トンデモ水ビジネスの片棒を担いでしまったはてな匿名ダイアリーという記事。
何の事かと思えばGoogle広告に表示されてたものがどうやら似非科学ビジネスのものだった、ということらしい。まあよくあることだよね。こういうのは見つけ次第Adsense設定から競合広告フィルタを設定するといい。情報商材系なんかも含めてブロックしとくとクリック単価があがったなんて話も2chあたりで見掛けた記憶がある。俺はめんどうなのでやってないけども。
さてはてこのような疑似科学とか似非科学とか呼ばれるものたちは、なぜいつまでも無くならないのか。おもしろ科学読本的な書籍や健康になれるとうたった本を販売し、それが広まることで関連グッズを売り上げてたりする。ほとんど詐欺みたいなもんだ。
古くは天羽優子さんの水商売ウォッチングのように、水関係のもの、整水器販売やらなにやらがかなり多いし、極端に広まったものとしてはマイナスイオン関連商品なんかもそうだ。
一見説明が科学的で、それなりの科学知識が無いと反論不能、ましてや一般の人間には普通に「へえ、そうなんだ」と思ってしまうような代物。そこらへんを突いて商品を買わせるという犯罪スレスレの商売。テレビ局の人間だってだまされちゃうから、各種メディアを通じてガンガン広まって、インターネットで検索くらいしてみないとニセモノだってわからない。公立小中学校の校長先生たちまでだまされて教育現場にも入り込んでるというおそろしい代物。
ネットじゃよく「理系知識が足りなすぎる」とか「情報リテラシーが無い」とか言われてたりするんだけども、正直言うとまあこりゃだまされてもしょうがないよな、と思ったりする。
一度聞いてみたいんだけども、みんなそんなに家にあるものの動作原理って理解してる? ホワイトボードがなんで書いて消せるか説明できる人しか使ってないと思う? 説明できたにしても「インクが水でとけるから!」とかそんな程度だったりしない?
身近なものであればあるほどそれが当り前に動いてるもんで、その動作原理についてまで理解しようとは思わないもんだ。
そもそも中高レベルの教育まで受けたにしても、ほとんどの生徒が5割3割しか内容を身につけずに卒業してくという話も聞く*1。ただでさえ高度になってて理解の難しい最近の家電だし、実際動作原理まで理解するのはかなり難しい。
だからちょっとウソ入ってもいいから概略だけ説明して売ろうという動きがあっても責めるのはかわいそうだと思う。真面目に説明しようとしたら消費者は「難しくてわかんない」とか言いだして誰も買ってくれなくなるだろうし、ちょっとウソ入ってもいいから概略だけ理解したいという消費者側も責める気にはならない。
そこらへんを突いて理論的に確立してないものをそれっぽい説明をつけて売ろうとするから、似非科学ビジネスは悪質なんだ。
わかってないならわかってないでいいのにね。よくわかんないけどこういう風に処理した水を飲んでたらウンコいっぱい出るようになったんですよー、で充分。わからないものを選択するリスクは消費者自身が負えばいい。水のクラスタ小さくなるだのなんだの説明を付けようとするから悪質になる。
複雑性となんちゃって理解
さてそれでふと思い出したのがハイパーテキスト上で馬鹿の一つ覚えのように「価値」云々に没入するのは、勿体無い。という記事。以前書いた自分自身の価値は、自分には定められないという記事への再反応で、議論の方向性としては俺の興味の無い方向だったのだが、「複雑性の縮減」というのが非常におもしろくて、そのうち反応を書くつもりだった。
大昔、哲学というものに触れたとき、感じたのはそのおもしろさよりも、あまりの複雑さだった。誰某がかく言った、どこそこのこいつがこう言った、であるからこうだ、という説明が非常に多い。要するに引用であるから論文としては正しいのだろうが、それをおっかけるのにどれだけ膨大な時間をかけねばならないのだろうと思うと絶望的な気分だった。Perl書きにはCatalystのソースを読んでる気分、といえば少しは伝わるだろうか。まだあれはソースが目の前にあるからマシな方なんだけども。
しかもそれは時代が進むにつれて雪だるま式に膨れ上がるのである。
だから俺は哲学というのはいずれまたどこかでデカルトかカントあたりまで戻って再構築しなおさねばならないハメになるのではないかと思っていた。誰も追いかけられなくなるほどにまで複雑化した結果として。
ぽまさんことid:magician-of-posthumanさんの文章はその頃のことを思い出させる文体で、若干の懐かしさと結局現代哲学まで到達できなかったほろ苦さともあいまって、俺にとっては愛さずにはいられないブログだ。
別館:ポスト・ヒューマンの魔術師に書かれている文章は、多くの「参考文献」が記述されていて、その筆者や出版社、ページ数まで記載されていることから、相当な時間をかけて記事を書いているのだなぁ、と思う反面。
もしかしたらその出版社が、実は全て「民明書房」ではないのか、と疑うこともある。
「ぽまの人」の正しいハンドルは、確か「木村」さんだったと思うが - ekken?
これを見て俺は大爆笑したのだが、謝罪という結果を迎えた。この展開も非常にらしくて第3者としてはおもしろかった。
ただひとつ、ぽまさんも見落としてるのかあえて無視してるのかは知らないが、「実はすべて民明書房なのではないか」というのは今回のような問題を考えるときに非常に重要な指摘だと俺は思う。
民明書房はご存知の通り架空の出版社。漫画のネタとして非常に有名なのだが、到達できない根拠という面から考えると非常におもしろい。
到達できない根拠には2つある。
- 存在しない根拠
- 到達が困難すぎる根拠
似非科学は1だが、科学は2だ。もちろん基礎的な部分なら充分到達可能だろうが、製品化された段では2になるものがものすごく多い。
ekkenさんはただのギャグのつもりだったかもしれないが、「その参考文献ずらずら並んでるの、さすがにとても全部読んでられないですから!!」という心の叫びがちょっと聞こえて来るような気がして、ホントにおもしろかった。確かに普通読んでられない。
「なんちゃって」理解することと、「嘘を吐いて」理解させることが、効果的に重要な選択となる。そこにおいてキーとなるのは、メタファーだ。
ハイパーテキスト上で馬鹿の一つ覚えのように「価値」云々に没入するのは、勿体無い。 - 別館:ポスト・ヒューマンの魔術師
俺が前述した現代の複雑化した商品とその消費者への説明、消費者の理解の仕方というのは、このひとことに尽きる。「なんちゃって理解」とは見事なネーミングだ。もっと理解をたやすくするために、なんちゃって理解ができるよう再記述するのはいいことだと思う。俺も友達が理解できそうに無い文章をわかりやすくまとめたりしたこともある*2。
俺がよく叱られながらもたとえ話で話す事をやめないのは、このへんをやはり一度ならず考え込んだことがあるからだ。人に説明するときにどうとっかかりをつかんでもらうか、とにかく次のステップにいってもらうために踏み台的に使える理解をどう与えられるか。
おそらく哲学のみならず科学も、こういったなんちゃって理解が必要なのだろう。そのなんちゃって理解をどの程度めぐらすかというのが、似非科学ビジネス対策において非常に重要なテーマになるのではないか。
おそらくそれは教育にも関係してくるだろう。なんちゃって理解の線引きが出来たら、それを落し込む先として究極なのが学校教科書ということになろうからだ。
このへんはだまされてる人をあざわらって終了、といった向きもあるだけに難しいだろうが、科学に携わる人々にはどうか我々が似非科学にだまされない程度の理科知識を「なんちゃって理解」できるおもしろい文章を書いていってもらいたいなと思う。
おそらくそれが理系センス、科学センスを磨く、ひとつの大きな力になるんじゃないかなと思うんだ。
それで似非科学に流れてるお金がちゃんとしたところに流れるようになればいいなと、心から思う。