読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

「日本のリベラル」をリベラルと呼ぶのをやめにしませんか

日本の“リベラル”は、世界標準の“リベラリズム”とは別モノだったという記事。紹介されてるリベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでくださいという本もなかなかおもしろそうだ。タイトルが現状をよく反映している。

2年ほど前、秘密保護法が話題だった頃に「香山リカ」を名乗る人物が「私たちリベラル派は嫌われている」と発言して話題になったことがある。「香山リカ」とはタカラトミーのリカちゃん人形のフルネームだが、それとはまったく無関係らしい。

上の記事に詳しいが、リベラル派の人物が反対を唱えるだけで「あいつらが反対してるならいい法律なんだろう」と判断されるレベルでリベラルが嫌われている、という告発であった。その後「香山リカ」を名乗る人物はどうやらそのことを本にしていたようだ。

さてこんなにも嫌われてるリベラルとは一体なんだろうか。

自由と平等を掲げるのは近代国家としては普通のことであり、我らが日本国も自由主義国家の一つである。厳密には議論があるだろうが、日本の憲法は自由と平等、そして自由主義の根幹でもある個人の国家や宗教からの自由、つまりは基本的人権を掲げている点で自由主義国家と言って差し支えない。

社会自由主義とも言われる中道左派というのは、近代国家の目指すところとしては実にありきたりなのではある。

もちろんこの中道左派には反対するものたちも少なくはないのだが、自由主義国家が現代においてある程度利害調整をして真っ当な経済政策をとっていくと、結局は中道左派路線になってしまうものではなかろうか。どう考えてもリベラルではない日本の自民党も、結局のところ中道左派のような政策をやるはめになっている。

ではもう一度問おう。「リベラル」とは一体何なのだろうか。

おそらく現代日本において「リベラル派」とされてる人たちのことは「新左翼」「ニューレフト」と呼ぶべきであろう。従来の意味での新左翼学生運動成田闘争といったものに代表されるように、暴力的革命運動をする人々であった。ここに「言葉の暴力」という概念を持ち込むと、現代日本において「リベラル派」と呼ばれる人たちを新左翼と呼ぶのに値することに気づく。

彼らのネットの活動を見ていると「あべしね」というワードがちらほら出てくる。今の総理大臣安倍晋三氏に対して「死ね」という言葉を投げつけてるわけだ。暴言以外のなにものでもないだろう。

この他、デモ活動における暴力的な言語表現などなどを見るに、「火炎瓶やゲバ棒を言葉の暴力に持ち替えた新左翼」と呼んで差し支えないのではなかろうか。

こうした新左翼の一派としてネットフェミニストを見てみると、彼ら彼女らの男性という属性への暴力的な言語表現も合点がいく。ネットの向こう側には火炎瓶もゲバ棒も届かないので言語的暴力を投げつけていたのである。

公安が治安維持活動として新左翼を取り締まってきたなかで「言葉の暴力なら逮捕できない」という進化を遂げたのかもしれない。実際旧来の新左翼の流れをくむ団体もあるようだ。

「日本のリベラル」を「火炎瓶やゲバ棒を暴言に持ち替えた新左翼」と定義付けてしまえば、彼らはもはやリベラルではなくなる。スタンダードな意味での自由主義中道左派をリベラルと呼ぶことができるだろう。

逆に言えば、リベラルと新左翼を分かつものが「暴言」「言葉の暴力」であるという事でもある。暴言を口にする者をリベラルと呼ぶのをやめよう、というわけだ。

そもそも自由主義とは啓蒙主義から生まれたものだ。人間は普遍的な理性による合意が可能だとするのであれば、こうした言葉の暴力は啓蒙主義的ではないだろう。

インターネット時代の啓蒙とは、世界を情報で満たすことであるべきだ。知識を、情報を、みんながネットに持ち寄ることで達成されるべきだ。世界は少しずつ良くなっていく。あなたがネットに書き込むたびに、少しずつ良くなっていく。充分な情報は充分な判断を導いてくれる。あなたの書き込みが誰かの蒙を啓いてくれる。誰かの書き込みで自分の蒙が啓かれる。欠けたものは補えばいい。

この世界を、知識で満たしていこう。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>