狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

オタクの女の子になりたい願望は性別を超える

なにげなくTwitterを見ていたら、タイムラインに以下のような発言が流れてきた。

桃井「男のオタクの人ってかわいい女の子と付き合いたいわけじゃなくて、可愛い女の子に自分がなりたいんですよ」「だから性別っていうのを超越した存在なんですよ、オタクって」 あああ、わかる、わかる、わかる。

http://twitter.com/tamagomago/status/307920044296392705

これはオタクとして非常によくわかる話で、一方同一の感情を持たない人にはさっぱり理解できないであろう。なので以下のような発言も見られた。

その”可愛い女の子”が、男である自分にとって都合のいい”理想化された女の子”であり、そしてその"理想像”が既存のジェンダーを無効化するどころかむしろ強化するようなものである以上、それは"性別を超越"するどころかむしろ固定化することにしかならんだろうに。

http://twitter.com/inumash/status/307926379058573312

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言ってることは正しいように見えるのだが、実は大事な視点を外している。「理想化された女の子」の中身が、当の女性の「理想」とある程度の一致を見ていることだ。

オタクや萌えといっても千差万別ではあり、引用のような男性的視点での「理想化された女の子」というのもまだいなくはないのだが、どちらかというとそれは古い部類であろう。

大ヒットしたアニメ「けいおん!」に代表される「女の子しか出てこない」アニメはこうした古い視点から「男に都合がいい理想化された女の子しかでてこない」と考えてる人たちも少なくないのだが、実はまったく違う。オタクは誰よりもたくさんのアニメを見てるので、そんなありきたりなヒロインにはとっくに飽きてるのだ。

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結果、アニメのヒロインたちはかなり昔から自立的で男性を頼らない存在として描かれてきた。かの「機動戦士ガンダム」に登場するヒロインたちも、気が強くて凛々しく正しいセイラさん、軍人として命をかけ主人公たちを導くマチルダさん、おろかではかなくも弟妹を守るために必死で働くミハルと、「男に守られる存在」などどこにも見当たらなかった。これは1979年の作品である。

そして何より時代の変化だ。今の時代は男性から男性性をスポイルするようにできている。団塊世代のように(性差別の結果として)男性の収入が高かったり就職機会に恵まれたりもしてない。筋力や体格の大きさは知識労働者の間では利点にならない。男性が男性というだけで有利だった時代は、制度や偏見を除けばほぼ終了を見ている。女性のほうが有利に立ち回れると考えてる人も少なくないのではないか。

そして「守ってあげたくなるヒロイン」は人気が落ちてきてしまった。守るだけの力も自信もない男性から見れば、「守ってあげなくてはならない女性」など邪魔でうざったい存在でしかない。むしろこっちが守って欲しいくらいだという叫びすら聞こえそうだ。

リボンの騎士」「キューティーハニー」といった古典に由来し、「美少女戦士セーラームーン」に端を発する「戦闘美少女」というジャンルも、こうした背景を考えると彼女たちの異常な強さ、男性キャラクターの少なさも納得がいく。男性はよほど強い人物でなければ物語に参加することすら許されないのだ。

こうしてオタクたちの心は、「かわいい女の子と付き合いたい」から「かわいい女の子を見ていたい」に変わり、「かわいい女の子たちがキャッキャウフフしてるのを見ていたい」を経て「かわいい女の子たちのキャッキャウフフに混ざりたい」へと変化していったのではなかろうか。

そうした需要をつかんだ「けいおん!」という作品は、監督からして女性である。放課後のお茶とお菓子、とめどないおしゃべり、いつも一緒の仲良しグループ。これらはそもそもが女性たち自身の理想形の一つではなかったか。

「かわいい女の子になりたい」と願うのは、まず女性自身である。それがジェンダー抑圧の結果だとしても、その願いが存在することは無視できない。そして男性に頼れなくなった時代を背景にした強さへの欲求。強さとかわいらしさの同居。セーラームーンプリキュアの人気の背景はそこではないか。

そしてここにオタクと女性の理想の一致が見られたのである(現実には相容れないとしても)。

実際、セーラームーンプリキュアけいおん!も女性ファンをそれなりに獲得している。前者2つはともかく、けいおん!は深夜のオタク向けアニメとしてリリースされたにも関わらず、というあたりは俺も驚いた。「けいおん!」の監督である山田尚子の新作「たまこまーけっと」を普段まったくアニメを見ない女性に見せてみたら、普通に女性向けアニメだと思ってしまっていた。「萌え」の根底にあった少女漫画の感性が、ある意味ストレートに表現されつつあるのだろう。一周まわってしまった感がある。

自分たちにとって都合の良いお人形をつくって、それと同化することを望むのはただのナルシシズムに基づいた愛玩に過ぎないのに、それでどうやって性別を超越することなんてできるんだ?性別云々の前に他者とすらまともに向きあえてないと思うんだけどなぁ。

http://twitter.com/inumash/status/307927333229182976

それはね、その理想自体が性別を超えてしまってるからなんですよ。まったく違った地平から同じ頂点に辿りついてしまったかのように。

いまだ根強く残る女性の「かわいらしさ」としてのジェンダー圧力と、支配的男性モデルとしての男性ジェンダーから(力を失った結果としてだが)解放されつつあるオタク男性の理想が、奇跡的な一致を見ている。少女的無垢性への憧れとしての「萌え」を、自己の性別を抜きにして持っている。

それが「オタクは性別を超越した」の意味なのだ*1

*1:もっとも、ここからオタク男性自身の性欲への忌避や男性性への拒否感が強まっていくと別の意味での危険が待っているように思う。身体的欲求を肯定しながらこうした理想を求めていくのはとても難しいことで、そこでなにがしかのアイデンティティクライシスがありうるのではないかと考えている。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>