狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

正しさは教わるのではなく、対話の向こう側にある

伊藤園「還元性水素水」へのコメントという記事。Web黎明期から似非科学批判を展開されてきた水商売ウォッチングさんの記事で、内容は大企業たる伊藤園が「水素水」というなんの効果もない水を売りだしたことに対するコメント。どうもわかったうえでやってる商品のようで、これに手を出さざるを得ない伊藤園に同情的なスタンスだ。

よく言われることだが、「人間は自分が本当に欲しい物を知らない」というものがある。お客さんが欲しいと言ってるものをそのまま作るとだいたいお客さんも満足しないものだ。

「顧客が本当に必要だったもの」という有名な画像があるが(オリジナルがどこだかよくわからない……)、世の中だいたいそんなもんだよなあと思う。

水素水のようなものを買う顧客が欲しいものは、健康や美容であろう。似非科学や偽医学は、本物の科学や医学が提供してくれない「健康」「美容」といった価値を欲してるのである。

もちろんそんな都合のいい話はない。健康は日々の生活習慣から生まれるものだし、美容というのも価値観次第で何を目的としたものかが判然としない。それらは顧客が説明できるものではないのだ。健康的な生活習慣など、そういう習慣を送ってる家庭で育たないとわからない。人々が無意識に、当然だと思ってやってることだから、もちろん説明もされない。そうした健康の上に美容もある。

消費者主導型の市場と言われるようになって久しいが、ここにきてずいぶんそれも極まったものだなと思う。

消費者主導で商品が選ばれるなかで、科学の知識を持たない消費者が区別つかないように科学の後ろ盾があるという詐欺を働く連中がいる。冒頭の「水商売ウォッチング」さんは昔からそういう怪しげな商売を批判してこられた。

そこで科学の知識を持ってる人間が「それはウソだ、騙されてはいけない」と言ったところでさしたる効果はないのだろう。専門家を見分け、専門家の発言を咀嚼できる程度の知識があればそもそも騙されないからだ。

今年はオリンピックのエムブレムが剽窃であるとしてネットで騒動が広がり、取り下げることになるという事件もあった。デザインや著作権の知識があれば、あれを剽窃とは考えないだろう。実際そのような解説も出回っていたが、人々はそれを信じなかった。構造としては似非科学と同じことだ。

パターナリズムという言葉がある。Wikipedia には「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉することをいう」と解説されている。専門知識を持ち合わせてる人間は「強い立場」にある。持ち合わせてない人間は「弱い立場」だ。似非科学批判というのは、パターナリズムに陥ってしまいがちな側面がある。似非科学で商売をしてる企業を批判してるつもりが、その消費者を批判してしまってることもままあるのだ。

こうした現象は似非科学批判だけにあるものではない。パターナリズムを批判する立場にあるフェミニズムが、性産業従事者の女性に対してその商売から足を洗わせようとするパターナリズムに陥った、などという現象もあるようだ。欧米ではこれも性の自己決定として本人の意志を尊重する方向に切り替わりつつあるようではあるが。

こうしたパターナリズムは「古臭いもの」としてずいぶん批判されてきたのではあるが、冷静に考えてみれば、自分が弱い立場にあるとき、より強い立場の人間に判断を委ねることは割と正当な側面もある。例えば自殺者を引き止めるために本人の意志に反して体を一時拘束するなど、非常にパターナリスティックだがこれが不道徳だと考える人はそうそういないだろう。

とはいえパターナリズム批判というのは一度細かいところまでことごとく粉砕されるものではある。たとえば医療においても医者から患者に一方的に治療を施すのではなく、患者の自己決定を重視する方向に切り替わりつつある。そんなことはそっちで決めてくれと思うようなことまで決断させられるくらい自己決定を重視されるようになるまで粉砕されなくては「正しいパターナリズム」に回帰できないのである。

日本において、インターネット、とりわけ SNS の発達がそうしたパターナリズム批判を盛り上げていると考えてみると、これはこれでまた実にうまく行ってるようにも見えてくる。愚行権なんて概念もあるが、とにかく自己決定し間違い続けることでしか「正しさ」には行き着かないものだ。

そう考えれば果てしない居酒屋談義のようなネットバトルにも社会的な意義が見いだせる。一人ひとりが自己決定の末に発言し、またそれが誰かの自己決定の末に反論される。そんなことを繰り返して「もうめんどくさい、嫌だ、誰か決めてくれ」となって始めて「正しいパターナリズム」に回帰できるのではないか。

そんなネットバトルも昨今は「発言者の身元をネットに晒す」というような議論の枠組みから大きく逸脱した行為に発展してるようだ。こうした行為は2chの鬼女板の得意技ではあり、それゆえに既婚女性の略称としての読みを合わせた「鬼女」という呼び名が受け入れられてきたのだろうと思うが、彼女らが非常に賢く振る舞ってたのに対して昨今はずいぶん安易な行動が目立つ。こんなことをしていてはそもそもネットでの議論が成立しなくなってしまう。

議論のルールブック(新潮新書)

議論のルールブック(新潮新書)

議論のしかたというサイトがある。議論のルールブックとして本にもなっており、古いが今でも充分に参考になるネットを前提とした議論のハウツーである。人と対話し、知識を深めていくためには必読といっていい。

どうか議論から逸脱しないよう、そしてより多くの人々がよりよいネット議論を体験し、よい本に出会い、よい見解を得られることを期待したい。インターネットに救われ、ネットで人と出会い成長してきた人間の一人として、切に切に願うのである。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>