狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

運動会の組体操とブラック企業の「感動」「チャレンジ」「一体感」は捨て去るべき

「安全な組体操」の実現に向けて ―馳浩文部科学大臣に組体操の段数制限を求めますという署名活動が行われていたので賛同してきた。

最近どうも子供の運動会で行われる組体操がいろいろと話題である。


10段ピラミッドの組体操などという正気の沙汰とは思えないことをやらせる教員がいるというのが本当に驚きではあるが、さほど不思議でもない。実際のところ教員というのは「でもしか教師」などと言われた時代があり、90年代まで教員というのは他に仕事のない人がやるものであり、その質というのはたいへん低いものであった。よく大学を出て教員免状を取れたものだと思うような人たちがごろごろしてるのである。それからたかだか20年、「水からの伝言」や「江戸しぐさ」などの似非科学や偽歴史の蔓延とともに学校教員というものがいかに学ばずものを知らない人物たちであるかを象徴するのがこの運動会における組体操であろう。

そもそも10段の人間ピラミッドは7メートルもの高さになる。Facebook である人がコメントしていて知ったのだが、労働安全衛生規則第435条「はいの上における作業」で2メートル以上の高所での作業にはヘルメットなどの保護帽の着用が義務付けられている*1。そうした法規制のさらに高い場所に保護帽もなしに子供たちを立たせるなんてどう考えてもおかしな話だ。

もちろん下段の人間にかかる重量も問題である。大阪経済大学の西山豊教授のホームページに Human Piramid という項目があり、そこで10段ピラミッドの荷重計算をされているので引用してみよう。

人間ピラミッドの荷重計算

非常にうまく分散されてはいるものの、最大で3.9人分もの重量がかかることがわかる。安全を取るなら最大でも1.5人分の荷重である5段が限度であろう。それだって子供たちには十分な「チャレンジ」であるはずだ。これは151人でやった場合だが、137人という事例もあるらしい。

どこをどう抜いたのか、軽量化の方向で工夫されてるなら良いのではあるが……。この記事に興味深い言葉がある。

木下誠校長(60)は「一歩間違えれば大変な事故になるが、安全性を高めるために工夫をすれば、実現できる。生徒たちが感じた代え難い感動や達成感は、その後の人生に必ず生きると信じている」と話している。

asahi.com(朝日新聞社):できた!10段ピラミッド 137人で組み体操 兵庫 - 朝日新聞プラス

「感動」と「達成感」。既視感を覚えると思えば、これはいわゆる「ブラック企業」の経営者がよく言う言葉である。

そりゃあ無茶な仕事をやり遂げたときの感動や達成感というのはある。だからといって常に無茶なことをやらせる必要はない。できるかどうかわからないチャレンジを常に続けるなんて「仕事」ではないのだ。普通に考えて客の方も迷惑であろう。それを常態化するから「ブラック企業」などと呼ばれるのである。そんな感動は一生に一度あればいい。

もちろん子供たちには教育上困難にチャレンジすることも必要だろう。それを成し遂げる感動を味わってもらいたいという気持ちもわかる。だからといってそれが人間ピラミッドなどというスキルも知識も残らない代物である必要はないし、たった一人で牛丼店を一晩中まわすなどという無謀である必要もないわけである。

困難というのは自らの意思で挑戦し、知識と知恵をもって乗り越えるからこそ意味がある。そうでなければただの我慢大会だ。心身を傷めつけるだけで何も残らない。残るのは傷跡だけである。

ブラック企業経営者や学校教員は、知識や知恵を使わせず、ただの我慢大会を乗り越えることで「感動」と「達成感」だけを抽出しようとしてる。それは洗脳の技術だ。教育でもなければ仕事でもない。

知識と知恵で乗り越えた困難は、技能になる。その困難は二度と困難にはならないだろう。1度見た技は通じないのである。

そして知識と知恵で乗り越えられない困難は、とっとと逃げるべきだ。そんな困難に付き合う必要はないし、付き合ってたら心身を痛めてしまう。下手をすれば二度と回復しなくなってしまうことだってある。乗り越えられるはずだった困難すらも乗り越えられなくしてしまうのである。

人生には困難がつきものだ。その困難を乗り越えるのは我慢することではなく、知ることと考えることだ。正しい知識と冴え渡る知恵は、たいていの困難を乗り越える技術になる。それを磨くことこそが困難に立ち向かうすべを身につけるということなのだ。

「時には我慢も必要」だって? じゃあその我慢は何分続ければいいの? 我慢をやめる条件は? それもわからず我慢だけさせるから大怪我するんでしょうが。どんな素材も一定以上の圧力をかければ折れるんだよ。どこまでやったら折れるかを知ることが「知識」でしょう。そして折れてしまった素材は二度と戻らないのだ。

ブラック企業と学校教員は、そうして二度と戻らない若者という素材を折り続けてきた。そろそろどこまでやったら折れるか学んだっていいんじゃないですか。折れたら要らないとポイ捨てしてきたツケを社会に押し付けてきた結果が年間3万人という自殺者と急増する鬱病患者、そして年間200万人以上生まれた団塊世代のわずか半分以下しか子供の生まれない少子化社会でしょう。

未来を食いつぶすシノギやシバキを、ビジネスや教育とは呼ばないのです。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>