狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

社会を壊す時代の終焉とともにヤンキーと左翼は死んだ

テレビとはヤンキーの心を掴むことという記事を読んだ。

自分はどっちかというと反社会的な考え方を持ってると思う。子供の頃から社会から与えられるものにはそっぽを向いてきたし、親や教師の言うことなんてさらさら聞きはしなかった。そういう意味では自分にも「ヤンキー」的な部分は多少あるんじゃないかと思う。

しかし時代が変わってしまった。大人になってみたらあれほど「俺がぶち壊してやるぜ」と思っていた社会の壁はとっくに崩壊していた。ふり上げた拳は行き場を無くし、同時に生きる意味も見失っていた。

そう、自分には敵が必要だったのだ。その敵と戦う自分がアイデンティティだった。しかしその敵は俺が戦う力を練り上げてる間に自分で勝手に崩れ落ちており、もはや「反社会」はギャグにしかならなかった。

引き合いに出して申し訳ないが、バレンタイン粉砕デモで恋愛資本主義を打倒せよといった活動には大爆笑させてもらった。ギャグでやってるんだと思ってたからだ。ギャグとしては一級品だったと思う。

かつて社会は壊すべき存在だった。破壊と再生が求められていた。いや今も、破壊すべき部分は多少残ってはいるのだが。

でももうほとんど壊れた。瓦礫の中で「粉砕!」と叫んだところでもはやギャグ以上のものは生まれない。今はもう、この瓦礫の上に新しい社会を作りだす「再生」の時なのだと思う。

権威の否定がいきづらさにつながるという記事はまさにそれを象徴したような記事で、社会がもはや「生き方」のモデルを提供してくれなかった事を示している。範にすべき先人はもはや古くさくて今の時代にそぐわないし、かといってほとんどの人が自分自身ですべてを考え決定する能力が身につくほど、今の教育制度は立派なもんじゃない。

しかしその時代について行けない人がいる。それが冒頭で紹介した記事に描かれる「ヤンキー」なんだろう。

社会に迎合せず、自分の律で行動し、法律や政治や知恵や科学を無視し、人情を大事にする。そういう人物像に、ヒーロー的な憧憬を今も日本人は持ち続けてるのだろう。

先日このような記事がコピペされて話題になっていた。これも結局そういうことなのかな、と思う。社会的には悪い子でも、直接対峙してみればいい子。そういうモデルが人をひきつけている。

何年か前から、ネットの言論が右傾化しているという発言をちらほら見掛けることがあった。その言論の最中にいた自分としては、そうかなあという気分だった。友達とその点を議論したら「右傾化してるんじゃなくて普通なんだと思います」という答えが帰ってきた。

変わったのは若者でもネット言論でも左翼でもなく、時代。こないだの派遣村についていろいろネットで意見が巻きおこってたようだけど、それも左翼の正義が時代の変化で正義じゃなくなってるからなんだろうな……。

昔は会社なり思想なり規範とすべきものを提供してくれるものがあって、それにならってればよかったけども、今は違う。ここは同意できるけどここは同意できないというのがどこに対してもあるのがあたりまえの時代。

周囲の意見を聞いても、派遣村という取り組みには賛同するがそこに憲法問題を持ちこんだり政府批判を持ちこんだりするのには反発を覚えるという感じだった。「派遣切りの被害者」という弱みにつけこんだ政治活動だとすら思ってる人がいるのだろう。

全面同意を期待してあれもこれもと持ちこめば反発を招くわけだな。もうそんなやり方は通用しないのに。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>