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狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

空気読みの求められる日本社会が民度の低さを表している

先日行われたニコニコ大会議というイベントで、おもしろい現象が起きていたようだ。

「ニコニコ現実」のプロトタイプとしての「ニコニコ大会議2008」 - 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena

ここで総芸人社会というユニークな概念が提示されている。今の日本ではすでにそういう徴候があるのだという。

つまり人はこの日本社会で生きる限り、常にネタを求められるようになる。言われてみれば俺も日常的にボケ・ツッコミができるように先輩たちに求められて来たし、俺も周囲に同じようにしている。そうすることで「楽しい会話」がなりたち、笑いの多いコミュニケーションが楽しめるからだ(まったく上手ではないけどね)。

こんな社会では腹が出てるのも髮が薄いのもネタとして消費していく強さが必要なのかもしれない。

一方でその社会は大量の自殺者を出している。多勢の鬱病者を出している。外見を苦に、通り魔となる人を生み出している。

何かいつもひどいことばっか言ってる人という印象が強かったので意外だったのだが、ululunさんがいじめの構造を指摘しているのに非常に共感した。

いじられてネタとして楽しめる人もいれば、楽しめない人もいる。

よくそういう楽しめない人を「空気読めない」と言ったりする事が多いような気がするが、実は空気が読めてないのはいじってる(つもり)の側だ。

真底いやがってるのか楽しんでるのかは、その空気を読まなきゃわからない。いじってる側が本当に空気読めるなら、自分たちがやってることが「いじり」から「いじめ」になってることに気付くはずだろう。

「いじり」と「いじめ」の境界はそこだけだ。

意外と多くのコミュニケーション強者は、そういった境界を暴力で示す。特に小中学生にはそれが顕著だ。

たまに2chなんかでばかにされてる「てめーらネットでこそこそ言ってねえで俺の目の前に出てきやがれ」とか言いだしてるいわゆるDQNはそれだ。目の前にいれば暴力によっていじりといじめの境界を示し、自分の心地よい世界を守ることができる。

しかしネットでは暴力は通用しない。伝送線の向こう側に拳は届かない。

これは思えば、腕力の弱いいじめられっ子の立場だ。腕力の弱い子供は暴力をもっていじりといじめの境界を示すことができない。結果言われっぱなしで対抗手段が無い。暴力の届かないネットを通して、はじめてそれを体験する人も多い事だろう。

そうした腕力の弱い子供たちは、笑いを取ってその場をごまかし、夜の自室で一人悔し涙を流すか、笑いを取れることに喜びを見いだすか、あるいはコミュニケーションを拒否し、孤独の中で生きる事を選ぶしかないのかもしれない。その選択肢を、ネットという道具は唐突に人につきつけてるとも言える。

それはそれでパラダイムシフトと言うにふさわしい現象なのかもしれないが、根っこはもっと深い。

日本の動画サイトでは顔出しで出ている人が少ないが、それはこうしたことを恐れているからというのも一つにあるだろう。誰だって無闇に自分の外観をネタにされたくはない。せっかく作ったネタを外見ネタで浸食されたくない。

それは突きつめると、我々日本国民の民度の低さに行きつく。作品よりも演じてる人間の外見が気になってついつい「ハゲw」だとか「ピザw」だとか書き込んでしまうのだろう。それで笑えてしまうというのは、精神レベルが小学生並みだということを示してる。

外見をネタにせず作品を楽しめるまでに、我々日本人は文化的に成熟していないのだ。

確かにニコニコ動画イベントのようにリアルタイムに自分がしゃべってる所にコメントがついていくというのはすさまじい程に画期的な事だと思う。

けど、それを使いこなす程には、日本人はまだ大人じゃない。いや、大人じゃないからこそニコニコ動画のようなサイトが生まれたのだろうけどね。

大人じゃないからこそ生み出せるもの、大人じゃないからこそ使いこなせないものを、ニコニコ動画はいきなり我々の目の前に提示してくれたのかもしれない。

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <koshian@foxking.org>