日本人としての教養という連載が非常におもしろいのだが、これについての2chの反応をまとめた記事がさらに輪をかけておもしろい。
対談の上田紀行教授がタイトルのような問答を学生としてるという話なのだが、これは学生に自分の宗教観を認識させる上で非常に効果的な質問だと思う。
それに対する2chの反応がホントに面白い。孫引きになるがいくつかおもしろかったものを抽出してみよう
お守りってだいたい神社じゃないの
「宗教信じてる?」 「いいえ」 「じゃあ持ってるお守りハサミで切って」 「できない」 「は?」:特定しますたm9(`・ω・´)
なら宗教と違うじゃん
八百万の意味がわかってないよねこのおっさん
「宗教信じてる?」 「いいえ」 「じゃあ持ってるお守りハサミで切って」 「できない」 「は?」:特定しますたm9(`・ω・´)
神様と宗教は別だろ
宗教は信じてなくても神様やら神秘的な何かを信じてる奴は多い宗教なんて神秘的な物を都合の良い様に解釈してる胡散臭い奴らなんだから
「宗教信じてる?」 「いいえ」 「じゃあ持ってるお守りハサミで切って」 「できない」 「は?」:特定しますたm9(`・ω・´)
宗教信じないのとおまもりやバチを信じるのは両立できる
神様信じること=宗教
「宗教信じてる?」 「いいえ」 「じゃあ持ってるお守りハサミで切って」 「できない」 「は?」:特定しますたm9(`・ω・´)
この考えがまずおかしい
プラシーボ効果っていうのか、持ってるといいことがあるというだけの情報を基に
「宗教信じてる?」 「いいえ」 「じゃあ持ってるお守りハサミで切って」 「できない」 「は?」:特定しますたm9(`・ω・´)
何か精神的にプラスに作用するのを狙ってるだけで神様は信じてないだろうに
破壊することでそれがマイナスに作用するから切りたくないだけで神様信じてる訳じゃない
俺なら「なんで宗教を信じていないのがお守りを切ることに繋がるんですかー」と問いただすわ
「宗教信じてる?」 「いいえ」 「じゃあ持ってるお守りハサミで切って」 「できない」 「は?」:特定しますたm9(`・ω・´)
お守りを持つことに宗教的な意味があるとは思えないもの
もちろん宗教を理解してるコメントもそれなりに目立つのだが、こうした反応があること事態がとても興味深いし、現代日本人の少なくない人たちがこのようなことを考えてるのだろうというのは、実際いろんな日本人と話してると想像できるものがある。
以前にも日本人は自らの宗教性にいいかげん気付くべきだと書いたのだが、どうも日本人は自分の宗教がよくわかってないようだ。
人の持ってる倫理観や価値観は、だいたいそこに宗教が関わってる。ただ今の日本人はそれがどこの宗教なのかを知らない。確かに宗教団体と分離して教えだけがひとり歩きしてるふしはある。
例えば「年上を敬う」という倫理観。これは儒教のものだ。「先祖に感謝」などは神道、「因果応報」は仏教の言葉だし、現代日本の性に関する倫理観はキリスト教のものだ。
どうもこうした倫理観や考えかたが宗教と切り離され、混沌としてしまっているようだ。
以前の記事にも危険な兆候だと書いたが、切り離された宗教倫理が再構成され、ひとつの新しい倫理体系を形作ると、それは新たな宗教となる。おそらくオウム真理教をはじめ新興宗教としてそれなりの規模になったところはどこもそのような形で信者を増やしてるのだろう。存外理系や頭のいい人たちがそういった宗教にハマりやすいのは、それこそ混沌とした日本の倫理観に一本筋の通った光の道を指し示すからだろう。頭がよいゆえに生まれる疑問と新しい筋道に感動を覚え、それが信心となるのであろう。
こうしたものはまだ比較的小規模だが、大規模になれば日本全土を覆う宗教改革にもつながりかねない。日本の宗教そのものが根っこを失い揺らいでいる状態だからだ。
そうでなくても、文化的に「その倫理観はこの宗教です」と言えないのはいろいろと問題がある。昨今欧米を中心に性表現の規制が叫ばれているが、これはそもそもキリスト教の倫理観だ。それを問答無用で受け入れてしまう日本人が少なからずいるのはやはり自分たちの宗教とは違うということを理解できてないからだろう。こうして日本は「我々の文化」を異文化に蹂躙されていくのである。
そう思いながら自分の倫理観がどこにあるのか考えてみると、たとえば俺の場合、万物に宿る神を信仰してるきらいがある。プログラムがうまく動かない時、これで動いてくれと機械の神に祈ってるようなときがあるし、ものを大事にすると応えてくれるという考え方が基本にあるからだ。つまりこれは神道の倫理観である。
一方、俺の持つ神のイメージはキリスト教のそれである。小さい頃なぜか教会でお祈りなどしてたり、よく覚えてないのだがなぜか十字架に貼り付けられたイエスのペンダントをずっと持ってたりしてたせいもあるのだろうが、イエス・キリストのことを思うと胸が暖かくなる現象を感じる。いろいろ機会を逃したが、真面目に聖書を読み込んで洗礼も受けようかと考えてたこともある。
とはいえ仏教も身近な存在だ。我々日本人にとっての仏教は、家族が死んだ時に遺体を預ける場所である。
自分自身を振り返っても、たいへんな宗教的混沌が見られる。俺も一応宗教学の教科書くらいは読んだからある程度の区別はつくが、そうでない人間に区別しろというのも確かに酷かもしれない。
しかしながら、異文化と接するからこそ自分たちの宗教がなんなのかを自覚する必要がある。相手と自分は違うことを認識するためにも、自分の宗教を認識することは必要なことだ。自分たちはこうであるという識別を相手につけてもらう必要があるからだ。
そのためにもっとも日本人として自他共に識別しやすいのは、やはり神道であろう。
神道の宗教観をもち、他の宗教を冠婚葬祭のツールとして使う。そのような日本人象を我々は自分自身でまずは意識してみるのはどうだろうか。
土着で習慣として身についた神道は、日本人には馴染み深いものだ。それを意識するだけでいい。自分の中の倫理観と神道の宗教観は、おそらく多くの人にマッチしていくだろう。右傾化と呼ばれるような現象も、神道の教祖である天皇への帰依が進んでると思えば宗教教育としてはそう悪いものではない。
あらためて、自分自身の宗教心と向き合うことが、グローバリゼーションが進む今だからこそ必要とされるのではないか。