狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

グローバル化された世界での観測範囲の変え方

先日更新終了を宣言されたカトゆー家断絶さんが Twitter でこんなことをつぶやいてらした。

ネットつまんね話で観測範囲変えろよってのは正論なんだけど、変えた所で目に入るのはまとめ系サイトとかWikipediaとかで。いつもの暮らしから抜けだして地方とか海外行ってみたのに町並みにマクドとかユニクロとか溶け込んでてあれ結局いつもと同じじゃねみたいな。

Twitter / katoyuu: ネットつまんね話で観測範囲変えろよってのは正論なんだけど、変 ...

グローバリゼーション、フラット化と言われて久しいが、実際これは鋭い。ちきりん日記で以前こんな記事があった。

何がおもしろかったかというと、その埼玉県の街は、そのまんまアメリカの郊外の街だったからです。JRの駅があることを除き、ほぼそのまんま。こういう街をあたしはたくさん見てきた。だから「こんなとこにアメリカの田舎町ができてるんだ!」って驚いたのでした。
(中略)
アメリカの大都市の目抜き通りはどこも酷似してます。ある時からはそれは世界の大都市で同じになりはじめ、ロンドンもパリもNYやシカゴと凄く似てきた。東京も2000年くらいから「世界の大都市に似てきた感」がすごく高まりました。どこ国の大都市の一流ショッピングストリートにも同じ店が並んでる。

結局、街はローカルが勝ち! - Chikirinの日記

そう、グローバル企業がどこにでも店を作るものだから、どこにいっても同じ店が立ち並び、同じ風景がそこに現れてしまう。街そのものが規格化されてしまったかのようだ。

バンコクのデパートも、ブランドショップが入ってるあたりは東京とも変わらない。同じ物がちがう通貨で値付けされてるだけだ。

グローバリゼーションの結果とは、街の規格化なのである。ネットもある程度アクセスを集めるノウハウが蓄積され、おおむね規格化の方向に行くのはいたし方ないだろう。かつてテレビが「視聴率を取るためのノウハウ」の蓄積によって斜陽化したように。

だがネットのテレビと違うところは、そこに「人が住んでいる」とこである。ネットとは人の住み着く場所なのだ。

そして人との出会いとは、おおむね「場所を変える」ことによって発生する。思い出してみるといい、進学のたびに新しい人とであったことを。就職してしばらく経つと新しい人と出会わなくなったことを。

規格化された同じ街の風景でも、住んでる人は違う。出会える人も違う。そして規格化された風景の裏側には、その街の本当の「ローカル」が待っている。ローカルと接続することで、規格化された風景は「表側」でしかなかったことに気づくのだ。

ネットは人と人との出会いを加速させる。ただ学校に行き、家に帰る生活では決して出会うことのなかったようなタイプの人とも出会うことができる。「場所じゃなくて人なんだよね」というのは最近流行ってるNHKの朝ドラ「あまちゃん」からの引用だが、これはまったくそのとおりなのだ。

「日本が嫌い」という人は日本でいい人に出会えなかっただけということはよくある話なのだ。いい人に出会えた場所はいい場所になっていくし、離れがたくなる。ネットのコミュニティというのも同じようなものだろう。

そういう「自分と合った」人たちと出会う方法は「つまらない」と声を上げることではなく、「これが好きだ」「これが楽しい」と自ら情報を出していく事だ。それが「仲間」を見分けるシグナルになる。これから出会うべき仲間たちへのサインとなる。

グローバル時代に規格化された表側じゃない本当の「ローカル」へ導いてくれる仲間たちは、そうやって見つけていくしか無いのだと、俺は思うのである。その時、観測範囲はいつの間にか変わっているだろう。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>