この1週間ほどたいへん調子が悪い。先月二度も食中毒になり風邪を引いた余韻なのか、なにやら肩やらなにやら体がこわばって何事にも集中できずにいる。こりゃダメだ、となって先月日本から届いた荷物に入っていた本を一冊取り出し、ベッドに寝転んだ。
その本を読み進めていると、すうっと肩のこわばりがほぐれていった。
55歳の著者。その人生を「からっぽだった」と表現する。人生の意味などなかった気がすると。自分はダメな人間なのではないかと不安になり、そして受け入れ、「それはそれでいいんじゃないか」と肯定する。
55際。団塊ジュニア世代の自分よりずっと年上の著者。アルファブロガーと呼ばれる人々の中でも筆頭に挙げられる人物。極東ブログ主宰、 id:finalvent 氏。
- 作者: finalvent
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2013/02/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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その彼が自身の半生を振り返り、「からっぽだった」と言い、そしてそれを肯定するのである。若き日の挫折や、職を得たこと、結婚し、沖縄に住んで、子供を得たこと、難病にかかったこと。淡々と綴られ、そこにドラマ的なものはない。ただ沖縄に関する記述は驚くほど詳細だ。披露宴での沖縄文化への接触、歴史、基地のこと、食文化、どれもこれも興味深く、「勉強が習慣」という著者の実力が反映されている。もうひとつ印象深かったのは第5章224ページから始まるリベラルアーツに関する記述である。教養という日本語とは少し違う、奴隷の技能に由来する「人に雇われるための技芸」としての「機械的技芸(メカニカルアーツ)」の対立語として「自由市民の技芸(リベラルアーツ)」があるのだという説明は非常にわかりやすく、そしてリベラルアーツの立ち位置を見て取りやすい。なぜリベラルアーツか、リベラルアーツとはどういうものかをわかりやすく説明し、そして「どのような貧困も、若い日に培ったリベラル・アーツを奪うことはできない」と言う。この章だけでも大学入学前の自分に読ませたい。
俺から見れば著者の人生は空っぽなどではない。家族も仕事も趣味もある。充実した人生だと言ってもいいくらいだ。だが55年という月日を生きて、振り返って、「からっぽ」であったと認識し、なおかつそれを肯定する言葉。それは俺自身の肩にあった何かをおろしてくれたようだ。
「心はいつも15歳」と山本弘の言葉をそのまま口にしてる俺だが、実際のところ実年齢に対して違和感というのはいつもある。それが自分自身の幼さかと思うこともあるが、55歳の著者も同じような感覚があるというのを読んで少しほっとした。自分だけじゃないんだと思えるだけでも、心は軽くなるものだ。
そういう意味でも、著者のいうように文学は30代40代になってから重要な意味を持つというのは真実なのだろう。
著者と比べるのはおこがましいにも程があるが、それでも著者の人生には共感するところが多い。趣味でやってたプログラミングが飯の種になったり、よくわからない病気に怯えたり。俺も医者に見せてもよくわからない症状で20代のほとんどを潰したし、ただで遊べる PC-UNIX をいじりまわしてたら仕事になった。彼にとっての沖縄は、俺にとってのタイかもしれない。
失敗者であること、老いて死ぬことを受け入れた著者と、戦う人になりきれなくて戸惑う自分。諦めても生きていていいのだと、生きていく手段はあるのだと、それを提示してくれるこの本は、40代、50代になったときにまた読み返したいと思ったし、10代20代の時にも読みたかった。
きっと何者にもなれない我々ロスジェネたちには、こうして負けを受け入れていきながら人生の終わりを迎える準備が必要なのだろう。負け戦に活路を探し続けるような世代には、負けのまま終わってもなんとかなるという楽観や諦観もないと保つはずもないのだ。
今日この体のこわばりが半減したことにありがとうと言いたい。もう半分は、自分でどうにかしよう。