「伝えたい言葉」を手紙にするのが仕事だ。

序盤に描かれるのは「新時代」だ。戦争が終わり、新しい時代が始まる。自動手記人形は女性の仕事であり、依頼主に気に入られて結婚し引退するのがゴールの形だったらしい。しかしヴァイオレットの同僚たちは、新しい時代の女性の生き方を語る。生涯の仕事として自動手記人形をやるもよし、鍛え上げた文章力で作家になるもよし。自由に生きられる時代の到来、その予感に心躍らせていく。

そんな自動手記人形のヴァイオレットだが、今回は貴族の娘イザベラ・ヨークという少女の教育係として女学校に向かう。ヴァイオレットの身につけた礼儀作法を仕込んで欲しいということらしい。数カ月後に控えるデビュタント(社交界へのデビュー)までに、イザベラを立派な貴族として教育しなければならない。

映画では、時間経過を表現するのに早回しの映像が使われることがある。この作品でも時間経過に植物の芽吹きの早回しの映像が差し挟まれた。その美しさに、息を呑んだ。ただ美しいだけじゃない。芽がなんとも言えずかわいらしいのである。

アニメの本質はメタモルフォーゼだ。なにかが別のなにかに変貌するアニメーション映像は、アニメの初期から多く描かれ、人がボールになったり弾丸になったり、ぐにぐにと気持ちよくメタモルフォーゼしていく白黒アニメが多く描かれてきた。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンにおける芽吹きの早回しは、そんなアニメ独特のメタモルフォーゼのように描かれ、ともすると少しシリアスな物語をまるで童話のように和らげてくれていた。動く絵本のようであった。

こうした演出を仕掛けた新人監督藤田春香は、テレビシリーズ「響け! ユーフォニアム」8話の演出で話題をかっさらった人物だ。主人公級の2人の少女がうやく心を通わせていく重要な回であり、脱ぎ散らかした靴ひとつで心の壁が取り払われることを示すなど、その映像手腕にアニメファンたちの絶賛を浴びていた。

藤田春香の映像センスや演出センスは今回のヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝でも白眉であり、1つ1つのシーンがまるでイラストレーションのように美しかった。終盤、ぬいぐるみをぶら下げて窓から外を見る少女の図など、大きく印刷して飾っておきたいとすら思えた。

なかでも驚いたのが、イザベラのデビュタントで男役をすることになったヴァイオレット・エヴァーガーデンの衣装である。ダンスの男役なのでパンツスタイルなのだが、ドレスといって過言ではない女性的な美をたたえており、衝撃的なデザインだった。このデザインは京アニの方のオリジナルなのだろうか。

こうした思い切ったデザインを取り入れていく様は、まさに「新時代」を予感させるのにふさわしいだろう。

教育係ヴァイオレットと貴族の娘イザベラは少しずつ「友人」になっていく。イザベラはどこにでも行けるヴァイオレットを羨望する。イザベラも自由に羽ばたく未来を夢見ていた。だがそれはかなわない。貴族の娘として生きることを決意したイザベラに、自由はない。

普通の物語なら、イザベラの不幸を嘆き自由を求めるお話になるかもしれない。だがこの映画は違った。イザベラは肺病を患っており、寛解の希望はない。自由を手に入れたイザベラは、おそらく長くは生きられないだろう。貴族に「売り渡した」彼女の人生で得たものは、映画の後半に描かれていく。

イザベラにはともに暮らした言葉もまだ怪しい幼い少女がいた。血縁もないその幼児を妹と呼び、テイラーと名付けて孤児が孤児を育てる険しい暮らしをしていた。貴族の娘となったイザベラと別れたテイラーは、一通の手紙に生涯を決意する希望を見出す。

テイラー・バートレットという名の少女が得たものは永遠と憧憬。「幸せを運ぶ」郵便配達人に強烈に憧れた少女が、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの元を訪れることで後半の物語が始まる。

諦めたイザベラと、希望に向かってまっすぐ走り続けるテイラー。対象的な二人だが、どちらかが幸せでどちらかが不幸なんてことはない。二人とも正しくも間違ってもいない。ただただ、自分と愛するものにとって、きっとベストだと信じた道を歩み続けている。

「愛してる」とはなにか。それはヴァイオレット・エヴァーガーデンの本編を通してヴァイオレット自身が探求していくテーマだ。

イザベラとテイラーは間違いなく愛し合う家族だ。その二人の愛をつなぐのは手紙、届けるのは郵便配達人だ。

仕事に飽きてきていた郵便配達人ベネディクトは、テイラーの思いを受け止めてこう言う。

「届かなくていい手紙なんてないからな」

テイラーの憧憬を一身に浴びるベネディクトは、郵便配達人としての誇りを少しずつ取り戻していくようだった。

どれだけ大好きな仕事でも、辛くなるときやむなしくなるときはある。自分で選んだ道を、後悔せずとも苦しく思う日だってある。どれだけ愛していてもだ。

あの女学校でひねていたイザベラもそうだった。おんぼろのバイクで飽き飽きした仕事を繰り返すベネディクトもそうだった。

だが「愛してる」ということは、何度でも恋に落ちることができるということだ。恋い焦がれた仕事、恋い焦がれた人生、愛してるからこそ裏切られてもまた恋することができる。もう一度踏み出すことができる。

この映画は7月16日に完成したそうだ。その後に起きた事件の話は、いまはしたくない。ただ言えるのは、これは俺たちの知る京都アニメーションの最後の作品になったということだ。京アニの復活は信じているしいつまででも待つ。だとしても消えた人々が蘇るわけではない。同じ「京アニ」には、おそらくならないだろうし、きっとなるべきでもない。

上記は中国のアニメ雑誌編集者が書いた文章の翻訳だ。日本のアニメシーンにおける京アニの存在の大きさを知れば知るほど、絶望しかないことがわかる。

京アニ」はきっと、新しく始めるしかないのだろう。それがゼロからというわけではないことに、希望はある。もう一度踏み出し始めてる人々が、そこにはいる。

この映画の封切りと前後して、ヴァイオレット・エヴァーガーデン劇場版本編の公開延期が発表された。新時代を生きるヴァイオレットたちに会える日はきっと来る。その時の京アニは、俺たちの愛した京アニとは少し違ってるかもしれない。でも何度でも恋に落ちるだろう。そうなることはとっくにわかっている。

いつか届くはずの手紙を待ち続けるイザベラのように、俺たちもずっと待ち続ける。ヴァイオレット・エヴァーガーデンと、唱えながら。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>