狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

空気読み国家の国民は「日本語が亡びるとき」をやっぱり読んでおけ

今週何かと話題を呼んだ日本語が亡びるとき―英語の世紀の中でを読んでみた。いろいろと異論はあるだろうが、やはりこれは読んでおいたほうがいい本じゃないかと思う。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

ただこの本は読む人によってはけっこう戸惑う本だと思う。梅田望夫さんの紹介記事を読んだ限りでは、我々の言語環境を未来予測をまじえて論じた本かと思っていた。紹介にも「論考」とあるしね。しかしこれは「論考」というには文学的すぎる。最初の章を読みはじめたとき、俺は何かの小説にでも対峙してるのかと思った。

内容も論考とまで言うには余計なことを書きすぎているし、まとまりがない。四章や五章を読まずに七章を読んだらそりゃ何をバカなことを言ってるのかという気持ちにもなるだろう。むしろ前のところにたくさんの「伏線」が張り巡らせれて、次第に決着してくような本だった。そう、むしろ小説のような読み方をしないといけない本なのかもしれない。割りに分量が多いので、読み切れない人も多いかもしれない。俺は食事を挟んで7時間ほどかかってしまった。

だがそれでも読んでおいた方がいいと思うのは、この作者水村美苗さんの経験を追体験するところに価値があると思うからだ。そういう意味でも小説的な本だなと思った。

時間がかかったのは分量のせいだけでなく、さくさくと情報を読み取るようには読めなかったからでもある。文章から思考を追体験し、肌感覚で描かれるシーンを感じて行く。むしろ感性で読む本ではないだろうか。

そうしてかすかに感じ取った水村美苗の体験──世界中の創作者が集まる大学──フランス語の栄華と凋落──世界における日本文学の地位──それらは確かに「英語の世紀」を感じさせるに相応しい体験だった。

とくに第一章の世界中の小説家や詩人がひとつところに集まって作品を書きまくる合宿のようなものに参加した話は非常におもしろかった。あの場面を追体験できただけでも、この本の価値はあった。

また彼女がフランス語で講演したという二章のパリでの語り。フランス語の栄華と凋落を描くだけでなく、講演が終った後に声をかけてきた人の言葉が、その後の大きな伏線になる。

薄々は気付いていたが、日本というのはなんとも奇跡のような国だとつくづく思う。アジア唯一の先進国となりえた理由を考えると、水村の言うように中国との絶妙な距離感、明治の冷静に考えると信じられないほどの才能の勃興などなど、確かによくぞという思いだ。地理的にもタイミング的にもあり得ないほどの幸運が日本という国を成り立たせている。

薄氷を踏みながら乗り切って来た日本という国の姿が、ありありと浮かぶ。

水村美苗は正直言えばインターネットを語るにはネットの経験が足りなすぎると思う。しかしそれでも「Google Book Search Project」を「グーグル・プロジェクト」と略してしまうような「オジサンセンス」の持ち主が、生き生きとその可能性と未来を見据えていることを語ってくれる第六章なんぞ、俺にとっては非常に感慨深かった。とうとうこんな人まで「自分と同じ未来」を見てくれるようになったんだな、と。

恐らく歴史認識においても似たようなものだろうと思う。俺程度の人間ですら、日本語の「国語」としての成り立ちを歴史的に解説してるところは退屈でしょうがなかった。知ってることばかりだからだ。しかしながら歴史の知識に穴があいてる向きもあろうし、それは致し方無いかという気もする。

日本文学が好きすぎてイっちゃってるなあ、と思うところもあるのだが、まあそこらへんも大目に見て読んでみて欲しい。この本に描かれる彼女の体験は、その思考も含めてきっと糧になると思う。

ちょうど本が届くのを待ち切れなくて読んじゃった本があるのだが、こちらと一緒に読むともっとおもしろいんじゃないだろうか。

日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書)

日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書)

日本人はなぜ英語ができないかという言語学鈴木孝夫の本は、1999年ともう10年近く前に出版された本だ。しかしながらおもしろいなと思うのは、今月出版されたばかりである日本語が亡びるとき―英語の世紀の中でと似たようなことを書いてるとこだ。水村の体験描写を抜いて骨子を抜き出し、書き方を変えたらこの本になるのではないか、という気さえする。読むのも情報を読み取るだけでいいので、こちらは1時間程度で読了した。

またおもしろいことに結論もほぼ同じなのだ。

言語の話者を残すということ、言語を水村の言う「学問が出来る言葉」としての「国語」として残すということは、どうしても教育に触れざるを得なくなる。そのために鈴木と水村の出した結論はこうだ。

「英語を勉強する奴は一部でいい、国語をしっかりやれ」

もちろん小さからぬ違いはある。水村は鈴木のように英語科目の事実上の必修を取っぱらえとまでは言ってないし、国語も国文学を読むこと中心にやれと言ってたりする。鈴木は日本語が亡びるとは考えてないし、むしろ英語の授業を部分的にでいいから採り入れろと言っている。水村が文学を読め、文学を読ませろと熱にうかされたように言えば、鈴木は文学なんぞ教育現場から取っぱらえと言う言説を紹介する。

さらには鈴木は語学教育専門家として英語学習の具体案を出して来る。水村はそこで日本語と国文学の亡びを憂う。

だが日本語というもののありかたについての論は同じようなものだ。どちらも日本語がどうして今のようになったのかを歴史的に解釈し、そして英語の時代における教育を問う本。

その点は学者である鈴木のほうが何枚も上手なので、こちらで読んでから水村の記述ははいはいと読み流して彼女の体験を追体験することに集中したほうがいいかもしれない。

空気読み国家の英語教育

少し前、裁判員制度は、世界に類を見ないモンスターになるという記事が話題になっていた。この裁判員制度の話かと思えば、日本の法制度の恐ろしい側面をさらりと話していて戦慄した。

郷原 その破壊力がすさまじかった。あれだけの大規模な捜査部隊を組織して、マスコミにもあらかじめ知らせたのかどうか分からないけれどもカメラの大放列の中、六本木ヒルズという象徴的な場所に攻め込んでいく。
(中略)
 しかも、その法令違反というのは、ライブドアという会社の評価を根底からひっくりかえすような事実なんだろうと誰しも思ったのですが、実はそうではなかったのです。もうかった金を会社の利益にするか資本準備金にするかという会計処理上の問題が問題にされただけだったのです。それでも、一度、検察の捜査によって、ライブドアに対する世の中の評価が出来上がってしまうと、それ以降、法令違反の中身がどうであれ、メディアの扱いは同じです。
(中略)
郷原 もう1人、六本木ヒルズで検察にたたきつぶされた村上氏は、見事に情報の出し方を考えて、非常に巧みに記者会見を演出していました。彼はマスコミや世間の反応を読み切っていたつもりだったんですよ。

武田 ホリエモンより一枚上手だった。

郷原 ただ、彼の日本の司法の世界、法令遵守の世界に対する読みは80%でしかなかった。というのは、世の中で嫌われちゃうと、法令の方が増幅して、違法領域が拡大していくんですよ。日本では、法令というのは世の中の評価に合わせて適用範囲が大きくなる。

武田 まさに法が適用される水位を上げ下げするわけです。それを司法自体が行う。法というものの性格を思うと、恣意的に拡張できてしまうことがまずおかしいんだけど。

郷原 村上氏もそこを読み違えたわけです。裁判所はその行為が世の中にどう評価されたかを考慮して、だいたい結論を決めていて、それに法令を合わせるんですね。

裁判員制度は、世界に類を見ないモンスターになる:NBonline(日経ビジネス オンライン)

ちょっと多めに引用させてもらったが、この郷原という人がとんでもない事を言ってる事にお気づきだろうか。

日本の法制度は、裁判所は、なんと世間の空気を読むと言ってるのだ。そしてその空気を作りだすメディアという存在が大きな力を持っているとも……。ああ、なんという空気読み国家……。

実はさきほど紹介した日本人はなぜ英語ができないかにも、空気読み国家極まれりと思える記述から始まる。

いま日本の教育界、実業界などでは、「日本人は英語ができなくて困る。これを何とかしなければ」という声が日増しに高まっています。
(中略)
いやそれどころか、英語は中学から始めたのでは遅すぎる、英語は頭の柔らかい小学生から教えるべきだ、といった声が強くなって、ついに文部省は三年ほど前からいくつかの実験校を設けて、英語の早期教育に全体として踏み切るべきかどうかの検討を始めました。
このように、日本人はもっと英語が、それもとくに会話ができなくては困るという、一種のムード的な危機感が世の中で支配的になり、それが教育の現場に対する圧力となって、国民全体を対象とする義務教育のあり方を左右しかねない現状を見ると、私は一人の外国語教育専門家として、ちょっと待ってくれと言いたいのです。

日本人はなぜ英語ができないか(P1〜)

どうだこれは。文部省は国民の空気を読んでカリキュラムの検討をしてる、空気が教育現場への圧力になる、そういうことではないか。

ということはだよ。そういう教育論をやたらとぶつ人は、大体ロクでもないとか言ってる場合じゃないってことだよ。

だって文科省は空気読んじゃうんだよ? 声が大きい方が空気作っちゃうに決まってるじゃん。

トンデモだろうがなんだろうが声が大きかったらそれが空気になって文科省へいく。鈴木先生のような専門家が「ちょっと待ってくれ」と言わざるを得なくなる。

ここで悪なのは「語ることをやめさせようとする声」だ。教育の素人が口を出すとトンデモになるんだよねーとかわかった風な口をきいて冷静かつ教養のある人ほど敬遠するテーマに引き下げてしまうことだ。

そんなことをしたら、むしろトンデモ言説に空気を作らせる事になる。とにかく語りつくしてまともな議論にまで昇華させることが大事なんだ。

英語の世紀における語学教育

水村美苗は自分が教育を語ることを「凡庸極まりない」と書いている。専門家じゃない自分をよく理解してるのだろう。だからそこについて書かれたところはわずかだし、漱石を始めとする文学を「ネイティブに読める人間」を失うのは大変な損失であるという主旨だ。

これについて俺は賛同するところではない(源氏物語だって立派に読み継がれてるしね)が、その文学の持つ国際的価値を聞かされると確かにうーんとうなってしまう。

鈴木孝夫の本にはこんな記述がある。

ところがよく知っていることが、英語としてうまく出てこないのです。参勤交代、お国詰め、譜代、外様、天領、お国替え、そして駕籠や関所といった、何でもない徳川時代についての日本語が、すっと右から左へ英語になって口から出てゆかないのです。

日本人はなぜ英語ができないか (P105)

鈴木はだから「日本語の概念を英語に訳出する努力が必要だ」ということを言う。「敢闘賞」という相撲の賞に相当する英語が無くて、"Fighting Spirit Prize"という訳語を出した事例を引きながら。

水村はというと、「訳せないものは訳せない」と開き直る。

それは漱石の文章がうまく西洋語に訳されない事実一つでもって、あまさず示されている。実際、西洋語に訳された漱石はたとえ優れた訳でも漱石ではない。日本語を読める外国人のあいだでの漱石の評価は高い。よく日本語を読める人のあいだでほど高い。だが、日本語を読めない外国人のあいだで漱石はまったく評価されていない。以前『ニューヨーカー』の書評で、ジョン・アップダイクが、英語で読んでいる限り、漱石がなぜ日本で偉大な作家だとされているのかさっぱりわからないと書いていたのを読んだときの怒りと悲しみ。そして諦念。常に思い出すことの一つである。
日本文学の善し悪しがほんとうにわかるのは、日本語の<読まれるべき言葉>を読んできた人間だけに許された特権である。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で(P264)

なんとも文学ナショナリズムという印象もある。水村美苗を追体験してなお、ここまで「国語」に執着するのは異様だとすら思う。

だがしかし2人の言ってることはものの裏表で、要するに日本語で表現し得る言葉が西洋語には無いということだ。ここらを2人とも西洋語同士は訳しやすいんだよね、みたいな話を書かれていた。

そこで日本人が英語を習得する事の難しさを、鈴木はさすがというほど明晰に「論考」して見せる。

水村のいう「英語の世紀」はもう来ている。日本文学が亡ぶかどうかは正直知ったこっちゃ無い。

むしろ考えるべきは我々日本人があまりの乖離の激しさに学習する事が難しい「英語」をどう学ぶかになるだろう。

いずれ水村が心配するように、学問は英語でなくてはできない時代が来るかもしれない。日本語で学習できるのはせいぜい義務教育か高校まで、大学の授業はすべて英語になってしまうかもしれない。

そういう時代も見据えて、とにかく「国語教育に力を入れろ」という2人の言説には俺も賛同する。

俺は自分が中学生の頃から早期英語教育はやるべきだと主張してはいるが、それは英単語をカタカナで覚えてしまって素直に英語の発音を聞こうとしない子供たちを見てきたからだ。他言語の存在を意識しなさすぎて学習に障害があるのではないかと思っている。そこをなんとかする程度の早期教育があればいいだろうと思う。

またよく言われるように言語を母語として習得可能なのは12歳程度までだということも考えると、中学生での文法も含めた英語はむしろ早すぎるんじゃないかという気さえする。

義務教育ではそれこそ海外旅行で使うような範囲の丸飲みあたりに特化したほうがいいんじゃないか。文法までやるのはむしろ選択制なり高校行ってからにするなりすればいい。

鈴木孝夫が言うように、国内のことを英語で読む訓練から始めるというやり方はとてもいいと思う。中学校では単語と海外旅行用ツール程度をやり、選択で少々の文法と日本の事が書かれた英文の読解をやるようなやり方がいいんじゃないかと、鈴木本を読んで考えた。

空いた時間を国語に突っ込んで、とにかく読解力と国語で書く力を上げさせる。そういう経験が英語学習にも役に立つし、読解力はすべての科目で有効な能力になる(算数の文章問題苦手な人いたでしょ?)。

とにかく教育は誰でも経験してるから簡単に語りがちだなんていって遠慮してる場合じゃない。そんな思慮深さを持ってない「トンデモ」ばかりが跋扈するハメになる。

日本人はなぜ英語ができないかを読んで教育手法を学び、日本語が亡びるときを読んで言葉から見た世界の中の日本をもう一度よく感覚しよう。

そしてあらためてトンデモじゃない教育論を戦わせるべきだろうし、さらなる参考図書も見つけるべきだろう。

文科省にトンデモが作った空気を読ませるな!

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>