俺ははてなブックマークが好きで、おもしろかったブログの記事やらなにやらをどんどんブックマークしてる。タグを辿って前に見た記事にすぐ辿り着けるし、何よりウェブ上のリンクになるから、普通にGoogleなんかで検索してもその記事が出てきやすくなるので便利だ。
そこにコメントをつけることがある。記事を書いた人間へのメッセージを兼ねる事もあれば、たんに自分用のメモの事もある。人に紹介するための文であることもあれば、検索するときのキーワードをコメントに織り込むだけということもある。
先日、そんなはてなブックマークコメントで「ウェブの情報を消すのは害悪」だと書いた。それについて社交辞令程度の説明を求められたのだが、いまさらそんなこと書くのもねえ。90年代からさんざん議論されて来た事だし、当時よく言われた「リンク先が消えてるときのがっかり感」だけでも充分害悪だと言い切っていいだろう、くらいのこと思ってる。
ただ、当時からウェブにあげた記事を消す、ないしサイトを閉鎖するということを何度も見てきて、ひとつ気付いたことがある。
それは、彼らはその多くが「自分の価値を自分で定められる」と思い込んでるということだ。
だいたいサイトを消す理由ってのは「更新できなくなった」「メンテナンスしてる暇が無いので」「情報が古い」なんてのが多くて、当時から「古い情報には古い情報なりの価値がある」なんてのもよく言われてた。だからこそ日付表示が重要。ブログシステムなんかはそのへん最初からついてるから便利だね。だいたいそんなこと言ったら古典作品の価値はどうなるんだとか、江戸時代当時は30年前の漫画みたいな価値しかなかった浮世絵なんかどうなるんだとか、よくある話。
その最中にいる人間には、自分の目の前にあるものや、自分自身の価値が見えないなんてのは、ホントよくあるんだ。ただの日記のつもりが当時の気候が描かれていて、データが取れてない時代の地球環境がわかるなんて話もあったよね。
価値ってのは、関係性の向こう側にある。自分ではたいしたことしてないつもりでも、会社や他人にとってはすごい価値のあることだった、なんてこともそう珍しい話じゃないだろう。
前にほんの短いプログラムを書いて自分で使ってたのだが、別に俺はそれに価値があるとは思ってなかった。いい加減なhackもいいとこのプログラムだし、はっきり言えばセキュリティホールもあるのだが、真面目に考える程でも無いのでほうっておいた。自分で使ってるだけだしね。
ところが、そのプログラムの話をなんとなしに出したら、それをぜひくれと言う人がいた。その当時やってた作業に、切実に必要な機能を備えてたらしい。一応注意事項とともにプログラムを渡したら、とても感謝されてびっくりした。
こんなことはよくあることだろう。
このプログラムは、俺が話を出した時に関係性が生まれ、その関係性の向こう側に俺が想像もしない価値があった。ウェブでいうなら関係性はリンク、プログラムが文書やブログの記事になるか。
よく人は謙遜も入るのか自分自身やその生み出した物の価値を低く見積もる。「人にお見せするようなものではない」だとか「まだ見せられる段階じゃないんだ」とかね。ひどいのになると「俺は生きてる価値が無い」なんてのもある。
でもそうじゃない。価値は自分で定めるものじゃない。価値は人につけてもらうものだ。
他人と関係を持って、はじめて自分自身の価値がわかる。ある人にとっては無価値でも、別の人にとっては大きな価値になることもある。意図した価値とは、まったく違う価値を得ることもある。
はっきり言おう。おまえの価値はおまえものじゃない。おまえと関係を持ったみんなのものだ。
だからどうか、消さないで欲しい。ウェブの文書も、自分自身もね。お荷物だなんて、思ってくれるな、頼むから。