狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

「ここにいてもいい」から「ここにいる」へ

エヴァ、新旧のファンの違いについて庵野インタビューという記事。
新世紀エヴァンゲリオンというアニメ作品については、俺にも並々ならぬ思い入れがある。まだ若かった17年前の自分を引きこんだあのアニメは、良くも悪くも時代を象徴しすぎていた。

90年代初頭。崩壊したバブル経済のなか、辞書ほどの厚みがあるアルバイト情報紙が1年で平綴じになった。まだ100円ショップも激安スーパーもなく、バブルの遺産のような成金趣味がまだちまたに溢れていた。薄っぺらいアルバイト情報紙を見ては始業と同時に電話をかけ、「もう締め切りました」の言葉を聞くような時代だった。

女子高生ブームだの援助交際だのが言われはじめた95年、新世紀エヴァンゲリオンは放送された。

暗い時代だった。景気も悪いし、インターネットも個人向けサービスが始まったばかりで接続してる人は少なかった。秋葉原は駅前で白装束の謎の集団が不思議な踊りを踊っていて、いま思えばあれは地下鉄サリン事件をおこしたオウム真理教の経営してるパソコンショップのプロモーションだった。そう、地下鉄サリン事件も95年。エヴァンゲリオン放送の半年前のことであった。サリン事件の2ヶ月ほど前には、阪神淡路大震災が起きていて、テレビを通してとはいえ、生まれて初めて本物の「崩壊した街」を見せ付けられた。

不安な時代。なにを信じていいのかわからない時代。それは17年たった今でも地続きだ。あの頃の暗黒の上に、俺たちは立っている。

ほら、オタクって基本的に今も昔もいじめられてるし、「この世にいるな」って皆に言われながら生きてるじゃないですか。そんな人たちが自己啓発セミナー的な破綻した最終回であっても「僕はここにいて良いんだ!」って思えるのは、すごく救いだったんだよ。
(中略)
無理やりででも、「ぼくらはここにいてもいいんだ!」って居場所を提供されたオタクははしゃいじゃったんだな。「こんな自分みたいなダメ人間が出ているアニメですら世間に放送されているんだから、私たちもここにいていいんだ!」って。
(中略)
そこに世間が迎合して、心理学本とか考察本を出したり、グッズを売りまくって「あなたたちはここにいて、商品を買って良いんですよ」ってやってしまったのだ。新聞にもエヴァの記事が載ったり、「経済効果!」ってあおったり、アスカと一緒に映れるプリクラとか出たし。
そりゃー、増長もするというもの。
僕も当時は中学生でしたしね、増長させていただきましたよ。
なんか、オタクが社会の中で発言権を持ち始めた機運のきっかけがエヴァでしたね。インターネットやパソコン通信の発展とも重なった時期で。

エヴァ、新旧のファンの違いについて庵野インタビュー(don't be) - 玖足手帖

そう、言われてみれば確かにエヴァンゲリオンからだ。それまでオタク趣味は本当にひっそりとしたもので、セーラームーンにどれだけ萌えてようとも「美奈子は俺の嫁」なんて言える明るさはなかったし、アニメやゲームが好きというだけで白い目で見られていた。

俺たちオタクは、エヴァンゲリオンにすがってしまったのかもしれない。あの話題のエヴァ? ああもうとっくに見たよ。本放送でな! 俺たちが時代の最先端なんだよ!! ひれ伏せ!

それくらいの気持ちがどこかにあったのかもしれないと言われると、それもまあ否定できないかもしれないなあと思う。

しかしエヴァンゲリオンの内容そのものは、そんなものをふっ飛ばそうとするばかりだった。どう考えても間に合わなかったんだろうって感じで線だけのアニメとか流すし*1、劇場版なんて最悪で、ひとつめは物語がちゃんと完結しなおすのかと思えば肩透し喰らわされるし、ふたつめは劇中に映画館の席が映し出されたりするし。

もうね、庵野には裏切られまくりですよ。

けどね、あの劇場版のラストシーン。シンジが気絶したアスカの首を締めて、気付いたアスカが「気持ち悪い」と言い放って終るあのシーン。自分も他人も傷付けながら生きて生きて、それでも誰かと繋がろうとする。それが象徴されてる気がしてね。

孫引きになるけども、

旧作で無気力だったシンジは、09年公開の新作第2部ではヒロインの危機に「綾波を・・・・・・返せ!」と絶叫し、命がけで手を伸ばす。(中略
 その作品世界は、孤独と絶望の影が濃い旧作から脱し、「たとえ傷ついても自分の殻を破り、他者とつながりたい」強い意志を感じる

エヴァ、新旧のファンの違いについて庵野インタビュー(don't be) - 玖足手帖

という当該記事に引用されてる朝日新聞太田記者の指摘は、半分あたってて半分はずれてると思う。

旧作も繋がろうとはしてたんですよ。殻はやぶれかなかったかもしれないけれども。そこに意志はあった。それがあのラストシーンに象徴されてるし、必死に綾波を助けようとしたのは旧作の「笑えばいいと思うよ」の時だってあったわけじゃないですか。

新作劇場版2作目の「破」では、確かにもっと具体的に人と繋がろうとするシーンが描かれる。こじれた親子関係、綾波のおせっかい。こじれたものがほぐれようとしていく。「綾波を……返せ!」のあのシーンにいたっては、初代ガンダムアムロのセリフ「僕は、男なんだな」を彷彿させるある種の腹のすわり方をも感じる。

でもね、違うんだよ。こないだのとなりの801ちゃんにもあったけれども。

いやぁー!! 人のエヴァ観を老害呼ばわりした若者が絶望しながら映画館から出てくるのが目にうかぶよ!! バーカ!! これがエヴァなんだよーー!! うわーん!! アンノを信じる奴がバカなんだよ!!

ヱヴァンゲリヲンQ楽しみです!! (となりの801ちゃん)

そう、俺たちはまた裏切られる。庵野秀明という男に、また裏切られる確信がある。

本当に言うように娯楽作品として完結されたら、俺たちオタクは放り出されたように、リア充どもが盛りあがる中、「俺たちのエヴァはこんなんじゃない」と虚無感にさいなまれるだろう。

「俺たちのエヴァ」がそこにあったら、言い知れぬ気持ち悪さと疑問符の中、誰もがどうしたらいいかわからなくなるだろう。

あの90年代の、暗闇の中のように。

僕が「娯楽」としてつくったものを、その域を越えて「依存の対象」とする人が多かった。
そういう人々を増長させたことに、責任をとりたかったんです。
作品自体を娯楽の域に戻したかった。
ただ、今はそれ(現実逃避するオタクへの批判)をテーマにするのは引っ込めています。
そういう人々は言っても変わらない。やっても仕方ないことが、よく分かりました。

庵野秀明「娯楽の域をこえてエヴァに依存するオタクには、もう何を言っても無駄な事が分かった」 : 2のまとめR

もし俺たちが裏切られないとしたら、それこそエヴァンゲリオンは「依存の対象」となるだろう。

しかしもしそんなものが実現したら、それは新時代を切り開く力になるかもしれない。90年代、「ここにいてもいい」と癒された俺たちは、「ここにいる」と力強く宣言できる何かが必要なのだ。

人は誰かに居場所を作ってもらい、また誰かの居場所を作る。そうして人の輪は広がっていく。その輪からはずれていた俺たちオタクの居場所を作ったのがエヴァだとするなら、エヴァの居場所は誰が作ったのだろうか。オタクは誰の居場所を作れるのだろうか。

どのみち、俺たちはエヴァンゲリオンを乗り越えていく必要がある。劇場版Qの公開が楽しみだ。

*1:それはそれでアニメのおもしろさが見えて俺は好きなんだけどね

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>