狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

インターネット黎明期に技術系コミュニティで学んだこと

なんとなく昔片隅にいたあの技術系コミュニティのことを思い出してみようかなと。

マニュアルに書いてあることや検索してわかることは質問しちゃいけない

技術系コミュニティでは質問がよく飛ぶ。ただしたいていの質問はとっくに解決済みなのであって、そこに辿りつけないのはマニュアルやドキュメントや検索が足りないからである。質問の前にはちゃんとそうしたものに目を通さないといけない。そうしないと同じ質問がたくさん並ぶことになってしまう。

ドキュメント化はよいこと

前項に関連して、すべての質問を生まれる前に消し去ることが目指すべき善なので、ドキュメントを書くことはたいへん良いこと。そのためにどんな環境でも読める HTML を学ぶべき。

挨拶やお礼は重要ではない

大量の情報を見る人間にとって挨拶やお礼など儀礼的な意味しかないものを何度も見るのはあまりうれしいことではない。
お礼を書くくらいなら教わったことを実行してどうなったのか詳しく書くべき。「これでうまくいきました」の一言でも情報として有用。

よい質問ができる人は優秀な人

よい質問とは答えるべきポイントが明確で、ドキュメント化されてない質問。そのような質問ができる人は優秀であって、なかなかよい質問というのはできるものではない。

よい質問を目指すべき

だからといってよい質問をしなくていいわけじゃない。自分が効率的に情報を得るためにも、協力してくださる人のためにも、よい質問を心がけないといけない。

超能力は存在する

よく「私達は ESPer (超能力者) ではありません」という言葉が流布してたのだが、ようするに質問者が自分の環境や自分のやったこと、その結果がどうだったか、本来どのように振る舞って欲しかったのか、そもそも何がやりたかったのか、などの情報をきちんと盛り込まないと質問に答えようがない、という話である。超能力者じゃあるまいしそれはきちんと説明されないとわかりません、というわけだ。

ところが上記のような情報がなくても、質問者の断片的な情報や文言からそれらを読み取って的確な回答をつける人が存在する。「慣れると ESP もわりと使えるようになります」というような一言を見て驚愕した覚えがある。2ch でネットユーザーを神と呼称したのを最初に見たのはこの事例だったなあ。

人間ってすごいなと思った。

仲間が増えることはいいこと

とくに質問に関して厳しかった技術系コミュニティなのだが、仲間が増えるのはいいことだという認識はそれなりにあったと思う。

バグを見つける目玉の数は多いほうがいいし、開発を手伝ってくれる人が増えるのは大歓迎、というわけである。

やってから考える

プラグマティズムの行動原理そのものなのだが、これがコンピュータにはマッチする。考えるより実際に手を動かしたほうがずっと状況が把握できるし対策も浮かびやすいのである。

実際、実行する前にこれはどうなるんでしょうかなどと質問する人も結構いたのだけれど、まず動かしてどうなるのか見たほうが全然早い。質問自体いらなかったことに気づくだろう。

まずは行動から。考えるのはその後でいい。

言葉を正しく使う

言葉が間違ってると意味が通じない。非技術系のコミュニティでは間違った言葉でもなんとなく雰囲気でエラー検出して自動補正をかけたりする習慣があるようだけれども、技術系コミュニティにはそんなものはなかった。

意味が二重にとれる言葉はきちんとどちらの意味か明示しないといけない。

たとえば HP という言葉は「ホームページ」をさすのか「ヒューレット・パッカード」を指すのか、なんてのはよく言われていた。さらに「ホームページ」もウェブサイトの入り口となるページを指すのか、それともブラウザを起動した時に最初に表示されるページを指すのかなんてのも。

こうして厳密でない言葉を使ってると何の話をしているのかわからなくなる。ネットのやり取りはとくにアーカイブされ資料になるので、できるだけ有用な知識がそこに積み重なることが望ましい。10年後20年後、当時の文脈でなんとなく理解されてたような話を後世の人々が読み解くのも難しい。

言葉は厳密に、正しく使いましょうというのは、近視眼的な見方からは出てこない発想なのかもしれない。

アドバイスは役立たない

なんか違う観点からアドバイスするのはいいことだろうと考える人がわりと多いのだが、そんなこと言うなら自分でパッチを書いて送ってくれというのが技術系コミュニティの基本的なスタイルだった。

辻説法のようなアドバイスなどだいたい役に立つものではなく、情報としてはゴミ同然なのである。そんなことよりも実際にこうなってたほうがよりよいという実装を見せてもらったほうがわかりやすいし何より役に立つ。

そしてそういう実装が本当に出てきたとしても、だいたいはごくごく一部の人間が一時期喜ぶだけですぐ忘れ去られるのである。

簡単なことほど決まらない

パーキンソンの凡俗法則というやつなのだが、これがFreeBSD のマニュアルにも掲載されているのである。

難しい専門知識の必要なものというのは詳しい専門家だけでしか決められないから、わりとすんなり話が決まる。しかし自転車置き場の色のような誰でも口を出せそうな話ほど、多くの雑多な意見が集まりすぎて話が決まらない。

これを自転車置き場(bike shed)の議論というわけだ。

自分の脳内だけでもけっこう bike shed 議論状態になってるときがあってたいへん困る。難しい問題に取り組んでる時のほうが道筋がたくさん見えすぎなくて迷わないし集中しやすいというのは、けっこうみんな経験してるんじゃなかろうか。

ガラパゴスはよくない

いまでもあちこちで見かける「ガラパゴス化」という言葉だが、これはもともとSlashdot Japanの kazekiri さんが、オープンソース開発において海外の原作者にパッチを投げて取り込んでもらうという手続きがうまくいかず、結局「日本語版」を作って独自進化してしまう現象を日本のオープンソースはガラパゴスと発言して話題になってたものである。それを受けて日本の携帯電話もガラパゴスだよねという話を書いてあちこちで日本のケータイはガラパゴスだと言ったり書いてまわったりしてたらなんか広まってしまって予想外の影響が出たりなどしていろいろ申し訳なく。

独自進化でいいものができるならいいのだけど、結局は本家とは開発リソースも違ってくるし、そのうち本家の進化についていけなくなってどうにもならなくなったりする。なのでガラパゴス化させずにきちんと本家に日本人が必要な機能を取り込んでもらいましょう、という話なのである。

実際携帯電話でも日本メーカーからの発注は Apple やサムソンとは比べ物にならないほど小さくてなかなかチップの仕入れも難しいと聞く。そりゃまあ3日間で900万台も売りさばくメーカーと比べたら厳しいだろうなあとは思う。

ソフトウェア開発もそうで、ローカルなごく一部で使われるようなものというのはどうしても衰退しがち。なのでちゃんと世界に出ていけるようにしていかないといけない。Debian JP が早々に日本語版の制作をやめて Debian 本体の国際化に貢献する方針に切り替えたのはまさにそういうことなのだろう。

ガラパゴス化した技術はいつか外来種に滅ぼされてしまうのである。

まだまだいろいろあるのだが

ネットの技術系コミュニティで学んだことはたくさんある。他にもいろんなことを学んだように思う。あまり発言量の多い方ではなかったが、あの頃の技術系コミュニティで起きてたことをメールやNetNewsで見られたことはとても幸福なことだった。

いまはある意味「洗礼」とも言えるような、先輩たちからお叱りを受けられるようなああいうコミュニティをスキップできてしまうので、それはそれで不幸なことだなとは思う。もちろん良いことばかりではないにしても、先達と直接つながれるコミュニティというのはとても貴重なものだったなあと、今になって感慨深く思うのである。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>