なんとなく日本の社会構造を時系列で観察していると、大衆文化とエリート文化で大きな乖離があることに思い至った。
だいぶ薄れてきはしたが、日本のエリート文化が武家社会の継承者であることは、現在の政治家たちの苗字を見てもわかるだろう。対して日本の大衆文化はアジア全域にある農村モデルのそれであり、おおむね女性上位だった。
実際のところ今現在「伝統的日本」とやらが指し示す戦後サラリーマン文化を思い起こしても、たいていの家庭は妻が家計を牛耳り、夫は自分の稼いできたサラリーを妻にすべて渡してそこから「小遣い」をもらう、というのが一般的であった。俗に言う「かかあ天下」というのがアジアの農村スタイルといえよう。
もちろん明治維新に伴う戸籍制度の徹底など、武家社会の常識が大衆になだれ込んだところは否めない。よく言われる「男を立てる」といった風習も、家庭内では農村的かかあ天下であっても外では武士のような男性優位に見せかけるための見栄だったのではあるまいか。
こうした大衆社会において、男性の役割というのはおおむね「働き蟻」であり、女王たる妻に貢ぐための存在である。代わりに大黒柱であるとか主人であるとかいった名誉をいただく。これによるストレスは「酒を飲んでくだを巻く」ことで発散するのが良いとされていた。
とはいえどうもエリート文化においては、武家的な男尊女卑社会が未だ蔓延してるようである。実際のところ社会の壁にぶつかってフェミニズムに走るような女性というのはそういったエリート文化に飛び込んでいった人が多いように見受けられる。
男女平等の御旗のもと、男性は子供の頃から家事や育児もちゃんとできるようになろうと言われてきたが、その結果として特に結婚などしなくても不自由なく暮らせるスキルが身についてきた。男女平等を盾に「女性を守る」「男らしくある」といった抑圧からも解放されてきた。昔は男が趣味を持つだけで男らしくないと言われたものだが、今やもっとも男らしくない趣味であるオタク趣味ですら「クールジャパン」などと言われ始めるようになった。
対して女性はどうだろうか。子供の頃から「男と同じように働く」ことを言って聞かされたろうか。女性らしさや男性に守られることをよしとする抑圧から解放されてきたろうか。どうもそうは見えない。
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近年流行った「こじらせ女子」なるワードも、こうした抑圧と現実の乖離に巻き込まれて自意識がねじれてきた現象の一つなのではないだろうか。
解放された男性とは違い、女性は解放されず、そしてあらたなミスマッチと不幸が表面化しつつあるようにも見える。
もっとも、こうした状況もどんどん変化してはいるのだろうけれども。
とみに現代日本はエリート文化と大衆文化のグレーゾーンが大きく広がり、パッと見区別できるかと言われるとたいへん自信がない。おおむね趣味もメインカルチャーだしエリートっぽいなあと思えばたいへんな漫画好きであることが発覚した人物も珍しくない。
またエリート文化もおそらくだが学術系と政治系と実業系ではまったく別のカルチャーが存在してるであろう。武家社会を色濃く残すのはおそらく政治系や実業系ではないだろうか。
武家由来の文化と、農村由来の文化とが、せめぎあい交じり合ってるまっただ中に、我々はいるのかもしれない*1。
また変化の進行度もそれぞれまったく違っていたろう。
そんな中で生まれ育った文化がどちらをより多く受け継いでいるかを自覚せず、なんとなく別の文化に飛び込んでしまうという「事故」もまたたくさん発生したのではないだろうか。
……というようなことが夜中にもぞもぞと脳味噌から湧き出てきたので書いてみたのだが、さてどうだろうか。意外といい線いってるんじゃないかなーと思ったりするのだが。