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狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

アプリも音楽も電子書籍もコピーできないのは邪悪である

AtomとかいうGitHub発の不自由なテキストエディターについてという記事。このブログは不自由なソフトウェアを常々糾弾していてたいへんすばらしい。

不自由なソフトウェアとは、ソースコードが手に入らなかったり、手に入っても改変と再配布に制限があるソフトウェアのことである。

しかしなぜそれが邪悪なのか、というあたりは意外に理解が広まってないように思う。

考えてみよう。例えばあなたの大事な人が困ってる時、助けてあげられるソフトウェアをあなたが持っているとしよう。コピーしてあげればあなたの大事な人はすぐ助かる。けど不自由なソフトウェアではコピーしてあげる事はできない。あなたは大事な人を助けてあげられない。

あなたにプログラミングの知識があり、使ってるソフトウェアに足りない機能があるとき、ソースコードがなければ機能を追加できない。ソースコードがあっても改変したものが再配布できなかったら、その機能を欲しいというあなたの大事な人がいても渡してあげられない。改善と共有という善行が阻害されてしまう。

不自由なソフトウェアとは、人間の倫理的な行為を束縛するものなのだ。

そもそもソフトウェアのみならず、電子データというのはコピーや改変が容易なところがメリットである。これは「改善と共有」という人々の善行をうながすのにとてもよい性質を持っている。

ソフトウェアや電子データの海賊版問題は悪意から生まれるものは実はそう多くない。「改善と共有」という善行が、現代の経済とバッティングしてるだけに過ぎない。これはデジタル時代における著作権問題でもある。

自由なソフトウェアの普及を目指すリチャード・ストールマンは、1983年米国でソフトウェア著作権が成立したのを受けて今のGNUプロジェクトの母体になる活動を始めた。いまもこの記事を彼がその時配布し始めた Emacs で書いている。

今この時代、著作権への理解が進んで海賊版もだいぶ減ってきたのであるが、改めて倫理観を問いなおすことも必要だと思う。コピーしないことが本当に倫理的な行為なのか、時々思い出したようにでもいいから考えなおして欲しい。

著作者の利益と、あなたの隣人を助けることと、どちらが本当に大切なことなのかを。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>