運が悪いことの責任はとれません。という記事。
基本的に同意するものではあるのだけど、なんか違和感は残るんだよなあ、この手の議論。いやもちろん犯罪者が根本的には悪いんだけども、被害者に一切の責任が無いかのような言説を唱える人がわいてきたりしてるのを見ると、少し不安になる。もちろん元記事書いたy_arimさんはそんなことわかってるだろうけどさ。
さて、このような「責任」の用法は、今年の頭にも見かけた。
例の、「レイプされた女性にも責任はある」ってやつだ。どんな責任か? と問うと、たとえば夜中に危ないところを出歩くなとか男を誘うような露出度の高い恰好なんかするなとか、そういう答えが返ってくる。つまり自衛責任、metalbabble氏の言う「自己防衛手段ぐらい自分で考えなよ」ってやつだ。
一言で斬って捨てよう。それは被害者憎悪withセクシズムである。一言じゃなくね?
運が悪いことの責任はとれません。 - E.L.H. Electric Lover Hinagiku
別にこれを否定しようというわけじゃないんだが、肯定もしがたい面がある。
今年頭の議論は俺も見掛けた記憶がある。夜中に危ないところを出歩くなんてのはほとんどの場合「避けられる危険」だろう。なぜそれを避けなかったのかと言えば「被害者を責める理由など無い!!」といった反応が返る、という感じだった。
正直それはどーよ、って思うんだよな。別に自己責任だなんて思わないし犯人はがっつり捕まえてぎっちりしめあげとけとか思うんだけど、被害者に非が無いとまでは俺には言えない。
冬期登山なんかだと毎年のように遭難者が出たりしてて、その度に捜索が行われたり自衛隊がヘリ飛ばしたりしてるけど、それと山登りの装備や計画の甘さを指摘する声とは矛盾しないだろう。
極端なのになると「犯罪者がいるのが悪い」とか「男が悪い」とか無茶なこと言い出す人がいたりするんだけども、それも極論が過ぎるよね。もちろん「犯罪者がいない世界」や「悪い男がいない世界」を作ろうとする理想論はけっこうな事なのだが、それと「現状認識」を混同してやしないかと。
根本的には犯罪者が悪いといっても、だからといって犯罪者がうようよしてるようなところにわざわざ飛び込む必要は無いし、正しく用法容量を守ってれば安全なはずの薬を毒薬に変える必要もない。
そういうところで生まれて来たのがいわゆる「常識」ってやつで、「夜中の一人歩きは危険」だとか「男と二人きりにならないようにしとけ」とかそういう類のやつ。
常識に反発を覚えるのは勝手だけど、それで被害にあって「自分は悪くない!」っていうのもどうかと思う。ろくな装備も計画も無しに冬山に登って遭難して「自衛隊がもっと早く来ないのが悪い!」って言われてるような違和感がある。
山と違って相手が人間だからどうにかなるとでも思ってるなら、それこそ「現状認識が甘い」と言わざるを得ない。人間なんてそんな完璧な存在でもなんでもない。理性のタガが外れることもあれば、判断を誤ることもあるし、悪い奴ってのはどこにだっている。
自己責任という呪術という記事で引用されてる「性暴力にまつわる神話」というのも、「統計的には屋内にいる人間のほうが死亡率が高い」みたいなこと言われたような感覚をおぼえるものがいくつかある。屋外のほうが死亡率が低いからって信号無視したり大音量のヘッドフォンつけて交差点わたったりしていいわけじゃないだろうと。
こういうものは男女差別の反動として少々強く出すぎてるきらいもあるのだろうとは思うけどね。
「性暴力にまつわる神話」に違和感があるとは言ったけど、あげられてる問題点についてはなるほどと思わされるものも多い。あちこちでささやかれる「被害者の落ち度」には間違ってるものも決して少なくないだろう。
「落ち度」なんて言い方するから悪いんだろうが、性暴力に遭遇しないためのノウハウや常識はもっともっと共有されるべきだと思う。
危険な街、危険な時間帯、危険なシチュエーションというのはあるはずだし、それらはもっと広く研究して「正しい知識」を得るべきだ。従来はなんとなく倫理感や常識という形で共有されて来たものだが、実際迷信化してるものも多いだろう。こういう犯罪防止策を政治問題のように扱ってはいけない。
とにかく危険を避ける力を身に付けることを否定しないで欲しい。必要なのは、正しい装備と計画をもって登山に望むことだ。それで遭難した人が責められることは無いのだから。