昨今、主にはてなブックマーク界隈で「低学歴の世界」というのが話題である。「低学歴」って言うな。という記事もあり、まあ象徴としてわかりやすいネーミングではあるのだが確かにレッテル貼りに使われるのもよろしくはない。
ここでは「低学力の世界」という言い方をしようかと思う。文字通り、学ぶ力の低い人たちの世界だ。俺の読んだ記事はだいたい以下のようなもの。
- 「うちら」の世界 - 24時間残念営業
- 『「うちら」の世界』についての一私見 | Kousyoublog
- 私のいる世界 - ひきこもり女子いろいろえっち
- 低学歴と高学歴の世界の溝
- DQN、大企業と出会う。 - 漂流する身体。
- 地方都市で、低学歴と高学歴の世界が交わるとき - 常夏島日記
学力というのは、努力で埋められるものではあるのだが、そもそも持ってる資質による影響というのは存外無視できない。特に小中学校では顕著であったりする。
小学校のテストなんて満点以外とりようがない、と固く信じてる人もいるだろうけれども、実際にはそんなことない。想像もつかないような間違いをする子供たちというのはいる。
単に勉強してないからだ、というとそれも違う。真面目に宿題をやっても授業を聞いていても、なかなかできるようにならないのである。
彼らは抽象概念を扱うのが苦手だ。直接そのものを見せないと理解できない。故に、経験を非常に重視する。「何事も経験」などと言ったりする。それくらい経験する前にわかれよと思ったりするのだが、経験しないとわからないのだからしょうがない。
もちろんこういう人たちも、繰り返し努力することによって成績を上げていける。勉強というのはある程度力技が効くので、量をこなすことでどうにかなったりもするのである。
問題は、こういった習慣が彼らの「社会常識」になってるところである。
「何事も経験」なので彼らは本を読まない。本に書いてあることより自分の体験を重視する。読んだにしても、本に書いてあることから自分の生活や考え方をアップデートすることができない。またブレないことが正しいと考えてるので、次々に新しい学説の出てくる学問の世界はうさんくさいと思ってる。
これは個人の考え方がそうというわけではなく、こういう傾向を常識として持ってるクラスタがあるという事なのだ。
そういう世界では大学に行く人も少ないので、大学が何をするところかわからない。テレビの知識しかないので、本気で遊ぶところだと思ってる人がいるんじゃないかとすら思う。「経験してないから知らない」が正当な理由としてまかり通る。未経験の事態に対し、事前知識を仕入れるだとかそういう習慣がまるでない。
結果何が起きるかと言えば、早期結婚早期出産である。経験を重視するので「早く経験する」ことが偉いのだから、とうぜんこうなるのである。
さてそのような低学力ではなく、高学力の人たちはどうだろうか。彼らはその学力ゆえに、偏差値の高い高校、偏差値の高い大学に行く。社会に出る年齢は遅くなる。基本的に高学力の人たちが周囲にいる世界にいるため、交友関係を通した情報の流通も活発である。
結果、ある程度先が見通せるようになる。子供を作るタイミングをどうしたらいいか、などと考えてしまったりする。
俺は、俺の思想にしたがって、彼らの存在を可能な限り正しく把握し、そこに感情的色彩を挟まない努力をしなければならない。「あれはバカで、どうにもならない」でかたづけてしまうのは、俺にとって敗北だからだ。
というような話を、車のなかでうちの奥さま相手にしていた。うちの奥さまいわく、
「だから、子供できるだろ、結婚すんだろ。そうすると落ち着くんだよ。伝統芸だろ」
「うちら」の世界 - 24時間残念営業
(中略)
さて、俺は考える。俺の常識、社会の常識のほうがまちがっていて、彼らの「うちら」感のほうが正しいという可能性をだ。
少なくとも生物としては正しい。頭でっかちになって子供を作る勇気すら持てない生物より、とりあえず子供を作るところから始められる生物のほうが強いのは明白だ。
我々は情報爆発の最中にいる。情報量は日々増え、世の中のかなりのことが「ググる」ことで解決できたりする。その知の泉を使わないのはバカだ、という言い方もできる。
だが人は知り過ぎると身動きがとれなくなる。先が見通せすぎて、終わりのない「準備」に時間を費やしてしまう。知らなくてもいい情報を知っては、賢くなった気がしてしまう。
情報に背を向け、自らの経験を頼りに、生物としての適齢期である10代から20代前半に出産する彼らは、圧倒的な正しさを提示している。情報に怯え、子をなすという生き物として自然な行為すら一歩身を引く「高学力の世界」の人々よりも、圧倒的に生物として正しい。
その正しさから学ぶべきことは、あるはずなのである。